コンチネンタル航空(Continental Airlines)とは、かつてアメリカに存在した航空会社である。
概要
1934年、ウォルター・T・バーニーとルイス・ミューラーによって設立された。当初は"バーニー・スピード・ラインズ(Varney Speed Lines)"という名前であり、36年に経営権をロバート・F・シックスに売却した翌年にコンチネンタル航空に改称されている。
大戦後は63年のロサンゼルスへの本社移転、ベトナム戦争の兵員輸送を経てアメリカ国内に加えて太平洋・ミクロネシア地域を縄張りとした大手航空会社へと発展した。
全米最悪の航空会社
しかし、1978年の航空規制緩和の後、コンチネンタル航空は暗黒の時代を迎えることになる。
ストライキなどで経営が悪化していた同社は1980年、既にテキサスの航空会社などを所有していた実業家フランク・ロレンツォ(Frank Lorenzo)に買収を仕掛けられる。コスト削減優先で従業員軽視のスタイルをとる彼のやり方に当初こそコンチネンタルは反発し抵抗を試みるも、社長の不審死や政府の無介入宣言を経て折れ、翌年に買収されてしまった。その後は前述のテキサスの航空会社への合併、意図的な破産による大量解雇と給料カット、強引に買収した航空会社のコンチネンタルへの統合などを経て従業員の士気は低下し、ロレンツォを恨むようになり会社の業績は悪化していく。
ロレンツォは90年に会社を去るも、その後も経営状態は改善せず、91年に湾岸戦争が勃発すると2度目の破産。その後の経営陣達も目先のコスト削減ばかり行ったため悪状況は変わらず、状況が変わらないが故に経営陣は首を切られコロコロ変わり、中には長期的に見て明らかに逆効果になるような歳出削減策に手を伸ばした経営陣もあった。
1994年の時点でコンチネンタル航空は定時到着率や荷物紛失率、クレーム件数においてアメリカ大手航空会社断トツのワーストであり、3度目の破産、からの運航停止も目前に迫っていると思われた。
しかし……!!
全米最高の航空会社へ
94年にコンチネンタル航空に招聘されたゴードン・ベスーン(Gordon M. Bethune)は紆余曲折を経て同年12月にCEOに就任すると、秘書や引き入れ人材、そして昔馴染みの仲間達と共に以下の四本の柱を軸にした改革を行った。
これらに基づき各種問題が解決され、続いてサービス回復、財務システム刷新、残存していた吸収前各会社塗装機の塗り替え、従業員へのサポート体制整備と定時ボーナスの導入などが進められた。この結果、1995年にコンチネンタル航空の業績は定時到着率や株価共々急回復、10年ぶりの黒字かつ創業以来最高の利益を計上した。
会社消滅間際からの奇跡の復活劇は大きな話題を呼び、多くの称賛の声が上げられた。翌96年には非常に高い顧客満足度を讃えるJDパワー賞を受賞、後に同年度の「エアライン・オブ・ザ・イヤー」に選出。同じ年にゴードンの昔馴染みでもあったジュン・ツルタ(鶴田国昭)の一声により、老朽機材を燃費の良い新型へ一斉に置き換えることを決定した。この置き換えと従業員との固い信頼関係が功を奏し、2001年の同時多発テロ後は打撃を他社より抑えることに成功している。
そしてゴードンは2004年にCEOの椅子から降り、会社を去っていった。
名は消えども塗装は消えず
この間にも世界の情勢は大きく変化し、航空会社同士の提携が活発化、航空連合の結成に発展していた。コンチネンタル航空もこれに追随するため98年からノースウエスト航空やパナマのコパ航空との提携を行うが、世界規模の提携に出遅れてしまい2004年にノースウエストと共にスカイチームに加盟。更にノースウエストがスカイチーム結成メンバーであったデルタ航空に傾き、2008年に合併を発表したことでコンチネンタルは除け者になってしまう。結果翌09年にスターアライアンスへ移籍するとともにユナイテッド航空と新たな提携を結んだが、周囲の状況がコンチネンタル単独での生き残りを許さない方向へ傾いていくのは変わらなかった。
2010年、ついにユナイテッド航空との合併が決定。この時コンチネンタル航空の名前は消滅することになったが、CEO始め役員の多くを合併後のユナイテッドに引き継がせることに成功。新塗装もコンチネンタルの塗装が受け継がれた。
2012年3月3日、システム統合完了に伴い、78年の歴史に幕を下ろした。
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