ジネディーヌ・ジダン単語

ジネディーヌジダン
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ジネディーヌ・ジダンZinedine Yazid Zidane, 1972年6月23日 - )とは、フランスの元サッカー選手、現サッカー導者である。称はジズーZizou)。
サッカーフランス代表

現役時代のポジションMF185cm80kg。利き足は右足。

概要

フランスマルセイユ出身。アルジェリア移民の子であり、両アルジェリア少数民族であるベルベル人。そのため、フランスアルジェリア籍を持っている。

プロサッカー選手として1989年から2006年まで現役を続け、世界最高の攻撃的MFとして一時代を築いており、歴代最高のゲームメーカーの呼びも高い。1998年には、地元開催の1998 FIFAワールドカップにおいて決勝のブラジル戦で2ゴールを決める活躍によってフランスを初の優勝に導き、フランス民的英雄となる。この活躍が認められ、この年のバロンドールFIFA世界最優秀選手賞を受賞している。

クラブレベルでは、ユヴェントスレアル・マドリードという名門クラブとして活躍。2001-02シーズンUEFAチャンピオンズリーグ決勝で決めたボレーシュート伝説となっている。現役時代に取得できるタイトルを全て獲得しており、歴史に残るスター選手の一人として認識されている。現役引退後は導者のへ進み、レアル・マドリード監督として前人未到のチャンピオンズリーグ三連覇という偉業を達成。史上初めて選手と監督の両方でFIFA世界最優秀賞を受賞した人物である。

普段は内気で寡黙な人物として知られているが、試合中に突然昂することがあり、現役最後の試合となった2006 FIFAワールドカップ決勝では、イタリアマルコ・マテラッツィに頭突きを見舞って退場となり、世界中で話題となった。

現役時代の背番号ボルドー時代は7番、ユヴェントス時代は21番、レアル・マドリード時代は5番、フランス代表では10番。

選手としての経歴

生い立ち

アルジェリア独立戦争が起きる少し前の1953年パリに移住し、マルセイユの北アフリカ移民が集まるカステラン地区で暮らすようになったときに5人と1人の7人兄弟の末っ子として生まれた。住んでいた地域は犯罪率が高く、失業率も高いいわゆる貧民街だったが、ジダン家族はその中では較的快適に暮らせており、5歳の頃からや近所の子供サッカーを始める。

9歳で地元のクラブであるASフォレスタに入団すると、高い才が発揮されるようになり、チームキャプテンを任される。10歳のときに隣の地域のクラブであるUSサン=タンリに移籍し、11歳になるとSOセプテーム・レ・ヴァロンに加入する。

14歳のときに参加したプロヴァン地方の選抜チームでのトレーニングキャンプで、ASカンヌのスカウトのにとまり、入団オファーを受ける。こうしてジダンマルセイユを離れることとなる。

カンヌ時代

1986年カンヌのユースに入団。1988年トップチームプロ契約を交わし、1989年17歳プロデビューを果たす。カンヌではレギュラーが確約されていたわけではなく、1988-89シーズンの出場は2試合だけにとどまり、1989-90シーズンリザブチーム行きが命じられ、4部チームプレーすることになる。

1990-91シーズントップチームに帯同することができるが、スタメン出場した第3節のAJオーゼール戦でパスミスを犯し、サポーターからのブーイングを受け、その後のスタメンを4試合連続で外れることとなる。第8節のオリンピック・マルセイユ戦でスタメンに返り咲くと、幼い頃からのファンであるクラブを相手に活躍を見せ、この試合をきっかけにきを取り戻す。1991年2月10日FCナント戦でプロゴールを決め、シーズン中に14連勝を記録したチームの中心として高いポテンシャルを見せつける。

1991-92シーズンは、兵役をこなしながらプレーしていたこともあり疲労が蓄積していたが、それでも31試合に出場し5得点記録チームUEFAカップで躓いたことをきっかけに低迷する。

ボルドー時代

1992年にはリーグ・アンの名門であるFCロンダン・ボルドーへ移籍。加入1年となった1992-93シーズンは、守備的MFでの起用が中心となったが、後にフランス代表で共に黄金時代を築いたクリストフ・デュガリー、ビセンテ・リザラズと共に「ボルドーの三銃士」と呼ばれ、魅的な攻撃を構築。このシーズンゴール数は10ゴール記録し、後のキャリアでも最多得点記録したシーズンとなった。

以降もボルドーの攻撃の中心として君臨。1994年には、リーグ・アンの最優秀若手選手に選ばれる。ボルドー時代でもっともきを放ったのが4シーズンとなった1995-96シーズンリーグ戦では33試合6得点という成績を残し、UEFAインタートトカップを勝ち抜いてUEFAカップ本戦に進出。3回戦レアル・ベティス戦では、35mほどの位置からのロングシュート叩き込む。準々決勝では、強ACミランと対戦。0-2と初戦を落とした後の2nd legでデュガリー、リザラズと共にワールドクラスの名手をえたミランの守備攻略し、3-0での勝を飾り、大逆転でのベスト4進出を決める。このミラン戦でジダンの注度はますます増し、出世試合と言っていい試合となった。チームは決勝まで進出し、準優勝という成績を残し、後に移籍することとなるユヴェントスの首に「ミシェル・プラティニ(現UEFA会長)の後継者をみつけた」と言わしめた。リーグでも33試合6得点という成績を残し、この年のリーグ・アン年間最優秀選手に選出される。

ユヴェントス時代

1996年イタリアセリエAの名門ユヴェントスへ移籍。背番号は「21」。世界的にも知られるビッグクラブに加わったことでジダンの知名度はさらに増すこととなる。移籍当初はチームフィットできず、メディアサポーターからの批判を受けていたが、辛抱強く起用を続けていたマルチェロ・リッピ監督が最適なポジションは2トップの下のトレクァルティスタ(TREQUARTISTA)であるという答えを導き出すと、鮮きを放つようになる。11月26日には、初めて日本を訪れ、トヨタカップ1996でリーベル・プレートを破ってのクラブ世界一獲得に貢献。キャリア初のメジャータイトル日本で獲得することとなった。シーズン後半戦になると、もはやチームに欠かせない存在となり、1996-97シーズンのスクデット獲得をもたらす。また、初出場となったUEFAチャンピオンズリーグでも決勝進出の立役者となるが、決勝でボルシア・ドルトムントに敗れ、ビッグイヤー獲得を逃す。

1997-98シーズンアレッサンドロ・デル・ピエロフィリッポ・インザーギの2トップ(通称デルピッポ)の下でプレーする役割を与えられ、強トライアングルを形成。ブラジル怪物ロナウドを擁するインテルしいスクデット争いを展開するが、第31節の直接対決を制したことで2年連続でのスクデット獲得を達成。CLでも質の高いゲームメイクを披露し、チームの3年連続での決勝進出に貢献。しかし、決勝でレアル・マドリードに敗れ、自身初のビッグイヤーはまたも前でに終わる。1998年は、ワールドカップ優勝をもたらしたこともあり、バロンドロールとFIFA世界最優秀選手賞を受賞世界最高のフットボールプレイヤーとして認められる。

1998-99シーズンは、ワールドカップで決勝まで戦った疲労が開幕後も残り、前半戦は精を欠いたプレーが続く。加えてデル・ピエロシーズンの大半を棒に振る大怪を負ったことでチームは慢性的な得点不足に陥ってしまう。自身も怪で離脱するなど25試合の出場にとどまり、セリエAでは6位に終わるという不本意なシーズンとなってしまう。

1999-00シーズンは、開幕から好調を維持し、怪の後遺症に苦しむデル・ピエロが極度のスランプに陥る中でチームを牽引。カルロ・アンチェロッティ監督も中盤の形をフランス代表に近いものに形成し、よりジダン中心のチーム作りを進めていた。首位でシーズン終盤を迎えていたが、最後の8試合でチームは4敗を喫するほど調子を落とし、最終節でSSラツィオに抜かれてスクデットを逃す。このときジダンは、悔しさを強く滲ませたコメントを残している。

