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アンリデュティユー
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アンリ・デュティユー(1916~2013)とは、20世紀後半に活躍したフランス作曲である。

概要

クロード・ドビュッシーモーリス・ラヴェルら印アルベール・ルーセルフランス6人組ら新古典義の次の世代で、同世代のオリヴィエ・メシアン、一回り年下のピエール・ブーレーズらと戦後フランス音楽をけん引した。

デュティユーの生涯

ペイ・ド・ラ・ロワールのアンジェに、4人兄弟の末っ子として生まれる。曾祖アンリジョゼフコンスタン・デュティユーは画ドラクロワやコローとも交流のあった人物である。また祖に関しては音楽家で、まさに芸術一家の中に生まれたのである。

生後ほどなくして家族とともにドゥエーに移ると、ドゥエ音楽院院長ヴィクトル・ガロワに師事する。1933年から1938年までパリ音楽院に学び、ジャン・ギャロンノエル・ギャロンフィリップ・ゴーベールアンリ・ビュッセルモーリスエマニュエルに師事した。同級生には、ジャンジャックグリュネンヴァルトレイモンガロワ=モンブランアンリシャラン、ガストン・リテーズ、マルセルランドウスキらがいる。

1938年カンタータ『王の指輪』でローマ賞を受賞する。しかしローマ滞在は際情勢の悪化でわずか1年に終わり、フランス陸軍に担架兵として1年間従軍する。その後作曲クロード・デルヴァンクールらが中心となって結成した作曲グループ民戦線」に参加し、マルセル・ミハロヴィチの仲介により、バルトークや新ウィーンに触れることになる。

1942年パリオペラ合唱団の揮者に就任している。また、1946年に、4年の恋愛の末、ピアニスト・ジュヌヴィエーヴ・ジョワと結婚彼女げるピアノソナタを作品1にしてそれ以前の作品をほとんどカタログから破棄している。

1951年には交響曲第1番が初演され、1959年交響曲第2番『ル・ドゥブル』初演によって際的な名を手にした。また1961年にはエコールノルマ音楽院で作曲クラスを受けもつ。ここでデュティユーに学んだ生徒には、ジェラール・グリゼー義久、ルノー・ガニューなどがいる。一方1970年にはパリ音楽院の作曲クラスでも教えている。
この間、1962年には、アンドレ・マルロー文化相が設置した「音楽の問題を検討するための国家会議」のメンバーとなり、ブーレーズメシアンと異なり音楽行政にも関わっていった。

その後もヴァイオリン協奏曲『の木』や連作歌曲『時の大時計』などを作っていく一方、様々な団体から名誉あるポストを得、2013年大往生することとなった。

デュティユーの音楽性

前述したとおりオリヴィエ・メシアンピエール・ブーレーズと同時代人ではあるのだが、世界各地の音楽からインスピレーション得たメシアン、トータルセリーを推し進めたブーレーズのどちらとも違う音楽性の持ちである。

初期はどちらかというと、クロード・ドビュッシーモーリス・ラヴェルガブリエル・フォーレアルベール・ルーセルといった近代フランス音楽の伝統からスタートして、パリ音楽院やフランス6人組といった新古典義、ブーレーズダルムシュタットのメンバーの双方から反発した音楽性であった。しかし後年彼はこの明快で簡潔な作から離れ、つかみどころのない独自の地へと達するのであった。

しかしデュティユーは自分の作品にも容赦のない批判を向け、残された作品数はそれほど多くはない

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