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単語記事: サラエボ事件

編集

サラエボ事件とは、オーストリアハンガリー帝国の第一皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻が
帝国サラ(現・ボスニアヘルツェゴビナの首都)で暗殺された事件である。

※この記事は、オーストリア側(フェルディナント大公側)からの視点を中心にしています。それ故に、人によっては不快感を感じます。ご了承ください。

概要

事件が発生したのは1914年6月28日

後に第一次世界大戦の発端となった、と言われている事件である。

この記事では事件の犠牲者であるフランツ=フェルディナント大公と、妻ゾフィー・ホテク過去、そしてオーストリア歴史を含めて説明したい。

そして物をいくつかの章に分ける。
事件の概要を知りたい方は四番~六番のみの観賞を推奨する。

1.ハプスブルク歴史 - 彼らが生まれる以前のハプスブルクの成り立ち。
2.二人の誕生 - フェルディナント大公ゾフィーの出生・経歴。
3.皇位継承者 - フェルディナントが皇位継承者となった以後、ゾフィー結婚し、日々を過ごすまで。
4.プリンツィプ動く - 暗殺犯の一人、ガヴリロ・プリンツィプの経歴と行動。
5.そしてサラ - 手組による暗殺計画と事件前日の様子。
6.運命の日(1914年6月28日 - 暗殺当日の出来事。そして事件直後。
7.Strömung von Österreich(東の歩み) - 第一次世界大戦中、およびその後のオーストリアの運命。

なお、以下で記述されている登場人物の言葉のほとんどはフィクションです。

ハプスブルク家の歴史

まず手始めに、ハプスブルクが君を務めるハプスブルクと呼ばれるについての歴史を紹介したい。

ルドルフ1世とその後のハプスブルク家

欧州の名門といわれたハプスブルク
発端は今のドイツオーストリアに存在した神聖ローマ帝国皇帝として、1273年に初めてスイスの小であるルドルフ・フォン・ハプスブルク伯爵が、ルドルフ1世として即位したことに始まる。

ルドルフ1世の即位当時、すでに位にあったホーエンシュタウフェンは断絶。
帝国内は混迷を期し、位時代と呼ばれる、各位の獲得を巡って権闘争を行う戦国時代を迎えていた。

その中で教皇や他の諸侯らが弱小勢であったハプスブルクをつけ、後押しした。

だがルドルフはとても優秀で賢しき人材であった。よって諸侯らの傀儡になることはなかった。
また、位獲得を狙う最大の宿敵、ミアオタカル2世を敗死させた。
こうしてルドルフ1世オタカル2世の所有していたオーストリア地を獲得。
ハプスブルクの本拠地をオーストリアを含めたドイツ地方に置き、神聖ローマ帝国皇帝として堂々と君臨。ハプスブルクの基盤を作り上げた。

こうして、1438年以降、ハプスブルク神聖ローマ帝国の世襲君となり、ナポレオン1世率いるフランス敗北神聖ローマ帝国が解体した後も、オーストリア帝国皇帝として君臨し続け、最終的にその統治は7世紀もの長期間に及んだ。

傾国のオーストリア帝国

だが定した、と見えたものには必ず綻びが生じる。
19世紀に起きた産業革命に乗り遅れ、また政略結婚など中世と変わらぬ政策を採る、このオーストリア帝国は「遅れた封建国家」と呼ばれた。

また1848年にはオーストリア帝国内で少数民族らによる革命が発生。(1848年革命
オーストリア帝国ハンガリーや北イタリアロンバルディアが共和制国家として独立を宣言した。
この独立宣言は、新となったフランツ=ヨーゼフ1世皇帝により鎮圧された。しかしこの後、イタリア統一戦争サルディーニャ王敗北したオーストリア帝国は、ロンバルディアを完全にサルディーニャ王に割譲することとなった。

この後、サルディーニャ王イタリアの全域を征し、イタリアとなる。

また中欧のドイツ地方(ドイツ語を話す民族が流の地域の総称)の導権をめぐってプロイセンと抗争を行い、1866年普墺戦争が起きる。しかし最終的にオーストリア帝国プロイセン敗北した。

この後、プロイセンドイツ全般の導権を握り、他のドイツ人諸侯を纏め上げ、プロイセン王がドイツ皇帝を兼任することでドイツ帝国が誕生した。

オーストリア=ハンガリー帝国建国

オーストリア帝国は幾多の戦争敗北し、北イタリアドイツ地域の有権・導権を奪われてしまった。

また1848年以降、帝国内で12の少数民族が自治権を要する中、支配階級であるドイツオーストリア人(ドイツ人)たちは、妥協案を探していた。

最終的にはドイツ系に次ぎ、同じく内で2番に多い、マジールハンガリー系)と友好関係を築くことにした。

国家を大きく、オーストリア帝国ドイツ導)と、ハンガリーマジール導)の2つに分け、同じ君を擁く同君連合として、ハンガリー民に対して軍事・外交・財政を除く、大幅な自治権を与えた。こうして1867年オーストリア皇帝ハンガリーが存在する、連邦制・同君連合のオーストリアハンガリー帝国が誕生した。

この後、ハンガリー政府は王内における確固たる定のためハンガリーに取り込まれた、クロアチア地方に住むクロアチア人と手を組み、ナゴドバ法というクロアチア人の自治・参政権を大幅に認める法令を出した。

ハプスブルク内のマジール人、クロアチア人に対して大幅な自治権を与え、内政の窮地を一時的に脱したと思われた。しかし未だに旧体制から抜け出せない危機的状況にあることには変わりはなかった。

このような時代の中、フランツ=フェルディナント皇子は生まれた。

二人の誕生

フランツ=フェルディナントの誕生

1863年12月18日日本明治時代を迎える5年前。
オーストリア帝国南東部の都市、グラーツにて、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の次カールルートヴィヒ大公と妻マリアアンヌンツィアータとの間に長男が生まれた。この日生まれた彼こそが、この歴史の一番の要たる人物、フランツ=フェルディナントであった。

この当時、即位15年を迎えた伯父フランツ=ヨーゼフには、皇后エリーザベトとの間に5年前に生まれた皇太子ルドルフがいた。

マリアアンヌンツィアータは、イタリア統一によるサルディーニア侵略で滅亡した両シチリア王の王女であった。

本来、この時点でフランツ=フェルディナントオーストリア位とは程遠く無縁であると考えられていた。

ゾフィー・ホテクの誕生・幼少期

1868年3月1日
フランツ=フェルディナントの誕生から5年後。
ドイツ帝国シュトゥットガルトにて、ある一人の女児が生まれた。
彼女が後に大公と運命を共にする女性ゾフィー・ホテクである。

はホテク伯爵フスラフ・ホテク伯爵伯爵夫人のヴィルヘルミナ
ホテクチェコ人の血統を持つ帝国ベーメン(現・チェコミア)の伯爵であった。なおこの当時、伯爵のような爵位を持った貴族はごまんと存在した。ホテク経済状況は逼迫しており、どちらかというとホテク伯爵は没落貴族に近かった。

そのため、ゾフィーも外交官であるから教えられた学問を生かし、成人後はハプスブルクの傍系であるハプスブルク=トスカナ帝国陸軍の軍人、フリードリヒ大公の妻イザベラの女官(教師)をして生活を支えていた。最終的に、彼女はハプスブルク=トスカアンの筆頭女官にまでのし上がった。

フランツ=フェルディナントの幼少期

フランツ=フェルディナントは9歳の時、実が結核にかかり死別する。
そして継としてブラガンサポルトガル)からマリアテレサ王女が迎えられた。
彼にとって継は8歳しか年が離れていなかったため、どちらかといえばというよりもに近かった。
そしてマリアテレサは義理の息子であるフェルディナント大公たちにも実の様に優しく接し、フェルディナント大公手紙からも慈悲深きと記されている。

の出らしく、おっとりしているように見えて、息子たちに問題が起こると、一緒に悩み、協してくれるであった。彼女は後にフェルディナント大公結婚に大いに賛同し、助を与えるのだが、そのことは後に記そう。

またフェルディナント大公は、傍系ながらも王の血筋を引く者として多くの学問に打ち込んだ。
ラテン語フランス語をはじめとした学、政治学、社交界に出るためのマナーなど覚えることはたくさんあった。

彼の性格の最大の特徴は何といっても勤勉さであり、また一度決めたことは徹底的に貫き通すという、経質かつ融通の利かない部分があったと、歴史たちはっている。

ちなみに彼の長オットー皇子がそれとまったく正反対の遊び人(称は麗しのオットー)であったことは参考程度に述べておく。

そして成人後、フェルディナントは皇族の義務・儀礼の一環として帝国陸軍の軍役に属し、訓練を受けていた。

皇位継承者

マイヤーリング事件

1889年1月30日。(フランツ=フェルディナント 25歳
その日に起きた事件は、彼の運命を一変させた。

ルドルフ皇太子心中事件(通称、マイヤーリング事件)である。

皇太子ルドルフを受け、成長したフランツ=フェルディナントとは対照的に、幼少期から不遇の人生を送ってきた。彼の祖ゾフィー・フォン・バイエルン(ゾフィー皇太后)は、エリーザベト皇后からルドルフを引き離し、自分の意思の下、教師により、軍隊の如く徹底したスパルタ教育を強いた。これに対して、フランツ=ヨーゼフの言うことには逆らえなかった。

このような日々が続いたため、結果ルドルフは疑心暗と恐怖心が強く、相当に内気で、かつ暴的な性格になってしまった。

後にエリーザベト皇后の働きかけで、7歳の時に祖のスパルタ教育方針からは解放された。
しかし、エリーザベトと義であるゾフィー・フォン・バイエルン(ゾフィー皇太后)の関係は徹底的に険悪ものとなり、教育などをすべて教師などへ押し付け、務と育児を放棄し、都ウィーンを忌避し、旅行にふける毎日を過ごしていた。
またが付けた教師が、保守的な王室儀礼を貫く祖とは全く正反対の自由義者であったことから、保守的なハプスブルク帝国め続けるとは悉く対立した。

成人後、ルドルフ皇太子ベルギー王女シュテファニーと結婚し、一女を授かるも、性格の不一致などから夫婦関係は冷めていた。

そして1889年1月30日
オーストリア北東部の都市マイヤーリンクの狩猟館において、ヴェッツェラ男爵マリーマリー・フォン・ヴェッツラ)と、ルドルフ皇太子が血まみれで絶命しているのが発見された。彼らの死因はによるものであった。

このことは妻との婚姻関係や、井の多くの人関係との狭間に悩んだ挙句、皇太子マリー・フォン・ヴェッツェラと無理心中をしたのではないか?との噂を呼んだ。しかし、この事件の相は、1世紀以上が経った現在でも明らかになっていない。

ただ、この事件でルドルフ皇太子が亡くなったことは紛れも無い事実である。
一人息子の急逝という知らせを聞いた時、フランツ=ヨーゼフ1世は言葉を失った。

皇位継承者フランツ=フェルディナント

次の後継者は誰になろうか…
フランツ=ヨーゼフ1世には3人のがいた。
このうち、長マキシミリアンは時のフランス皇帝ナポレオン3世の要請によりメキシコ皇帝マキシミリアーノ1世となっていたが、1867年に共和義者たちに捕らえられて殺されてしまった。

次に皇位継承候補として名が挙がったのが、次カールルートヴィヒ大公である。しかし、彼は特に偉業を成し遂げたわけでもなく民意から離れており、彼自身も皇帝になる気は無かった。

ルートヴィヒ=ヴィクトルは同性愛者であり、スキャンダルを起こしたため、長自らの手でウィーンから追放された。

そこで残った候補が次カールルートヴィヒの長男フランツ=フェルディナント大公である。
こうして彼は思いがけず、次期皇位後継者に認定されたのである。この時、彼は25歳であった。

各国の視察

こうしてフランツ=フェルディナント大公は次期皇帝認定されたが、長らく軍役を課せられていたため、教養がりないと思われていた。そこで次期皇帝として帝王学を身に付けるために、1892年(29歳)から数年間、世界旅行をすることになった。

この世界旅行で立ち寄ったや地域はイギリスドイツロシア、清英国エジプトなど、実に数カ・数地域に及んだ。
翌1893年には日本にも立ち寄っており、香港から長崎港に上陸し、京都大阪から名古屋横浜東京日光にまで立ち寄り、明治天皇と会談したり、日本陸軍の様子を視察した。その他観光地巡りや都市の様子を視察した後に、横浜港からアメリカに向かった。

彼が一番驚いたのは隣ドイツの様子であった。ドイツ帝国プロイセン導のもとに諸侯がまとめ上げられ、約20年前(1871年)に統一を果たしたばかりの新しいだったが、血政策や急な工業化によって覚ましい発展を遂げていた。

そし大公皇帝ヴィルヘル2世と会談し、ドイツオーストリア軍事同盟の強化や様々なことについてり合った。
ヴィルヘル2世とは狩りを共にして、とても親密な間柄となった。

こうして世界の視察のが終わり、フェルディナント大公オーストリアハンガリー帝国、そしてハプスブルクの旧体制からの脱却をし、奮闘することとなった。

恋人

フェルディナント大公が帰したとき、彼の年齢は既に30代半ばに差し掛かっており、老や重臣達からも結婚相手のことを考えるように進言されていた。彼らはあくまで、「殿下はどこかのの王女と結婚するだろう」としか思っていなかった。

実はこの頃、フェルディナント大公はしばしば陸軍最高令官フリードリヒ皇子(称号はテシェン)の邸宅を訪問していた。
そこでフリードリヒ皇子は、「皇太子殿下は我がの誰かに味があるのだな」と考えた。

この当時、王侯貴族の間では腕時計の裏に好きな女性の肖像画を入れるのが流行していた。
フェルディナント大公はある日、フリードリヒ大公テニスプレイしていた。そのプレイ中にフェルディナント大公腕時計を外している間、フリードリヒ大公は後ろめたさを感じながらも腕時計の裏を覗き込んだ。

そこに描かれていたのは彼のではなく、妻イザベラ・ド・クロイの筆頭女官、ゾフィー・ホテクその人であった。
この意外な事実に、フリードリヒ大公を疑った。

そしてこのことを妻イザベラが知ると、彼女は驚愕した。

女官に欺かれた、と怒り狂ったイザベラは、ゾフィーを邸宅から追放。
更にこのことをウィーンの貴族たちに暴露した。そしてこのことは噂話として流布し、く間に広まった。

フェルディナントとゾフィーの出会い

ゾフィー・ホテクの出自については前述した。
皇帝への拝謁もわぬ地方の没落貴族の出自である彼女が何故、皇太子と出会うことができたのだろうか。

30歳の年齢を上回っていた彼は、各の視察から帰した後に、歩兵連隊の中尉の軍務に就くため、プラークチェコ名:プラハ)に駐在していた。
そして1888年にプラハ総督府で開催された舞踏会に出席した。このとき、フェルディナント25歳

