長篠の戦い単語

ナガシノノタタカイ
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長篠の戦いとは、正三年(1575年)に三河長篠、及び同地付近設楽原で発生した戦いである。長篠設楽原の戦いとも言われている。この地に領土を持つ徳川家康が、甲斐武田勝頼と対立し、家康を同盟者の織田信長が救援したことに端を発する。織田信長徳川家康連合軍と、武田勝頼軍が戦った。

この戦いで武田軍は非常に大きな損を受け、以降落のを歩んだ。勝利した織田信長天下統一への盤石さを強め、徳川家康は勢を増した。また多くのが使われ、日本史上初、世界でも当時でもなかなか見られない数多の銃火器戦闘を決することになった。

武田信玄の三遠切り取りと徳川家康(三方ヶ原の戦いなど)

話は少し遡る。元三年(1572年)、甲斐の領であった武田信玄は、反信長連合めに応じて、織田信長徳川家康との敵対を決意し、信長包囲網へと加わった。その手始めとして、信長の同盟者であった徳川家康の領地を攻め取らんと軍をし、3万の大軍をもって徳領へと侵攻した。

既に信長包囲網における反信長連合は、織田信長による怒涛の攻撃により、ほとんどが勢をかろうじて持ちこたえている状況であったが、武田信玄の参戦により事態は好転。反信長連合では、浅井長政本願寺顕如などがこぞって武田信玄との連絡を取り、協調した動きを取り始めようとする。しかし、信長の攻勢は緩まず、同年12月には朝倉義景兵站線の問題から元に撤退した。

一方、劣勢ぎみでありながらも反信長連合は信玄との協調を取り続け、武田信玄徳川家康の領土を攻め取って奪取し、自らの勢を大きくした。同年12月末、武田信玄徳川家康三方ヶ原戦闘。ここで徳川家康膚なきまでに叩き潰した。この戦いには織田信長が送った佐久間信盛らを中心とする援軍数千がいたが、こちらも家康同様に敗北、撤退することになる。これにより、反信長連合は依然劣勢ながらも、やや戦局を好転させた。

三方ヶ原の戦いにより、徳川家康は窮地に追い込まれた。織田信長は徳への援軍派遣を中止し、以降自領で守りを固め、反信長連合の勢への備えとする。織田の援軍なき徳領では武田軍の攻撃に対して有効的な反撃ができず、辛うじて家康自らが守る浜松なんとか死守したものの、それ以上の抗戦は難しい状況であった。

この頃、長篠を守る(貞とも)は、父親である貞勝の強い勧めもあり、武田信玄へと降。定、貞子は武田重臣であった山県昌景秋山信友らの麾下に組み込まれたとされている。しかしこれが、後に大きなを及ぼす。

一方、徳川家康の領土を怒涛のごとき勢いで攻撃していた武田信玄であったが、三河の野田攻略に2ヶも費やしてしまう。野田小城であり、兵も少なかった。にも関わらず2ヶもかかってしまったのは、武田信玄自身が病を重くしていたからだと言われている。信玄は長篠病気療養をしていたが、結局元4年(1573年)2月野田からさらに病が重くなり、いよいよ危篤という状態になってしまった。

同年4月病気回復しない信玄を憂慮した武田重臣、一門達は、ついに合議の末、武田軍の甲斐への全面撤退を決断。しかし4月12日、その途上である信濃駒場にて、武田信玄は死去。武田軍はそのまま甲斐へ撤退し、徳川家康は九死に一生を得た。武田信玄の攻撃に備える必要のなくなった織田信長は、破の勢いで進軍攻撃し、浅井長政朝倉義景足利義昭三好義継といった反信長連合を悉く滅ぼした。

長篠情勢(武田勝頼における長篠攻囲)

さて、一旦は貞勝の強い勧めもあり、徳との戦いで優位に立つ武田信玄に与したであったが、本心では徳川家康への継続仕官をしたいと強く考えており、武田信玄の死、武田軍の撤退により、その思いはより強くなっていた。

そのため同年8月息子、末貞治らと臣の多くを連れて長篠ごと徳川家康に帰参する。もちろん、父親であった貞勝の承認は得ておらず、結果父親貞勝と、次である常勝はそのまま武田へと仕えた。なおこの時、人質に出ていた定のもう1人の息子は処刑されている。

