「気持ち良かったですねえ。ほぼイキかけました。えぇ、サーセンw 日本のすべての方に感謝したい。」
イチロー(本名:鈴木一朗(すずきいちろう)は、シアトル・マリナーズに所属するメジャーリーガー(外野手)である。
概要
走攻守の三拍子が高いレベルで揃っているプレイヤーで、特に守備における強肩には日本でプレイしていた頃から定評があった。
ニコニコ動画で見られるレーザービームのMADの元になったプレイはその最たるもので、MLB1年目の「新人」イチローが見せた強肩ぶりは、彼がMLBでもオールスターの常連になるほどの人気を得るきっかけになったと言える。
『レーザービーム』は2001年4月13日のオークランド・アスレチックス戦で、ライトヒットで三進を試みた一塁走者のテレンス・ロングを、正確且つ力強い送球で三塁補殺した際、実況アナウンサーであったリック・リズが「イチローからのレーザービーム攻撃だ!」と叫んだことに所以する。
(Wikipedia イチローより)
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2009年に行われた第2回WBC決勝戦で決勝点となる2点タイムリーヒットを放ち、韓国からのサイバー攻撃ですら落ちる事が無い2ちゃんねるのサーバーが5つ落ちた。
この事により同年の4月5日にひろゆき達がイチローの実家に生取材し、ヒット1本でサーバーを5つ落とした事を表彰する様子(ついでにハハローのカレーも食べる予定)をニコニコ生放送で配信するはずだったが、WBC後のオープン戦でイチローは体調不良を訴えていため精密検査を行った結果、出血性胃潰瘍であることが判明。
初の故障者リスト入りし、メジャー開幕戦出場が絶望的になってしまったため、ご家族の心配を運営が考慮した結果、生放送は中止となり表彰状を渡すのみとなった。
しかしその後、その様子を配信する事を予告し、4月22日に実際に配信された。表彰状はイチロー記念館にキチンと飾られているようである。
人物像
バッティング
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| バットを掲げるイチロー。イチロー独特の行為の1つ。 |
とにかくヒットを打つ事にこだわりがあり、加算される安打数に対して、数値が上下に変動する打率には特に拘ってはいない。
「四球は審判の判定に左右される(≒自分自身でコントロールできない)」という考えを持っているため、四球は少ない。四球の数は出塁率の上昇に繋がるため、このスタンスは普段1番という打順上、「自分勝手なプレーだ」という批判の声も多少あるようだ。ただイチローの実際の出塁率はむしろ高い方である。
また早打ちで尚且つバットコントロールも上手い為に三振も少ない(三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年の時の三振は僅か3つである。また、216打席連続無三振の日本記録も持っている)。
また、高校時代からその打撃センスは現われており、三年時の県大会打率は7割を超えている。高校通算で570打数279安打の打率.489を記録している。
NPBの生涯通算打率の公式な記録となる4000打数には到達していないため参考記録となっているものの、NPB通算打率は.353を記録しており、これは公式のNPB生涯通算打率であるレロン・リーの.320を大きく上回っている。また、2000年にはシーズン打率.387を記録しており、これはランディ・バースが記録したシーズン打率.389に次いでNPB歴代2位、パ・リーグ記録となっている。MLB通算打率でも.326(2011年シーズン終了時点)という高い数値を記録している。
レギュラーに定着した94年から2010年に至るまで17年間打率3割以上をマークしていた。特にNPBに在籍していた2000年までは94年から毎年シーズン打率.340以上を記録して首位打者のタイトルを獲得していた。MLBでも2度の首位打者に輝いており、シーズン打率.350以上を3度記録している。
1994年にはNPB初となるシーズン200本安打を達成。最終的にNPBのシーズン安打数の記録を210本までに伸ばした。後にマット・マートンによってこの210本という記録は破られるものの現在でもNPB歴代2位、パ・リーグ記録である。
MLBでは2001年~10年にかけて10年連続200本安打を達成しており、これはMLB記録となっている。単年の記録でも10回のシーズン200本安打達成はピート・ローズに並んでMLBタイ記録である。2004年にはジョージ・シスラーのシーズン257本安打という記録を84年ぶりに更新するシーズン262安打を記録した。
