島津義久(しまづ よしひさ 1533 ~ 1611)とは、戦国時代の薩摩・大隅・日向の三州の守護職を務めた島津氏16代当主であり、戦国最強の兄弟達と精強な薩摩隼人軍団を率い、
大将たる者は腹をすえて動じないこと、これ勝利の大本なり
との祖父島津忠良の教えを守って九州を席巻した戦国最高の政治家にして最強のひきこもりである。戦の前にくじで吉凶を占う習慣を持つ。
出家した後の名は島津龍伯。
島津義久の概要
幼少時は、勇猛な弟達を比較されて「愚兄賢弟の見本」と陰口を叩かれるような大人しい人物だったが、島津家中興の祖である祖父島津忠良からは、
三州の総大将たるの材徳自ら備わる |
と総領たる器を評し、総領の為の訓戒を義久に残している。
その後、深謀遠慮なる祖父を彷彿とさせる当主となった島津義久は、鎌倉時代から続く名門の総領として兄弟や家臣達を纏め、時に叱咤激励し、時に圧倒的不利ながらも武将達の器量を見抜いた絶妙な陣配置で勝利を得る等、自らが動かずとも勝利を重ねていった。
薩摩・大隅・日向の三州を制圧して守護職となった後、末弟島津家久を派遣して肥前の巨熊「龍造寺隆信」を滅ぼし、豊後の大友宗麟をも滅亡寸前まで追い詰めて九州統一を図ろうとするも豊臣秀吉の前に敗北し、家の存続を第一として降伏し、持ち前の政治力で秀吉からの難題をクリアしつつお家の存続を果たした。
しかし、名門の意識もあった為か成り上がりの豊臣秀吉との折り合いは悪く、秀吉に接近する弟の島津義弘とその家臣とも関係は次第に悪化した。また、自身が男子に恵まれなかったため、せめて娘の血筋をと結婚させたはずの島津忠恒・亀寿夫婦の不仲にも悩まされた。
関ヶ原の戦いの後に徳川家康との交渉によって西軍唯一の所領安堵を得ると、1611年に没した。享年79歳。
※その他「島津義久」の詳細についてはWikipeidiaの該当記事参照の事。
島津義久の逸話
自分には、自身手を砕いた働きは何ひとつ無い。
大友や竜造寺、伊東を相手の合戦なども、ただ出陣したというだけで
すべては弟ら一族や家臣どもを遣わせて合戦したに過ぎないのであり、
たまたまそれが勝ちをおさめただけのことである。
自分の働きというものは何一つござらぬ。
▲ひきこもりの義久が珍しく伏見の徳川家康の元を訪れ、功名話を求められた際に島津義久が応えたと言われている言葉である。家康は「自ら手を砕くことなく勝利を得ることこそ源頼朝に並ぶ大将の道」と返している。ただし、この会話があったとされる時期は義久が薩摩から出た記録が無いため、この話自体後世の創作と思われる。
良い行いは、自らがしようと思えば出来る。
だが、悪い行いというのは知らず知らずのうちにしてしまうものだ。
常にこの連中の顔を見て、こいつらと同じ真似はするまい、そう心がければ、道を誤まることはない
▲義久は国や家を滅ぼしたり、非道な行いをした所謂悪人の人物画を飾らせていたとされており、それについて家臣のがなぜかと問うた際の島津義久の返答。反面教師ということですね。
他国から使者としてよこされるほどの者は、きっと心ある者である。
使者としてくるからには、当国の地を数里も通ってくるわけだから、
それならば三ヶ国の太守の城門が茅葺きで粗末であっても、
途中で目に入る国民の風俗を見れば、国は富み栄え、
仁政がさだめし厚く行われてているという大事なところにこそ気づくであろう。
小板葺きにして城門だけ立派になっても、百姓どもが疲れ切っているようでは、
国主のやり方が良くないことをちゃんと見抜くであろう。
肝要のところに気を配らず、どうでもよいところに気をつけるものではない。
城門など茅葺きであっても一向にかまわぬ
▲島津義久の居城の萱葺きの城門が破損した際に、修理のついでにグレードアップするのを家臣達に対する島津義久の言葉。見た目だけ着飾っても、中身が伴っていなければ駄目ということだ。
この御返書、関白殿へにて候へば、勿論その通りに相応の御請けをなすべく候。
さりながら羽柴事は、寔(まこと)に由来なき仁と世上沙汰候。当家の事は、頼朝已来
愁変なき御家の事に候。しかるに羽柴へ、関白殿あつかいの返書は笑止の由どもに候。
また、右の如きの故なき仁に関白を御免の事、ただ綸言の軽きにてこそ候へ。何様に
敬はれ候ても苦しかるまじきよし、申す人も候。しからば取り取り也。所詮細川兵部入道殿へ
付状したためられ候はば然るべきの由、出合ひ候て其の如く候。御報の案、抑(そもそも)
天下一統、静謐せしむるにより、関白殿より九州の矛盾停止すべきの段、殊更綸言相加へ候か。
即ち勅命に属し候。随而(したがって)、先年信長公才覚を以て、大御所様仰せ刷(つくろ)はれ、
豊薩和平の姿に罷り成り候。已来聊も隔心なきのところ、豊よりは、たびたび愁変これあるといへども、
右、一諾の筋を守り、今に干戈の催しなく候。然る処、頃(このごろ)、向・肥の国境に至り、
