エカチェリーナ2世(1729~1796)とは、ロシア皇帝である。
概要
18世紀の女帝の時代を代表する存在。当初は啓蒙主義に傾倒していたが、頓挫後は反動化して専制化を進めたと言われる。
君臨前
バルト海に面したシュテッティンに生まれた。本名はゾフィー・アウグスタ・フレデリーケであり、アンハルトードルンブルク公爵のクリスティアン・アウグストとホルシュタイン―ゴットルプ家の母親・ヨハンナとの間の娘である。ゾフィーはどこに嫁いでもいいように貴族として人並みの教育を受けた。
一方1741年に幼帝イヴァン6世が下ろされ、ピョートル1世の娘・エリザベータが即位する事件がロシア帝国で起きた。実はこのエリザベータはゾフィーの亡き伯父・カール・アウグストの元婚約者であり、ヨハンナはこれを好機とみてかつての縁故を頼り、エリザベータに接近したのだった。
エリザベータに子供はおらず、姉のアンナの息子・ピョートルが唯一のロシア帝室の男子だった。そこで、嫁ぎ相手として白羽の矢が立ったのが、このゾフィーだったというわけである。
1744年に正教に改宗しエカチェリーナと名を改め、1745年にピョートルとエカチェリーナは結婚した。ところが、このピョートルにはどうも問題があったらしく、エカチェリーナがロシアへの接近を推進し、政治力を磨いた一方で、ピョートルは故地ドイツへの傾倒を隠さず、妻へも何ら関心を見せなかった、と一般的に言われる。
かくして、父親がピョートルではなくセルゲイ・サルティコフだったともいわれる息子・パーヴェルを出産したが、エリザベータはこの子供を取り上げ、自分で養育したのである。はっきり言ってエカチェリーナは子供を産むためのみの存在であり、孤立していた。ここで、エカチェリーナは自分が生き残るための選択肢を増やそうとし始めていった。
エカチェリーナ2世即位劇
1762年、エリザベータが死んだ。かくして、ピョートルがピョートル3世として即位した。しかし、ピョートル3世には愛人・エリザベータ・ヴォロンツォヴァがおり、ピョートル3世はこちらを皇后にしようとしてエカチェリーナ排斥を企てつつあった。
ところが、ピョートル3世はプロイセンを敬愛するあまり、七年戦争でプロイセンと勝手に和平する行動に出る。この結果正教会、近衛連隊、元老院といった諸勢力は、ピョートル3世に反発した。これを好機と見たのが、エカチェリーナであった。
1762年6月末、エカチェリーナの陣営であったニキータ・バーニン、オルロフ兄弟といった人々が、近衛連隊の支持に成功し、軍隊を次々と味方にする。こうして武力を手に入れたエカチェリーナは皇帝即位を宣言し、ピョートル3世を廃位。監禁されたピョートル3世は、1週間後にアレクセイ・オルロフに殺された。ぶっちゃけ言うと、この殺害にエカチェリーナが関わっていたかどうかは闇の中であり、議論が未だなお続いている。
かくしてエカチェリーナが政権を握ったが、外国人であるエカチェリーナが皇帝になるのではなく、息子のパーヴェルを皇帝にしてエカチェリーナが後見役にするほうがいいのではないか、という派閥もいた。しかし、そのような存在があっけなく引きずりおろされた先例はロマノフ王朝に多々あり、エカチェリーナはエカチェリーナ2世として皇帝になったのである。
ただし、ロマノフ家の血筋にないエカチェリーナ2世は、そのことに終生悩まされることとなる。
エカチェリーナ2世の治世
エカチェリーナ2世は、自身の後継者として直ちにパーヴェルを指名した。一方で、1764年、実はエリザベータの即位劇以来ずっと放置されていたイヴァン6世を担ぎ上げるクーデターが発覚し、ニキータ・バーニンは彼を殺害させた。かくして、パーヴェル以外にロマノフ王朝の男児はいなくなってしまった。
ところが、パーヴェルはぶっちゃけピョートル3世に似た存在だったらしく、プロイセンへの傾倒もあまり変わらなかったようである。そこでエカチェリーナ2世は、はじめナターリアを、彼女の死後はヴェルテンベルク家のゾフィーをパーヴェルに嫁がせ、分別ある存在にしようとした。この過程で生まれたのが、アレクサンドル(後のアレクサンドル1世)とコンスタンチンである。
なお、エカチェリーナ2世は、ぶっちゃけ自分がされたのと同じことをし、アレクサンドル達を養育した。さらに、パーヴェルはほとんど政治からは排除されており、パーヴェルはひたすら軍事教練に打ち込む日々のみを送った。
一方で、ヴォルテールやディドロと交流を持ち、啓蒙専制君主を自認していたのが、エカチェリーナ2世である。ところが1773年のプガチョフの乱で、盛大に足元をすくわれる。こうした反乱を見て上からの改革すら放棄してしまったのが、エカチェリーナ2世であった。
また、露土戦争や、ポーランド分割などにも積極的に加わり、ロシア帝国の版図を広げた。一方で、フランス革命後の大戦争の真っただ中で亡くなり、パーヴェルがパーヴェル1世として即位したのである。
エカチェリーナ2世の没後
パーヴェル1世は、ピョートル1世の皇位継承法を変えてしまい、女帝即位の可能性は徹底的につぶされた。さらに、パーヴェル1世はエカチェリーナ2世の政策をことごとく放棄した。
その結果、1800年にまたしてもクーデターが起きた。パーヴェル1世は殺害され、息子のアレクサンドルがアレクサンドル1世として即位。以後、アレクサンドル1世はナポレオン戦争などに従事していく。
関連項目
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