2000-01シーズンは、フランス代表のチームメイトであるダビド・トレゼゲが加わり、自身もチームも上々のスタートを切る。ところが、2000年10月25日CLグループリーグハンブルガーSV戦で相手のファウルに対して頭突きによる報復行為をおこない退場になる。この試合エドガー・ダーヴィッツも退場していたためユヴェントスは9人での戦いを強いられ、敗北。この行為にイタリア内はもちろん、各メディアから強い批判を受ける。UEFAからは5試合の出場停止処分が科せられ、ジダンを失ったチームグループリーグ敗退となる。この行動が原因で2000年バロンドールを逃すこととなった。また、この頃自身の気持ちはスペインへの移籍に傾いており、フロントに対して何度も移籍の希望を訴えていた。

レアル・マドリード時代

2001年7月当時の史上最高額の額である9500ユーロスペインリーガ・エスパニョーラレアル・マドリードへの移籍が決定。背番号は「5」。当時のレアルはフロレンティーノ・ペレス会長のもと大な額をかけた大補強による銀河系軍団を作り上げており、その一因に加わることとなった。また、2000年モナコで行われたUEFAのレセプションでレアル・マドリー会長であるフロレンティーノ・ペレスと同席になり、ペレスジダンに向けてレアル・マドリーへ来たいか?」と書いたを見せ、それを見たジダンは殴り書きでYesと答えた。有名なエピソードである。

加入1年となった2001-02シーズンチームは、スター選手とカンテラ出身の生え抜きが共存するような構成となった。当初はメディアからのプレッシャーに悩んでいたが、スペインでの生活に慣れてくると、銀河系軍団の中心として活躍。CLでは、準決勝でFCバルセロナを破り、自身3度となる決勝へと駒を進める。2002年5月15日おこなわれた決勝のバイヤー・レバークーゼン戦では、1-1の同点で迎えた前半終了間際にロベルトカルロスが放った大きなクロスを左足のダイレクトボレーで合わせたスーパーゴール叩き込み、これが決勝点となり、自身3度目の正直で悲願であったチャンピオンズリーグ優勝を達成。この試合でのジダンゴールは「サッカー史上最も素晴らしいゴールの1つ」として伝説となり、今日に至るまでり継がれている。

2002-03シーズンも高いゲームメイクを発揮し、銀河系軍団の名にふさわしいスペクタクルなフットボールを演出。この年加入したロナウドを含め、バロンドール経験者が3人名を連ねるスター軍団の中でも別格のくを放っていた。2002年12月3日には、パラグアイのオリンピアを下し、トヨタカップ優勝リーガ・エスパニョーラでもリーグ断トツ1位得点数を記録し、優勝。栄を極めていた銀河系軍だったが、このオフシーズンペレス会長の独断ともいえる補強戦略によってその時代は終わりを告げようとしていた。

2003-04シーズンは、最初にスペール・コパ・デ・エスパーニャタイトルを獲得するが、これがジダンにとっての最後のタイトルとなった。これまでスターいの攻撃の分まで中盤の守備を担っていたクロード・マケレレを放出してしまったことでチームバランスが崩壊。2004-05シーズンは、シーズン中に二度も監督が交代する混乱シーズンとなってしまい、2シーズン連続で冠に終わってしまう。

2005-06シーズンも選手間の轢や規の欠如という様々なピッチ内外の問題を抱えていたチームの中、自身は変わらず、ファンを魅了するプレーを披露し続けていた。2006年1月6日セビージャ戦では、自身キャリア初となるハットトリックを達成する。そして、2006年4月25日にこの年の6月に開催されるワールドカップを最後に現役を引退することを正式に発表。この発表は世界中に衝撃を与え、サンャゴ・ベルナベウでの最後の試合となったビジャレアル戦では8万人がスタジアム駆けつけた。ラストシーズンの成績は29試合出場9得点で、まだまだトップレベルを残しながら引退することを物語っていた。

フランス代表

1994年8月7日、負傷したユーリ・ジョルカエフに代わる追加招集して初めてフランス代表に呼ばれ、チェコとの善試合で後半18分から出場し、デビューを果たす。その試合で2ゴールをあげる活躍を見せると、エメ・ジャケ監督に才を買われ、代表に定着する。