数ヵ所破かく致せられ候。かくの如くいよいよ執懸らるるにおいては、今より以後の儀など測り難く候。
畢竟、相応の防戦に及ぶべく候や。少しも当邦の改易たるべからず候。この旨を以て御用捨なされ、
宜しく御披露に預かるべく候。恐々謹言。
▲豊臣秀吉が関白になった際に、細川藤孝宛に送った手紙とされている。
内容は、どこの馬の骨か判らない豊臣秀吉に対して由緒ある名門の身である島津義久が「関白殿」と手紙をださねばならない事実と、なんでそんな猿に関白なんて位与えたんだろうと言う冗談と、そんなどの馬の骨とも解らない奴が関白だからって尊敬できる奴がいるって事に対する皮肉と、今回は家中のものが手紙を出せと言うから出したし、織田信長の頃に朝廷の命をうけて大友宗麟とは休戦してたのに、大友宗麟から喧嘩売られ続けてきたから防衛の為に買ったまでなのに、また手出しをするなっていわれちまったよ。うちは喧嘩うられない限りは戦わないんだって猿に言っとけよ幽斎。と言う自虐である。
天下人になって誰もが気に触れぬようにと務めた豊臣秀吉相手にこんな手紙を出すとは、さすが最強のひきこもりといわざるをえない。まあ、こんな手紙出されても領地を安堵した秀吉の度量も大したものだが。 家督は取り上げたが。
・義久の和歌
義久で特筆すべきが教養人のスキルで、細川藤孝・近衛前久両氏から古今伝授を受けた記録もあるほど。特に和歌は大好きだったようで、家臣を招いては頻繁に連歌会を開催したようだ。なんだ、外出してるじゃん!
弟・島津義弘の子で島津宗家の後継者に使命していた島津久保が、朝鮮の役に参加中21歳の若さで病死した歳に詠んだ南無阿弥陀仏を頭にすえて歌った和歌
南 | なく虫の 声は霜をも 待ちやらで あやなく枯るる 草の原かな |
無 | むらさきの 雲にかくれし 月影は 西にや晴るる 行くへなるらむ |
阿 | あめはただ 空に知られぬ 習ひあれや うき折々の 袖にかくれて |
弥 | みし夢の 名残はかなき 寝覚かな 枕に鐘の 声ばかりして |
陀 | たづねても 入らましものを 山寺の ときおく法の ふかきこころを |
仏 | ふでをみぎり 弓を左に もてあそぶ 人の心や 名に残らまし |
・肖像画について
戦国時代の武将にしては珍しく、自分の肖像画が一切存在しない。
しかしながら薩摩の地は西南戦争や廃仏毀釈で歴史品の破壊・略奪が相次いだ土地なので、紛失も大いに有り得る。けして、「悪久が燃やしたんじゃね?」とか言ってはいけない。
後世の人間が作成したものでは、彫刻家長愛之が作成した像が東京藝術大学美術館に、秀吉に降伏時の様子を模した像が泰平寺公園にある。
・妻と子について
最初の正室である「花舜夫人」はなんと父・貴久の妹、つまり自分の叔母と結婚し子どもを作ったのである。
しかし…1559年に夫人に先立たれてしまう。2人の間に生まれた女の子「於平」はその後、別系統の島津家の当主・島津義虎の元へ嫁ぎ、多くの子宝に恵まれた。めでたしめでたし。
継室「妙蓮夫人」は花舜夫人の種子島家に嫁いだ姉の子であり、義久とは従兄妹同士。
2人の間には次女・玉姫、三女・亀寿姫が生まれたが男子には恵まれなかった。
1572年に妙蓮夫人にも先立たれ、玉姫・亀寿姫の夫は朝鮮の役で亡くなった。玉姫の消息は不明になり、亀寿姫の2番目の夫・島津忠恒(家久・悪)とは大変不仲で、当然子どもができるはずもなかった。
そして嫡男は生まれないまま義久は逝去。島津家は義弘の直系が治めていくことになる。
しかし、二代後の島津光久の母方の祖父が義久の孫にあたる島津忠清なので一応母系ながら義久の血も継いでいるのだが…。
上記の亀寿だが、一説では気性の激しい醜女とも、秀吉も驚くほどの美女とも言われておりどちらが正しいかは定かではない。しかしながら義久は歳を取ってから授かったこの娘を大層愛し、秀吉への人質として亀寿一人を残して帰されそうになったときにはその心情を
二世とハ契ぬものを親と子の別れん袖の哀をも知れ
と歌にするほど。 なお、この歌は、あのラスボス秀吉の心をも動かし、なんと亀寿も解放され一緒に帰ることを許されるという奇跡を起こしている。
亀寿の法名は持明様といい、現地で女性の守り神として人気の「ジメサア」と結び付ける説も。しかしながらこのジメサア、「心優しく幸せな家庭を築いた」とか皮肉にも程が………
島津義久家臣団
島津義久と共に活躍した主な家臣達(島津義弘の記事に掲載分含まず)
新納忠元 |
貴久と義久・義弘・忠恒の四代に仕えた重臣で、親指武蔵と呼ばれた恐れられた猛将。 犬童頼安との戦いの合間に和歌を詠みあう等文化人な側面ももち、 長宗我部信親の遺骸の引き取りにきた谷忠澄に対しては、 討ち取った事を陳謝した礼節をわきまえた武将でもある。 |
上井覚兼 |
島津義久の側近。主に行政面で活躍した。 一流の文化人でもあり、彼が記した「上井覚兼」日記は 当時の事を知るのに貴重な史料とされている。 |