※前述の安打数の記録に関して、マートンは144試合制の144試合出場で214安打、イチローは130試合制の130試合出場で210安打という記録である。またジョージ・シスラーは154試合制の154試合出場で257安打、イチローは162試合制の161試合出場で262安打という記録である。それぞれの記録には多少疑問が残るかもしれないが、それぞれ条件が異なるため一概に比較することは無意味であることを付け加えておく。
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| オリックス時代のイチロー。左は仰木彬監督(当時) |
オリックス時代には一軍定着後、毎年2桁本塁打(シーズン最高は25本塁打)を記録しており、パンチ力も兼ね備えている。だがヒットを多く打つがためにわざと単打や内野安打狙いのバッティングをしている。
実際に試合前の練習などではかなりホームラン性の打球をかっ飛ばしている。
本人も「(打率が).220でいいなら(ホームランは)40本と言っておきましょう」と語っており、元同僚の佐々木主浩も「試合前の練習ではめっちゃホームランを打ってるけど、イチのホームランは誰よりも滞空時間が長くて綺麗。打率を気にしなければ40本は絶対打てる」と言うほどである。
現在は打順で1番が定位置となっているがチャンスに滅法強く、打順に対して割と多い打点を記録している。オリックス時代の96年には3番を打ち、オリックス最終年の00年には4番を打っていた。95年には1番を打ちながら80打点で打点王を獲得(初芝清、田中幸雄と同時受賞)、97年にはシーズン17本塁打ながら自己最高の91打点を記録している。
しかしこれだけの打率の高さ、加えて得点圏の強さが逆に敬遠に繋がる事が多い。日米通算で240敬遠、日本通算でも歴代13位となる98敬遠を記録している。
打ってからのスタートがとても速い独特のバッティングフォームであり、打球が詰まってもボールをヒットゾーンへ運ぶ技術を持っている。スタートの速さとメジャーは内野が深めの守備を敷く事が手伝って、MLBに移籍してからは内野安打の数が非常に多い(概ね、毎年シーズン全安打の20%~25%)。普通、詰まった打球がヒットになったり、ボテボテの内野ゴロが内野安打になったりするのは「たまたま」だということが多いが、イチローの場合は狙って打っている。つまり状況に応じて「芯を捉えて打球を飛ばすバッティング」と「芯を外されてもヒットにするバッティング」を使い分けている。
しかし甘い球を打ち損じる傾向が強いという弱点を持つ。普段厳しいコースばかり攻め続けられるため、突然甘い球が来ると対応ができない、という理屈である。オリックス時代にはダイエーから西武に移籍した木村恵二(イチローがプロ初安打を放った相手)にこの弱点を見抜かれ、見事に抑えられたという。
春先は打撃の調子が悪く、5月になると一気に調子が上がる傾向がある。
2011年シーズンは開幕こそ好調だったものの、本来調子が上がる5月~6月半ばにかけて不調に陥った結果、規定打席に始めて到達した94年以降では始めてシーズン打率が3割を割り込み、シーズン200本安打の記録も10年連続で途切れた。
守備
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| フェンス際のボールをキャッチするイチロー。 |
主に外野の右翼を守ることが多い。2006~2007年は中堅を主に守っていた。ちなみにオリックス時代には1度だけ公式戦でサードの守備に就いた事がある。
守備も打撃に劣らず定評があり、俊足であるため守備範囲が広く、肩も強いので(遠投は130m前後)毎年多くの補殺を記録する。
打球判断も良く、落下点への最短距離を常に素早く移動しているため、普通の選手では取れないようなボールでも取ってしまう事もよくある。
MLB移籍後はスタンドインギリギリのホームランボールをキャッチした事が何回かある。
ゴールデングラブ賞(ゴールドグラブ)はオリックスの一軍に定着した1994年から2010年まで17年連続で受賞した。
オリックス時代は田口壮、本西厚博(後に谷佳知)と共に外野を守り、球界一の守備力とまで言われ黄金期のオリックス・ブルーウェーブを支えた。
イチローの特技として、背面キャッチがある。その名の通り、飛んできたフライを自分の背後でキャッチするものなのだが、見た目と違って相当難しい技である。
一見、これは只のパフォーマンスの様であるが、飛んできた打球から目線を外して捕球するというイチロー独特の守備練習の1つでもあるという。