EURO96予選では、当初は出場機会が少なかったが、1995年に入ってからチームの中心として起用されるようになる。当時のフランス代表は、98年ワールドカップの開催に決まっていたが、2大会連続で予選敗退という低迷期に差し掛かっていた。ジャケ監督は、これまでチームだったエリックカントナ、ダビド・ジノラ、ジャンピエールパパンを外し、ジダンを軸にした若い世代中心のチーム作りを進め、EURO96は彼らに経験を積ませるための場と位置付けていた。ジャケ監督の期待に応え、4月26日スロバキア戦ではチームの4ゴール全てに絡む活躍を見せ、10月11日ルーマニア戦ではハーフボレーによるゴールを決め、EURO本大会出場権を獲得する。

1996年6月自身初の舞台でのビッグトーナメントとなるUEFA EURO96に背番号「10」を背負って出場。大会の直前に自動車事故を起こし、怪を抱えながらプレーすることとなるが、スペインルーマニアブルガリアという2年前のワールドカップベスト8以上に入ったチームに囲まれたグループを首位で通過。準々決勝と準決勝は共にPK戦までもつれこむことになるが、そのどちらの試合にもフル出場。準決勝でチェコに敗れるが、ベスト4という合格点の成績を残す。

開催のワールドカップとなるため、予選は免除となるが、その間のテストマッチチーム得点不足に悩まされ、チームは勝ち切れない試合が続いていた。ユヴェントスで見せるようなプレーを代表で発揮しきれないジダンやジャケ監督フランス民やメディアから批判が集まり、カントナたちを復帰させることをめるも多くなっていた。それでも、1998年1月28日ワールドカップメインスタジアムとなるスタッド・ドゥ・フランスこけら落としとなるスペイン戦でゴールを決めている。

1998年6月から地元フランスで開催された1998 FIFAワールドカップ背番号10を付けて出場。グループリーグ初戦の南アフリカ戦を難なく制するが、第2戦のサウジアラビア戦で事件が起きる。3-0とリードしていた後半25分相手チームキャプテンを踏みつけてしまい、退場となる。FIFAからは2試合の出場停止処分が科されてしまう。攻撃の全権を握るジダンを失ったフランスだったが、窮地に立たされたことで結束を強め、持ち前の堅守をベースベスト16までを勝ち抜き、準々決勝のイタリア戦から復帰することとなる。7月13日おこなわれたブラジルでの決勝では、前半27分エマニュエルプティの右コーナーキックニアサイドで反応し、先制ゴールとなるヘディンシュートを決める。さらに、前半終了間際今度はジョルカエフの右コーナーキックに反応し、またしてもヘディンシュートを決め、試合を決定づけ、フランスの初優勝に大きく貢献する。この活躍でフランス英雄となったジダンの顔が大会後、エッフェル塔に掲げられ、凱旋門にも顔が映し出された。さらに、この年のバロンドールFIFA世界最優秀選手賞を受賞し、一気に世界的なスーパースターへと昇り詰める。

ワールドカップ後にジャケ監督が退任し、ロジェ・ルメール監督のもとで再スタートを切るが、ワールドカップエネルギーを使い果たしたこともあり、EURO2000予選では苦戦。予選敗退の危機に立たされていた最終節のアイスランド戦に辛くも勝利し、本大会出場を決める。

2000年6月に開催されたUEFA EURO2000では、コンディションもすっかり回復し、攻撃の中心としてティエリ・アンリダビド・トレゼゲ、パトリック・ヴィエラといった若手が加わったチームを牽引。グループリーグを2連勝し、決勝トーナメント進出を決める。準々決勝のスペイン戦では、フリーキックから直接ゴールを決める先制ゴールによって勝利に貢献。準決勝のポルトガル戦では延長戦に入って得たPKをきっちりと決め、決勝進出へと導く。決勝のイタリア戦では、1点を先制されてからのチームの猛攻を演出し、延長戦でのトレゼゲのゴールによって逆転での優勝を飾る。大会を通して素晴らしいパフォーマンスを見せたジダンは、大会の最優秀選手に選ばれ、2度となるFIFA世界最優秀選手にも選ばれる。ジダンを中心としたフランス代表は黄金時代を迎えていた。

