曖昧さ回避
危なそうな単語に聴こえるかもしれないが、アヌスミラビリス(Annus Mirabilis)とはラテン語で「驚異の年」を意味し、以下のものを指す。なお、響きから最初に連想されるであろう「肛門」の綴りは「Anus」である。
- ロンドン大火、ペストの流行、第二次英蘭戦争などの大事件が相次いで起きた1666年のこと。またそれらの出来事を記したジョン・ドライデンの叙事詩。
- アルバート・アインシュタインが特殊相対性理論など3つの論文を発表した1905年のこと。
- 1992年生まれの競走馬。日本を含む世界9ヶ国を走った名馬で、日本では1996年の毎日王冠を優勝している。
本項では3の競走馬について記述する。
概要
父Warning(*ウォーニング)、母Anna Petrovna(アンナペトロヴナ)、母父Wassl(*ワッスル)という血統のフランス産馬。ドバイのシェイク・モハメド殿下率いるダーレーグループの生産馬で、モハメド殿下の個人所有馬として登録された。
2・3歳時
イギリスのサー・マイケル・スタウト調教師に預けられたアヌスミラビリスは、9番人気で迎えたデビュー戦で4着とまずまずの好走を見せると、その12日後に出走した2戦目を1番人気に応えて3馬身差で快勝して初勝利。更に16日後の3戦目は後方待機だった過去2戦とは違って積極的な競馬から抜け出して連勝を飾った。
しかし次走の2歳マイルGI・レーシングポストトロフィーではデビュー戦を4馬身、2戦目を後の名馬シングスピール相手に8馬身差で圧勝していたセルティックスウィングが単勝1.44倍の圧倒的人気に応えて独走。アヌスミラビリスは先行策から2着には入ったものの12馬身という大差を付けられて敗れてしまった。
3歳時は2000ギニーには出走せず、5月のダンテS(GII・10ハロン85ヤード≒2089m)から始動。最後方待機からよく追い込んだが、クラシッククリシェの半馬身差2着に敗れた。
ここから惜敗街道が始まり、ジャン・プラ賞(仏GI・1800m)はハナ差2着、セントジェームズパレスS(GI・1マイル)は勝負どころで前が壁になり5着、4ハロン距離を延長しての愛ダービー(GI)ではまたしても不利を受けて3/4馬身差3着と敗戦が続いてしまった。
陣営は距離適性を模索していたのか、次走に再びの距離短縮となるインターナショナルS(GI・10ハロン85ヤード)を選択。好位追走から抜け出したが、その直後に右によれて3着に終わった。
この後、スコットランドのエアー競馬場で行われた10ハロン戦を単勝1倍台の支持に応えて完勝し、3歳シーズンを終えた。この間に馬主名義がゴドルフィンに変更され、厩舎もゴドルフィンの専属であるサイード・ビン・スルール厩舎(UAE)に変わった。
4歳時
4歳時はまずドバイのダート戦から始動したが見せ場なく大敗。更に3着→2着→3着と3連敗を喫し、夏の大一番・キングジョージVI世&クイーンエリザベスS(GI・11ハロン211ヤード≒2406m)に挑む頃には最低人気のペースメーカー扱いとなってしまった。レースでは逃げ潰れて5着に敗退したが、同厩の本命馬クラシッククリシェ(前年のセントレジャーを勝っていた)は2着に入り、ペースメーカーとしての役目は果たした。
ここまで(日本で言うところの)掲示板を外していないながらも重賞に手が届いていなかったアヌスミラビリスだが、8月のウィンターヒルS(GIII・10ハロン)では後方から追い込んで叩き合いを制し、重賞11戦目で初勝利となった。
秋になるとその実績を駆って来日し、この年から国際競走となった毎日王冠(GII)に出走。しかしGIII1勝という実績は当時の外国産馬・外国馬の走りっぷり[1]を鑑みて贔屓目に見ても通用するか怪しいと見られたのか、出走12頭中7頭が単勝11倍を切る混戦とは言えアヌスミラビリスは10.4倍で6番人気。「え? アヌス?」とか「穴はアヌスだ!」などと馬名の方がネタにされる有様であった。
しかし流石にGIでも善戦していた実力は本物であり、逃げたトーヨーリファールを番手から追走したアヌスミラビリスはゴール前で同馬を捉え、1馬身半差で優勝した。一方1番人気のタイキフォーチュンはひっそり8着に敗れて\ヨシトミシネー/された。
ところが、当時は外国馬に天皇賞の出走権が無かったため、アヌスミラビリスは天皇賞をパスして帰国することとなってしまった。ちなみにその天皇賞は毎日王冠で3着に入った3歳馬(現表記)バブルガムフェローが優勝している。
その後
5歳時は香港のクイーンエリザベスII世カップ(ローカルGI・2000m)から始動し、1番人気を裏切る3着に敗れたが、久々にイギリスに戻った8月のレースでは単勝1.73倍の人気に応えて勝利した。更にウィンターヒルSを1番人気に応えて連覇し、アメリカに遠征してマンノウォーS(GI・11ハロン)に出走したが2番人気を裏切る5着に敗退。暮れの香港国際カップ(当時GII・1800m)でも伸びを欠いて7着に敗れ、5戦2勝でシーズンを終えた。