オリックス時代には自身がフライアウトで3アウト目を取った時、よくボールをスタンドに投げ込んでいた。パワプロではイチローのみに、これが再現されていた。
走塁
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| 三塁に滑り込むイチロー。 (第2回WBC強化試合日本vsオーストラリア戦にて) |
走攻守の内、イチローが最も難しいというのが走塁である。
理由は「バッティングの成功率は良くて3割強だけど、走塁の成功率は10割じゃなきゃならないから」。
その日のグラウンドコンディションを考慮し、走塁をするということは判断力が必要とされ非常に難しいのだという。
日米通算600盗塁を記録しており、マリナーズ移籍後は2009年を除いて毎年30盗塁以上を決めている。
盗塁技術は高く、盗塁成功率は日米それぞれで通算8割を超えている。渡米前あたりでは中軸を任される機会が多かったため盗塁企画数は減少傾向にあったものの、MLBではクイックの甘い投手が多いため30歳後半を迎えても安定した盗塁数を決めている。だが盗塁の多さにもこだわりを持っていないため盗塁王は日米共に1回のみである。
怪我のリスクを最小限に抑えるため、ヘッドスライディングはまずやらない。
ちなみにとびっきりの走力があるというわけではない。走力なら田口の方が上らしい。
投手として
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| 愛工大名電時代のイチロー。 |
高校時代は投手兼外野手のエースで4番だった。しかし投手としての評価は低く、更に高校在学中に怪我をした事が原因で投手を断念せざるを得ず、ドラフトで指名された際には外野手での指名だった。
1995年のパ・リーグ東西対抗戦でプロ入り後初登板をし、広瀬哲朗をピッチャーゴロに打ち取った。本来この時は清原和博の打順だったが清原が「俺が打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言い、代わりに広瀬が打席に立った。
1996年のオールスターでは9回2死から登板した。この時対戦する打者は松井秀喜の筈だったが、代打に高津臣吾が送られてしまい、結局イチローは高津と勝負、高津をショートゴロに打ち取った。ちなみにこの時に野球中継のゲスト解説をしていたのは前述の広瀬だった。
近年では2009年の自主練習でプルペンに入り、投球練習をした事もあった
。
投手としては最高球速は140km/h後半、決め球は本人によるとフォークとの事。
投手を辞めた理由が理由なだけあって、現在も投手への未練は本人曰く相当あるという。
道具
「バットやグラブは道具じゃない。体の一部」と公言しており、野球道具をとても大切にしている。
使用しているバットは篠塚和典モデルのバットをベースにヘッドを軽くしたものであり、このバットは普通のバットとはかなり細く、芯の場所が極端に狭い。そんなバットを使用してる理由は、プロ1年目のオフにバット工場へ行った時に「このバットだけ遠くから見てもチカチカ光っていた。実際に持ってみたら自分にしっくりきた」と言い、それ以降現在に至るまでそのバットを使っている。
グラブは紐を解いて使用している。理由は紐を結んだままだとグラブが固い状態になり、ボールを捕球したときの感覚が手に伝わりにくくなるからだという。
また、マリナーズのチームメイト、ジョージ・マッケンジー曰く、「イチローさんは絶対他人の野球道具は触ろうとしない。それは他人の野球道具を触ると、その感覚が手に残るのが嫌だから」。
背番号
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| セーフティバントを決めるイチロー。 (第2回WBC東京ラウンド2回戦、日本vs韓国戦にて) |
背番号はオリックス、マリナーズ、WBC日本代表で一貫して51でイチローのトレードマークとも言える。
イチローに憧れる野球選手はこの51に因んだ背番号を付ける事があり、川崎宗則は「イチローのひとつ後」という理由で一貫して背番号52を付けている。
これは国内選手だけに留まらず、他国の選手にも見られる。韓国の奉重根やキューバのヨエニス・セスペデスはイチローへの憧れから背番号51を背負っている。イチローの影響力が伺える。
逆にイチローと比較される事を嫌い、小関竜也は入団当初51だった背番号を変えている。
背番号51に拘る理由は諸説ある。
- イチローのイニシャルSI(Suzuki Ichiro)が51に似ているから。
