イマヌエル・カント(1724年~1804年)とは、ドイツの哲学者である。
生涯
1724年、ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれる。
1740年にケーニヒスベルク大学に入学し、自然学を研究した。
1755年に最初の論文「天界の一般的自然史と理論」が出版され、同年にケーニヒスベルク大学の私講師となった。
1770年にケーニヒスベルク大学に招聘され、哲学教授となり、哲学や自然科学について教鞭をとった。
1804年に死去。
著作
形而上学 | |
倫理学 | |
美学 | |
政治学 |
『永遠平和のために』(1795) |
カントの有名な著作は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』であり、この三つを「三批判書」と呼ぶことがある。
カントの思想
思想の背景
カントの思想は様々な言葉で語られている。
これらは、いずれも正しい認識である。だが、あくまでカント思想の一面にすぎない。ここでは、まずカントが哲学において何を企図したのかを説明してゆこう。
哲学の再構築
「生涯」をご覧いただけば分かるように、カントは元々自然学を専攻していた。その彼が哲学を志すようになったのには理由がある。
カントが生きた18世紀のドイツ(当時はプロイセン)の大学では、ライプニッツ・ヴォルフ学派が主流であった。これは、哲学者ライプニッツの思想を、ヴォルフという学者が構築し直したものである。内容をまとめるのは難しいが、簡単にいえば、「すべてのものは経験によらず、演繹的に導くことが可能である」といった合理論的な考え方である。
カントもこうした主流思想に浴していたわけだが、彼はあるとき、イギリス経験論の哲学者ヒュームの著書を読み、その内容に衝撃を覚えた。ヒュームの懐疑論・因果律批判によって「独断論のまどろみ」から解放された彼は、ライプニッツ・ヴォルフ学派に疑問を抱き始める。しかし、かといってカントはヒュームに全面的に賛成したわけでもない。
この経験を通じてカントが考えたのは次のようなことである。
- 確かにヒュームのいう通り、人間は多くのものを経験から獲得している。ライプニッツ・ヴォルフ学派のいうように、すべてが経験によらず演繹的に獲得されるとは考えられない。
- しかし、ヒュームの因果律批判は、すべての因果関係を蓋然性にとどめてしまい、必然性や普遍性を存在しないものとして片づけてしまう。
- つまり、すべてが経験から得られるわけでもないし、すべてが経験によらず得られるわけでもない。
- では、何が経験によらないか、何が経験によるのか、何が普遍的で何が偶然的なのかを検討しよう。
以上のように、カントの哲学の出発点は、ライプニッツ・ヴォルフ学派にもヒュームにも納得できず、自らの手で哲学を構築し直すことにあった。カント哲学が合理論と経験論の統一といわれるのは、上記の背景を踏まえてのことである。
批判主義
哲学を再構築するにあたって、カントはまず「批判」が必要であると考えた。この「批判」という言葉は、他者を批判・非難するといった攻撃的なイメージがつきまとうが、カントはそういった意味で「批判」といったわけではない。カントが「批判」にこめた意図は次のようなものである。
ライプニッツ・ヴォルフ学派のように、経験を軽視し、過度に理性を重視する立場は独断論的である。一方、ヒュームのように、経験のみを重視し、理性をあまりにも軽んじるのは懐疑論的である。その両者にも偏らず、理性の判断能力はどこまで作用するのか、どこからどこまでが理性の範疇なのか、理性の成立条件は何かを吟味することが必要である。
簡単にいえば、理性の範疇外にないことを理性で考えても、答えが出るはずがない。それは理性の判断能力の過信から来ている。一方、理性の範疇内にあることを答えられないと考えるのは、理性の過小評価である。こうした理性の過大評価・過小評価を批判し、理性を正確に吟味しようというのが、カントの「批判」の意図である。
こうした立場から、カントは人間を純粋理性・実践理性・判断力の三つに分け、感性・悟性・理性の範疇を検討し、アンチノミーについて議論し……と、理性に関する議論を細かく展開してゆく。カントが理性の限界の吟味を行ったといわれるのは、こうした議論を指しているのである。
形而上学・倫理学・美学
上記の「批判」の末に、カントが著したのが『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』である。
このように、カントの三批判書は、それぞれ形而上学・倫理学・美学という西洋哲学の伝統的テーマに対応している。
カント哲学の難解さ
カントの哲学書は、西洋哲学の中でも屈指の難解さといわれる。それには、カントの文章自体が極めて読みにくいこと、日本語に翻訳した際に悪文になっていること、概念や議論が理解しにくいことなど様々な理由が挙げられる。
カント哲学の難解さにはドイツ人ですら頭を悩ませているようで、カントの同時代人のほとんどが理解できなかったとされているし、現代でもカントを理解できるドイツ人はごくわずかのようである。
後世への影響
カントの後世への影響は甚大である。まず、フィヒテ・シェリング・ヘーゲルというドイツ観念論の系譜を作ったことが挙げられる。また、ヘーゲルの死後に新カント学派という学派が生まれ、カントの再評価が高まったことも影響の一つである。
それ以外にも、経験論と合理論がカントにおいて統一されたこと・徹底的な形而上学批判が行われたことなども挙げられる。
一方で、物自体・現象という世界の捉え方や、倫理学において形式主義に徹したことなどは後世の批判も浴びた。
逸話
- カントは毎朝散歩に出ていたが、その時間帯が毎日同じであり、極めて正確であった。そのため、近所の人々はカントの散歩時間を見て、時計の狂いを直したという。
- 中島義道というカント哲学者は、『カントの人間学』においてカントにまつわる様々な噂やエピソード・文章を紹介している。それを通じて、カントは従来考えられていたような清廉潔白・道徳的な人物ではなく、社交的であり、したたかであり、女嫌いであり……といったあくの強い人物なのだと説明している。ただ、そうした人間性も含めて、カントは偉大なのだともいっている。
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関連項目
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