一方、武田信玄後に督を継いだ、信玄の四男である武田勝頼は、日増しに勢いを増していく織田信長危機感を抱いた。正二年(1574年)には織田信長に味方していた東濃の遠山氏を攻め、信長の援軍到着前に遠山氏の要なを落として足場を固めた。また徳川家康に対しても、遠江の高天神を攻め、徳臣であった小笠原長忠を降させた。

武田勝頼は、次なる狙いとして、二度の離反を起こしたと、その息子であるが守る長篠へと定める。正三年(1575年)4月長篠へ大軍を差し向け、が守る長篠を攻囲した。しかし長篠は頑強で、将である貞はよく守り、また鳥居強右衛門の活躍もあって、長篠武田勝頼は落とすことができなかった。

織田信長・徳川家康の着陣と鳶ヶ巣山急襲(長篠城救援)

長篠攻囲を受けた徳川家康は、織田信長に援軍協を要請する。織田信長は、臣である細川藤孝をはじめ、多くの臣にを準備するよう命。結果数千丁の信長公記では千丁、のち三千丁、など諸説あり)が集まった。その後、織田信長率いる織田軍は三河岡崎にて徳川家康率いる徳軍と合流。織田軍は都合数万が集まった。(信長公記の3万2千が最低、徳実紀では7万、三河物語の10万が最高)

一方、武田勝頼率いる武田軍は1万5千から2万ほどと言われ、数の上では劣勢この上なかった。そのため当である勝頼以下、重臣達の協議が行われる。諸説あるも、武田軍では織田信長徳川家康との決戦が決まり、一部の軍勢を長篠攻囲に残して、織田軍と近くで対峙した。

一方、織田信長長篠設楽原に布すると、長篠の地形を利用して、自軍の全容をできる限り包み隠すように布する。一方で柵や土塁を使い、に野戦築のような営を築いた。この布ヨーロッパでは1507年にスペイン将軍であったコルトバ(1453~1515)が大砲歩兵騎兵を用いた塹壕による野戦築を使っており、織田信長オリジナルで考えたか、宣教師経由で事前に知り得たかというのは諸説ある。しかし、日本ではこの布が使われたのは、この戦いが初めてだと言われている。徳川家康信長作戦に賛意を示し、同様に布した。

同年5月20日織田信長はひそかに徳川家康作戦を立案、織田臣である金森長近佐藤秀方、徳臣である酒井忠次忠を中心とする別働隊は、陰に乗じてひそかに長篠に接近、長篠兵と示し合わせて、武田軍における長篠攻囲部隊を急襲した。半に不意を突かれた武田軍別働隊は壊滅し、武田信玄である武田信実や、山県昌景婿でもあった三枝貞ら多くの名のある武将が戦死。織田との決戦前に既に暗が漂うも、武田軍は当初の方針を崩さなかった。

開戦(設楽原決戦)

織田・徳軍のな武将 武田軍のな武将
織田信長
織田戦国覇者、のち下人
羽柴秀吉
織田の重臣。のち下人
徳川家康
織田信長の同盟者。のち下人
織田信忠
織田信長長男。のち織田
織田信雄
織田信長の次男。
明智光秀
織田重臣。参戦説、非参戦説あり
柴田勝家
織田重臣。
丹羽長秀
織田重臣
滝川一益
織田重臣
前田利家
織田臣。衆を多く率いる
佐々成政
織田臣。衆を多く率いる
福富秀勝
織田信長衆を多く率いる
野々村正成
織田信長衆を多く率いる
原田直政
織田重臣。衆を多く率いる
佐久間信盛
織田重臣
蒲生氏郷
織田臣。織田信長婿
河尻秀隆
織田
稲葉一鉄
織田臣。西美濃三人衆
森長可
織田
徳川信康
徳川家康の嫡男
本多忠勝
重臣。徳川四天王
榊原康政
重臣。徳川四天王
石川数正
重臣
鳥居元忠
重臣
大久保忠世
重臣。の忠佐、忠教も参戦
武田勝頼
武田信玄の四男、武田
山県昌景
武田重臣。武田四名臣
内藤昌豊
武田重臣。武田四名臣
馬場信房
武田重臣。武田四名臣
武田信廉
武田重臣、一門。武田信玄の三
武田信豊
武田重臣、一門。武田信繁の嫡男
真田信綱
武田重臣。真田幸隆の嫡男
真田昌幸
武田臣。真田幸隆の三男
甘利信康
武田重臣。甘利虎泰息子
穴山信君
武田重臣、一門。武田信玄婿
小山田信茂
武田重臣。同盟者とも
土屋
武田信玄、勝頼側近。土屋
武田信玄、勝頼側近。
横田
武田重臣。横田高松養子
望月信永
武田一門。武田信繁の三男
一条
武田一門。武田信玄
真田
武田臣。真田幸隆の次男
山本
武田臣。山本勘助息子

