エラガバルス / ヘリオガバルス /インペラトル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・ピウス・フェリクス・アウグストゥス・プロコンスル(203頃~222)とは、3世紀初頭のローマ皇帝である。
決して暴君とは言えないが、ローマ皇帝の中で異彩を放つ人物として一部では有名な存在である。
概要
シリア人元老院議員の父セクストゥス・ウァリウス・マルケルスと母ユリア・ソエミアスの間にウィリウス・アウィトゥス・バシアヌスとして生まれた。母は、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスの妃ユリア・ドムナの姉妹ユリア・マエサの娘である。母はエラガバルスを皇帝カラカラの実子である、と主張していたが、実際は従甥であり、一応セウェルス朝の血縁関係にある程度の存在ではあった。
また、エラガバルスは、太陽神を崇拝する世襲の祭司長の家系で、彼自身も幼いころからその任についていた。
母の愛人・ガンニュスはこの少年を皇帝に据えるという計画を立て、まずは第3軍団「ガリカ」の兵営で、218年5月16日にエラガバルスに皇帝であるという宣言をさせた。この反乱軍は瞬く間に時の皇帝マクリヌスの軍勢を破り、6月8日には彼がローマ皇帝であるということはローマ全土に承認されたのである。そしてエラガバルスはすぐにはローマにいかず、ニコメディアでガンニュスを処刑。実権は母ユリア・ソアエミス、祖母ユリア・マエサの手に移ったのである。
219年、エラガバルスは、エメサの神殿から運んだ黒い石とともにローマに入る。黒い石はコロッセウム前に設けられたエラガバルス神殿に納められた。こうしてエラガバルスは、自身が祭司を務める太陽神をユピテルよりも上に置く政策を行ったのである。
宗教への傾倒に加え、エラガバルスは男女ともに性行為にも励んでいった。公式には彼の4年ほどの治世下においては、ユリア・コルネリア・パウラ、ユリア・アクィリア・セウェラ、アンニア・ファウスティナの3人の妻とかわるがわる婚姻したとされるが、その他多数の愛人がいたとされる。またこの少年は女装趣味を持っており、ローマでの評判はすこぶる悪くなる一方であった。
こうしたエラガバルスの治世は、かつて自分を推戴した第3軍団「ガリカ」をはじめとした各軍団の反乱を招き、彼の支持者にすら、体制の変更を推進せざるを得ない段階まで来ていた。彼らは従兄弟のアレクシアヌスを養子に迎えることを主張し、やがて皇帝アレクサンデル・セウェルスとなるその少年に221年6月26日に養子縁組を行うことをエラガバルスも認めることとなった。
しかしアレクシアヌスは親衛隊に人気があり、エラガバルスは彼に敵意を向け始めていた。そして222年3月11日、運命の日が訪れる。エラガバルスはアレクシアヌスの支持者を処罰することを命じたが、誰も従わず、逆に身の危険を感じ逃げ出したものの、ついに殺されてしまったのである。母親ユリア・ソアエミスも同時に殺され、母子の死体は引きずり回され、テヴェレ川に投げ込まれた。
こうして4年足らずのエラガバルスの治世は終わりを告げたが、逆に彼の若さが、母、祖母といった親族による後見を可能にし、「4年近くも」治世をもたせたともいわれる。また新皇帝アレクサンデル・セウェルスにしても結局のところエラガバルスの親族であり、体制は何ら変わりないまま、セウェルス朝は滅びに向かい、軍人皇帝時代につながっていく。
関連動画
関連項目
- 世界史
- ローマ帝国
- セウェルス朝
- セプティミウス・セウェルス
- カラカラ(ローマ)
- ゲタ
- マクリヌス
- エラガバルス
- アレクサンデル・セウェルス
- 2
- 0pt
- ページ番号: 5516598
- リビジョン番号: 3138922
- 編集内容についての説明/コメント: