グラハム・ヒル(Norman Graham Hill, 1929年2月15日 - 1975年11月29日)とは、イギリスのレーシングドライバーである。
1950年代後半~1970年代にかけて主にF1世界選手権で活動し、2度の年間王者に輝く。2024年現在で史上唯一の世界3大レース制覇(F1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間)を達成している。
息子のデイモン・ヒルもF1王者の経験者で、F1史上初の親子二代でワールドチャンピオンを獲得した例でもある。
経歴
F1参戦以前
裕福とは言えない中流家庭で育ち、工業系の専門学校へ進学。計測機器を製造する会社の技師として働き始め、兵役時代は海軍で機関室の技師を務める。
1953年に24歳で初めて運転免許を取得するなど、当初はレースに対する関心は低かった。しかし同年に雑誌の広告で「5シリング払えばF3マシンを運転できる」イベントを見かけ、実際に走行した経験がきっかけでレースに惹かれていく。
以降はレーシングスクールのメカニックへ転職し、仕事の傍ら様々なレースに参戦。この間にロータスの設立者であるコーリン・チャップマンと出会い、1954年に同社へ入社。当時のロータスは小規模であり、メカニックながらレース経験を持つヒルもマシンを走らせる機会を得る。
F1参戦
ロータス時代_第1期(1958~59年)
1958年、チーム・ロータスのF1参戦に伴い、第2戦モナコGPでF1デビュー。29歳での初陣であり、現代から見れば遅咲きである。参入直後のチームはマシンの性能・信頼性ともに低く、翌1959年までの2年間でノーポイントに終わる。
BRM時代(1960~66年)
1960~61年
移籍初年度の第4戦オランダGPで3位を獲得し、初入賞を表彰台で飾る。しかし、このレース以外では完走もままならず、古巣のロータスが躍進を遂げた(プライベーターに供給したマシンが初優勝を含む2勝を挙げ、「本家」のチーム・ロータスは未勝利ながらコンストラクターズ2位)のとは対照的なシーズンであった。
翌61年も低調で、入賞は2度に留まる。
1962年
マシンの戦闘力が飛躍的に向上し、開幕戦のオランダGPで初優勝を挙げる。シーズン終盤の4戦で3勝、2位1回と安定感を見せ自身初のワールドチャンピオンに輝く。チームのコンストラクターズタイトル獲得にも貢献した。
1963年
開幕戦モナコGPで優勝し、アメリカGPで初のポール・トゥ・ウィンを決めるものの、前年と比べてマシントラブルによるリタイアが増えランキングは3位。
1964年
2勝と3度の2位を獲得し、1戦を残した段階で僅差のランキング1位であった。しかし最終戦メキシコGPでフェラーリのロレンツォ・バンディーニを抜こうとした際にコース外に追いやられ、チャンピオンを逃す。バンディーニはヒルとタイトルを争うジョン・サーティースのチームメイトだったため故意の接触だったのでは、とも疑われたが、ヒルは後年の自伝にて
it was obvious to me that he was making a desperate manoeuvre to get by and he just overcooked it.
(訳:「彼(バンディーニ)は生き残る(フェラーリ内での立場を確保する)ために死に物狂いの策略を考え、程度を超えた。それだけの事であったのは明らかだ。」)
と、納得はせずとも彼の行為については致し方ないとする旨の記述を残している。
1965年
ライバルのジム・クラーク(ロータス)に圧倒された1年。クラークが欠場したモナコGPのみ優勝を挙げるも、それ以外は開幕から第7戦までの全戦で勝利をクラークに明け渡す。
1966年
H型16気筒エンジンをはじめとするチームのマシン開発の失敗により戦闘力・信頼性が低下。表彰台には3度立つものの5年ぶりの未勝利に終わり、チームメイトのジャッキー・スチュワートの台頭も目立つなど苦戦を強いられたシーズンであった。
同年はF1で低迷する一方で、インディ500で優勝を達成している。
ロータス時代_第2期(1967~69年)
1967年
古巣のロータスへ復帰。前年までライバルだったクラークとの関係がチームメイトへと変わる。
マシンの信頼性の低さに泣かされ完走はわずか2回に留まる。クラークがリタイアを重ねながらも4勝を挙げる一方でヒルは未勝利に終わり、不本意なシーズンを過ごした。
1968年
開幕戦の南アフリカGPでは2位に入りクラークと共に1-2フィニッシュを達成。しかし次戦スペインGPを前にクラークがF2のレースで事故死。ヒルは落ち込むチームを鼓舞するかの如く年間3勝を挙げ、2度目のワールドチャンピオンに輝いた。
1969年