※ 赤字は同合戦戦死者。

戦況概要(設楽原の戦い)

まず、詳しい戦況については諸説あり、現状では確定を見ていない。そのため、記事では信長公記に沿った内容を記述していくこととする。長篠合戦の史料としては、他に三河物語長篠日記甲陽軍鑑などがある。

武田軍は先鋒山県昌景、二武田信廉、三は西上野小幡党(小幡重、小幡信貞のいずれか)、四武田信豊、五馬場信房の布を取り、入れ替わり立ち替わり猛威を振るいながら攻撃を開始。しかし、織田軍は柵の内側に固く守り、を持って打ち払った。衆の前田利家佐々成政野々村正成、福富秀勝、原田直政の尽があったという。

日の出の頃から始まった合戦は、午後2時頃には武田軍劣勢が決定的となり、既に多くの武田兵士が討ち取られていたという。敗北を悟った武田勝頼は残存兵をまとめて撤退を開始したが、織田信長はそれを見てを崩し、底的な追撃をしかけた。この合戦で武田軍は多くの武将が戦死したが、中でも馬場信房馬場美濃守)の功績は類なきものであった。武田軍は1万近くの兵を失い、この中には逃亡中に山で餓死したものや、に流されて死したものもまた数多くいたという。

戦況真意と疑惑考察1(戦術、鉄砲について)

前述したように長篠の戦いの戦況については、これまで数多くの議論がなされてきた。まず信長が行ったとされる三段撃ち戦法について、実行したか否かが議題となった。三段撃ちとは、における戦術の一つで、を三列にわけ、それを横一列に並べ、入れ代わり立ち代わり射撃させることで、いわゆる火縄銃の装填時間の欠点をなくすというものである。

しかし、たくさんの兵を横一列に並べての射撃は、敵の前面にしか攻撃が届かず、非常に効率が悪いのではないか?とする疑問点が考察され、一度三段撃ち戦法自体の否定にまで至った。しかし、一斉ではなくとも三列にわけて射撃を行うこと自体は非常に効果的であり、ある程度部分的な三段撃ちがなされたのではないかとも言われる。

また、織田・徳軍の隊に較される形で、武田軍の軍容もある程度分かれた。従来では精強な騎軍団を中心とする戦闘を行ったとされていたが、こちらは現在では一般的な軍容とさほど変わらないとされている説もあり、騎軍団率には諸説ある。また隊そのものの強さが、日本古来のの品種を背景に疑問視されることがあったが、こちらは現在全に否定されている

武田軍における戦術の対策も考察が進められた。当初言われた武田勝頼を侮った説は現在全に否定されており、武田軍もある程度の対策を行っていたとするのが現在定説である。しかし、織田・徳軍が武田の想定以上のを持っていた説、戦場が悪の硝煙などによる視界不良だった説など、このあたりの議論は未だに数多くなされており、決着は見ていない。

戦況真意と疑惑考察2(勝敗、犠牲について)

長篠の戦いをる上で、最も問題とされるのが、織田・徳軍と武田軍の犠牲者における相違である。武田軍は武田勝頼こそ逃亡に成功したものの、わかっているだけで山県昌景内藤昌豊馬場信房高坂澄、望月信永、真田信綱真田土屋続、原胤、三枝貞、武田信実、和田業繁、甘利信康、横田米倉重継、信次、雨宮次など、数多くの歴戦の武将が戦死を遂げた。しかも、実際には小幡信貞、小幡重など戦死疑惑の武将もまだいるという大損であった。

一方の織田・徳軍では、追撃の際に突出しすぎた忠を除いて、著名な武将の戦死者は0というほどであった。兵士の戦傷者は武田軍は10000(あるいは1000)、織田・徳軍は6000(あるいは600)という状況であるが、名のしれた武将の戦死者でこれだけ差が出るため、武田軍の大敗理由が多く考察されることになった。

