梶原景時(?~1200)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
大庭氏や長尾氏と同じく、桓武平氏のうち坂東平氏の鎌倉党の出身…らしいが、同祖の三浦氏同様系図が混乱しており詳しくは不明。
源頼朝が伊豆で挙兵した時は鎌倉党の大庭景親に従い頼朝追討軍に加わっていたが、石橋山の戦いでは頼朝が隠れていることに気づきながら見逃したエピソードが残っている。その後土肥実平の仲介によって頼朝に降り、侍所所司になる。1183年には頼朝の命で平広常(上総広常)を殺害している。
その後は源義仲追討のための源義経軍に加わり、軍奉行として戦の推移を鎌倉に伝えた。その後は源範頼の軍に加わり、一ノ谷の戦いでは窮地に追い込まれた子の梶原景季を救っている。また屋島の戦いでは義経との逆櫓の作で争ったという有名なエピソードが残っている。
その後は源頼朝側近として活躍し、実務官僚としての活躍の場が増えているが、1184年には播磨・美作の総追捕使に任命されるなど西国に所領を拡大した。
源頼朝没後は源頼家に「一の郎党」として仕えるが、頼朝という後ろ盾を失った彼は1199年に結城朝光の発言をきっかけとした騒動で鎌倉を追放される。さらに1200年に謀反を企てるために上洛したとの知らせが入って追討軍が組織され、駿河国清美関で打ち取られた。
源頼朝没後の鎌倉幕府での内ゲバの最初の犠牲者であるが、近世までの評価では奸臣として悪名高い。しかし歌舞伎「石切梶原」では一枚目として登場するなど必ずしも悪玉としてばかり描かれるわけではなかった。
関連項目
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