カペー朝(987 ~ 1328)とはフランスの王朝である。西フランク王国のカロリング朝から王位を受け継ぎ、初代ユーグ・カペーからシャルル4世まで15代続いた。
概要
王位を得た当初は非常に王権が弱く、日本の戦国時代の室町幕府、三國志の後漢王朝のように、名前があるだけで周りの領有諸侯に右顧左眄する脆弱な政権であった。しかしその後、フィリップ2世やフィリップ4世の治世を経て徐々に王権を伸張させていく。
カペー朝を引き継いだヴァロワ朝や、更にその次のブルボン朝、オルレアン朝もカペー朝の傍系であり、その意味ではカペー朝はフランス大革命まで延々とフランスを統治した名家である。現在もスペインやルクセンブルクの王家はその先祖にカペー家を頂いている。
カペーとは始祖のユーグ・カペーが外套(カペー)をいつも着ていたことからついた名前。雨具のカッパと語源は同じである。
カペー朝の成立
814年にカール大帝(シャルルマーニュ)が没すると、その息子ルイを経て、孫の代にはカールが膨張させたフランク王国は西フランク(フランス)、中部フランク(イタリア)、東フランク(ドイツ)の3つに分かれた。
877年に西フランクでシャルル2世が死んだ後、後継者が相次いで死亡し、一時は非カロリング家のパリ伯ウードがフランス王位につくなど、政権は不安定さを増していた。この混乱の中で、地方有力者は独立性を高め、逆に王権は損なわれていった。彼ら地方有力者は自らを君主(プリンケプス)と名乗った。代表的な君主にフランドル伯領、ノルマンディー伯領、ギュエンヌ公領、アンジュー伯領などがある。このような君主が支配する地域を領邦と呼び、フランスは群雄割拠の状態に陥った。
こうして台頭してきた領邦君主の中で最有力だったのが後にカペー朝をひらくロベール家であった。ロベール家の強者ロベールとその息子ウードは9世紀中頃にフランスに侵攻してくるノルマン人やヴァイキングを撃退することによってその威名を高め、王の意見を左右したり、ウードに至っては上記のようにフランス王位についている。987年、ロベール家の子孫であるユーグ・カペーからはついにフランス王家を世襲するようになった。
生まれたてのカペー朝には王権などほぼなく、パリやオルレアン周辺に王領地を持つくらいのものであった。そもそもカペー家がフランス王位を独占する法はなく、カペー朝とは単に現王が息子を後継者に指名することによって慣習的に次王に就任していただけだった。
しかしその後100年かけて、カペー朝の権力を伸ばしていく。ルイ6世はサン・ドニ修道院の助力を得て王領地内の独立勢力を屈服させ、その息子のルイ7世はイングランド王ヘンリ2世をパリに呼び寄せて、彼がフランス国内に領土(ノルマンディー)を持っていることを理由に、フランス王としてヘンリに臣下の礼を取らせることに成功した。こうしてカペー朝は徐々にではあるが、その権威を増大させていったのである。
尊厳王フィリップ2世
ルイ7世の息子フィリップ2世は英邁な君主であった。フランス国内では婚姻政策や戦争によって王領地を拡大し、行政、財務改革を行い国力を高める一方で、対外的にもフィリップは大きな功績を残す。
当時、フランスのアンジュー伯は婚姻政策によって、アンジュー、ノルマンディーなどフランスの半分を占める大領土を形成していた。更にアンジュー伯アンリがヘンリ2世としてイングランド王となった(プランタジネット朝の成立)ため、それらの領土がすべてイングランド王の支配下に入り、アンジュー帝国と呼ばれる一大勢力が成立していた。そのような世界情勢の中フランス王となったフィリップ2世は、対イングランドの打開策を編み出さなければならなかったのだ。
ヘンリ2世の死後にイングランド王になったリチャード2世(彼もまた十字軍でサラディンと戦った英傑である)とフィリップ2世は一進一退の攻防を繰り広げていたが、リチャードの弟のジョンの代にはプランタジネット家の内紛に漬け込み、イングランドが欧州大陸に持っていた領土のほとんどを奪い取ってしまった。これに加え、フィリップ2世の勇名を確立させたのは1214年のブーヴィーヌの戦いである。彼はイングランド王ジョン、ドイツ王オットー4世、およびフランドル連合に勝利し、フランス王家はようやく国際社会の中で表舞台に名乗り出たのである。
フィリップ2世治世の頃にはカペー朝の本拠地はオルレアンからパリに移っていた。そこでフィリップはパリの道路を整備したり、商人のために屋根付きの市場を開設したりした。フィリップは1190年に第三回十字軍に参加しているが、その際イングランドの侵攻に備え、留守にするパリに城塞を築くことを命じている(結局フィリップは国内のことが心配で十字軍からすぐに帰国している)。またフィリップはパリにあった各種学校に自治権を与え、後にそれはパリ大学へと発展していった。
このようにフィリップ2世はフランスの発展に大きく貢献し、尊厳王(オーギュスト)というあだ名がつけられた。
聖王ルイ9世
フィリップ2世の後を継いだルイ8世の治世は3年で終わり、12歳のルイ9世が後を襲った。ルイ9世は幼かったため母后のブランシュ・ド・カスティーユが摂政となり、幼王を侮る各種勢力を押さえつけていた。
成人後もルイを取り巻く環境は改善せず、シャンパーニュ伯やブルターニュ伯、イングランド王は絶えずフランス王家と対立していた。そんな中、ルイ9世は1244年、十字軍への参加を表明する。鼻息荒くエジプトに上陸したルイであったが、1250年マンスーラの戦いでイスラム勢力に大敗し、自らは多額の身代金を払ってようやく命を長らえる始末であった。