講談ベースとしたものでは、織田軍の内応工作佐久間信盛など)、武田勝頼強行突入説、武田臣の諫止を兼ねた戦死(特攻)説などもある。しかし、これらはあくまで勝敗の内容をわかりやすくするための講談による創作の要素が強いため、現在歴史研究考察などではあまり触れられることはない。「武田の一門衆がgkbrしてすぐに撤退した」と言われることもあるが、敗戦のスケープゴートにされている節も強く、また史料とそぐわない部分もあり、現状では本筋に挙げられること自体少ないようだ。

そのため、現在はあくまで戦術自体の考察に重きを置かれている。最近の流としては、武田軍が織田・徳軍のの懐深くまで突出しすぎたため、それによって犠牲者が大幅に増加した、というもの。これは武田軍の戦死者にあたる山県昌景土屋続が織田・徳軍の陣内で戦死していることや、武田軍の攻撃進路が織田・徳軍本を狙ったものと言われていること、そして後方に布していたはずの徳川信康長篠合戦で活躍したと伝わっているというのが根拠であると言われている。

ちなみに、信康の父親にあたる徳川家康は最前線にほど近い場所に布している。織田信長は当初戦地に離れた極楽寺山に本を置いたが、のちに戦地に近い臼山に移動させたようである。なお最後方に布していたのは、織田信忠織田信雄といった信長息子たちであった。このすぐ前に徳川信康が布している。

なお、織田信忠織田信雄徳川信康と同様に後方近くに布していた武将がいる。それが羽柴秀吉である。秀吉は布図によると、信長のいる山本よりも後方に布していたようである。この理由については現状諸説あり未確定である。

ともあれ、長篠合戦における武田軍の膨大な犠牲者や、織田・徳軍の戦術は、結局のところ未だに議論が決着していないため、考察の余地が残っているのが現状である。

長篠・設楽原の戦い その後

長篠合戦を終えたのち、参加した勢は明暗がはっきりとわかれた。織田信長はこの後安土にを築き、以降天下統一への筋を盤石なものとする。既に織田下第一の不動の勢となっており、単独で対抗しうる勢皆無になった。同年には織田信忠へ形式的ではあるが織田の座を譲り、支配体制を強固なものにした。以降織田織田信長織田信忠の二頭体制で運営されることになり、勢一気にさせる。

長篠合戦によって長篠を救援することに成功した徳川家康は、以後東海における武田との戦いを有利に展開。長篠で奮闘したは、信長家康両名から賞され、信長は自らの名前偏諱として下し、以降貞奥平信昌と名乗ることになる。一方家康は当初の約定どおり自身の長女である奥平信昌がせる。さらに信に名を与え、信臣にも労をねぎらうという格別の配慮を与えた。

奥平信昌父親であったは、これを機に家康に重用されている息子の信に実権と督を移譲。自らは隠居して徐々に活躍の表舞台から身を引くことになる。

一方、長篠で大敗北を喫した武田勝頼は、信濃に残っていた高坂昌信や、本付近で従軍した真田昌幸らの協もあって、越後の上杉謙信、そののちは上杉景勝と協関係を築くことに成功した。しかし、織田・徳における侵攻は化し、長篠合戦の同年には東濃にいる秋山信友織田信忠に追討され敗死。徳川家康とは一進一退が暫く続くも、高天神攻防戦で岡部元信を失うと、一気に滅亡へのを歩み始めた。

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長篠の戦い

57 ななしのよっしん
2023/02/27(月) 13:50:20 ID: fOKoibUHco
>>29
長篠の救援と武田本軍の退路遮断がされたヶ巣山攻防戦では小山田成と倉賀野秀金井)ぐらいしか生存した大将クラスがいないんだっけか。
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58 ななしのよっしん
2023/05/11(木) 23:34:11 ID: uhfKV4WmFx
信長包囲網」はここで終わり
この後も反信長信長の戦いは続くが、「包囲」は全に崩れているから反信長大同盟などの言い回しに変更しなければならない
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59 ななしのよっしん
2023/06/11(日) 20:11:57 ID: ieF4wYsxuV
仮に長篠を落とせたとしても武田方に長篠を維持できていたのか?織田からしたら日を追うごとに差は広がっているから武田に打撃を与える必要もなく追い払うだけでもいいし。
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60 ななしのよっしん
2023/06/11(日) 21:34:54 ID: DWvcx2rGj6
ヶ巣山の時点で結構なヘマだよな
信玄の異の河信実が戦死してる始末だし