- 広島東洋カープの前田智徳に憧れていて、前田が入団時に背負っていた背番号が51だったから(現在は背番号1)。
- 元ヤンキースのバーニー・ウィリアムスが憧れで、背番号が51だったから。
- 自らの専用バットをつくってもらっているバット職人の久保田五十一さんにちなんでいる。
などが挙げられるが何れも噂程度であり、確証はない。イチローのオリックス退団後、51番は誰も付けていない準永久欠番扱いである。2005年にオリックス・バファローズの監督に就任した仰木彬にイチローが51番を勧めたというが、仰木は「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられん」と固辞したエピソードがある。また、マリナーズ移籍後は51の前任者が後に通算300勝を達成する、当時通算179勝、かのビッグユニットの異名を持つランディ・ジョンソン(マリナーズ在籍時に130勝、4年連続最多奪三振、最優秀防御率1回)ということもあって、イチローが51番を背負う事にかなりの反発があったというが、イチローが後に多大な成績を挙げたことでその反発を黙らせた。
国際大会
五輪に対しては「オリンピックはアマチュアの大会」という理由で消極的だが、WBCに対してはテンションが上がるほど積極的である。
その積極性は「対戦した相手が向こう30年手を出せないな、という勝ち方をしたい」という発言や「(同じ対戦相手に2度負けた事は)僕の野球人生で最も屈辱的な日」という発言から見てとれる。
また、「WBCを世界最高の大会に育てていきたい」という意図もあるようである。
性格
マスコミやメディアに対して冷たい当たり方をする事が多いため、一般的にとてもクールなイメージが強いイチローだが、第1回WBCでチームメイトになった上原浩治に「あの人は普通の“隣のあんちゃん”」と言われる程、普段はとってもひょうきんな性格である。
物の言い方がとても独特で、例えば自身の知名度を言い表す時には「(アメリカの)レストランで食事してたら10人中11人に話しかけられますね」と言った。プレーだけでなくジョークも一流である。
マスコミやメディアに冷たい当たり方をするようになった背景に、過去に事実無根の事を書かれた事があるからである。それ以前はよくTV出演とかしていた。
近年になって拒絶の傾向は弱くなっており、記者会見などではたまにユーモラスな答えが返ってくる事も増えてきた。
しかしやはりマスコミやメディアとは一定の間隔を置いている。
当のイチローは「ユニフォームを着ているときだけ『鈴木一朗』ではなく『野球選手のイチロー』になれる」という趣旨の発言をしている。
意外な事に本人曰く、とってもプレッシャーに弱いとの事。近年ではシーズン200本安打が近くなるとプレッシャーのあまり、体調を崩してしまう事がよくあるんだとか。
実際、2009年にはWBC中の不振によるストレスでWBC後に体調が悪化。出血性胃潰瘍と診断され初の故障者リスト入りしたと同時に開幕戦出場も無理となってしまった。
ゲームや漫画も少々嗜んでいるようで、第2回WBCの日本代表メンバーの片岡易之の足の速さを「ファミスタの『ぴの』っぽい」と例えたり、2009年3月7日の第2回WBC東京ラウンド日本vs韓国戦後のインタビューではチームの雰囲気と打線爆発について「(ゲームソフトの)『ドラゴンクエスト』はテンションが上がって強くなるでしょう。ああいう感じでしょうね」と答えたり、王貞治第1回WBC日本代表監督をカリン様(ドラゴンボール)に例えたりしている。特にドラゴンクエストはシリーズ一通りをクリアしている程で、イチロー記念館にはイチローが少年時代に遊んだというドラクエのソフトが飾られている。
プレーだけでなく、社会活動にも積極的で、1992年のフレッシュオールスターに出場し、MVPに輝き100万円を手に入れたが全額施設に寄付した。他にもオリックス・ブルーウェーブが消滅するまで神戸総合運動公園野球場(現:スカイマークスタジアム)にイチローシートを設置し、2011年の東北地方太平洋沖地震の際には個人で1億円を寄付する等、熱心さが伺える。
自身曰く、組織の中で自分を殺していけないタイプの性格という。チチローこと父である宣之は「物事に囚われない、型破りな事をしなさい(もちろん人の道を外さない程度で)」という教育方針でイチローを育てたという。
食
かなりの偏食家である。好物はカレーライスでシアトルの自宅にいるときはほぼ毎日食べていたが、現在は毎日カレーは止めたという。白米に関して語らせたら「(テレビの)収録1日で終わらない」との事。過去にはカレーライスととんがりコーンのCMに出演していたこともあった。
