HMSウォースパイトとは、英国海軍がかつて保有したクイーン・エリザベス級戦艦の2番艦である。
第一次世界大戦から、第二次世界大戦を通して数多くの戦場を渡り歩き、傷だらけになりながらも多くの戦果を挙げ、そして時々他の船に衝突し、その勇猛にして鮮烈な戦いぶりから、敬意を込めて「オールド・レディ」と呼ばれた。
誕生
ウォースパイトは1912年10月31日、英国デヴォンポート海軍工廠にて起工、翌1913年11月26日に進水し、1915年3月8日に竣工した。同型艦として、クイーン・エリザベス、バーラム、ヴァリアント、マレーヤがある。
ウォースパイトの名は英国にとって由緒ある名であり、その起源はエリザベス1世時代のガレオン船で、この名前を冠する船としては8代目である。その名前は「戦争を軽蔑するもの」を指す。
ウォースパイトを含めたクイーン・エリザベス級戦艦は、それまでの戦艦を凌駕する攻撃力を手に入れるべく、前例の無い15インチ(38センチ)砲を搭載し、機関の種類や配置、主砲塔の配置などを見直した先進的な設計(そのいくつかは偶然の産物であったが)により、当時としては世界最高峰の性能を持って誕生した。
ウォースパイトは竣工後、本国艦隊(グランド・フリート)の第2戦艦戦隊に配属となり、試運転の際には当時の海軍大臣ウィンストン・チャーチルが出席し、新型の15インチ砲の性能は彼にかなりの好印象を与えた。しかし、同年9月ウォースパイトは配備先のスカパフローからロサイスに向けて霧の中を航行する途中で、うっかり座礁してしまう。その後、同年の暮れには信号旗の読み違えによって姉妹艦のバーラムと衝突するなど、後に勇名を馳せながらも傷を負い続ける名艦の最初の受難となってしまった。
修理を終えたウォースパイトは本国艦隊に復帰し、新たに当時最新鋭であり、自らの姉妹であるクイーン・エリザベス級戦艦でのみ構成された第5戦艦戦隊に配属となった。
第一次世界大戦
1916年にウォースパイトを含む第5戦艦戦隊は一時的に巡洋戦艦戦隊に編入され、同年の5月31日には純粋な水上艦艇同士の戦闘としては人類の歴史上最大級の規模となるユトランド沖海戦に参加する事となる。
ウォースパイトはこの戦闘でドイツ艦艇から放たれた15発の砲弾が命中、加えて突然舵が故障し姉妹艦ヴァリアントとあわや衝突・・・しそうになる。何とか衝突には至らなかったものの、舵は直らずウォースパイトはその場で円を描きながら迷走を始め、格好の標的となってしまった。これは「ウォースパイト死の行進」と呼ばれ、この時の舵の不具合は終生に渡ってたびたび再発し、ウォースパイトを苦しめた。
ウォースパイトは激しい戦闘で大小多数の砲弾を受けて甚大な損傷を被ったものの、粘り強く応戦して生き残った。また、舵が故障した際に敵の攻撃がウォースパイトに集中した事で、偶然の結果ではあったものの苦境に立たされた味方艦を救う事になり、賞賛と信頼を得た。なお、この時搭乗していたウォルター・ヨーという砲兵が瞼を焼き切る重傷を負い、世界初の顔面皮膚移植手術を受けている。
余談だが、ウォースパイトはこの戦闘による修理を終えた後、結局姉妹艦のヴァリアントと衝突している。その後、今度は駆逐艦とも衝突した。
戦間期~近代化改修
多くの受難に見舞われながらも第一次世界大戦を生き抜いたウォースパイトはその後、段階的に近代化改修を施されていき、最終的に1937年には航空機用格納庫の設置の他、バルジの増設、艦橋の再設計、主砲塔の改修、機関の換装などを経て竣工時とは殆ど別の艦とも言えるほどの変貌を遂げた。
これら改修が行われる最中、1924年に国王が出席する英国艦隊観艦式に参加、1929年には嵐の中遭難したギリシア籍の帆船を救助するなど戦闘以外でも存在感を示した。
第二次世界大戦~退役
第二次世界大戦勃発後の1940年4月、ノルウェーに侵攻したドイツ軍を追ってウォースパイトもまたノルウェーに展開した。ウォースパイトはノルウェーの要衝、ナルヴィクを占領したドイツ軍を攻撃するべく、駆逐艦9隻を引き連れてフィヨルドに突入、すでに旧式化した身でありながら、駆逐艦隊と協力して10隻のドイツ軍駆逐艦部隊を全滅させた(第2次ナルヴィク海戦)。
フィヨルドでの戦いを制したウォースパイトは当時の本来の所属である地中海艦隊に帰還し、エジプトのアレクサンドリアを拠点に数々の作戦に従事、7月初頭には地中海にて船団護衛任務に就いていたところ、同じく船団護衛任務中だったイタリア艦隊に遭遇、この戦闘(カラブリア沖海戦)でイタリア戦艦ジュリオ・チェザーレに命中弾を浴びせている。翌1941年1月には、バルディアに展開するイタリア軍に対して砲撃を敢行(バルディア砲撃・MC5作戦)、3月には夜戦でイタリア軍のザラ級重巡洋艦4隻中3隻と、駆逐艦2隻を撃沈(マタパン岬沖海戦)するなどして、戦略的な勝利に大きく貢献した。
