耶律楚材とは、モンゴル帝国のチンギス・カン、オゴデイ・カアンに宰相として仕えたとされる人物である。
中国文明の教養を身につけ、モンゴル帝国の国家体制の整備に貢献したと評価されていた。
概要
名前を見れば分かるように純粋な漢民族ではなく、かつて「遼王朝」を建設した契丹(キタイ)人の出。耶律楚材の家系は遼王朝の皇族に連なる名家中の名家で、遼王朝を滅ぼした金王朝にも代々高官として仕えていた。
耶律家は本来非漢民族でありながら世代を経る毎に中国式の教養を身につけ、耶律楚材の父親・二人の兄は優秀な官僚として金王朝に仕えるようになっていた。
耶律楚材もまた学問を修めて金王朝に仕えるようになった頃、時を同じくして金王朝の北方ではチンギス・カンがモンゴル帝国を建国し、金王朝に総攻撃を仕掛けてきた。
圧倒的な国力差がありながらチンギス・カンの優れた戦略に金王朝は完敗を喫し、首都の中都は包囲戦の末陥落した。金王朝の官僚であった耶律楚材は中都の陥落によってやむなくモンゴル帝国に仕えるようになったとされる。
チンギス・カンの臣下になった耶律楚材は中央アジア遠征にも従軍し、優秀な参謀としてチンギス・カンに助言したとされる。
更にチンギス・カンの死後オゴデイ・カアンが即位すると宰相に任じられ、定住民の支配に無知なモンゴル人に代わって内政を取り仕切ったとされる。
このような功績によって、耶律楚材は「野蛮なモンゴル帝国の破壊・収奪から中国文明を守った偉人」として後世称えられた……
再評価
このように、モンゴル帝国時代の偉人として称えられてきた耶律楚材だが、近年のモンゴル帝国研究の進展によって悪い意味での再評価が進められている。耶律楚材再評価の論点は大体以下の3つ:
- 西方のペルシア語史料(『集史』など)では耶律楚材について全く言及されていないこと
- 南宋の記録に従えば耶律楚材の地位・権力がかなり限定されたものであるとわかること
- 耶律楚材の伝記にはかなりの改竄・捏造・他人の功績の剽窃があること
ペルシア語史料での扱い
従来、モンゴル帝国の研究は元王朝の正史である『元史』などの漢文史料を用いて行われるのが一般的であった。一方、近年西方で編纂されたペルシア語史料が用いられるようになって、『元史』などが非常に偏りのある史料であることが明らかになってきた。
今やモンゴル帝国研究は漢文史料とペルシア語史料を同時に扱うのが当たり前になり、モンゴル帝国のカーン(皇帝)、政策、重臣たちについて様々な分野で再評価が進んでいる。
ところがペルシア語史料では漢文史料で非常に称賛されている耶律楚材について全く記載がなく、とても重要人物であったようには思われない。
勿論、イスラム圏で編纂されている以上ムスリムを重視して漢人を軽視する傾向こそあるものの、例えば同じ文官で異教徒のチンカイや、同じ契丹人王族の耶律阿海・禿花兄弟についてはちゃんと記述されており、「異教徒だから」「契丹人だから」無視された訳でもない。
このため、耶律楚材は少なくとも「モンゴル帝国全体で広く知られた人材(例えば宰相)ではなかった」ことが分かる。
南宋での記録
モンゴル帝国初期、南宋からモンゴル帝国に派遣された使者はモンゴル帝国の情勢について記録を残していた。その中には耶律楚材に関するものもあり、以下のように記されている:
其相四人、曰按只角、曰移剌楚材、曰粘合重山、曰鎮海……移剌及鎮海自号為「中書相公」、総理国事、鎮海不止理回回也、韃人無相之称、只称之曰「必澈澈」者、漢語令史也、使之主行文書爾。
(モンゴルの「相」は四人おり、それぞれ按只角、移剌(耶律)楚材、粘合重山、鎮海という。耶律楚材とチンカイは「中書相公」と自称していた……モンゴル帝国には元々「相」に相当する称号がなく、ただ単にこれを「ビチクチ」と呼んでいた。ビチクチというのは中国で言うところの「令史」で、文書行政を掌る役職である。)
要するに、耶律楚材の自称する「中書省の宰相」というのは、後世イメージされるような中央行政のトップなどではなく、書記局(ビチクチ)の一部門の名称に過ぎなかった。更にモンゴル帝国には「宰相」に相当する称号がなかったが、耶律楚材は勝手に「宰相」を自称して周囲にそう呼ばせていた、ということになる。
更にこの史料には「耶律楚材の作る行政文書はチンカイ(鎮海)のサインがなければ効果が無かった」とも記されており、耶律楚材は書記局のトップですらなかったとわかる。
子孫による改竄
以上の指摘を纏めると、耶律楚材はモンゴル帝国全体では知名度の低い一書記官僚でありながら、地元(旧金王朝領)では宰相を勝手に自称し、偉ぶっていた小物ということになる。では、何故このような人物が後世賛美されたのか?