別に織田方との戦差が広がっていくからとかそんな事情もなく
単に織田軍との兵差を誤認したしただけだったりしてな
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61 ななしのよっしん
2023/06/11(日) 23:22:32 ID: yezK8MZmLW
>>59
長篠が落ちるという前提がかなり筋だけどそれが出来るんだったら普通武田としてはデカいわな
信長本人はどうしようもないかもしれないが家康側がガバガバだからなあ
長篠であれぐらいの介護をしないといけないぐらいだし逆に言えばそれぐらい勝ちがない
長篠での敗戦をして尚家康武田に苦戦してるし信康事件なんてのも起こっちゃうし
いくら畿内抑えてても本貫地の濃尾平野が侵されるのが信長にとって一番避けたい事態だから東美濃落ちてるのは怖すぎるのよね
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62 ななしのよっしん
2023/08/28(月) 02:44:48 ID: TGgTm5NH8/
美濃って言っても岩村じゃあな・・・・
あそこ信濃の方が近いし岐阜から進んでも山だよ
瑞浪付近まで出てこないと信長の脅威にはなりえない
まあその瑞浪付近に信長河尻秀隆池田恒興を置いてるから
それ以上の侵攻を食い止めたかったのは確かだろうけど
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63 ななしのよっしん
2023/10/07(土) 09:32:11 ID: K1qU2jp3E6
岩村どころか明智も落ちているし信長が本体を率いて止めようとしてたんだから脅威でしょ
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64 ななしのよっしん
2023/12/11(月) 08:21:39 ID: fOKoibUHco
>>61
まぁ、兵農分離が進んでない武田では理な話。農繁期で
兵動かせない間に同盟相手の長島一向一揆がやられちゃったし。
それができるのは経済ダンチな織田ぐらいなもん
>>63
勝頼が後継いだ直後は長島一向一揆が健在だったから
美濃のほうにあまりを注げなかったというのは
あるかもしれない。

方針転換して底的に補給路を遮断して一をせんめつして
ようやく武田と戦えるようになって逆襲できた感じ
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65 ななしのよっしん
2023/12/25(月) 18:35:01 ID: TGgTm5NH8/
>>63
地図で見ればわかるけど明知を失陥したところで信長にはさほど脅威にならない。
そもそもそこらへんは美濃遠山氏と言って信長自身も別の勢に任せていたし
なんなら武田遠山織田という形で勢の緩衝地帯になっていたからな。
距離で見てもわかるように、武田方の飯田から岩村が60㎞近く、織田方の岐阜から
岩村が90㎞近くと、東濃は昔から信濃との結びつきが強い。

信長にとって最も恐れるのは瑞浪多治見付近が武田領に入ってしまうことで
ここを失陥すると武田軍が尾にも美濃にも自由自在に入り込めるようになる。
だからそのすぐ近くに河尻秀隆池田恒興という信長にとって最も信頼できる臣を置いていた。

あと、そもそも東美濃って今でもそうだけど人口いないのよね。
いわゆる「濃尾平野」に東濃は入ってないからね。
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66 ななしのよっしん
2023/12/25(月) 18:46:45 ID: TGgTm5NH8/
美濃信濃間の軍勢移動は「瑞浪多治見付近」「岩村~明知付近」「飯田並びに木曽周辺」
の、一種の取りゲームのようなもので、「岩村~明知付近」は単体で持っていても
あまり意味がないのよね。(三国志で言えば中みたいなもの)。

織田方からすれば「瑞浪多治見付近」、武田方からすれば「飯田並びに木曽周辺」を
塞いでおくことが最も重要であり、その重要性が顕著にわかるのが甲州征伐。

甲州征伐では2月3日木曽義昌が寝返って木曽が失陥、2月14日
飯田松尾小笠原信嶺が寝返って飯田織田領に。こっから先の
武田軍はまともな抗戦すらできずに2週間で信濃最終防衛ラインの高遠まで追いやられてる。

逆に言えば「瑞浪多治見付近」「岩村~明知付近」「飯田並びに木曽周辺」の
3つのうち1つでも抑えておけば甲州征伐の武田軍みたいな崩壊は起きないってわけよ
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