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アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann、1906年3月19日 - 1962年6月1日)とは、国家社会主義ドイツ労働者党の党員である。
概要
ドイツ帝国ラインラント出身。のちにオーストリア=ハンガリー帝国のリンツに引っ越す。1932年4月1日にオーストリア・ナチ党に入党し、親衛隊にも入隊している。ちなみにリンツの学校では、ヒトラーが退学したその後輩として入学しており、アイヒマン自身も成績不良のために退学している。
1933年8月1日にドイツへ移住。第二次世界大戦が開戦したのちに国家保安本部に勤務。当初よりユダヤ人の処遇に関わり、ユダヤ人移住局を統括する立場として、ユダヤ人のマダガスカル島移住を計画するが実現が困難であることから断念。のちにユダヤ人を絶滅させる計画を聞かされ、ユダヤ人殺害用の施設を視察したとされるが、本人は気持ち悪くてぞっとしたと発言している。実際アイヒマンにはユダヤ人の友人もいたようである(当然ナチ党の勢力が強まるにつれいなくなったが)。
強制収容所に嫌悪を示す(もっともそれ自体はイスラエル検察に対する言い訳の一つだったのかもしれないが)一方で、B4課(ユダヤ人担当課)課長としては黙々とユダヤ人の輸送に尽力する。特に戦争が終局に近づくにつれ、いよいよ才能が忌憚なく発揮され、あまりにも有能なので、1944年にユダヤ人追放が進んでいなかったハンガリーへ派遣されるが、ソ連軍の進軍を知り、オーストリアへ戻る。
ドイツの敗戦後、進駐したアメリカ軍に拘束されたが脱走。1947年にドイツ国内に潜伏、1950年にイタリアへ難民に紛れて逃れる。偽造渡航書を入手し、1950年7月15日にアルゼンチンへ逃亡する。
1957年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)の検事がイスラエル諜報特務庁(モサド)にアイヒマンがアルゼンチンに逃亡しているという情報を提供する。1960年5月11日にイスラエル諜報特務庁の作業班によりアイヒマンは身柄を拘束される。イスラエルの国営航空会社エア・アル航空に乗せられ、イスラエルへ移動、収容された。1960年5月25日にイスラエルの首相がアドルフ・アイヒマンの拘束を正式に発表した。
アイヒマンという名前自体は、ニュルンベルク裁判で取りざたされた戦犯、たとえばゲーリングのように、際だって有名というわけではなかった。むしろ拘束された時でさえ、「誰それ?」という反応が多く、また悪党に相応しくない、金髪碧眼のアーリア系と言うよりも、むしろナチ党が狩り続けたユダヤ人の典型的風貌にさえ見える凡庸な見た目もあってか、そんな一役人をアルゼンチンから拉致してまで裁判にかける理由を疑う声も多くあったとかなんとか。
しかしアイヒマンの「ユダヤ人絶滅」における功績は歴然としており、またイスラエル検察による徹底的な尋問により、アイヒマンがただの凡庸な官吏ではなく、ユダヤ人絶滅という命令の強力な執行者としての「業績」が皮肉にも戦後になって極めて高く評価されることになってしまった。
1961年4月11日から裁判が開かれ、12月15日に判決が下された。担当したイスラエル関係者の言を借りれば、「ナチ政権下でユダヤ人が受けた迫害に比べれば、遙かに人道的で冷静な裁判」により死刑判決となったのだが、そもそも拉致したのがアレとかそういうことを言ってはいけない。
上記の裁判を傍聴したユダヤ人思想家のハンナ・アーレントが1963年に著した記録「イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」はアイヒマンを卑小な一人の人間として記述し、その内容からイスラエル社会を中心に非難や論争が巻き起こった。
「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計上の数字に過ぎない」という名言を残したとされるが、これはスターリンの言葉であるとも、また他の歴史家による発言であるともいわれ、定かではない。アイヒマンが発言したとされる確かな証言の中では、イスラエルの尋問担当者がアイヒマンに「あなたの親戚はどうなったのですか?」と聞かれ、担当者が絶滅収容所で死んだと説明すると、「とんでもない、とんでもない!それは大変なことだ!」と驚き、お悔やみの言葉を述べたとされるエピソードが有名。
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