そこに出席していたのがイザベル大公妃とそのマリアクリスティーナであるが、偶然にも付き添い役として20歳のゾフィーも出席していた。

ゾフィーにとって男性を引き寄せる魅というものは、他の貴族令嬢にべれば欠如していたかもしれないが、後にフェルディナントが彼女に話したとおり、知性に満ちた美しいが特徴的な女性であったと言われる。
彼はその彼女に次第に魅入っていた。一惚れであった。

「あのは?」
「はい、殿下。あの者は…テシェンイザベル様の女かと…」
「そうか。」

そしてイザベル大公妃らがいない間に、自ら話しかけた。ゾフィーは次期皇位継承者が自分に話しかけてきたことに驚いた。しかし彼が堅実で教養に溢れた人間だと知り、が合ったのか会話が弾んだ。

それから後、フェルディナントはおびでゾフィーと話しかける機会があった。
そして幾度にもり会うたびに、彼女もフェルディナントに惹かれていった。
だがゾフィーには、内に秘めたを終わらせたり、あるいはこのことを恥じて女官を辞める気持ちも、故郷のベーメンに帰るという気も無かった。

彼女は「身分など関係なく、する人とずっと共にいたい」、という信念を貫き通す覚悟を持っていた。つまり情熱的な女性であった。そしてこれは、ゾフィーの本心からの願いでもあったのだ。この夫婦にはどちらにも「己が信念を貫く」という一面があった。

なお、フェルディナントは彼女に出会った時から大のチェコ好きとなった。これが後に彼が親スラブ(ただし反ロシア)に傾倒する理由になった。

許されぬ愛

そして次第に、フランツ=フェルディナントゾフィーの仲は然のものとなり始めた。
そのため、フェルディナント大公は正式に婚約を発表した。
そしてフェルディナントフランツ=ヨーゼフ1世に、ゾフィーとの結婚を許してほしいと申し出るが、これに皇帝然とし、そして強く反対した。

「自分のしたことがわかっておるのか?フェルディナントよ。
やがて皇帝となる大公が、下級貴族…それもゲルマンの血を引かぬチェコ女と結婚しようとしているのか!」

当時のオーストリアハンガリー帝国内においてホテクのような下級貴族は数とおり、しかもホテクは困窮のあまり長女を女官に出すような低い柄であった。
またハプスブルクでは訓により、
皇太子の)結婚相手はカトリックの君から妻を迎えねばならない。
と定められていた。

このことはオーストリア内の一大スキャンダルとして報道され、隣ドイツロシアにまで流布した。

「考え直せ、フェルディナント。今からでも遅くない。婚約を破棄するのだ。」
陛下。この20世紀において、王族と結婚せねばならないという慣習は時代遅れです。
彼女は知性も溢れ、教養もあります。皇太子妃として何ら不はありません。
結婚に必要なのは利益でも、体面でもないことは陛下もお分かりのはずです。私はゾフィー結婚します。」

は声を荒げて言った。
「ならば王冠かか、どちらか選ぶが良い。」
この問いに、フェルディナント大公は毅然と答えた。
「王冠もも、どちらもいただきたい!」

慈悲深き母

とハプスブルク大公たちは、2人の結婚には反対していた。
しかし、次第に民からの同情の声もあり、またフランツ=ヨーゼフに対し、当時同盟であったドイツ皇帝ヴィルヘル2世や、当時のローマ教皇レオ13世までが結婚を認めるように手紙を送った。

なお、フェルディナントカールルートヴィヒ大公息子結婚に苦言を呈していた部分もあった。またからの圧もあり、他の大公との会話では反対を装ったが、次第にフェルディナントは新オーストリアの先駆けになるのかもしれない」と、息子の行動を黙って見守った。

また継マリアテレサはこの結婚に大いに賛同し、働きかけた。
オーストリア大公邸から、「プラハの修院へ旅行に出てみたいのです」と言ってプラハの修院へ巡礼旅行に出ていた彼女はイザベラから解雇され、プラハのホテク邸で謹慎していたゾフィーを連れ出し、自身の居であるウィーンのシェーンブルクの館に連れて行った。

カールルードヴィヒ大公はこのことに驚き、「何故連れてきたのか」と問うた。
彼女はそのことに対して答えた。
「あなた。これから私も陛下に対して手紙を書き、2人の結婚を許してくださるよう、嘆願しようと思うのです。
息子が好きな人と結婚できるようにとして、できる限りのことをしようと考えています。」
この勇敢な発言に、ゾフィーは感銘を受けた。

シェーンブルクフランツ=ヨーゼフを含めた、ハプスブルク=ロートリンゲン一門の居である。
これは皇帝に対して行った、大胆な行動であった。

にとってはハプスブルクの伝統・柄をぶち壊す問題児に見えたかもしれない。
だが既に70代に達していた老が、仮にフェルディナントを義絶すれば、位の継承者は傍系、あるいは更なる問題児しか残らないことになる。これが最大の弱みであった。
最終的に各フェルディナントに対する同情もあり、2人の結婚を了承するに至った。

ある条件をつけて。

権利なき皇太子后

1900年(フェルディナント大公:37歳、ゾフィー:32歳)。
皇帝の承認の下、フェルディナント大公ゾフィーとの結婚を果たした。

1900年6月28日
フェルディナント大公は、皇帝の出した妥協案として、ある誓約書に署名した。
な内容を以下に述べる。

フランツ=フェルディナント大公ゾフィー・ホテクとの間に生まれた子、
及びその子孫は、他の大公と同等の特権、栄誉、紋章などを所持しない。また請することも許されない。
また結婚であるが故に、大公ゾフィーの権利は王室内の最下位に値する。

格式を守る老と、変める皇太子りにり、お互いが譲歩しあった末の結論であった。

しかし、ゾフィーはこれに対し怒りをあらわにすることも無く、冷静であった。
「承認されたが、権利の無い結婚であること」をフェルディナントが悔しい気持ちで言うと、「時代遅れの堅苦しい行事や宴に出なくても済む」と答えた。もちろん、彼女にとっても屈辱に感じていたが、強がりであった。

こうして2人は結婚することができ、7年がかりのは成就した。
結婚式は皇族による中傷を避けるため、彼女の故郷ベーメンで行われた。
現在もチェコ共和国ミア地方に残るライヒシュタットの礼拝堂である。
その結婚式では、継マリアテレサと継以外に、ハプスブルクの者の姿は、無かった。

「来ていただいてありがとうございます上。上は…やはり来ませんでしたか。」
「ええ。私は言ったのですが、やっぱり皇帝陛下からの非参加の圧がかかっていたようで…。」

はその日、ベーメンに電報を送り、オーストリア北部にある都市の名をとって
ホーエンベルクゾフィー(Sophie von Hohenberg ゾフィー・フォン・ホーエンベルク)と名乗らせることにさせた。

しかしハプスブルクでのゾフィーの冷遇は変わらず、王室の行事に出席すると必ず末座に座らされたりなど、一度たりとも優先的に扱われることはなく、王室・貴族の面々からは「チェコ人の」「下賎な身分」「皇太子を幻惑した」「場違いの女」などと陰口をかれた。
もちろん皇太子であったフェルディナントも「見るがない」「オーストリアの恥」などと散々な言われようであり、2人は生涯を通してハプスブルクに嫌われ続けた。

日常生活

結婚後しばらくはウィーンの喧騒を嫌い、遠く離れたプラハのコノピシュトでハネムーンを過ごした。しばらく後にヴァッハウ渓谷の地に自らの居であるアルトシュテッテンを築き、そこに居住した。

フェルディナントは短気で癇癪持ちな性格であり、従が円滑に行動しなかったりするとしく叱責したりした。
そんな時、妻ゾフィーが常に身につけていた、夫のフェルディナントから貰ったブローチを触る時が、フェルディナントに「フランツ、落ち着いて」という合図であったそうだ。