ユンケル
| my condition my YUNKER |
佐藤製薬のユンケルのCMに出演している、プロ入り前からユンケルを愛飲していたのを知った社員がオファー。同社によると、イチローが試合前に飲むのはシリーズ33種類のうち2番目に高価な「ファンティ」(税込み3150円)。
ユンケルは遠征に持って行く事もあってか、オーダーメイド製のユンケルケースを持っている。
ユンケルは基本的に試合の1時間前に飲む(川崎宗則談)。
しかしそれだけユンケルを飲んでいるにも関わらず、TV番組の企画で「利きユンケル」たるものではユンケルの品種を当てられなかった。
師・仰木彬との出会い
「オリックスのイチロー」が「世界のイチロー」となるまで順調な道を歩んで来たのかというと、実はそうではない。
むしろ困難な道を歩み、多くの事を経験してきたからこそ、今のイチローがある。
イチローは1991年にドラフト4位でオリックスに入団。
入団当時は特に注目を浴びている選手ではなかった。
1992年から1993年まではほぼ2軍暮らしで、一軍で試合をする機会はほとんどなかった。
2軍時代も首位打者に近い打率を打ちながらも、昇格することはなかった。
これは当時のオリックス監督であった土井正三と打撃コーチの山内一弘に「振り子打法」などの指導面で衝突があったからとされている。
イチローが世間に注目を浴びるようになったのは1994年、プロ野球生活3年目からである。
イチローはこの年、その後唯一の師と慕うようになる「仰木彬」との出会いにより、才能を世に知らしめる。
仰木はイチローの振り子打法を否定せず、イチローの野球センスそのものを評価した。
そしてイチローも自分を蘇らせてくれた仰木の思いに応え、その年に210本ものシーズン最多安打を打ちMVPを獲得した。
その後も95年のリーグ優勝や96年の日本一などを、仰木と共に迎えている。
ポスティング制度を利用してのメジャー挑戦も、仰木の「もう一年やろう」の言葉により、挑戦を一年遅らせるなど、仰木がイチローに対して大きな影響力を持っていたのは間違いない。
仰木は、「鈴木一朗」では平凡すぎて埋もれてしまうとの理由により、登録名を「イチロー」に変更した。
この登録名は仰木が付けたと思われがちだが、実際は当時のオリックス打撃コーチの新井宏昌のアイデアでつけられた(同年にはイチローのみが目立つことがないように、という仰木の考えから佐藤和弘も「パンチ佐藤」に登録名を変更している)。
イチローは、仰木が当時監督をしていたオリックスのキャンプ場を訪れたり、仰木が野球殿堂入りした時はアメリカから駆けつけ授賞式に参加している。
また晩年仰木が体調を悪くして入院した時は、無理を言って面会をさせてもらった。
その仰木が2005年に逝去した時には、言葉を失い、しばらくの間気持ちの整理が付かず、部屋にこもっていたそうである。
イチローというスターが誕生したのは、イチローが良き師、良き理解者である仰木彬と巡り会えたからである。
ただし、94年の躍進までには少しばかり裏話があったりする。
- イチロー自身、プロ入りから2年間は二軍で自分の打撃の型をしっかり作り、3年目に活躍しようというビジョンを描いていた。これはイチローがプロ入りした時、4年後に同い年の大卒選手がプロの世界に入った時に自分がその選手たちより上の地位にいたいという思いから、確実に自分が活躍するための計画であった。その為、練習が二軍に比べて制限され、試合に出られるかわからない状態が続く一軍は眼中になく、1年目に初めて一軍昇格を知らされた時には相当渋り、昇格を断ったという(もちろん聞き入れられず)。
- 上記の通り、2年目まで自分の打撃の型を作り上げようとしていたイチローだが、2年目にイチロー自身印象深い出来事があった。それは山内打撃コーチに「お前は俺の言う事を聞くのか?聞かないのか?」と迫られたことだった。