この当時のフランスは、次々と有望な若手が台頭し、彼らが欧州リーグで活躍していたことで、2002年 FIFAワールドカップでは世界最強チームと称されていた。ところが、大会直前の韓国との善試合で左膝を負傷してしまい、本番に入っても回復はしなかった。ジダン不在のチームは、グループリーグの2試合で1分1敗となってしまう。崖っぷちに立たされた第3戦のデンマーク戦に包帯を巻いて強行出場するが本来の出来には程遠く、0-2で敗れ、1勝もできず、ノーゴールのままグループリーグ敗退となるまさかの結末を迎える。

失意の日韓ワールドカップ後、EURO2004予選を全勝で勝ち抜き、自身3度となるUEFA EURO2004に出場。グループリーグ初戦のイングランド戦では、1点ビハインドで迎えた試合終了間際の後半45分にフリーキックから直接ゴールを決め決め、同点に追いつく。さらに2分後アンリが得たPKを自ら決め、劇的な逆転勝利をもたらす。チーム全体が低調の中で獅子奮の活躍を続け、第3戦のスイス戦でも先制ゴールを決め、グループリーグ突破に貢献。しかし、準々決勝ではこの大会で台風となっていたギリシャに敗れ、ベスト8で敗退。大会後、若手にを譲るために代表引退を表明する。

2005年に入り、ドイツW杯欧州予選を戦うフランス代表は、レイモン・ドメネク監督の不可解なチーム作りもあって迷走。予選敗退の危機にドメネク監督キャプテンのヴィエラから代表復帰の要請を受け、ジャック・シラク大統領までが復帰のために動くという大事になった中、8月3日リリアン・テュラムクロード・マケレレと共に代表復帰を表明。復帰後は、ヴィエラからキャプテンを譲られ、予選敗退の危機にあったチーム救世主となり、本大会出場権を勝ち取る。

2006年4月に大会後の引退言して臨んだ2006 FIFAワールドカップでは、グループリーグを1勝2分で辛うじて通過し、ベテラン体のチームへの評価は高くない状況だった。しかし、ラウンド16のスペイン戦で”ジダン魔法”が発動し、低調だったチームが躍動。試合終了間際には、引退を間近にした選手とは思えないキレのあるドリブルから自らゴールを決め、下評を覆してのベスト8進出に導く。準々決勝のブラジル戦ではフリーキックからアンリゴールアシストする。ちなみに、このゴールが長年代表でコンビを組みながら1度も実現していなかったジダンアンリゴールアシストする場面だった。準決勝のポルトガル戦でも、前半33分にPKによるゴールを決め、ついに決勝進出を果たす。
2006年7月9日、現役最後の試合となったイタリアとの決勝では、前半7分に得たPKのチャンスにパネンカを決め、先制ゴールをもたらす。その後、1-1の同点となったまま試合は延長後半に突入。そして、延長後半6分マルコ・マテラッツィの挑発に昂して頭突きを見舞い、一発退場となる。レッドカードと同時にジダン々しい現役生活は終了。フランスPK戦の末に敗れ、準優勝となる。現役最後の大会でフランスを決勝に導いた功績が評価され、大会の最優秀選手に選ばれる。

決勝での”頭突き騒動”は、大会が終わった後も多くの論争を呼ぶこととなった。頭突きを受けたマテラッツィがジダン家族を侮辱する発言をしたことから、マテラッツィのほうがむしろ批判を多く集め、2人の確執は今日に至るまで全には終わっていない。

個人成績

シーズンクラブリーグ試合得点
1988-89 カン リーグ・アン 2 0
1989-90 カン リーグ・アン 0 0
1990-91 カン リーグ・アン 28 1
1991-92 カン リーグ・アン 31 5
1992-93 ボルド リーグ・アン 35 10
1993-94 ボルド リーグ・アン 34 6
1994-95 ボルド リーグ・アン 37 6
1995-96 ボルド リーグ・アン 33 6
1996-97 ユヴェントス セリエA 29 5
1997-98 ユヴェントス セリエA 32 7
1998-99 ユヴェントス セリエA 25 2
1999-00 ユヴェントス セリエA 32 4
2000-01 ユヴェントス セリエA 33 6
2001-02 レアル・マドリード プリメーラ 31 7
2002-03 レアル・マドリード プリメーラ 33 9
2003-04 レアル・マドリード プリメーラ 33 6
2004-05 レアル・マドリード プリメーラ 29 6
2005-06 レアル・マドリード プリメーラ 29 9