フェルディナント大公夫妻は二男一女に恵まれた。
誓約書に基づき、彼らはホーエンベルク、ホーエンベルク女と名乗った。
子供にも恵まれ、女に頼ることなく自らの手で子育てや食事の用意をし、幸せな日々を送っていた。

狩猟好き、根っからのであったと言われるフェルディナントであった。
私生活においては皇族という身分にありながら倹約一家であったといわれ、フェルディナントが食卓でデザートが一皿分多いのを見つけ用意した従を叱責し、ゾフィーは夫の古着を古着商人相手に高く売りつけようと直談判した、という噂まで流れた。偽のほどは定かではない。

だが相変わらず王室の行事には出席することも憚られる状態は続き、また出席を許されても王侯貴族たちから繰り返し中傷を受け続けた。

しかし、フェルディナント大公は自身が皇帝となった場合は誓約書を守る気はなかったかもしれない。
「私が皇帝になったら、全てを変える」
という信念を持って、日々自分たちに投げかけられる辛苦を耐えていた。

そしてフェルディナントはこのような日々を繰り返すたびに、常に「妻に対して皇太子妃にふさわしき舞台を用意しよう」と考えていた。

プリンツィプ動く

ガヴリロ・プリンツィプ

ガヴリロ・プリンツィプ(称はガブレ)は1894年7月25日、現在のボスニア北部のオビリャイ村に住んでいたプリンツィプの四男として生まれた。

ボスニアの住民は大きく分けてセルビア人、シュニャク人、クロアチア人に分かれており、それぞれセルビア正教、イスラム教、カトリックを信仰していた。だがそれも宗教的な違いであり、言は大差もなく、同じスラブ系の血統であった。彼はこのうちのセルビア人(セルビアボスニア人)であった。

彼の子孫(オビリャイ村在住)は日本歴史番組(NHK放送「その時歴史が動いた」)でのインタビューで、
プリンツィプは正義感が強く、「強きが弱きを守る」という気概を持った少年であった。
そのため、学校では教師いじめっ子の生徒との衝突・喧もしばしば起きていた」、とっている。

1908年、学生時代に、反オーストリアボスニア独立を掲げたセルビア愛国者政党「青年ボスニア」に参加。この時、プリンツィプは若干14歳であった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合

1908年10月6日オーストリア帝国ボスニアヘルツェゴヴィナを併合した。

もともと30年前まで、ボスニアヘルツェゴビナはオスマン帝国であった。
しかし、この地の住民であるスラブ民族がトルコに対して反乱を起したのを機に、オスマン帝国であるセルビア、モンテネグロオスマン帝国からの独立自治権を得るためにこれを支援、宣戦布告した。しかし両は圧倒的な武の前に苦戦を強いられた。

ロシア帝国はこの事態に対して、「同じスラブ民族を救う」という名分のもと、ボスニア起から2年後の1877年にオスマン帝国に侵攻。しかしロシア的は「バルカンを自とする」ことであった。

こうして始まった露土戦争1877年-1878年。ロシア帝国vsオスマン帝国)であったが、やがてオスマン帝国は劣勢に立たされた。

そして両間にサン・ステファノ条約が締結。
これによりセルビア、モンテネグロは悲願の独立を果たした。
そしてロシアは同じく独立を果たした大ブルガリアオスマン帝国に対する貢を続けさせる一方で、ロシア軍5万人を駐屯させた。これにより、的である、「(ブルガリアを属化して媒介としながら)バルカン全体を自の支配下に組み込む」作戦を立て始めた。

しかしこれに待ったをかけたがあった。大英帝国オーストリア帝国である。
この2ロシアがこれ以上南下政策を続けるならば、戦を行使すると脅した。
この欧州が便乗し、ロシアバルカン支配に反発した。
これに対して、ロシア内での世論は「断固拒否せよ!」という意見が強かった。

だが、ロシアには苦い経験があった。ロシアが南下政策のために、オスマン帝国を狙って侵攻したクリミア戦争(1854年-1856年)である。

このクリミア戦争において、当時後進であったロシアは、産業革命を迎えて発展した四ヶ国連合(大英帝国オスマン帝国フランス帝国サルディーニャ王)に敗退し、の無さを露呈させられ、屈辱を味わった。

それから20年以上経った今、ロシアが再びこれらのと戦火を交えることになれば、返り討ちに遭うであろうことはに見えていた。そこで苦渋の決断として、同年ベルリン条約が結ばれた。

これにより、ロシアバルカン進出を阻止された。な内容は以下のとおりである。

  1. セルビア、モンテネグロルーマニアは完全独立。
  2. ブルガリアオスマン帝国貢し続けることで、半国家として認める。
  3. ボスニアヘルツェゴビナには名上の権はオスマン帝国にあるが、実効支配はオーストリア帝国が行う。
  4. サン・ステファノ条約でロシア帝国に割譲されるとされていたアナトリア都市ドゥバヤジトをトルコに返還。

この条約によってロシアは多大な犠牲を払ってまで獲得したバルカンの利権を失う羽になり、結果、反英・反墺感情が高まっていった。そしてボスニアヘルツェゴビナにおいても、反墺感情はとどまることが無かった。

しかしオーストリアはこの地を強制併合した。
これによって同じ南スラブ系であるセルビアボスニア進出と内の民族独立の気運を徹底的に押さえ込むのが狙いであった。実はオスマン帝国が、独立気運の高いこんな土地は無用、と事前に併合を同意していた。
また、この1908年という年は、トルコ皇帝(スルタン)の専制政治放棄をした青年トルコ革命が繰り広げられていた頃であり、両にとって都合が良かった。

しかしボスニアの大多数を占めるスラブ系住民は、オーストリアではなく、セルビア(独立から数年後にから王号を変更)など同じ南スラブ系の(ただし非ロシア)に併合されることを望み、オーストリアの支配に反発していた。

一説によれば、フェルディナントは将来、ハンガリーとの二重政に加え、新たに南スラブ人(クロアチア人・スロヴェニア人)を参加させて、3つの政府による三重帝国へと再編する気であったらしい。
しかしこの案はセルビア人による南スラブ統合運動を挫くもの(いかに自治権を持ったとはいえ、独立にあらず、かつオーストリアやハプスブルクの影が強いもの)であったため、このことはセルビアでも危惧されていた。この後、二度に渡るバルカン戦争に勝利したセルビア広大土を獲得していた時期であった。

まさに念願だった南スラブを統一するチャンスであったのである。

セルビアの背後にはロシアが、オーストリアの背後にはドイツが控えていた。
バルカンは、もし政変や戦争が起きれば、複数の同士が争い合う状況は避けられないという、政治的にとても危険な地帯であり、このことから、バルカンヨーロッパの火と言われた。

黒手組(ツルナ・ルカ)結成

セルビアを始め、セルビア人はこのボスニア併合に大きな怒りを覚えた。

そしてセルビア首都ベオグラードにて、陸軍将校らが中心となって秘密結社「手組」を結成。
セルビアでは「ツルナルカ」、日本語では「い手(英:Black Hand)」とも称されるこの組織は、ボスニアヘルツェゴヴィナのセルビア併合など、「欧州の全セルビア人居住区をセルビアへ併合すること」を第一標とするテロ組織であった。

そして秘密結社の結成から3年以上を経た1912年、ある青年手組の本拠地を訪ねてくる。その男こそ、青年ボスニアに所属していたガヴリロ・プリンツィプその人である。この当時は若干18歳であった。

「君の事はタンコシッチ少佐から話は聞いてる。我ら手組に頼みがあると伺っているが何の用かね。」
「ええ、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナントを暗殺しようと計画しています。あなた方に手を貸してほしい。」

