概要
元々は独立した自動車メーカーであったが、数度の業界再編や国営化、外国企業による買収を経て、現在はジャガー・ランドローバーとしてインドのタタ・モーターズ傘下の企業になっている。本社の所在地はイギリスのコヴェントリー。高級車メーカーとして世界に広く知られている。
戦前に「ベントレーより美しく、ベントレーより安い」車を作ったことで人気を博し、その地位を築いた。現在でも、高性能で美しく、ベントレーより安い車を作っている。
歴史(市販車)
1921年に二人のウィリアムが知り合ったところから、ジャガーの歴史は始まった。商才のあるウィリアム・ライオンズと技術屋のウィリアム・ウォーズレーは、互いに乗り物に興味があったことで知り合ってすぐに意気投合。間もなく側車専門のコーチビルダー「スワロー・サイドカー」を設立。優れたスワローの側車は人気を博し、会社の経営が軌道に乗る。
事業意欲旺盛なライオンズが次に目をつけたのは自動車だった。自社を自動車メーカーにしようという目標があったものの、とりあえずコーチビルダーらしく既存の車に格好良いボディを載せるところから始める。当時はモノコックボディが一般的でなく、普通の乗用車はフレームにボディを架装するのが当たり前であったので、このようなこともできた。その美しいボディは消費者の心を掴み、この車も人気となり会社は拡大していく。ライオンズが次に企画したのは、既存のエンジンを流用しつつ専用のシャシーを採用した自分達独自の自動車の開発である。その車の名前がジャガーに決定。ジャガーSS1、SS2という2種類のクーペが世に出て好評となる。このジャガーが後に会社名になるのだが、それはもうちょっと後の話。事業は好調だったがウォーズレーは会社の拡大にはそれ程興味が無く、会社の経営権を全てライオンズに譲り自分はスワロー・サイドカーを離れてしまう。
ライオンズはウォーズレーを失ってからあちこちから技術屋をかき集めて、独自の自動車作りに奔走。1935年には初の4ドアサルーンとなる21/2Lを発売する。エンジンは引い抜いた技術者を活用し、既存ユニットのチューナップながら100馬力を達成した。消費者には非常に好評だったが、その理由は「ベントレーのような高級感ある外観、ブガッティ並みの性能、それでいて安い」ということである。だが躍進もここで一旦休止となってしまう。第二次世界大戦が勃発し、イギリス本土はルフトヴァッフェの爆撃に晒され、ジャガーも軍事工廠として国の管理下に置かれてしまったからだ。
終戦後に乗用車事業が再開。最初に手をつけたのは社名の変更である。スワロー・サイドカー社の略称は「SS」であり、これはナチス親衛隊の略称と同じであったので、イメージが悪いとライオンズが判断したのだ。そこで戦前の自社製品から名前を取り「ジャガー」とする。
肝心の製品はといえば、他の欧州車メーカーと同じくしばらくは戦前の焼き直しでお茶を濁す。しかしこのときもジャガー躍進の雛形となるモデルが登場した。XK120というスポーツカーで、その新しいデザインは人々の耳目を集める。エンジンは一気にDOHCとなり、性能面でも優れたものとなった。この車をベースにしたレーシングカーはル・マンに出場し、初出場で初優勝という快挙を達成。高性能なジャガーというブランドイメージの確立に成功する。この詳細は、下記歴史(モータースポーツ)を参照。1950年に戦後型第一世代のサルーンとなるマークⅦを発表。これはXK120のエンジンを使い、今日で言う高性能と快適性を両立した、高性能スポーティセダンのようなものである。
ジャガーのターンはまだ終わらない。1955年には、より小型のジャガーサルーンを欲しがるお客さんのために、2.4というマークⅦよりは小さいセダンを発売。マークⅦは改良を重ねてⅧ、Ⅸと進化を続けていた。1959年には2.4の後継となるマーク2を発売。これは小さなボディに大排気量エンジンモデルもある高性能な車であり、スポーティサルーンのジャガーの名に恥じないものであった。さらにさらに、1961年にはEタイプとマークXが世に出る。EタイプはXK120の後継モデルであり、長いボンネットに流麗なボディを持つスポーツカーで、しかも同程度の性能を有する他社のスポーツカーより安かった。当然売れる、アメリカでも売れまくる。マークXは後のXJへと繋がるスタイルを有しており、モノコックボディで重量は軽く、エンジンはスポーツカーのEタイプと基本的に同じもの。ちなみにこの車は重量と良い大きさと良い、現行のXJ/X351とほぼ同レベル。