耶律楚材に関する史料は楚材の息子耶律鋳の肝いりで製作された伝記が主な出典となっているが、この「伝記」が数多くの捏造・誇張を含んでいる。その最たる例として、暦の作成に関わる一件がある。大要は以下の通り:
チンギス・カンの中央アジア遠征中、耶律楚材とウイグル人ムスリムの占星術師が月食の有無について占ったところ、ムスリムの予言は外れ、全て耶律楚材の予言通りとなった。感心したチンギス・カンは「耶律楚材は天上のことすら知らないことがない。ましてや人間のことで知らないことはないだろう」と称えた…
ところが、この記述は全くの嘘であった。耶律楚材自身が残した記録には「中央アジアで中国の暦に従って占ったところ、月食の出る時間がずれてしまった。〈時差の存在〉を知った耶律楚材は従来の暦を改良してチンギス・カンに提出した」と記されており、これが元ネタであった。
つまり、月食の予言を間違えたのは耶律楚材の方であり、チンギス・カンの称賛云々も捏造だったこととなる。もう一つ付け加えると耶律楚材が提出した新しい暦は全く使われることがなく、代わって元王朝などで採用されたのはイスラム科学の技術を導入した授時暦であったことは高校の世界史レベルの知識である。
何故このような捏造を加えられたかというと、耶律楚材の伝記が作成された頃、クビライ・カーンの宮廷では耶律鋳ら漢人官僚グループとムスリム官僚グループの勢力争いが起こっており、記録の上だけでも中国文明がイスラム文明の上にあることを主張しようとしたためと考えられている。
実像
以上の指摘をまとめると、耶律楚材自身が「宰相」を勝手に自称して自らを実像より大きく見せようとする人物であったことに加えて、子孫が自らの立場を強化するために耶律楚材の人生を誇張・捏造することで「聖人君子・耶律楚材」像ができあがったとわかる。
もっとも、「宰相として仕えた」ことは嘘にせよ、耶律楚材がモンゴル帝国でそれなり以上の職を得て中国行政に携わっていたことは事実であり、その業績を全て否定できるわけでもない。というかモンゴル政権の中枢にいたことはほぼ間違いがない。
耶律楚材の再評価は始まったばかりと言える。
まとめ
Q,要するにどういうこと?
A,「無知蒙昧なモンゴル人を教え導いた中国人」なんて存在しません。創作の産物です。
ただ「疲弊した中国をモンゴル流の破壊から守った中国人」である可能性はないわけではない。
関連動画
関連商品
モンゴル史研究に多大な業績を残した研究者の著作で、耶律楚材再評価を進めた本。但し、あまりにも耶律楚材批判がいきすぎて人格批判に至っているのではないか、という批判もある。行き過ぎた筆致は多少差し引いて読む必要あり。
こちらは逆に「聖人君子・耶律楚材」像を追究した小説。恐らく大多数の人の耶律楚材像はこれに由来する。
関連項目
- 4
- 0pt