これをきっかけにルイは宗教的に敬虔さを増していき、生活を質素にして教会や修道院を保護した。国外的にも宥和政策をとり、ヨーロッパの調停者としての役割を果たした。またルイは内政に関しても熱心で、高等法院や会計監査院を独立させ、国王金貨の規準を定めてインフレが発生しないよう経済の安定をはかった。晩年には再度の十字軍遠征を企てているが、アフリカに上陸したときにペストにかかりご臨終となった。
ルイ9世の治世について語るときにはアルビジョワ十字軍がかかせない。当時南仏でカタリ派と呼ばれる、教会や結婚などあらゆる現世を否定する思想をもったキリスト教の一派があった。公会議において異端とされたカタリ派であるが、トゥルーズ伯をはじめ南仏の貴族が公然とカタリ派を支持したため、カトリックを掲げるローマ教会とフランス王朝との間に緊張感が強まった。フィリップ2世の代には教皇庁とフランス王朝の連合軍であるアルビジョワ十字軍が組織され、ルイ9世の代にトゥルーズ伯レモン7世の間にパリ条約が結ばれ両者は妥協していた。
しかし1242年にレモン7世がイングランド王と結託して反フランス王同盟を組織したため、ルイ9世は遠征を行い、タイユブールの戦いでイングランド王を破り、翌年にはロリスの和約でレモン7世を屈服させた。その後もルイはカタリ派への攻撃を続行し、数百人の信徒を虐殺した。これによって南仏でのカタリ派の組織的行動は絶たれ、十字軍での功績も含めてルイ9世はキリスト教徒の鑑とされた。後にルイはローマにて聖人に叙せられている。
端麗王フィリップ4世
ルイ9世の孫のフィリップ4世の代にもフランス王朝はその勢力を大きく伸ばすことになった。
フィリップ4世の政治の舞台には、それまでフランス行政を支えていた王族や名門貴族、高位聖職者に代わって、レジスト(法律顧問)と呼ばれるテクノクラート(技術官僚)たちが国王顧問会議が登場してくる。彼らは大学で法学を学び、国王に合法的な王権の伸張を助言した。
フィリップ4世は戦争のために膨大な軍事費を必要としていた。1294年にはそれまで不可侵領域だった聖職者への課税を決断したため、ローマ教皇ボニファティウス8世との対立が先鋭化していく。1301年に教皇派のパミエ司教ベルナール・セセが逮捕されたことをきっかけに、教皇は国王への強圧的な態度を露にした。これに対してフィリップ4世は全国三部会を開いてローマ教皇の身柄を拘束することを決定する。これに基づいてアナーニーで捕縛されたボニファティウス8世はその後すぐに解放されたが、一ヶ月後には憤死している(アナーニー事件)。新たに教皇に就任したベネディクトゥス11世が前教皇のフランス王批判発言を取り消したため、この諍いはフィリップ4世の完勝に終わった。
ベネディクトゥス11世の死後、フィリップ4世はクレメンス5世を教皇に就任させた。クレメンス5世はイタリアでのゲルフ(ローマ教皇派)とギベリン(神聖ローマ皇帝派)の対立を理由に、1309年に南仏のアヴィニョンに教皇と教皇庁を移した。それ以降70年間、教皇庁はアヴィニョンに留まった(教皇のバビロニア捕囚、アヴィニョン捕囚とも)。これらの事件から西洋の普遍的権威としてのローマ教皇の力の衰えと国王権力の勢いをみる事ができる。更にこの事件はフランスでのローマ教皇の影響力を排除して、王の直下にフランス教会を独立させようとするガリカニスム(フランス国民教会主義)の出発点となった。
更にフランス王権の強大化を示す事件にテンプル騎士団事件がある。テンプル騎士団はエレサレムにいた十字軍の騎士たちがキリスト教徒巡礼者を保護するために結成されたもので、フィリップ4世の時代にはパリを本拠地にしてキリスト教徒からの援助や金融活動によって莫大な富を築いていた。しかしフィリップ4世は1307年に突然フランス全土のテンプル騎士修道会士の逮捕を命じ、団長のジャック・ド・モレーを含め大勢が処刑された。テンプル騎士団はローマ教会の庇護下にある組織であったが、教皇はその処分に同意せざるをえず、フランス王は騎士団が管轄していた王国の会計業務を完全掌握することに成功した。
カペー朝の断絶とヴァロワ朝の始まり
フィリップ4世が1314年に死去すると、後継者が次々と早世し、シャルル4世の死去をもってカペー朝の直系の男子は断絶した。創立から341年目のことであった。
その後、フィリップ4世の甥にあたるヴァロワ伯フィリップがフィリップ6世としてフランス王に即位した。ここにヴァロワ朝が始まる。
しかしこれに対して当時のイングランド王エドワード3世が異議を唱えた。彼の母親はフィリップ4世の娘であり、よってエドワード3世は女系ではあるが、フランス王フィリップ4世の実の孫にあたる。彼は我こそがフランス王にふさわしいと王位継承権を主張した。当時のフランス王家には男系縛りがなかったため、エドワードの主張には正当性が生じてしまった。かくしてフランスとイングランドの間に100年にわたる戦乱の火蓋が切られた。いわゆる百年戦争の勃発である。
関連項目
- カペー家
- 歴史
- 世界史
- フランス
- フランス王国
- フランス王の一覧
- ヴァロワ朝
- ブルボン朝
- パリ
- 十字軍
- カタリ派
- 百年戦争
- 蒼き狼と白き牝鹿 (歴史シミュレーションゲームシリーズ。第3作と第4作では自勢力としてカペー朝フランスが選択可能。)
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