「有栄の鞘」の逸話で有名な山田有栄の父。 耳川の戦いでは寡兵で重要拠点を守備し、勝利を呼び込んだ。 死去した際、島津義久自らが焼香に訪れる程悲しんだと言われている。 |
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島津義久にとって重要な「くじ」作成担当。 合戦の吉兆などを占った軍師的存在で、くじは仕込みだと言われている。 |
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東郷重位 |
薩摩示現流の開祖。 金細工の修行の為に行った京都で剣の世界に目覚め、 丸目長恵に師事して剣術を学んだ後、DQNに定評のある主君 島津忠恒を遠慮なくうちまかした。 |
マンガ・書籍での島津義久
島津家を取り扱った書籍では「島津義弘の賭け」とそのパクリが著名だが、その中では先進的・有能な義弘と対立する保守的・無能な兄・義久として書かれており、それが一般的なイメージとして広まっている。また、某首おいてけ漫画では作者にひきこもりと断定されており、それがニコニコ動画内での「ひきこもり」のイメージを助長している節がある。
このように書籍では散々な義久だが、それでも苦悩する兄、家長としての義久が読みたい人は桐野作人氏の書がお勧め。
ニコニコ動画での島津義久
主にコーエーの歴史SLG、信長の野望シリーズのプレイ動画や架空戦記に、例の一族のチート兄弟の一人として登場する。能力値は全体的に高いレベルで、特に政治には秀でている設定。
これを見てユーザーの一部からはよく過大評価と叩かれているが、ただ、大事な戦では前線に出向いたり、頼ってきた有馬晴信への救援を送る際に、
古来、武士は義をもって第一とする。
当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。
と言った男気のある熱い人だったりするので、知勇兼備の将と言うのは正当評価だと思われる。
戦国大戦
声:立花慎之介
コスト2.5の鉄砲隊で8/9、制圧・車撃・魅力のスペックを持って登場。
サラサラな長い赤髪をたびかせ、逞しい筋肉が特徴のイケメン。
計略「島津の采配」は島津家限定だがありそうでなかった一斉射撃の采配である。
多くの鉄砲隊が車撃を所持してるため3・4部隊以上で移動しながら発射したときの弾幕はまさに現代戦である。
関連動画
▼「信長の野望 革新」の武将ランキング九州編では堂々の一位(祖父と次兄と末弟はチート枠)。
▼「信長の野望 天下創世」の総合ランキングでは19位。お館さま(統率+政治)ランキング15位。
▼ゲストとして登場
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおけるひきこもらない島津義久の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 74 | 政治 | 79 | 魅力 | 84 | 野望 | 68 | 教養 | 78 | ||||
覇王伝 | 采配 | 90 | 戦闘 | 74 | 智謀 | 78 | 政治 | 85 | 野望 | 81 | ||||
天翔記 | 戦才 | 156(A) | 智才 | 166(A) | 政才 | 176(A) | 魅力 | 95 | 野望 | 91 | ||||
将星録 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 89 | 政治 | 94 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 87 | 戦闘 | 55 | 智謀 | 86 | 政治 | 94 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 80 | 智謀 | 81 | 政治 | 88 | 野望 | 95 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 75 | 知略 | 77 | 政治 | 83 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 77 | 知略 | 78 | 政治 | 83 | 教養 | 73 | ||||||
革新 | 統率 | 85 | 武勇 | 74 | 知略 | 86 | 政治 | 93 | ||||||
天道 | 統率 | 88 | 武勇 | 57 | 知略 | 84 | 政治 | 95 | ||||||
創造 | 統率 | 83 | 武勇 | 63 | 知略 | 84 | 政治 | 92 |
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