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単語記事: オスマン帝国

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基本データ
正式名称 オスマン帝国
دولتْ علیّه عثمانیّه
Devlet-i ʿAliyye-i ʿOs̠māniyye
国歌 オスマン帝国国歌
軍歌 ジェッディン・デデン
公用語 オスマン
首都 ソユト
ブルサ
エディルネ
コスタンティニーエ(イスタンブル)
面積 5,500,000k(1680年)
人口 35,350,000人(1856年)
通貨 アクチュ
クルシュ
リラ

オスマン帝国とは、1299年から1922年までの約600年間、アナトリアバルカン両半を中心として栄えたイスラーム国家である。

概要

オスマントルコ」という呼ばれ方をされることも多いが、最近はこの呼び方が避けられて「オスマン朝」や「オスマン帝国」と呼ばれることが多い。
これは、この国家は決してトルコ民族の国家」といえるような性質の国家ではなかったためである。
確かにこの王トルコ系民族を出自としており、公用語もテュルク系の言オスマン・トルコ)であった。しかし、実際には支配者層も被支配者層も多様な民族・宗教を出自とする人々により構成されており、トルコ人が帝国内の他の民族とべて特に優遇されていたわけでもなければ、ましてや当時のトルコ人自身が「オスマン帝国たちトルコ人の国家だ!」と考えていたわけでもなかった。
その一方で対外的にはトルコと称され続けたが、オスマン帝国トルコと自称し始めるのは民族意識の強まる近代からである。

その国家像

オスマン帝国スルタン(権者、皇帝は強大なる専制君であった。しかし統治は厳格なイスラーム法に基づくものであり、また膨大な土地を州・県・郡にわけるなど、必ずしも一元的な支配とはいえなかった。

他方、ユダヤ教徒やキリスト教徒に対しては、基本的に「啓典の民」として信仰の自由を与えていた。人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)などを課すものの、ユダヤ・キリスト教徒の共同体へは法的自治を認め、その上彼らとの共存をはかるなどして、程よく統治をした。

軍事的には、スルタンから頂いた土地からある程度自由に徴税できた(ティマール制)騎士軍団、異教から改宗した親衛隊イェニチェリらが活躍した。特に後者歩兵部隊は常備軍として、征戦争において腕を振った。

こうした諸制度は帝国内外において巧みに機しあい、オスマン帝国欧州も羨む先進として繁栄する。特にスレイマン1世治世期の全盛期には、文字通り「無敵」を体現した。その土は中欧、北アフリカ、中東、西アジア、と三大陸にも跨り、当時のヨーロッパに対し「オスマンの脅威」なるトラウマを抱かせたものだった。

成立と拡大

起源

初代君オスマン・ベイ(オスマン1世)が建するまで、トルコ民族はどういった境遇だったのか。

モンゴル高原より北方の遊牧民、我々日本と同じ黄色人種(モンゴロイド)であるテュルクトルコ)民族は、当時の中国に「(ていれい)」と呼ばれていた。彼ら丁は4~6世紀には突厥(とっけつ)と呼称され、中央ユーラシアに跨る大を建てたものの、しだいに東西に分裂し、8世紀には滅びてしまった。

その際にテュルク民族は多方面へ散らばっていったのだが、中には西方白色人種(コーカソイド)と混血していき、徐々に西へ、西へと原を駆けた者もいた。

西方へと進む彼らはイスラム教を受け入れ、イスラム社会への進出を試みた。カラハセルジューク(1038~1308)である。後者は現在のトルコ共和国土、アナトリアへと度重なる侵入を繰り返し、東ローマ帝国と争った。そうしてアナトリアは次第にトルコ化していく。

13世紀半ばに、当時アナトリアを支配していたルーム・セルジュークモンゴルに敗れると、支配下にあったトルコ系の小勢が次々と自立していった。そのうちの一つが後に大帝国へと成長していくオスマン朝であった。