引退後の経歴

2006年7月引退した後は、フランステレビ局解説者を務めていたが、2009年6月1日にフロレンティーノ・ペレスレアル・マドリード会長に復帰したことで、クラブドバイザーに就任。2010年10月11日ジョゼ・モウリーニョ監督からの要請を受け、チームに同行するようになる。

2011年2月8日には、ローレウス世界スポーツ賞の生涯功労賞を受賞。サッカー選手としては、ペレヨハン・クライフフランツ・ベッケンバウアーに次ぐ4人の受賞となった。

2011年5月には、モウリーニョとの対立からホルヘ・バルダーノGMが職を終われたことに伴い、スポーツディレクターに就任する。2012年後半にスポーツディレクターの職をフェルナンド・イエロに譲り、クラブの下部組織に関わる立場になる。メディアモウリーニョとの確執を追及するが、実際は本格的に導者のを歩むための準備に入っていた。2013年7月8日UEFA認の導者ライセンスを取得。

2013-14シーズンには、かつての恩師であるカルロ・アンチェロッティレアル・マドリード監督に就任したことに伴い、トップチームアシスタント役となる副監督に就任。この期間にアンチェロッティから監督としてのノウハウを学ぶこととなった。

2014年6月24日リザブチームであるレアル・マドリードカスティージャの監督に就任する。実際、スペイン3部リーグ以上のチーム揮するライセンスを有していなかったため、名上は助監督という肩書になっていた。しかし、実質的にはチーム監督として振る舞っており、これが問題視されて10月27日に正しいライセンスを保持していないことを理由に、スペインサッカー協会から3か間の活動停止処分を受ける。だが、クラブスポーツ仲裁裁判所に上訴したことによって処分が撤回される。チームはこの年、セグンダ・ディビジオンBで6位に終わる。

2015年5月9日欧州最高位のプロライセンスであるUEFAプロライセンスを取得。これによって、正式に監督に就任することとなる。

レアル・マドリード監督時代

2015-16シーズン前半はカスティージャの監督を続けていたが、2016年1月4日、解任されたラファエル・ベニテス監督の後任として、レアル・マドリードトップチーム監督に昇格する。クラブレジェンドであるジダン指揮官となったことで選手のモチベーションが上がり、不調に陥っていたチームの成績は上昇する。ラ・リーガでは、優勝は逃したものの、一時は勝ち点10以上を付けられていた首位バルセロナとの差を最終節までに1ポイント差まで詰め寄る快進撃を見せる。CLでは、決勝でアトレティコ・マドリードPK戦の末に下し、就任1年での優勝を達成。史上7人となる選手・監督の両方でCL優勝を成し遂げた人物となる。

2016-17シーズンも、トニ・クロースルカ・モドリッチイスコの中盤の構成を前面に出したチームを作り、クリスティアーノ・ロナウドをより9番に近い役割とすることで前年よりも攻撃を強化することに成功。をうまく休養させて、コンディションを維持されるチームマネージメント術も見せていた。前年から続いていた公式戦の連続記録40試合というスペイン記録立。リーグ戦では、近年後を拝していたバルセロナを抑えて、プリメーラ・ディビシオン優勝を飾り、CLでも2年続けて決勝に進出。決勝では、現役時代の古巣であるユヴェントスを相手に勝し、史上初となるチャンピオンズリーグ2連覇を達成。この年のFIFA年間最優秀監督賞を受賞する。

2017-18シーズンは、に怪人が相次いだこともあって々とスペイン内の2つのタイトル争いから離脱することとなり、2018年に入ってからはCL重視の采配を見せるようになる。結果、リーガでは3位に終わるが、CLでは例年通りの勝負強さを発揮し、3年連続での決勝進出を果たす。決勝では、ガレス・ベイルの投入が当たり、リヴァプールFCを3-1で下して前人未到となるCL3連覇を成し遂げる。シーズン終了後、「勝ち続けるには変化が必要」という理由で退任する。