新たなチームメイトであるヨッヘン・リントを迎える。モナコGPで優勝するものの、リントに押される場面も目立ちランキングは7位へ後退。更に最終戦では骨折するアクシデントに見舞われる。この年限りでロータスを離脱した。
プライベーター時代(1970~72年)
以降はプライベートチームを渡り歩き、1970年はロブ・ウォーカー、1971~72年はMRD(モーターレーシング・ディベロップメント:当時のブラバムのエントリー名)から参戦する。表彰台こそ無いものの入賞を繰り返す熟練した走りを見せた。
72年にはル・マン24時間に参戦し優勝している(マシンはフランスのマトラ)。この勝利で世界3大レース制覇が達成された。
自チーム設立~死去(1973~75年)
1973年
「エンバシー・レーシング・ウィズ・グラハム・ヒル」と名付けた自チームを設立し、オーナー兼ドライバーを務める。シャドウ製のシャシーを使用し、ヒルの1台体制で戦うも戦闘力は低くノーポイントに終わる。
1974年
ローラ製シャシーの2台体制へ変更。1台はヒルが走行し、もう1台はガイ・エドワーズ、ロルフ・シュトメレン、ピーター・ゲシンの3人が入れ替わる形でステアリングを握った。スウェーデンGPでヒルが6位に入賞し、自らの走りでチーム初のポイントを獲得した。
1975年
自身のイニシャルを冠した自社製マシン「GH1」を第3戦南アフリカGPから投入。しかし次戦のスペインGPでシュトメレンがコース外に飛び出して観客4人[1]が死傷する大事故を起こしてしまう。さらに翌戦のモナコGPではヒルが予選落ちを喫する[2]。本予選をもってドライバーを引退し、以降は監督業に専念する。通算出走数176レースは当時の最多記録であった。
第11戦ドイツGPではアラン・ジョーンズが5位に入賞するなど明るい話題も見えた。
しかしシーズン終了後のマシンテストから帰る途中で、ヒルやエースドライバーのトニー・ブライズ、マシンの設計者など主要メンバー6人が搭乗する軽飛行機が墜落、全員が命を落とした。エンバシー・ヒルはそのまま消滅。操縦していたのはヒル自身で、自らの手でチームもろとも人生に終止符を打つ悲劇的な結末であった。
没後
ヒルの遺族は事故の影響で膨大な補償金の支払いを背負い、窮乏生活を強いられる。息子のデイモン・ヒルは苦境の中でレースを続け、後のF1チャンピオンへと成長する。
年度別成績
太字は年間最多。
年 | チーム | 出走 | 優勝 | ポールポジション (PP) |
ファステスト ラップ(FL) |
ドライバーズ・ ランキング |
---|---|---|---|---|---|---|
通算 | 176 | 14 | 13 | 10 | ||
1958 | ロータス | 9 | 0 | 0 | 0 | NC(順位なし) |
1959 | 7 | 0 | 0 | 0 | NC | |
1960 | BRM | 8 | 0 | 0 | 1 | 15 |
1961 | 8 | 0 | 0 | 0 | 16 | |
1962 | 9 | 4 | 1 | 3 | 1 | |
1963 | 10 | 2 | 2 | 0 | 2 | |
1964 | 10 | 2 | 1 | 1 | 2 | |
1965 | 10 | 2 | 4 | 2 | 2 | |
1966 | 9 | 0 | 0 | 0 | 5 | |
1967 | ロータス | 11 | 0 | 3 | 2 | 7 |
1968 | 12 | 3 | 2 | 0 | 1 | |
1969 | 10 | 1 | 0 | 0 | 7 | |
1970 | ロブ・ウォーカー | 11 | 0 | 0 | 0 | 13 |
1971 | ブラバム | 11 | 0 | 0 | 0 | 21 |
1972 | 12 | 0 | 0 | 0 | 15 | |
1973 | エンバシー |
12 | 0 | 0 | 0 | NC |
1974 | 15 | 0 | 0 | 0 | 18 | |
1975 | ヒル | 2 | 0 | 0 | 0 | NC |
人物・エピソード
- モナコのモンテカルロ市街地コースを得意とし、通算14勝のうち5勝を占める。これはアイルトン・セナの6勝に次ぐ多さで、「モナコ・マイスター」の代表格に挙げられる人物である。
- メカニック時代の経験を活かし、マシンのセッティングや改良能力に長けていた。
- 口ひげを蓄え、襟足の長い髪がトレードマークであった。兵役時代の「口ひげは全て剃るか、全て伸ばした状態」という決まりに対する反感から始めたスタイルである。
- 社交的な性格や紳士的な対応・物腰から「ジェントルマン」として知られた。
一方で奔放でひょうきんな振る舞いや、メカニックに対する厳しい叱責など気分屋な性格が現れる一面も見られた。
関連動画
関連静画
関連項目
脚注
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