6歳時はドバイのダート戦で2度の2着を経て、当時はダート2000mのリステッド競走だったドバイデューティーフリーに出走。2着に入った無冠の名マイラー・インティカブを6馬身置き去りにして圧勝した。
そしてそこから海外転戦が始まり、まずイタリア共和国大統領賞(GI・2000m)に出走したが、単勝1.2倍の断然人気に応えられず2着に惜敗。2度目の来日となった鳴尾記念(GII・2000m)でも先行から踏ん張ったものの不良馬場を豪快に突き抜けたサンライズフラッグの3着という結果に終わった。
その後、3連覇を賭けたウィンターヒルSこそ優勝したものの、マッキノンS(豪GI・2000m)は2番人気4着に敗れて6歳時7戦2勝に終わり、7歳時は1戦だけして最下位という結果で競走馬を引退した。
通算成績は9ヶ国18コースを走って30戦9勝2着7回3着6回、6着以下は2回しかなかったがGIは未勝利、重賞もウィンターヒルS3連覇のみと、よく言えば「堅実」、悪く言えば「勝ち運がない」と形容できるようなものだった。そしてその不運は引退後もついて回ることになってしまう。
非業の死
日本の馬場への適性を買われて北海道・静内のレックススタッドでの種牡馬入りが決まり、1999年10月に来日して検疫所に入ったアヌスミラビリスだったが、長距離輸送のために高熱を発症しており、即刻治療しなければいけない状態だった。関係者が抗生物質などによる治療を申し出たが、検疫中に抗生物質を投与することで伝染病などの発現が抑えられる恐れがあるとして受け入れられず、結局何の治療も施されないまま検疫期間を過ごした。
そして検疫明けの11月2日になってようやく治療が行われたが容態は既にかなり悪く、アヌスミラビリスは回復しないまま2日後に死亡した。このことについては、馬の命を第一に考えないお役所仕事であったという批判も多い。
血統表
*ウォーニング Warning 1985 鹿毛 |
Known Fact 1977 鹿毛 |
In Reality | Intentionally |
My Dear Girl | |||
Tamerett | Tim Tam | ||
Mixed Marriage | |||
Slightly Dangerous 1979 鹿毛 |
Roberto | Hail to Reason | |
Bramalea | |||
Where You Lead | Raise a Native | ||
Noblesse | |||
Anna Petrovna 1987 鹿毛 FNo.7-f |
*ワッスル Wassl 1980 黒鹿毛 |
Mill Reef | Never Bend |
Milan Mill | |||
Hayloft | Tudor Melody | ||
Haymaking | |||
Anna Paola 1978 栗毛 |
Prince Ippi | Imperial | |
Princess Addi | |||
Antwerpen | Waldcanter | ||
Adelsweihe | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Tudor Minstrel 5×5(6.25%)
- 父*ウォーニングはサセックスS、クイーンエリザベスII世Sと英のマイルGIを2勝し、1996年に日本に輸入されたが、2000年に心臓発作で早世。本馬以外の代表産駒にモーリス・ド・ギース賞とスプリントカップを勝って安田記念でも2着となった*ディクタット、スプリンターズSを勝ったカルストンライトオ、高松宮記念を勝ったサニングデールなど。
- 母Anna Petrovnaは11戦2勝で、産駒のステークスウィナーは本馬のみ。その母アンナパオラはディアナ賞(独オークス)などを勝ち、ドイツ最優秀2歳馬・同最優秀3歳牝馬を受賞している。
- 母父*ワッスルは愛2000ギニーの勝ち馬だが種牡馬としては殆ど成功しておらず、日本に輸入された後の産駒からブリーダーズゴールドカップ2勝・名古屋大賞典勝ちのメイショウアムールを出した程度に終わっている。
由来を同じくする馬
ちなみに日本には同じく「驚異の年(Annus Mirabilis)」から取って名付けられた「アナスミラビリス」という競走馬がいた。父リアルシャダイ、母がスカーレットブーケの全姉スカーレットブルー(その父ノーザンテースト)という血統の牝馬で、中央1勝に留まったものの繁殖牝馬として交流重賞6勝のトーセンジョウオーなどを輩出。孫世代からも移籍したオーストラリアでGIを2勝したブレイブスマッシュが出ている。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
脚注
- *この年から創設されたNHKマイルカップは「マル外ダービー」とまで言われ、出走18頭中勝ったタイキフォーチュンを含む14頭が外国産馬であった。また前年には安田記念をゴドルフィンのハートレイクが勝利していた。
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