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エドワードサピア
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エドワード・サピア1884~1939)とは、アメリカ言語学者、人類学者である。
サピア・ウォーフの仮説をたてた人物であり、ウォーフは彼の教え子である。

概要

サピアはドイツ帝国のラウエンブルク(現在ポーランドレンボルク)でユダヤ人系に生まれた。そのため彼の第一言はイディッシュであった。
5歳の時にアメリカへ移住し、奨学金を得てゲルマン研究コロンビア大学卒業。その後も音楽ゴート語アイスランド語サンスクリットなどを履修していき、インド・ヨーロッパ語族比較言語学歴史言語学への造詣を深めていった。さらに彼はアメリカ人類学のともされるフランツ・ボアズに師事し、アメリカ先住民の言について大学院で学んでいったのである。

当時のアメリカの人類学者たちは先住民集団を対にした調一通り終えていたころだったが、そこに言語学の訓練を受けたサピアが加わったことで、アメリカ先住民の諸言比較言語学歴史言語学的に分析していったのである。こうしてタケル博士論文をとり、ペンシルバニア大学で短期の職を得た際には南バイユートを調した。南バイユート話者・トニーティハッシュの協によって、この時点ですでに音素が心理的実在性を支えるという論を唱えている。

1910年に彼はカナダ地質学調所の人類学主任研究員を15年間勤め、エスキモー・アリュート族、アルゴンキンワカシュ族、ナ・デネ族、ペヌーティ族、ホカ・スー族、アステック・タノ族の6つに先住民の言を分類し、部分的には現在も継承されている。そしてこれらの研究を通して、彼は言を心理的・文化的現として見るようになっていったのである。その結果が彼の著書である『言』であるが、レナード・ブルームフィールドらのアメリカ構造主義とは一線を画した存在であった。

そして彼は1925年からシカゴ大学の、1931年からイェール大学言語学、人類学両方のスターリング教授となりアメリカにおける人類学的言語学の専門職化にした。さらにブルームフィールドらとアメリカ言語学会を創設し、後進育成に励んでいったのである。

しかし1937年彼は最初の心臓発作を起こし、その2年後に訪れた過ぎる死は、彼の見解に対立する言単位の具体的分布という新たなる手法論への転換や、ジョーゼフ・グリーンバーグノーム・チョムスキーといった彼の下にある言語学者の出現を見届けさせなかったのであった。

一方サピアの講義ノートベンジャミン・ウォーフがまとめ上げ、さらに理論を発展させ、「が人の考え方にする」というサピア・ウォーフの仮説が提唱された。この仮説はチョムスキーらの普遍文法を前提とした生成文法の出現で批判されることとなったが、認知言語学の活発化で部分的にではあるが、見直されつつあるようだ。

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