新島襄(にいじま・じょう 1843~1890)とは、明治時代の教育者・キリスト教の布教家である。
同志社大学の前身となる同志社英学校の設立者で、2013年の大河ドラマ「八重の桜」の主人公でもある新島八重の夫。出身地である群馬県では、上毛かるたで「平和の使徒(つかい)」と呼ばれ親しまれている。
概要
上野国安中藩の武士・新島民治の長男として生まれる。冒頭では群馬県出身と記したが、父・民治は江戸で藩の祐筆(秘書)を務めていたため、襄は生まれも育ちも江戸である。幼名は七五三太(しめた)。新島家はこれまで4人続けて女子ばかり生まれており、念願の男子だったことから、祖父の新島弁治は思わず「しめた!」と叫んで喜んだことから、この名前が付いたと言われている。
藩の命令を受け、江戸で蘭学を学び軍艦操練所に通うかたわら、キリスト教に興味を持ち始める。1864年、函館からアメリカの貿易船に忍び込みそのまま密航、ボストンで本格的なキリスト教を学び洗礼を受ける。アメリカに渡る間、七五三太は「ジョー」の愛称で呼ばれたことが、後に襄と改名するきっかけとなる(キリスト教学校では「ジョゼフ」の名で通っていた)。
アメリカで勉学中に、日本は江戸幕府が倒れて明治維新を迎え、アメリカに渡った森有礼の尽力によって、密航の罪を解かれ正式な留学生と認められる。帰国後、襄は自分が学んだキリスト教の学校を設立するべく大阪へ向かう。大阪を選んだ理由は、当時のキリスト教はカトリックが大半を占め、襄の所属するプロテスタント会衆派はほとんど知られていない少数派だったことから、まだ他のキリスト教が流布していないこの地を選んだとされている。しかし、大阪では様々な猛反発に遭って開校の道は閉ざされてしまう。
そんな中、京都府知事・槇村正直の紹介で、元会津藩士の山本覚馬と出会い、京都でキリスト教の学校を作ることを薦められる。京都は仏教の勢力が未だ強く、キリスト教を嫌う保守層も多かったが、聖書を教えないという槇村の妥協案や、覚馬が土地を寄付するなどの尽力もあり、1875年に念願の同志社英学校を設立。わずか教師2名(襄を含む)、生徒8名からのスタートだった。
同年、襄は覚馬の妹・八重と結婚する。2人の出会いは、当時襄が住んでいた宣教師M・L・ゴードンの家に八重が訪れた時、襄が玄関で靴を磨いていたことがきっかけだった。襄を家の使用人と勘違いした八重はそのまま通り過ぎてしまったが、ゴードンの仲介で共にその存在を知ることとなる。アメリカの文化・風土に慣れ親しんだ襄は、夫に黙って従う女性とは結婚したくないと両親に伝えたこともあり、男勝りで対等に渡り合う八重と惹かれ合うようになった。こうして結婚した襄と八重は、京都で初めてとなるキリスト教式の結婚式を挙げた。
1876年、熊本洋学校の閉校に伴い、熊本バンドと呼ばれる同学校の生徒達が同志社に多数転校、同志社の中核となる。メンバーには、ジャーナリストの徳富蘇峰や、横井小楠の子で後に覚馬の娘婿となる牧師の横井時雄、後に組合教会の三元老と呼ばれる思想家の海老名弾正・小崎弘道・宮川経輝らがいた。元からの同志社生徒と熊本バンドでは生活習慣や思想の違いなどから初期は対立も多く、やがて上級生と下級生の関係を巡って生徒が授業をボイコットする事件が起きてしまう。責任を感じた襄は、自分の腕を持っていた杖を折れるまで激しく叩いて戒めた。ボイコットを煽った蘇峰は、この責任を取って退学したが、その後も襄が死ぬまで交友関係にあった。なお、この時襄が折った杖は、現在も同志社大学に保管されているという。
その後も襄は布教活動のため、全国各地を飛び回ったり、海外に再び渡るなど精力的な活動を続けていたが、元々病弱だった襄は、40歳を過ぎた頃から次第に体の不調を訴えるようになる。心臓の病で残り余命がわずかと悟った襄は、群馬県の前橋で療養するが、前橋の寒さが厳しい環境がかえって彼の体を蝕み、神奈川県大磯に移り、八重・蘇峰・弘道らが看取る中で47歳の生涯を閉じた。その最期は、愛妻・八重の腕の中で「グッドバイ、また会わん」と言い残したと伝えられている。
それまで日本の学校制度にはなかった大学の設立を望んだ襄であったが、早すぎるその死によって、生前その夢は叶わなかった。日本に大学が設立するのは、襄の死後22年経った1912年の専門学校令が発布されてからであり、1920年に同志社英学校は同志社大学となり現在に至る。戦後、襄の出身地である安中でも彼の存命中から多くの同志社関係者を輩出したことから、彼の名を冠したプロテスタント系学校の新島学園中学校・高等学校が設立された(BOØWYの布袋寅泰や、八重の桜の音楽を担当している中島ノブユキは同学校の出身である)。
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