世界帝国へ

オスマン朝の初期の歴史は史料が乏しくよくわかっていない。
15世紀以降に編纂された年代記によれば、1299に初代君のオスマン・ベイが建を宣言したとされ、一般的にこの年がオスマン朝の建年とされている。しかし、同時代史料の裏づけはなく異論もある。

初期のオスマン国家がどのような性格の国家だったかについては議論があるが、ガーズィーと呼ばれる戦士集団であったというのが定説である。ガーズィーとは戦の戦士を意味する言葉で、異教徒への戦という名でビザンツ内に侵入し、略奪を行って生計を立てていた集団であったとみられている。要は山賊に毛の生えたような集団に過ぎなかったわけだが、当時はルーム・セルジューク東ローマ帝国共にこうした集団を境地帯に配置し、辺境防衛の役割を担わせていたようである。

ルーム・セルジュークの弱体化につれて、こうした辺境地帯の有の中から現れた有者たちが君候(ベイリキと呼ばれる小国家を建てていく。
そのうち一つがオスマン・ベイの建したオスマン君候であった。

オスマン・ベイがブルサ包囲中に亡くなると、息子オルハン(位1326~1359)が後を継ぎ、ブルサの攻略を果たしてこの町を首都に定めた。
オルハンは東ローマ宮廷の内紛に乗じてバルカンに進出し、ヨーロッパ側での土拡大のがかりを築くことに成功した。

続いてオルハンの息子ムラト1世の頃にもなると、オスマン朝東ローマ帝国都市を次々と陥落させていった。

稲妻と転落と

ムラト1世の存命中から軍を率いて活躍したバヤズィトは、が暗殺されたと知るや否や、たちを殺し尽くし皇帝バヤズィト1世として即位した。彼は騎による移動で諸々の対応にあたり、速かつ果敢であったことから、稲妻の皇帝(ユルドゥルム)と称された。

セルビアボスニア、ワラキアなどを屈させ、東欧ギリシャで有名なバルカンの大半を有。東ローマ帝国を大幅に縮小させバルカンの一点に閉じ込める一方、1391年には東ローマ帝国の都、コンスタンティノープルを包囲。この事実ヨーロッパは焦燥に駆られ、ハンガリー十字軍はこれに対抗するが、オスマン帝国ニコリスの戦いにおいて圧勝、十字軍を難なく下す。

ところが1400年トルコモンゴル系の中央ユーラシア国家ティムール帝国がオスマンのアナトリアに襲来。オスマン側に対し離反を企てていたトルコ諸侯は、ティムールに寝返り、オスマン帝国を窮地に陥れる(アンカラの戦い)。1402年、大敗を喫したオスマン帝国はバヤズィト1世を捕虜にされる。翌年彼は屈辱と牢の中でこの世を去った。

宿敵ティムールはバヤズィトが下した々を次々と復させ、傀儡的支配下におき、そしてオスマン帝国へ追撃を繰り返す。アナトリアの多くをティムールに奪われボロボロになったオスマン帝国だが、内部においても相続争いによって複雑に分裂し、いよいよ滅亡を思わせた。この危機は1413年まで続く。

しかしここで忘れてはならないのが、バヤズィト1世が東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに対し、塞を築いたことである。

若きスルタン

帝国は滅びるはずだった。そう、欧州が内輪揉めさえしていなければ。

戦争っただ中であった以上、その2東ローマ帝国の救援どころではなく、また他の欧州も自の統制、外敵との戦いで精一杯であった。これがそのまま、オスマン帝国に「治療の時間」を与えてしまう。

オスマン帝国がその期間を無駄にするはずもなく、バヤズィトの子メフメト1世や、またその子ムラ2世の尽により、帝国の失地は回復、バルカンにおける支配を再度確実なものとした。彼らはまた、再度コンスタンティノープルの包囲を行い東ローマ帝国へ圧をかけた。しかしローマ都は中々落ちない