もちろん一軍コーチの言う事を聞かない事は二軍落ちを意味するが、指導法も合わなかった事もあってイチローは前述の理由で「聞きません」と回答した(もちろんその後直ぐに2軍落ち)。イチローはこの判断を間違ってはいなかったという。 - 実は当時のオリックス監督の土井はイチローの能力を高く買っていた。現に93年には開幕戦でスタメン起用し、その後も積極的に起用し続けたが、結果打率1割台とまだ一軍で通用する力は無く、92・93年のオリックス外野陣は層が厚かったためイチローはレギュラーから弾き出される形となってしまった。そのためただ一軍のベンチに置いておくよりも二軍の試合でより多くの打席に立たせて経験を積ませた方が良いという計らいもあって2軍落ちをさせた。これは前述のイチローの思想と偶然にも一致する。また、当時のイチローはわがままで、チームスポーツである野球において協調性の大切さを学ばせるというもう1つの理由が2軍落ちにはあったという。土井は93年オフにファンの反発もあって監督を辞任。更に94年は前述のイチローが活躍を計画していた3年目で、この年はオリックス主力外野陣の退団や出遅れが相次いだ事で仰木監督のイチロー抜擢に繋がり、極めつけがイチローのNPB初のシーズン200本安打達成という事が重なり、土井の指導者としての資質、評価はガタ落ちしてしまった。
しかし、当のイチローは日米3000本安打達成の際、当時癌で闘病していた土井を気遣うコメントをしたり、土井が死去した時は自身を見出せなかったことに関して「そんなつもりじゃなかったのにね…」とコメントしており、イチローは土井の事を悪くは思っていなかった。 - 尚、土井は振り子打法に関してはイチローの飛躍後も否定をし続けた。イチローの振り子打法を否定した理由を要約すると、「あれはイチローの野球センスが高いからできる打法であって、本来は実践的な打法ではないから」。
その他
| 弓子夫人(左)と一弓(右) |
妻は元TBSアナウンサーの福島弓子。余計なお節介だが2人の間にはまだ子供はいない。
柴犬を1匹飼っており、名前はイチローと弓子夫人の名前から一文字ずつ取った「一弓」。
ドラマ「古畑任三郎」に本人役で出演した事がある。その時のイチローは殺人を犯し、古畑に逮捕された。ちなみに元々出演の予定はなかったのだが、イチロー本人の希望で出演することになり、撮影ではほとんどNGを出さなかったんだとか。
共演した田村正和曰く、「役者の鑑」。野球選手だけでなく役者としても一流である。
愛知出身という事もあって中日ドラゴンズファン。憧れた選手は田尾安志。そのため中日入りを望んでいたというが、当時オリックスのスカウトだった三輪田勝利に説得されてオリックスに入団した。
寝る時は枕が2つ無いと寝られない。理由は1つは頭の下に、もう1つは股の間に挟んで横を向いた状態という独特のスタンスでないと寝られないからなんだとか。その為遠征では自前の枕を1個持って行く。
本名は「一朗」であり、「一郎」ではない。長男ではなく、歴とした次男である。
「一朗」という名前の由来はチチローが兄弟の名前に順番を付ける事を嫌い、尚且つイチローの祖父の名前の「銀一」の「一」を取った。更に「朗らかであってほしい」という意味を込めた「朗」が合わさって「一朗」となった。イチローの兄の名前は、「一泰」でイチロー同様に「一」という漢字が入っている。
今後の野球人生は「50歳で4割打ってやめる」だそう。まだ引退する気はさらさら無いようである。
東京事変の楽曲「スーパースター」は、イチローをイメージして作られた楽曲。
作詞した椎名林檎との対談によれば、最初はあまり良い印象を持たなかったが、「私のスーパースター」と歌っている事に感銘を受け、印象が変わったと言う。
イチロー伝説
テンションが上がると分身したり、何度も人類を滅亡させるほどの能力を秘めているイチローだが、その才能は日米野球界で証明されている。
- 1994年、当時日本球界史上初の年間200本安打を達成し、首位打者を獲得。
以後メジャーリーグに移籍する2000年までの7年間、毎年首位打者だった。
余談だがにルーキーイヤーの1992年にはウエスタンリーグの首位打者になっており、一軍半状態だった1993年のみ一軍、二軍両方で首位打者になっていない。
尚、1993年のウエスタンリーグでの打率は.371でその年のウエスタンリーグ首位打者の打率より高かったが、規定打席に届いていなかったため首位打者になれなかった。
1995年には首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率の五冠を獲得。本塁打もトップと3本差の25本塁打と日本野球界で誰も成し得た事が無い六冠王まであと少しだった。
2000年には日本シーズン歴代打率2位となる.387を記録した。
1994年~1996年には山田久志以来2人目となる3年連続でMVPに選出される。 - MLB初年度の2001年は新人王、首位打者、盗塁王、MVPに輝くという活躍を見せ、マリナーズのシーズン116勝というMLBタイ記録の原動力となり、マリナーズを地区優勝に導く。この活躍に国民栄誉賞を打診されたが、本人は「国民栄誉賞をいただくことは光栄だが、まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」という理由で固辞している。