その後、フリーの立場となっていたが、フレン・ロペテギ、サンチャゴ・ソラーリと2人の監督が解任した危機的状況にペレス会長からの説得を受け、2019年3月12日レアル・マドリード監督電撃復帰を果たす。退任してから284日での復帰となったが、エースクリスティアーノ・ロナウドが移籍したで低調だったチーム全に立て直すことはジダン神通をもってしてもわなかった。

2019-20シーズンの序盤は不安定な戦いが続き、CLグループリーグでは、パリ・サンジェルマンに0-3で敗するなど、かつて見せたほどの強さを見せられずにいた。しかし、フェデリコバルベルデの台頭もあって、ソリッドな守備をベースにしたチーム作りにを切ると、この年のバルセロナとのエル・クラシコに勝ち越すなど軌に乗るようになる。新型コロナウィルスの感染拡大によるリーグ中断を経てリーグが再開されて以降は、怒涛のリーグ戦10連勝を記録し、3シーズンぶりとなるラ・リーガ制覇を達成。

2020-21シーズンセルヒオ・ラモスダニエル・カルバハルといったチームの重鎮がってシーズンの大半を欠場するなど厳しいマネージメントを強いられることになる。前半戦の低調な戦いぶりから解任寸前とまで報じられるも、堅守速攻にを切った戦術に変更することで後半戦に入ってチームは持ち直していく。厳しい台所事情の中で奮闘したものの、CLではベスト4でチェルシーに敗れ、ラ・リーガでは最終節まで喰らいつきながら一歩及ばず、冠に終わる。シーズン終了後の2021年5月27日に退任を発表する。

監督としての成績

シーズンクラブリーグ順位獲得タイトル
2015ー16 レアル・マドリードカスティージャ セグンダB ※1
レアル・マドリード ※2 プリメーラ 2位 CL
2016-17 レアル・マドリード プリメーラ 1位 リーガCL
2017-18 レアル・マドリード プリメーラ 3位 CL
2018-19 レアル・マドリード ※3 プリメーラ 3位
2019-20 レアル・マドリード プリメーラ 1位 リーガ
2020-21 レアル・マドリード プリメーラ 2位

※1 2016年1月4日トップチーム監督に就任したため、シーズン途中に退任。
※2 2016年1月4日より、シーズン途中に就任。
※3 2019年3月12日より、シーズン途中に就任。

プレースタイル

トップ下のポジションで攻撃の全権を握るであり、味方に的確なパスを出して攻撃を組み立てる。足元のレベルが歴代のプレイヤーの中でも群を抜いて高く、まるで足下にボールが吸い付くかのごとく繊細なタッチでどんなボールであってもしっかりと足下に収め、これを両足でやってのけるだけの技術を有している。相手に囲まれても技術の高さを駆使することでほとんどボールを失うことがなく、圧倒的なボールキープによって味方に時間とスペースを与え、チャンスと見ると一撃必殺スルーパスで決定機を生み出す。

ドリブルの技術も高く、スピードアジリティが特別秀でていたわけではないが、軸がしっかりしているため体の近い位置にボールを扱うことができ、相手が踏み込むことができない間合いでボールキープしながら前進していくスタイルのドリブルを得意としていた。そのため、単なるパサーというわけではなく、ドリブルボールを運びながら試合をコントロールするスタイルだった。ドリブルの途中で両足の裏ボールを転がしながらターンをし、相手をかわす「ルーレット」という技を得意としていた。日本では、たびたび「マルセイユルーレット」とも呼ばれ、当時のサッカー少年たちの多くがこれを真似しようとしていた。

普段のレギュラーシーズンでの得点はさほど高くないが、1998年ワールドカップ決勝や2001-02チャンピオンズリーグ決勝のように、大舞台で勝負を決めるようなゴールを奪うことが多い。左右両足からパワー、正確さ、スピードを有したシュートを放つことができ、フリーキックからの直接ゴールも多い。ここぞというときは、185cm長身を生かしたヘディンシュートによってゴールを狙うこともある。

