エジプト(古代)とは、先史時代~プトレマイオス朝滅亡までのエジプトである。
概要
現代エジプトとは異なりイスラム教のような一神教ではなくオシリスの天空竜やホルスなどの多神教が、ファラオの下で信仰されていた、ナイルの流域で農耕が始まってから古代ローマに滅ぼされるまでのエジプトを指す。首都はテーベ、メンフィス、アレクサンドリアなど。
いつが始まりかは、正直わかっていない。ナルメル王が上下エジプトを統一し第一王朝が始まる前から、何らかの王朝があったり未知のファラオがいた可能性があるからである。ただ、紀元前5000年ごろから人が定住し農耕を行っていたみたいではある。
古王国時代(第3~6王朝)
ハムナプトラにも出演しみんなにトラウマを植え付けたイムホテップ[1]が設計したジェゼル王(ジェセル王、ジョセル王、ジュセル王など異表記多数)のピラミッド(サッカラの階段ピラミッド)やスネフェル王の屈折ピラミッド、そして世界の七不思議にも数えられ、今なお世界の人々からの注目を浴びるクフ王・カフラー王・メンカフラー王のギザの三大ピラミッドが作られた時代である。ギザのピラミッドの傍に控えるスフィンクスもこの時代に造られたという説が一般的である。
ピラミッドはクフ王らのピラミッドである意味頂点に達し、それ以上の巨大なピラミッドは作られていない。
第一中間期(第7~10王朝)
どうやら内乱が起きていたようで混乱していたようである。日本史で言う南北朝時代のような地方長官の争いが起きていたという。
中王国時代(第11~14王朝)
最終的に第11王朝がエジプトを再統一した。エジプトが統一されたことで大規模公共事業であるピラミッド建設が再開されたが、以前の物ほど巨大なものは作られず、また、ピラミッドの素材なども古王国時代の切り出した石から日干し煉瓦に代わっていた。日干し煉瓦のピラミッドは長い年月の間に風化し、そのほとんどが崩れ去っている。
その後、中王国が衰退するとピラミッド建造も行われなくなった。ピラミッド建設の終焉である。
第二中間期(第15~16王朝)
第15、16王朝はヒクソスというイラン系(?)の異民族がエジプトを征服しファラオの座に居座っていたようである。このため彼らの信仰していたセトやバアルなどの外来の神を持ち込んだ。
新王国時代(第17~20王朝)
紀元前1540年ごろ~紀元前1070年ごろ
有名なツタンカーメンやラムセス二世の時代である。ヒクソスを追放しエジプト人がエジプトを統治する時代が戻ってきた。遺跡もこの時代のものが多く残っている。旧約聖書のユダヤ人のエジプト脱出や遊戯王のアテムはこの時代という設定である。
第18王朝ではエジプト初の権力を備えた女王ハトシェプストが登場した。彼女は夫であるファラオトトメス2世の死後、まだ幼い義理の息子のトトメス3世の共同統治者となり、実質的なファラオとなった。彼女は公の場では男装していたとされる。
第18王朝の時代には多神教から一神教への宗教改革が行われた。アメンホテプ4世が行ったアマルナ宗教改革と言われるこの改革は「アテン神」を唯一神として祀り、アメンホテプ4世もアクエンアテンと改名し、新たな都アケトアテンへ遷都するなどした。だが、残念ながら改革は短命に終わり、アクエンアテンの死去とともに再び多神教へと回帰している。
同じく第18王朝のファラオの中に黄金のマスクで有名なツタンカーメンがいる。若くして即位し、また若くして崩御したファラオは、近代になってほぼ盗掘されていない墓が発見されたことから急激に知名度が上昇した。
第19王朝のファラオであるラムセス2世の時代はエジプトが最も栄えた時代であるといわれている。外に対しては中東への外征、内に対しては無数の巨大建築物建造と、内外にその政治力軍事力を発揮し、さらに60年を超える在位期間を誇る最も偉大なファラオ ラムセス2世によってエジプトは最盛期を迎えた。
また、ピラミッドが建設されなくなった後、王の墓は「王家の谷」と呼ばれる土地に造られるようになった。結果「王家の谷」には無数の王や王族の墓が並ぶようになり、時には王の墓の上に新しい王の墓が建築されることもあった。
末期(第25~31王朝)
紀元前664年~紀元前332年
ゆるやかに衰退していく。第27王朝と第31王朝はアケネメス朝ペルシャの征服王朝である。異民族に支配されていることからわかるように完全に落ち目である。
プトレマイオス朝
かの有名なアレキサンダー大王はペルシャをエジプトから駆逐し、支配下に置いた。が、彼は早くに死に息子も暗殺されるなどしてその支配は部下のプトレマイオスによって受け継がれていく。彼の開いたプトレマイオス朝はいわゆるヘレニズム国家として栄え、この時代はギリシャ文化との融合が起きた。が、この王朝も勢いがあったのはプトレマイオス3世までである。それ以降は暴君が続いたり王家内部で殺し合いが頻発するなどして衰退していき、ローマの圧力に抗しきれなくなっていった。美女で名高いクレオパトラ7世が、最後はローマに敗れ、その息子のプトレマイオス15世が処刑(エチオピアで暗殺されたともいう)されたことでプトレマイオス朝は滅亡、以降はローマの属州としてやっていくことになる。
しかし、ローマの属州になったからと言ってそれからすぐに古代エジプトの習俗や宗教が消えたわけではない。ローマ皇帝がエジプト多神教の神殿を立てたり、400年代になっても多神教の信仰があった形跡はある。しかし、その後キリスト教がローマ帝国の国教になり異教が禁止されるなどすると徐々に「エジプトらしさ」など独特さは失われていったのであった。
関連項目
脚注
- *ただし、映画『ハムナプトラ』に登場したイムホテップはおよそ3000年前の人物であり、時代が合わない。また、イムホテップが殺害したファラオはセティ1世であり、これは新王国時代のファラオである。神官イムホテップとハムナプトラのイムホテップは同名別人であると考えたほうが良い
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