この発言にその場の者たちは一動揺したが、プリンツィプは話を続けた。

ボスニアトルコの支配下にあったとはいえ、セルビア人・クロアチア人・イスラム教徒が共同して統治していただ。
だが、オーストリアは我々から議会も軍隊も取り上げた挙句、
併合して少数ドイツ人によるスラブ民族への弾圧と支配を行っている。
我が命を賭してでもオーストリアにその報いを受けさせてやる。その手伝いをあなた方にしてほしい。」

この頃、「青年ボスニア」は「手組」と接触し、ボスニアヘルツェゴヴィナにはスラブ人による政府の統治が必要であると考え、その方法を模索していた。
そしてプリンツィプは「手組」幹部との関わりを持ち、手組No.2のヴォヤ・タンコシッチ陸軍少佐と出会った。

この青年の申し立てに、「手組」は時期を見計らって協することを約束した。
そして2年後、運命の日が訪れるのである。

そしてサラエボへ

ゾフィーのために

1914年6月
オーストリアは未だ定の域に達していないバルカン状勢の緊迫化に対する一策として、ボスニアオーストリア陸軍の軍事演習を行い、その後にサラ(現ボスニアヘルツェゴヴィナの首都)にて軍事パレードを実施、セルビアボスニアの住民たちにオーストリア帝国陸軍の強大さを誇示することを計画した。

そして、このパレードにフェルディナント大公ゾフィー大公妃が参加することになった。

その報告をするため、夫妻はウィーンにいるフランツ=ヨーゼフの下へ挨拶しに行った。
「パレード?ボスニアでやるのか?」
「はい、陛下演習の翌日にサラにて行います。ゾフィーも同行させるつもりです。」
「いかん、直ちにやめろ。」
「何故ですか?閲兵や軍事パレードは王室行事ではありません。何も問題ないはずです。」
は喚起するように言った。
「そういうことではない。オーストリア内ならまだしもボスニアでは十分な警備ができん。お前が妃を思いパレードを計画したのは分かるが、これはお前達の生命にかかわる。まずは己が身のことを案じよ。」
「警備には万全を図ります。それに…」

軍事パレードが行われる1914年6月28日
この日はフェルディナント大公ゾフィーの14回結婚記念日であった。
この裏には、今まで14年間、皇太子妃でありながらろくな待遇を与えられなかったことや、ハプスブルクからの軋轢へ耐えた妻へ、「皇太子の妻」としてパレードに参加させる機会を与えたいという、温情の気持ちがあった。皇太子妃である妻のために、夫が用意した舞台であったのだ。

しかし運の悪いことに、この6月28日は1389年にセルビアオスマン帝国敗北し、トルコセルビア人支配を許した、いわゆる「セルビア人の屈辱の日」でもあった。そして、おそら皇太子はそのことを知らなかった。

フェルディナントに老は折れ、条件をむ代わりに参加を許可した。
1914年6月21日フェルディナントゾフィー鉄道に乗り、サラへと出発した。

事件前日のフェルディナント(1914年6月27日)

ボスニア西部において、2000名の兵士を動員した、帝国陸軍の演習が行われた。
この日はとてもよく晴れた日であった。

訓練内容としては、巧みなまでの戦列を組んだ前進・退却、標的を掛けての狙撃銃機関銃の一斉射撃、…

殿下。これをセルビア人の連中が見たら、怖気づいて逃散する様子が見えること間違いありませんでしょうな。」
「無論、我らが陸軍はセルビア軍に攻め込まれようとも問題はない。
だが決して、訓練を怠るな。我らの敵はセルビアだけではない。ロシアも然りである。」
「御意。」

長いこと王室の一人として、陸軍参謀に携わってきたフェルディナント大公帝国陸軍の強固さを見て、セルビア軍相手に負けることは断じてないと思っていたに違いない。

(これならセルビア軍は我らに太刀打ちできないであろう…だが、我らが最も恐れるのは強ロシアが彼らと徒党を組み、同盟を結んで進撃することだ。そのような危機的状況にあっても、オーストリア軍は円滑に対抗できる軍隊でなければならないのだ。バルカンの治維持のために。)

当日、どんな気持ちでフェルディナント大公が参加したか分からないが、自らの育った祖国オーストリア帝国に対しての愛国心は変わっていなかった。だが、彼が望んでいたのは、ドイツ人が一方的に支配することではなかった。南スラブ人にもいずれ自治権を与えることも考慮していた。

(我が最終標はドイツ人による他の民族に対しての圧政ではない。
民の誰しも民族にかかわらず、等に参政の機会を与えられることだ。
かつてマジール人に与えたような自治権を、いずれ南スラブ人にも与える必要がある。
一人の君の下、定した地盤を持った大を作る理念は果たされねばならない。)

フェルディナント大公演習の後に、ウィーンにいる老に対して「演習は成功し、明日はサラに向けて出立します」という旨の電報を送った。

演習地で泊まったホテルにて、フェルディナント大公夫妻は舞踏会に出席。
これが2人にとって生涯最後のダンスになった。

事件前日の暗殺者(1914年6月27日)

一方、手組メンバーはこの機会を逃すまいと、入念な計画を立てていた。
サラのパレードが始まるのは翌6月28日午前10時。」
から出た皇太子は、ミリヤッカ川沿いのを抜けて庁舎で歓迎を受けた後に、教会に寄りに戻る。」
という様々な情報を、裏ルートを含めて入手していた。

そこで、手組から手配された暗殺者6名とプリンツィプの計7名が、通り沿いのと交差点で群衆の中に紛れて待機。皇太子夫妻がやって来たら、事前に用意していた最新式の拳銃4丁と手榴弾7個で至近距離から次々と狙い、暗殺するという作戦であった。

運命の日(1914年6月28日)

zum Rathaus(市庁舎へ)

この日は前日同様に、であった。

午前10時7分。

フェルディナント大公夫妻を乗せた特別列サラに到着。
そこから前に停してあったオーストリアからはるばる用意していたオープンカーに乗
警護のを含め、計4台からなる列が通り過ぎた。

夫妻を乗せたサラから庁舎へ向かって出発し、パレードが始まった。途中で7人もの暗殺者が待ち受けてることも知らず、2人は街道で手を振る人々に向けて、笑顔で応えた。

午前10時10分~15分の時間帯

は暗殺者モハメド・メフメトバシッチのの前を通り過ぎた。
だが彼は警察官が後ろにいると錯覚し、後ろを振り向いた。その後に改めて拳銃の狙いを定めようとも、の前に立ちはだかる群集によって遮られた。結局、彼はピストルを撃つことができなかった。

そして午前10時25分
暗殺者チャブリビッチの前を大公夫妻が通り過ぎた。この時、チャブリビッチが、フェルディナント夫妻のめがけて手榴弾を放り投げた。だが間一爆弾の後ろに跳ね、後続の手前で爆発し、夫妻には当たらなかった。
後続は大破し、乗していた軍人3名と沿の群集20人が重軽傷を負った。

辺りは悲鳴と怒号が飛び交った。
「ぎゃああああああああああああああああああ!」
爆弾を投げたのは、あの男だ!誰か、取り押さえろ!」
チャブリビッチはとっさにから川へと飛び込み、用意されていた化合物を飲み込み、自殺を図った。
警官と警備兵、そして民間人らもから飛び降り、チャブリビッチを取り押さえた。
「おい、こいつを持っているぞ!取り上げろ!」
チャブリビッチ物を飲んで気絶したが、致死量に達していなかった。
川から引きずり出され、警官に連行されるまで、チャブリビッチは民衆からしい暴行を受けた。