- 2004年にはメジャー年間最多安打記録を塗り替え、殿堂入りを果たした。
その功績をたたえられ、マリナーズの筆頭オーナー企業、任天堂の株約5800万円相当を山内氏からプレゼントされた。この時も国民栄誉賞を打診されたがまた固辞した。国民栄誉賞を2度打診され、2回共に固辞したのは現在までイチローのみである。 - 2007年にはオールスター戦にて、オールスターゲーム史上初のランニングホームランを達成。更にオールスターMVPにも輝いた。
- 2008年7月30日、日米通算3000本安打を達成。日本の選手としては張本勲以来2人目。更に同年9月18日、8回の第4打席でショートの内野安打で8年連続の200本安打を達成した。これは1894年から1901年にかけてウィリー・キーラー(当時オリオールズ)がつくった8年連続200安打のメジャー記録に並んだことになる。
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2009年3月24日(日本時間)、第2回WBC決勝戦、日本vs韓国にて10回表、2アウト2、3塁から決勝2点タイムリーヒットを放ち、WBC日本連覇に貢献した。前日まで不振を極めていたが、このときのためにパワーを充填していたとも考えられる。
第2回WBCの優勝トロフィーを持つイチロー。
2009年3月24日(日本時間)、LAドジャースタジアムにて。
WBCの活躍もあってか、同年3月26日に行われた「理想の上司」ランキングではランキング史上最年少の35歳で1位に輝いた。 - 2009年4月16日(日本時間)に故障者リストから復帰。1番右翼スタメンでこのシーズン初出場し、3回裏にはセンター前ヒットを放ち、7回裏には1死満塁の状況で打席に立ち、張本勲に並ぶ日本人通算最多安打記録の3085安打目を満塁ホームランで飾った。
- 2009年9月7日(日本時間)、MLB通算2000本安打をMLB史上2番目の速さで達成した。
2009年9月14日(日本時間)、MLB史上初となる9年連続200本安打を達成した。 - 2009年9月18日(日本時間)、前人未到となる日本人通算3500安打に到達。奇しくも日米通算2525試合での到達である。
- 2010年9月24日未明(日本時間)、自身が持つMLB記録を更新する10年連続200本安打を達成。
また、通算10回の200本安打はピート・ローズの持つMLB通算記録に並んだ。なおマリ。 - 2011年4月3日(日本時間)、メジャー通算2248安打を放ち、エドガー・マルティネスのマリナーズ球団通算安打記録を塗り替えた。尚マルティネスの記録は通算18年、イチローの記録は通算11年での到達である。
レーザービーム
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| 外野から送球するイチロー。(第2回WBC宮崎合宿にて) |
日本が誇る国技、SUMOUと並んで日本が核を持たない理由がこれである。
主に敵チームの攻撃時、ランナーの三進の時やホーム突入の時によく見られる。
このレーザービームが放たれると、大抵ランナーはアウトになるが同時に着弾点を中心として地殻津波が発生。この時点で地球の人類の半分が滅亡するがこれだけにとどまらず、舞い上がった地殻がファールボールとなって地球に着弾するというセカンドインパクトが発生する。これにより残りの地球の人類の半分が滅亡する。
これだけの大被害にも関わらず、年に何回も発生することなので各界の著名人はこのレーザービームが発生する度に「またイチローか」とコメントすることが自然となりつつある。また、人類滅亡が発生すると同時に踊りだす黄色い人たちがいるとかいないとか。
イチローの調子が良い時は宇宙滅亡、調子が悪い時は山の地滑りが起こる程度である。また、レーザービームの亜種としてレートービームたるものも観測されている。
レーザービームを放った試合は不思議とマリナーズは試合に負ける事が多い。
この逆の事例として、マーティー・レオ・ブラウン(広島監督時代・元楽天監督)のベース投げがある。
しかし2009年の第2回WBCではテンションが上がり過ぎた結果、力を抑える事が出来なくなり、レーザービームではなく高校時代以来となるバッティングで人類を滅亡させてしまったため、再びイチローに注目が集まっている。
日本が核を持たない理由がまた1つ増えた瞬間でもあった。
ちなみに2009年のイチローによる人類滅亡は予想されていた。
Ω Ω Ω <な、なんだってー!!!