フィジカルやボディバランスにも長けており、プレッシングサッカー全盛の時代を迎えファンタジスタ絶滅種になり始めていた1990年代後半のセリエAにおいてジダントップ下の位置で王様として君臨できたのも、プレッシングに対抗できるだけのフィジカルを有していたからである。本来なら相反する繊細さと強さを合わせ持ったプレイヤーであると言える。

指導者としての特徴

戦術というよりはモチベータタイプ監督であり、クリスティアーノ・ロナウドローテーションを受け入れるように説得するなど、現役時代のカリスマ性を駆使したチームマネージメント術に長けている。の強いタレントレアル・マドリードロッカールームをもっともまとめることができず監督といえ、必要最小限の言葉を用いて、選手にアドバイスおこなうタイプである。

導者としてのを受けているのは、現役時代に師事し、アシスタントコーチとして右腕を担ったこともあるカルロ・アンチェロッティである。クロースモドリッチの両インサイドハーフサイドバックの後ろのエリアに落としてビルドアップに関与させる戦術は、アンチェロッティが採用していたものを踏襲している。自身もアンチェロッティのことを偉大な導者であると称している。

CL三連覇の時代は、中盤の構成を中心にクリスティアーノ・ロナウド得点を活かすためのチーム作りをしていたが、後方のリスク管理の甘さが立ち、セルヒオ・ラモスやカゼミーロの個人ので何とかしている面があった。レアル・マドリード監督に再任した後は、堅い守備をベースとしたソリッドチーム作りをおこない、規の取れたチームに仕上げている。ジョゼップ・グアルディオラユルゲン・クロップのように自身の哲学や戦術が前面に出るタイプではないが、ここぞという時の勝負強さや思い切った采配は現役時代を彷彿とさせるものがある。

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ジネディーヌ・ジダン

42 ななしのよっしん
2014/07/06(日) 23:12:26 ID: pV+0kbokb5
殴ったとか蹴ったとかじゃなくて、頭突きなところが好きwwww
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43 ななしのよっしん
2015/09/16(水) 05:32:23 ID: aIOOLqt8kK
トラップもだが、何よりキープが歴代最高の選手だと思う。贔屓なしで今も昔もこいつほどボールキープできる選手見たことない
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44 ななしのよっしん
2016/01/06(水) 07:45:53 ID: gZlh9LtJqA
マドリー監督に就任、どうなるかな
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45 ななしのよっしん
2017/02/17(金) 17:51:50 ID: HBpKQ2rMSW
キープが歴代でも断トツだわ
凄いことをさりげなくするから感覚が麻痺してた
采配はあれだが監督になってからも結果残してるし、やっぱり持ってるわ
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46 ななしのよっしん
2017/03/13(月) 03:26:57 ID: 4NpzDE7kGO
頭突きから10年後に監督としてレアルCL優勝に導くとはね
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47 ななしのよっしん
2017/05/01(月) 21:29:43 ID: hQbWecULe8
>>sm31113522exit_nicovideo
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48 ななしのよっしん
2017/08/18(金) 16:00:17 ID: BKxEUM8Hkg
もう7タイトルレアル史上3番タイトル数が多い監督になっとる…
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49 ななしのよっしん
2017/11/21(火) 13:52:41 ID: v3cCSD6NTi
ペップと並ぶ名将扱いされてた時期もあったけど、とんだ過大評価だったわ
チーム危機に対してここまで傍観を決め込むとは・・・
もうこの人はお飾りでいいよ。
有能アシスタントコーチ呼んでくれ。
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50 ななしのよっしん
2018/06/01(金) 00:02:25 ID: j7izAN12rq
ジダン監督として欧州チャンピオンズリーグ初の3連覇を成し遂げた後、退任を決定した。
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51 ななしのよっしん
2021/09/02(木) 10:19:05 ID: WvMWYGz/Mh
レアルほど才が集まってて、ストイックでやる気あるリーダーである選手が多いチーム導や強制は逆効果になる事が多いからな。

若いしまた監督になることもあるだろう、いずれジダンカリスマ性が必要になる
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