「お2人とも、お怪我はありませんか!?
「私たちは…無事だ…」

2人の無事を確認すると、は再び動き始めた。
そしてプリンツィプのの前を通り過ぎたが、逃げ惑う群集に阻まれてを撃つことができなかった。
(チッ…計画は失敗か…)
あとの暗殺者数名はこの場を撃し、逃げ出して、自宅に帰った。
プリンツィプは意気消沈して計画を諦め、近くの軽食屋に入り込んだ。

サラ庁舎に着いた大公夫妻は市長に会った。
そこでフェルディナント大公は取り乱し、市長に向かって怒号を放った。

歓迎の式典は終わり、パレードについて見直されることとなった。しかしフェルディナントは、「帝国の威信にかけても変えるわけにはいかない」と言い放った。妻の仲介で冷静さを取り戻したフェルディナント大公は、改めて臣下の者に尋ねた。
「先ほどの爆発で被にあった者はどうした?死者は出たのか?」
病院に収容されたと連絡が入っています。死者はいないようです。
後続に乗っていた軍人3名と沿市民20名が巻き添えを食らって負傷した模様です。」
「そうか…予定を変更だ。彼らの見舞いに行かねば。」
「わかりました。では、川沿いのを直進して向かいましょう。」

殿下は万が一のことがありますので、別のに戻られては如何でしょうか?」
「いえ…私はどこまでも大公の行く所に同行いたします。」

こうして話し合いの結果、午前11時庁舎から病院に向けて出発することになった。
しかし、ここで手違いがあった。運転手はルート変更のことを知らされていなかったのである。
そうとは知らず、フェルディナント大公夫妻を乗せたは発進した。

この庁舎からへ乗り込む前に撮られた記録映像が、今現在までオーストリア内のデータベースに残っている。これがフェルディナント大公ゾフィー・ホテクの生涯最後の姿となった。

そして十字路に差し掛かったところで、は教会へと向かう右側にカーブした。

フェルディナント大公夫妻のに同乗していた警備兵は運転手に言った。
「おい。待て!何故、曲がる?直進といったはずだぞ。」
「はっ?しかし、自分は聞いておりませんが」
「いいから急いで戻れ!」

は川沿いの十字路の交差点で止まり、方向転換をするためバックをした。
その時、一人の男が軽食屋から出てきて対向に向かって拳銃を構え、車両の間近へと駆け抜けた。

Letzt Moment(最期の時)

実はプリンツィプが入った軽食屋は、川沿いの十字路の付近であった。椅子に座っていた彼からは、皇太子夫妻を乗せたが立ち往生してバックしているのが見えた。
(この機を逃すな!)
飛び出したプリンツィプは、大公横の約3メートル手前で止まり、至近距離から拳銃の引きを引いた。

バンッ、バンッ!

1発弾はフェルディナント大公の首に命中。
2発弾はゾフィー部に命中し、ゾフィーはその場にうずくまり、即死した。
この2発の弾は、ともに2人の致命傷となった。

フェルディナントは苦しい息の中で、首を押さえながら隣の座席でうずくまっている妻に向かい、懸命に叫んだ。
ゾフィーゾフィー…!死んではならん…子供たちのために生きてくれ…!」
(“Sopherl! Sopherl! Stirb nicht! Bleib' am Leben für unsere Kinder!” )
これが現在までに伝えられている、オーストリアハンガリー帝国皇位継承者フランツ=フェルディナントの最期の言葉だった。まもなくフェルディナントも絶命した。

フランツ=フェルディナント大公は満50歳、ゾフィー・フォン・ホーエンブルクは満46歳の生涯であった。

プリンツィプは直後、事前に手渡されたを飲もうとするも警備兵に取り押さえられ、自決できなかった。なおプリンツィプの使った拳銃は、当時最新FNブローニングM1910だった。

Zarte Großmutter(優しき祖母)

「皇位継承者、フランツ=フェルディナント大公殿下セルビア人に殺された!」


この訃報はすぐ、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の元に飛び込んだ。老は、セルビア人に対して怒した。
そしてすぐに、「犯人たちとその状況について徹底的に調せよ」と命令を発した。

マリアテレサは、彼らの死を聞くとすぐに孫たちのもとに駆けつけ、子供たちに両親の死をりかけた。
フェルディナント大公の子供たちは両親の死を受け止めきれず、涙を流した。
長女ゾフィーは13歳、長男マクシミリアンは12歳、次男エルンストは10歳であった。
ゾフィー、マクシミリアン、エルンスト…どんな時も、どうか忘れないで。あなたたちのことをこれからも、天国にいるお様、お様は見守っているのですよ。そしてあなたたちのこれからのことは、この私に任せて。」
「はい、おばあ様。」

両親の死を知らせた後、マリアテレサはウィーンにいる皇帝フェルディナントの子供たちへ定期的な遺族年を出すように要した。この要フランツ=ヨーゼフ1世の死後、新たな皇位に就いたカールに対しても行われており、オーストリア政が終わりを迎えるまでの間、ずっと続けられた。

Julikrise(七月危機)

オーストリア当局は最終的に、暗殺に直接関与したテロリスト7名のうち、メフメトバシッチ以外の6名を逮捕した。

プリンツィプらを厳しく尋問した結果、犯行に参加していた一人イリッチが全てを自し、器はセルビア政府から手組に対して提供したものだ、ということが判明。

政府内で議論が繰り広げられた。
「我らオーストリアは断じて、このことを許すことはできん。君が殺されたとあれば、ハンガリーも我らに追従するはずだ。今こそセルビアを討つべき時だ。」
「だが…セルビアの背後には同じスラブ民族のロシアがいるぞ…」
「ならば、我らには同じゲルマン民族の同盟ドイツが味方をしてくれるぞ!」

このことに対して、オーストリア政府当局はセルビア政府に対して全10条からなる最後通牒を突きつける。
セルビア政府がこの要まない場合は、オーストリアハンガリー帝国セルビアに対して宣戦布告するという旨のものである。

ドイツオーストリア学校教育では戦争への一触即発の状態となった、この一連の出来事を
七月危機(Julikrise ユーリクリーゼ)と呼んでいる。

セルビア政府は8項までは受け入れた。だがこのうち、内政干渉の疑いがある2項は保留した。
破棄した第5条、および第6条の内容は
帝国土保全に反対するセルビア内の運動の取り締まりに、帝国の政府機関の介入を許可せよ。
セルビア内に潜む、サラエボ事件の共犯者の疑いがある人物を法廷尋問し、帝国政府機関にこの手続きを参加させる。
というものであった。論、これを受け入れれば、オーストリアによる独立国家権の侵を認めることとなる。

だが、これはオーストリア政府が最も望む、「最後通牒の要たるもの」であった。
これに不満を感じたオーストリア7月25日セルビアとの交断絶を宣言。

Der Erster Weltkrieg(第一次世界大戦)

事件から1ヶ経った、1914年7月28日オーストリア帝国は、セルビアに対して宣戦布告。

ドイツオーストリアハンガリーオスマン帝国などの中央同盟と、
大英帝国フランスロシアなどの連合の総戦となる、第一次世界大戦が勃発した。

セルビアオーストリアとの戦争状態に陥ったと知ったロシア帝国は、自らも連合の一員としてセルビアに味方することを決定。ここから軍事同盟を互いに組んだ欧州数カが参戦し、泥沼化していく。

一方、オーストリア軍事同盟を組んでいたドイツ帝国は、8月1日ロシア帝国、その後にもイギリスフランスに宣戦布告。以後、最大軍事を保持するドイツが同盟の中心的存在となる。