東ローマ帝国必死の抵抗はまだまだ続く。1445年ごろからギリシャを回復させていった、のちの最後のローマ皇帝コンスタンティノス11世は、ぺロポネソス半を獲得。これに対しオスマン側は反抗、決して譲らぬものとし、ものの見事に奪還した。


「あのが欲しい」

のちにムラ2世の子、メフメト2世が即位。1452年にボスポラス峡に塞を建設、向かいの東ローマ帝国都コンスタンティノープルへ圧をかけた。以前バヤズィト1世が建設した塞はアジア側、すなわちアナトリアであるが、この塞「ローマ(ルメリ・ヒサル」はヨーロッパ側、つまりバルカンにあった。これら二つの塞により、東ローマ帝国は完全に上で孤立した。

1453年4月、3度のコンスタンティノープルの包囲。 

直属の精鋭部隊イェニチェリからなる10万の兵を率いたメフメト2世は、大砲を駆使し徹底的に攻撃した。相手、すなわち東ローマの兵はたった7,000である。しかし陥落しない。オスマン軍は包囲を続けるも、この着状態は2カに及んだ。

メフメト2世は野望を捨てきれなかった。どうしてもあのローマというリンゴが欲しかったのだ。

先代のスルタンにならって、メフメト2世は包囲戦を諦め、短期戦を選択した。失敗のリスクから反対の意見も多かったが、それでもなお、彼は自身の決断に揺るぎない何かを確信していた。

着状態を恐れたであろうメフメト2世は、ある策に転じる。湾の北側の陸地へ、油を塗った木によってを架けるようにを造り、コンスタンティノープルのを70隻の艦隊でえさせた。そう、これこそが艦隊の山越えである。この奇襲は成功し、東ローマ帝国に決定的な打撃を与えた。

最後のローマ皇帝、コンスタンティノス11世は、オスマン側の「降伏せよ」との声には決してなびかなかった。東ローマ内で和が起こる中、彼は降伏を拒否。「ローマ皇帝」としてと共に戦闘の持続を表明した。

5月29日、未明。これに見切りをつけたメフメト2世は、一斉攻撃を開始した。第一波、第二と絶えるコンスタンティノープルだが、遂に、最後の攻撃によって陥落した。最後のローマ皇帝トルコ兵の中へとりかかり、姿を消す。オスマン帝国ローマ帝国を滅ぼした

以後、オスマン帝国土は飛躍的の拡大し、メフメト2世は「ファーティフ)」の称号を得る。コンスタンティノープル(イスタンブル)を新たな首都とし、オスマンは世界帝国へと飛した。 


 しばしば誤解されるが、この時に都市の名前が「イスタンブル」に改称されたわけではない。正式名称としてはこの後も、コンスタンティノープルのトルコ訛りである「コスタンティニーエ」が使われ続け、正式にイスタンブルへ改称するのはトルコ共和国の建後になる。

壮麗なる時代

リンゴクズル・エルマ)を、ヨーロッパを食らい尽くせ!」

16世紀、オスマン帝国は「壮麗スレイマン1世の治世(1520~1566年)のもと、全盛期に達していた。サファヴィーペルシャ帝国からは南イラクを奪取し、また北アフリカをも有するようになり、は著しく潤い始めていたのである。

ハンガリー有したことにより、オスマン帝国東欧どころか中欧にまで進出した。また当時のオスマンの軍事は凄まじく、並ぶものなどいなかった。つまりこの時代のオスマン帝国にいわせれば、「ヨーロッパこそが辺境」だったのである。まさに無敵

中欧、中東、西アジア、北アフリカにまで征し得た大帝国

あのハプスブルクカール5世(カルロス1世)、その子フェリペ2世でさえ、神聖ローマ帝国スペインポルトガルアメリカ植民地を所してもなお、最終的にはオスマンの脅威により野望を断念した。ハプスブルク帝国が「西ローマ帝国」の復を掲げるのならば、オスマン帝国は「東ローマ帝国」の復を掲げたのである。

