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アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ(Alberto Kenya Fujimori Fujimori、1938年7月28日 - )日本名、藤森 謙也(ふじもり けんや)とは、日系ペルー人の政治家である。現在は婚姻により、片岡 謙也(かたおか けんや)が日本での本名となる。
概要
共に熊本県出身の日系一世である両親のもとにペルーで生まれた。両親は日本公使館に出生届けを提出したため、フジモリは日本国籍を有することとなった。また、出生地はペルーである為、ペルーの国籍も取得し、フジモリは二重国籍となる。
大学院修了後、母校の総長となり、その後はペルー国営のテレビ局で司会者を務めた。
大統領職
1990年ペルー大統領選挙に中道右派政党「変革90」を結党し出馬、当選する。
大統領に就任すると、経済改革を実行、国有資産の売却などで「フジショック」と言われる経済回復を生み出した。
しかし、当時の議会は上下両院とも少数与党・多数野党であり、これ以上の改革立法が困難な状態であった。そこでフジモリは自己クーデター(アウトゴルペ)を実行。クーデターという手法ではあったが自国民からはおおよそ支持を得ることができた。一方で国外の国際通貨基金(IMF)やアメリカからは反発を招く結果となった。
1995年には大統領に二選したが、クーデターによる権力掌握以降、独裁的であるとの批判があり、2000年の大統領選で三選する頃には最初の投票で過半数の票を得ることも不可能であった。
三選から間もない2000年9月、ブルネイで開催される首脳会議に出席する為に移動する途中、来日。日本滞在中に大統領を辞職し、そのまま日本にとどまるという事実上の亡命にあたる行動をした。
2006年のペルー大統領選挙に立候補する為、離日したが、途中でチリ共和国の警察に逮捕、出馬断念に追い込まれた。
日本での立候補
2007年参議院議員選挙に国民新党から立候補、党の要請による比例代表公認候補としての立候補であったが、落選した。
逮捕・訴追・収監
上記のように2006年にチリで逮捕されている。この直後からペルーからチリに対して引き渡し要求がなされておりチリ国内でこの要求を受諾するか否かが審議されていたが、2007年になってチリからペルーへと送還された。
送還後に裁判が始まった。様々な罪状に問われておりその中には無罪判決が出されたものもあったが、最も主たる罪状であった「民間人の殺害」については2009年に25年間の有罪判決が出された。この判断は2010年に第2審でも支持されたため、判決が確定。2016年3月現在も収監中である。
フジモリの大統領就任中には、「センデロ・ルミノソ」「トゥパク・アマル革命運動」などの左翼主義武装勢力によるテロ事件が頻発していた。これに対してフジモリは軍や情報機関と連携して対決していた。だが、その中で「センデロ・ルミノソの構成員と間違えて無実の民間人を襲撃し射殺」「投降した武装勢力構成員を正当な裁判を経ずに殺害」と言った違法な軍事行動が行われていたとされる。上記の裁判ではこれらについてのフジモリの関与が認定される形となった。
家族
弟のサンチアゴ・フジモリ、娘のケイコ・フジモリ、息子のケンジ・フジモリもペルーの政治家である。
特にケイコ・フジモリは2011年と2016年のペルー大統領選挙に出馬し、どちらも最終2候補に残った。2回とも敗れているものの、対立候補との得票差はごく僅かであり、同国で最も有力な政治家の一人である。
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関連項目
第90代 | 第91代 | 臨時代理 |
アラン・ガルシア(アメリカ革命人民同盟) 1985~1990 |
アルベルト・フジモリ(変革90) 1990~2000 |
バレンティン・パニアグア(AP) 2000~2001 |
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