オーストリアハンガリー帝国陸軍本部は各部隊に召集を掛け、サラ境付近の決戦の地、ヘルツェゴヴィナへ軍団を派遣。ここからバルカン南部へ南下する作戦を執った。

最初はバルカン戦線の連合相手に苦戦していたオーストリア軍であったが、2年後の1916年1月にはモンテネグロを占。モンテネグロ王・ニコラ1世は亡命した。

ルーマニアが敵側として参戦した後は、同年12月に、ドイツ軍と共同でルーマニアを占した。

当時の帝国陸軍の民族構成は、25%がドイツ人、23%がマジール人、42%がスラブ民族であった。もちろん、ドイツ語が共通と制定されていたが、それぞれの言バラバラであったといわれている。

このうちスラブ人一であるチェコ人連隊がロシア軍に対して投降し、逆にロシア軍の一部隊としてオーストリア軍と戦うという裏切り行為が起きた。だが、このことはオーストリア軍の大多数の大勢には影しなかった。

それどころか、スラブ民族の部隊(ボスニア人、クロアチア人など)は「オーストリア軍の精鋭部隊」と呼ばれる果敢な働きをした。多民族国家というものはそれだけに、「国家」という統一の意思が強くなければ成立しないものだと思われた。

彼らスラブ人部隊は、それまで自分たちを族扱いしてきたドイツオーストリア人を見返すことができた。

Strömung von österreich(東国の歩み)

オーストリアドイツ語(現地)で東のを表すエスタライヒ(Österreich)と呼ばれる。

現在のオーストリア共和国旗は、上からの三色旗になっている。
この由来はハプスブルクオーストリア導権を握る前、有徳と呼ばれたオーストリアの君レオポルト5世が第3回十字軍に参加したときのことが由来となっている。レオポルトは、戦場においてムスリム兵を片っ端からり殺し、その結果、ベルトの部分()だけを残して全身が鮮血に染まった。そういった、おぞましい由来がある。

ハプスブルクオーストリア帝国国旗にはハスプブルクの旗を兼ねた、の二色旗が使われた。
同時期に章である、双頭の鷲も制定された。共和制の今現在は、一頭の鷲に置き換えられて存在している。

さて、話を元に戻そう。オーストリアはそれからどうなったのか。
そして今も眠る2人についても。

Harter Kampf(苦戦)

1916年11月21日フランツ=ヨーゼフ1世が肺炎のため崩御。86歳。
彼は帝国における68年間の治世の中で「」「不死鳥」と呼ばれていたが、半世紀以上にもる往年の統治で疲弊した老齢の体は、病魔に抗する術を持たなかった。崩御の前日まで、病床の中、最後まで皇帝としての署名をし続けたと言われる。

代わりとしてフランツ=フェルディナント大公の死後、皇位継承者となっていた孫のカール大公が即位。皇帝カール1世となった。カール1世は、フェルディナント大公の長オットー大公(麗しのオットー)の長男である。
フェルディナント大公は「自分にもしもの時があったときはお前が皇太子だ。」と事前にカールに対して言っていた。

1917年12月アメリカが連合の一員としてドイツオーストリアに宣戦布告したことで、戦況はガラッと変わった。当時無傷であったアメリカは大軍を派遣してきた。
元々、この戦争についてオーストリアバルカンの局地的戦闘にしようと考えていたが、ドイツは敵対である英を殲滅する良い機会だと考えていた。ドイツに振り回される形でオーストリアは深みにはまってしまったのだ。

オーストリアには単独講和によって帝国の解体を回避する策が残された。
1918年、戦線が次々と連合により突破され同盟の敗戦色が濃厚になると、同年9月に同盟オスマン帝国ブルガリアが降伏した。

Leben von Assassinators(刺客の人生)

犯人たちの、その後についてもらねばならない。犯人達はオーストリア内において裁判を受けるに至る。
※ここに記してある者は、犯行当時に事件現場にいた7名のみである。

  • プリンツィプGavrilo Princip  犯行当時:19歳) 判決:禁固20年

手組」にフェルディナント大公の暗殺を依頼し、かつ皇太子夫妻を殺した犯人
オーストリア民は当初、彼を死刑にすべきだと思っていたが、当時19歳と若輩であったことから禁固20年の判決を受けた。

なお判中、死刑を宣告された後述のイリッチが全てを自した後、犯行に参加した仲間達は「自分たちは未成年だから死刑はない」と軽率な気持ちでいた。プリンツィプはそのことをめるため、自らに精異常や脅迫事項があったことを否定し、「私は自分の刑を軽くするため何かしようとは思わない。」と発言した。テレジェンシュタット刑務所に収容。
1918年、刑務所内において肺結核により病死。オーストリア帝国崩壊の半年前だった。

  • イリッチDanilo Ilić 犯行当時:23歳) 判決:絞首刑

刺客7名のうちのたる中心人物。一、成人していた。
教師で、新聞社に勤めていた経歴を持つ。「手組」の正式なメンバー
事件後は自宅で身を潜めていたが、9日後に逮捕
己の保身のためか、全てを自供するも、最終的には絞首刑の判決を受ける。
事件の翌年の1915年2月に、刑務所内で絞首刑執行。

皇太子めがけて爆弾を投げ、軍人民間人合わせて23名の負傷者を出した。
父親オーストリア警察に潜り込んでいたスパイだった。
中学校卒業後、父親により強制的に学業を辞めさせられ、様々な労働をしながら各地を転々としていたが、ベオグラードに戻り、手組のNo.2のタンコシッチ少佐と出会った。
1916年に刑務所内で肺結核により病死。

オーストリア帝国崩壊後に釈放。釈放後はサラ学校教師となった。
またベオグラード大学から教授として採用され、教鞭を振るった。

第二次世界大戦後はチトー政権下のユーゴスラビアにおいて、大臣となった。
1990年に死去。享年93歳。実行犯としては、最後の生き残りだった。

セルビア正教会の職者であった。中学校時代、教師を殴打し、実刑判決を食らったという前科がある。その後は高校就学のために、セルビア首都ベオグラードに向かった。そこでタンコシッチ少佐と会った。そしてテロリストの一員となる。
1918年、刑務所内で肺結核により病死。

事件直後、モンテネグロに逃亡。メンバー中、一のイスラム教徒である。交戦中にもかかわらず、オーストリアがモンテネグロに対して身柄引渡しを要。モンテネグロ政府が考慮している最中、ギリシャテッサロニキに逃亡した。

当時駐留していたセルビア軍にいた「手組」のボスで、セルビア陸軍第3軍の参謀長ディミトリエビッチ大佐(通称アピス)を頼った。その後、アピスはアレサンダー王殺の犯罪の嫌疑をかけられ、またメフメトバシッチもギリシャにおいて一度投され、禁固15年の刑を受けたが、2年後釈放。

その後はサラに戻り、園芸店を開いた。詳細は不明だが、第二次世界大戦中の1943年に死亡した模様。

Die Abdankung vom Kaiser(皇帝の退位)

カール1世は1918年10月16日、「10月宣言」を出した。
これは帝国を各民族による連邦国家に再編するというものであった。
しかし同盟が劣勢に立たされた今、オーストリアハンガリー帝国内ではドイツ人を見限り、各民族の独立への気運が強まっていた。強大な軍事を失った帝国は、もはや大規模な独立運動を止めることはできなかった。

10月28日チェコスロヴァキア共和が独立を宣言。
10月29日クロアチア人議会が帝国からの独立を宣言。
10月31日ハンガリーが独立を宣言。ハンガリー共和号を改める。