16世紀、それはヨーロッパの人々にとって「地中へ何一つ投げ込むことさえ許されない」時代であった。何故ならこの頃の地中は、「オスマンの」なのだから。

「瀕死の病人」へ

しかし17世紀の後半にもなると、帝国は第二次ウィーン包囲の失敗を機に衰退の一途を辿るようになる。帝国土は急速に縮小し、内部で次々と離反、分裂が起こっていった。これにスルタンの親衛隊であるイェニチェリの腐敗も相まって、オスマン帝国の権威はことごとく凋落していくのだった。

1829年にはギリシャの独立をも認めざるをえなくなり、1830年にはエジプト事実上の独立を果たす。そしてセルビアを始めとするその他バルカンも、つぎつぎと独立していった。

さらに「凍らない」を欲するロシア帝国とも度々衝突を起こし(露土戦争クリミア戦争)、オスマン帝国はいよいよ確実に弱体化していった。クリミア戦争以後、オスマン帝国は他の援助無しには戦勝できなくなったことが露呈し、「瀕死病人」というレッテルは否定できぬようになるのである。もちろん負けっぱなしというわけではない。しかしこの衰退期の帝国は、あまりにも無残であった。

これを巻き返すべく、第一次世界大戦にてドイツ側で参戦するも、無残に敗戦した。それを切っ掛けに新たな政府「トルコ共和国」が誕生し、帝国は名実ともに消失。後世へ遺産を残すのみとなった。

なんでダイワハウスなんだ?

2011年11月あたりから放映された大和ハウスのCM、いわゆる「ダイワニャン編」にて、オスマン帝国軍歌「ジェッディン・デデン」が流された。現在ダイワニャン編その1からその4に渡って流されたことが確認されている。

しかしまるで関連性の見えない組み合わせである。なぜこの曲なのだろうか。なんでダイワハウスなんだ?

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読み:オスマンテイコク
初版作成日: 11/06/08 02:53 ◆ 最終更新日: 12/02/06 02:01
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オスマン帝国について語るスレ

1 : ななしのよっしん :2011/07/19(火) 16:24:37 ID: JgmB6txYK+
人によってはこのトルコじゃないとか、帝国ですらないとか言うみたいなんだがどうなんだろう。
オスマントルコ帝国」っていう習い方はもうしないからなぁ。

ていうか東ローマとかもそうだが、この世界史の教科書でももう少し取り上げてみても良いと思う。
良くも悪くも他への影は大のはず。
2 : ななしのよっしん :2011/10/29(土) 17:53:36 ID: Qyhb1b1ria
オスマン帝国が邪魔だったから
新航路を見つけるために大航海時代が始まったからな・・・

ビザンツ帝国滅亡させたのも含めて他への影ありまくり
3 : ななしのよっしん :2012/05/06(日) 21:09:49 ID: s1FedG5pmT
いや、帝国だろう。トルコの前身と言えるかははっきりしないけど。
そういえば、どこかであのオスマン帝国に虐められた神聖ローマ帝国に対し誰か「でもないし、ローマでもないし、帝国でもない」という言葉は見たことがある
4 : ななしのよっしん :2012/05/06(日) 21:47:22 ID: JgmB6txYK+
>>3
ヴォルテール言葉だな
確かにオスマン帝国は多文化・多民族・多宗教を包摂した時点で、どこぞのドイツ王のよりはよほど帝国といえるね

オスマン帝国トルコの前身だと思うよ
記事にもあるように帝国トルコ人のではなかったし、純粋にテュルク系だけから始まったわけでもなく、
成り立ちも東ローマ帝国(というかアナトリアギリシア人)との密接な関係からきてるけど、
トルコはこのなくして生まれなかったわけだし
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