アーイシャ・ビント・アブー=バクル(عائشة بنت أبي بكر ʿĀ'isha bint Abī Bakr)とは、ムハンマドの3番目の妻である。
人物
正確な生年は不明だが、アブー・バクル(初代正統カリフ)の娘として、614年頃に誕生したというのが定説。
ムハンマドは最初にして糟糠の妻・ハディージャの死後、教友アブー・バクルから再婚を勧められる。サウダという寡婦と共にアーイシャは47歳も年上の「夫」に嫁ぐ事となった。幼くして聡明なアーイシャをムハンマドは深く愛し、彼が没するまでの9年間を共に暮らした。
その後もムハンマドは有力者との結束を強化する為に妻を受け入れるが、彼女らのほとんどが寡婦だったのに対し、アーイシャは初婚かつ処女のまま嫁いだのを誇りに思っていたという。
他方、非常に嫉妬深い性格で、ムハンマドの新たな妻が家に迎えられる度にその婦人がどのくらい美しく、自分の敵になるかを見極めていたという。
その中でも自分にとって脅威になりそうにない女には積極的に取り入り、それ以外の妻に対し共同戦線を張っていた。
ムハンマドはハディージャと、晩年に娶ったコプト人奴隷のマーリアとの間にしか子供を授からなかった。アーイシャは子供を授からないことにコンプレックスを抱き、その空虚さを穴埋めするかのように、自分の甥と姪をよく可愛がったといわれる。
偽りの中傷事件と啓示
625年、アーイシャはムハンマドと共にムスタリクの征伐からメディナに戻る際、ムハンマドから送られた首飾りを紛失。探している間に一行からはぐれ、砂漠に立ち往生したことがあった。
そこをラクダに乗って通りかかった信徒に保護され、無事に戻ってきたが、その件についてメディナに「砂漠で一夜を過ごす間、彼女は夫ではない男と通じたのではないか」という噂が広まった。
当時のアラブのしきたりでは、不義密通した妻は石打ちにより処刑されるか、よくて離婚と決められていた。疑いをかけられたアーイシャは号泣し、断固として噂を否定したが、ムハンマドの有力な側近であるアブー・バクルの娘という事もあり、彼女の処遇を巡って政治的に大きな問題に発展してしまった。
最終的にムハンマドが「アッラーの啓示により、彼女は無実であると証明された」とした事で、この事件は沙汰止みとなった。
その後、ムハンマドから信徒に対して「4人の証人を出さずに貞淑な人妻を罪人呼ばわりする者には80回の鞭打ちに処せよ」とする新たな啓示が述べられた。
晩年
アーイシャはメディナ移住後ではムハンマドの最愛の妻とされ、特別の寵愛を受けていた。
ムハンマドが死の床に附した時、明日は誰の家に行くのかと尋ねたとき、そばにいた妻達は一斉にその番をアーイシャに譲ったという。
ムハンマドはアーイシャの膝の上で亡くなり、アーイシャはその様子を終始見届けた。
ムハンマドの没後はウンム・アル=ムウミニーン(信徒の母)として政治に関与するようになる。
元々仲が悪く、先の事件の中傷の中心人物でもあったアリーがカリフになると、656年、アーイシャは対抗する軍を率いてアリーと軍をかまえた。これを「ラクダの戦い」という。
この時アーイシャはアスカルというラクダに乗り、自ら前線に立ち、言葉によって味方を鼓舞して敵を罵倒した。しかし戦いの末にアスカルは足を傷つけられて倒れ、アーイシャは捕虜となってしまった。結局この戦はアリーの勝利となったが、アーイシャは信徒の母という立ち位置に変わりはなかった。
アリーより叱責されてメディナに送り返されたアーイシャは一線から退き、ムハンマドの言行を信徒に伝え聞かせ続けた。
その後20年余りの余生を静かに過ごし、678年に死去。生涯にわたり、再婚する事はなかった。
ムハンマドの最も近くにいただけあって、彼女の伝えたスンナやハディースは多く、現在のスンナ派に影響を与えている。彼女の存在は、イスラーム世界の女性が教育を受け、教師となることが正統なものであるという根拠とされることがある。
逆に彼女と敵対していたアリーを崇拝するシーア派では、アーイシャを発信源とするハディースは無価値とされている。
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