長年の盟邦ハンガリーが独立宣言をした影は果てしなく大きかった。

11月3日
オーストリアは連合に休戦協定を受諾することを伝えた。
これによって対オーストリア軍への戦闘活動は停止した。

11月9日には内の革命運動ドイツ革命)を抑え切れなかった
ドイツ皇帝ヴィルヘル2世が退位を宣言。オランダに亡命し、共和制が成立した。

この頃、ウィーン内においては「皇帝逮捕せよ」との声も高まり、多くのオーストリア市民政の止を望んだようである。もはや「帝国」はそこに存在しなかった。

11月11日
自らの責任を取り、カール1世は退位をすることを決意。
自らの住むシェーンブルン宮殿において、退位に署名した。

こうして、ここに7世紀以上にもわたるハプスブルクの支配は終わり、多くの土を失ったオーストリアは共和制のを進むこととなった。

実は、カールオーストリア位を捨てたが、ハンガリー王として君臨し続けようと考えていた。だがこの論見はハンガリー市民の反対に遭い、頓挫した。

それから4年後、カールは亡命生活を行っていたポルトガルマディラで、肺炎により病死した。

Tatort bei jetzt(今現在の事件現場)

ユーゴスラビア連邦成立後、皇太子夫妻が殺された現場のテンはしばらくプリンツィプに名を改められた。

ユーゴスラビア独立後のボスニアヘルツェゴヴィナにおいてはセルビア人とムスリム、クロアチア人の間で民族浄化という殺戮行為が行われた。プリンツィプは建英雄の地位を追われた。

かつて存在した大公を待ち受けた場所にあったプレートも今はない。の名前も今はまた、ラテンに戻された。

Zu Europa vom 21. Jahrhundert(21世紀の欧州へ)

その後のオーストリアの運命は周知のことだと思うが、簡単に振り返りたい。

オーストリアハンガリー帝国の解体した後はハンガリーチェコロバキアが独立し、また土の一部をポーランドルーマニアソ連イタリアユーゴスラビアに割譲することになった。
オーストリア共和国土は全盛期の1/4程度になった。
そしてその直後の世界恐慌によって経済は急に悪化。インフレーションを招いた。
そして隣ドイツで起きたナチズムの流れがオーストリアにも訪れ、1938年にはナチス・ドイツオーストリア全土を併合(アンシュルス)。オーストリアは独立ではなくなり、ドイツエスタライヒ州となった。

ドイツ義には当初、多くのオーストリア民は賛成していたといわれているが、その後の徹底的な言論弾圧や、ドイツに対する絶対従の経済統制、オーストリア人を下等民扱いするナチスに対しては多くのオーストリア市民が嫌悪感を抱いた。

なお、フェルディナントの子供たちであるホーエンベルク姉弟は独墺合併(アンシュルス)に反対したため、第二次世界大戦中は投されていた。彼らは敗戦後に釈放された。
1944年、幼少期に経済的に支えてくれていた祖マリアテレサが89歳で亡くなった。

第二次世界大戦後にオーストリアイギリスアメリカフランスソ連の4による4地域の分割統治になった。
終戦直後の暫定政府が成立し、選挙によりオーストリア議会が復活した。
だが冷戦の影で、再独立は遅れた。

1955年5月15日オーストリアは連合4カと独立への条約を締結。

同年7月27日オーストリアアンシュルス以来17年ぶりに独立を勝ち得た。
この日のウィーンは歓喜に満ち溢れ、涙を流した民も多かった。

それから37年後の1992年11月欧州連合が成立。
今では西欧から中欧地域の大部分にかけて境検問が無くなり、多くの国家ならびに民・民族が自治権を持ち、問題はあるものの暴という手段よりも話し合いが重視されるを進み始めた。

欧州連合の成立はフェルディナント大公が長年、思い描いていた多民族国家オーストリア帝国の終着点かもしれない。

Die wahre Liebe(真の愛)

ハプスブルクの霊廟はウィーンにあるカプシィナー教会であった。
だが、ゾフィー大公妃としての権利を放棄した以上、ここに葬られることはなかった。
そこでフェルディナント大公は自らの居住したアルトシュテッテンに「夫婦ともに眠りたい」と、事前に遺言していた。

結婚してからしばらく移り住んだアルトシュテッテン
こので3人の子供が生まれ、この息子たちに囲まれ幸せな日々を過ごし、サラのあの日から数日後に再びこのに帰り、こので継と子供たちがに花束を添え、こので今も眠る。

これはハプスブルクから嫌悪されていた彼らにとって見知らぬ歴代の皇帝や係わりのない親族と眠るよりは
夫婦がともにいることこそ、心地の良いものだったかもしれない。

妻が請け賜ったホーエンベルク姓を名乗る彼らの子孫が今も墓の守り人として暮らすこのに、事件から95年を経た今も2人の墓石は寄り添い、この世の行く末をただ静かに見守り、らかに眠っている。

Das Ende

参考文献

関連項目

携帯版URL:
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%9C%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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読み:サラエボジケン
初版作成日: 10/03/17 21:18 ◆ 最終更新日: 12/02/23 01:48
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サラエボ事件について語るスレ

38 : 初版執筆者 :2011/10/19(水) 19:29:02 ID: OUZZnShQgW
>>36
どうも。ありがとうございました
39 : ななしのよっしん :2011/12/13(火) 13:35:44 ID: H9CFRmcHbm
腐女子
40 : ななしのよっしん :2012/02/09(木) 21:44:10 ID: LzK5U6OeO1
だ。全然わかんねぇ。
なんでいきなりゾフィールドルフの祖になってるんだ?

ルドルフ5歳の時にフランツが生まれて、フランツが生まれた5年後にゾフィーが生まれたんだろ?
???

なんでルドルフより年下のゾフィールドルフの祖
41 : ななしのよっしん :2012/02/23(木) 01:44:08 ID: OUZZnShQgW
>>40
ゾフィー・フォン・バイエルン(ルドルフの祖。この当時は存命中であり皇太后)と、
ゾフィー・ホテク(フランツ=フェルディナント
は同名の別人。

フォン・バイエルンはあくまでも「バイエルン王の出身」と言う意味だから、
この記事ではバイエルンなんてほとんど関係ないし
現・オーストリア皇帝と言うことを考えると「皇太后」と言う地位をつけた「ゾフィー皇太后」と名付けて区別した方がふさわしいかと。どうせ大して出てこないし。
42 : ななしのよっしん :2012/02/23(木) 01:46:43 ID: OUZZnShQgW
>>41
訂正。
×ゾフィー・ホテク(フランツ=フェルディナント
ゾフィー・ホテク(フランツ=フェルディナントの妻)

西洋史なんか、同名の君がうじゃうじゃ出てくるから困りますな。
一応、記事の方、ゾフィー・フォン・バイエルン(ゾフィー皇太后)にしておきます。
43 : ななしのよっしん :2012/03/13(火) 19:19:48 ID: LzK5U6OeO1
そういうことだったのか。
44 : ななしのよっしん :2012/03/14(水) 06:23:23 ID: YvLzu4inVP
ちょっと前に現場に行ってきたんだが
建物のに簡単な記述の記念碑があるだけだった
45 : ななしのよっしん :2012/03/17(土) 21:12:50 ID: CezEeS5EI/
ドキュメンタリー番組を見ているかのような気分になれるいい記事だった(小学生並の感想)
46 : ななしのよっしん :2012/04/05(木) 21:37:33 ID: MTSDDU4otE
どんだけ詳しいんだこの記事w
47 : ななしのよっしん :2012/04/18(水) 18:32:39 ID: g5qrgjz4Mk
犯人グループのうち三人は生き残って、そのうち二人は政府要職についたり時の政府に護されて
博物館館長になったりしてるんだよな。日本明治維新でテロやった連中が栄達したことはあったが、
世界史への影を考えるとバルカン政治の複雑さと言うか怖さを感じる。
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