しかし、これらの戦いの中で、ウォースパイトの姉妹艦バーラムがドイツ潜水艦の雷撃を受けて爆発轟沈、更にクイーン・エリザベスとヴァリアントはアレクサンドリア港に停泊中のところを、イタリア軍の人間魚雷部隊の襲撃を受けて共に大破着底し、修理には長い年月を要する事になる。これにより、まともに戦えるクイーン・エリザベス級戦艦は、ウォースパイトと5番艦のマレーヤだけになってしまった。ウォースパイトも幾度と無く損傷には見舞われたが、他の姉妹艦ほど深刻なダメージにはならなかった。
1942年になると、ウォースパイトは東洋艦隊の所属となって同艦隊の旗艦としてインド洋に派遣された。当時破竹の快進撃を続ける日本軍との対決となるはずであったが、結局ウォースパイト自体は直接日本軍と矛を交えるには至らず、1943年の6月には地中海に戻った。ちなみに、地中海に戻る途上で舵の古傷が開いて修理を行っている。
地中海に戻ったウォースパイトはその後も砲撃作戦などに従事し、連合軍の進撃に貢献する。1943年の7月にはシシリー島への上陸を目的としたハスキー作戦に参加、ドイツ軍機の攻撃を受けながらもこれを掻い潜り、無事に作戦を完了して帰港した。この時、イギリス軍の司令官であったアンドリュー・カニンガム中将の送った「作戦は無事完了した。オールド・レディもスカートを上げれば走る事が出来る」という内容の信号にちなんで、以後ウォースパイトはオールド・レディとして知られる様になった。なお、この作戦の際にまたしても舵が故障して味方の駆逐艦に衝突・・・しそうになるという、お約束のトラブルを起こしている。
しかし1943年の9月、ウォースパイトはサレルノ沖にて地上への砲撃支援の為の陣地転換中に、ドイツ軍の放った3発の誘導爆弾「フリッツX」の攻撃を受けてしまう。そのうちの2発が船体を直撃し、うち1発は煙突付近に着弾して機関区まで到達して大爆発を起こし、もう1発は右舷側のバルジを貫いてこれも大爆発を起こした。この攻撃によってウォースパイトが受けた損傷は極めて甚大で、最早完全な修復が不可能になってしまうほどであったが、幸運な事にウォースパイトは沈没することもなく、また死傷者も殆ど出なかった。ウォースパイトはロサイスに送られ、修理が行われた。しかし、前述の通り完全な修理は出来ず、一部の機関と後部第3主砲塔は使用出来ないままとされた。
1944年6月、ウォースパイトはノルマンディー上陸作戦に参加し、地上への砲撃支援を行う。この時再びフリッツXが命中するが、大事には至らなかった。しかし、その後主砲身の交換の為にロサイスに向かう途中、機雷に接触してまたしても大破してしまった。この時は必要最低限の修理のみ行われ、その後は傷だらけの身体を押して1944年の11月まで砲撃作戦に従事した。
そして1945年2月、ついにウォースパイトは予備役となり、誕生から実に30年近く戦い続けた第一線を離れたのであった。
オールド・レディの最期
戦後、ウォースパイトを保存しようという運動が起こったものの、それらの声は無視され、ウォースパイトは解体される事となった。しかし、ウォースパイトは解体所に向かう途中で嵐に遭い、曳航索が千切れて漂流したのち入り江で座礁するまで、最後の抵抗とばかりに解体業者から逃げ回ったのである。結局その後は本来の解体所で予定通り解体が行われ、長きに渡って英国海軍を支えた稀代の名艦も、ついにその波乱の生涯に幕を引いたのであった。
ウォースパイトは決して最強の船であり続けたわけでも、無敵の性能を誇ったわけでもない。衝突癖や舵に抱えた爆弾に見られる様に、決して幸運だったわけでもない。
しかし、第一次世界大戦から第二次世界大戦の数多の戦場を駆け抜け、どんなに傷だらけになろうとも不屈の精神で立ち上がり、そして戦果を挙げ続けたこの艦はイギリスの国民に広く愛され、その戦いぶりは伝説となっていった。そして本来「戦争を軽蔑するもの」として与えられたその名も、いつしか「勇気」と「尊厳」を象徴する言葉に変わっていたのであった。
余談
9代目のウォースパイトにはヴァリアント級攻撃型原子力潜水艦の2番艦が選ばれた。
そして1968年、バレンツ海での哨戒作戦中にソ連海軍のエコー級潜水艦と衝突し、舵を損傷するという因果律レベルの不運を発揮。
修理後、フォークランド紛争に参加するが、今度は一次冷却液管の亀裂が見つかるというトラブルにより戦線離脱。
再び修理が行われるも途中で匙を投げられ、そのまま退役してしまう。
すぐにでも解体されるはず……であったが、船体の一部が放射能で汚染されたため、無害化のための長期保管が決定。
2014年現在、奇しくも先代誕生の地であるデヴォンポート海軍工廠にて静かに余生を送っている。
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関連項目
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