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全盛期のイチロー伝説
| テンションが上がって しまい、分身した。 |
| ほぼイキかけそうに なり、スタンドが少し 出かけた事も。 |
- 3打数5安打は当たり前、3打数8安打も
- 初回先頭打者満塁ホームランを頻発
- イチローにとってのホームランは内野安打の打ちそこない
- 初回先頭打者サイクルヒットも日常茶飯事
- 9回裏100点差、チームメイト全員負傷の状況から1人で逆転
- 一回のスイングでバットが三本に見える
- バントでホームラン
- 打席に立つだけで相手投手が泣いて謝った、心臓発作を起こす投手も
- ホームランでも納得いかなければサードベース踏まないで帰ってきてた
- あまりに打ちすぎるから牽制球でもストライク扱い
- その牽制球もヒット
- ピッチャーを一睨みしただけでボールが二遊間に飛んでいく
- 試合の無い移動日でも2安打
- バット使わずに手で打ってたことも
- 自分のホームランボールを自分でキャッチしてレーザービームで投げ返す
- 内野ランニングホームランなんてザラ、2周することも
- 一塁でアウトになってからベンチに帰る方が早かった
- ウェイティングサークルでヒット打った
- 打球キャッチしようとしたピッチャーと、それを受け止めようとしたセカンド、ショート、センターの選手ともどもスタンドインさせた
- グッとガッツポーズしただけで5点くらい入った
- スイングでハリケーンが起きたことは有名
- 湾岸戦争が始まったきっかけはイチローの場外ホームラン
- ライトの深い位置から三塁線のスクイズも処理してた
- ボウリングの球を楽々ホームランにしてた
- 自分の打球に飛び乗ってスタンドまで行くというファンサービス
- 全盛期のイチローが打ったホームランボールを観客席で見ていた子供が捕ったんだがすでにボールにサインがしてあって驚いたそうだ
- 実は野球は一番苦手とするスポーツで、克服するために野球を続けている
- バット一振りで2chの鯖をすべて物理的に破壊した
- 二点勝ち越しの二塁打を打った次の瞬間気づいたら三塁にいた
- 本日(3月24日)9回時点で最安値だった株価をタイムリーでおよそ2倍に上げ、日本のGDPを押し上げた
- 神を降ろし、試合中にイキかけた
- 当日の再放送でも2chの鯖を落とした
- テポドン2を受け止め日本を救った(しかしさすがに当日のニコ生に出る力を残しておけなかった)
- あのウサイン・ボルトとの100m競争に勝利した (しかしこの超人同士の競争により脚を負傷してしまった)
- サヨナラ安打を達成した日に古畑任三郎の手により殺人罪の罪に問われ逮捕されるものの、翌日には試合復帰し、当時36試合連続セーブ中でこの日、通算1000奪三振を記録した、ヤンキースの守護神マリアーノ・リベラからサヨナラホームランを放つ
- 2010年の春季キャンプにて、たった1スイングで7本のホームランを放つ
- この記事を全部書いたのはイチロー
- この記事を見ているのも全員イチロー
- むしろニコ動全体がイチロー
- 朝カレーを食べてない事だけで日本を震撼させ、yahooトップに記事が載った
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関連項目
- プロ野球
- オリックス・ブルーウェーブ
- MLB
- シアトル・マリナーズ
- 師弟関係・交友関係・フォロワー
- 神様、仏様、イチロー様
- 肩の抑止力
ニコニコ動画関連
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%AD%E3%83%BC


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読み:イチロー
初版作成日: 08/05/21 00:37 ◆ 最終更新日: 12/01/08 19:29
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