このように車作りのほうは絶好調であったが、経営の方は徐々に死亡フラグが立ち始める。経営安定化の為に、ブリティッシュ・モーター(BMC)との合併を行ったのだ。別にBMCがクソというわけではない。戦後の植民地独立やらなんやらで、日の沈まぬ帝国も沈み始めていただけであり、何となくその時期と重なっただけなのだ。だがブリティッシュ・レイランドのフラグが立った事だけは覚えておいて欲しい。
そしてついに1968年、ジャガー史上最大の傑作とも言うべきモデルが世に出る。4ドアサルーンのXJだ。スタイルはマークXをさらに近代化したようなスタイルで、その時代のヨーロッパ車にあっては一際新しく洗練されたボディを持ち、勿論性能も高かった。流麗ではあるが力強くもあり、走る姿が様になり、走らせるのが楽しい車。その美しい姿は、当時14歳の少年の心に鮮烈に刻み込まれ、感動を与えた。少年の名はイアン・カラム。
「XJはとんでもないものを盗んでいきました、イアンの心です」
これで良い方のフラグも立った。しかしこのXJが、後にジャガー・デザインを強く束縛するなど当時のデザイナーは思いもよらなかっただろう。運命の女神のなんと気まぐれなことか。
さらに運命が酷いことをしやがるのである。ライオンズら重鎮が高齢を理由に引退していくことで、民族企業存続の岐路にジャガーが立たされたことだ。そこで出された決断とは、業界再編によりレイランドグループと合併したこと、つまりブリティッシュ・レイランドの誕生である。もちろんこれはイギリス自動車産業の生き残りをかけたものだったが、それが自らの身を削って燃すための焚き火工場を作ることに繋がるとは、当時の人々は知る由もなかったであろう。
こうしてブリティッシュ・レイランド体制でXJが作られ、さらにEタイプの後継となるクーペのXJ-Sも登場し、ジャガーはひたすら走り続ける。が、ここでまたしても運命は試練を与える。1970年代に入るとジャガーの工場は「ブリティッシュ・レイランドの高級車製造部門」という嫌がらせのようなポジションを与えられ、ジャガーというブランドを貶めることになる策が始まるのだ。まず従業員の質がブリティッシュ・レイランド基準になり、当然品質がた落ち、顧客は「なにこのクソ車」と思うようになる。皆さんがよく知る「壊れるジャガー」というのは、全部こいつらのせいです。これではまるで「みんなで手を繋いでゴールするのが平等」という、ゆとり徒競走のようだ。どこの国でもアカの考えることは同じだね。そこに畳み掛けるようにオイルショック到来で、高性能車が売れなくなる。ブリティッシュ・レイランド倒産の危機!。そこでイギリス政府が取った判断は、ブリティッシュ・レイランドの国有化。壮大な焚き火祭りの始まりだ!
しかし気まぐれな運命の女神に翻弄されても、神はジャガーを見捨てなかった。1977年にブリティッシュ・レイランドの新しい経営者になったマイケル・エドワーズは、会社の建て直しの為に部門ごとに独自性を出すことにする。ジャガーの高い個性に着目したエドワーズは、ジャガー用の経営者としてジョン・イーガンを抜擢。イーガンはジャガーの経営を立て直すため改革を始める。
まず最初に手をつけたのは、従業員の質向上である。如何せん、製品を生かすも殺すも彼ら次第。つまりジャガーを作るに相応しい自覚を持った人材がおり、その人材が技術を養うからジャガーでいられるわけだ。よって、彼らにジャガー社員としての心得を理解してもらわないといけない。
「お前達はジャガーを作るために生まれてきた。お前達はジャガーを作り、ジャガーのオイルパンの下で死ぬ。お前達はジャガーを作るオイル塗れの司祭となるのだ。わかったか!」
同時に顧客の要望を聞き、不具合対策などを迅速に行うことにも力を入れる。つまるところ健全に経営するには、模範的な日本企業のようなことをやらないとダメだったのだ。この改革の良い影響があり、品質は改善、売上は伸びる。「ジャガーの販売が増えるよ!」「やったねイガちゃん!」。
モデルの方はというと1986年にXJ40のコードで呼ばれる第二世代XJへの移行があったが、この辺りからデザインの方がなんだか妙な方向へいく。それは確かにFMCで、細部は先代とは変わっているものの、プロポーションとか全体の印象があんまり変わってない感じ。そう、デザインの美しさは誰もが認めつつも、初代XJモチーフ縛りがかかる「ジャガーのレトロモダン化」が始まったのだ。上のほうをもう一度読んで欲しいが、初代XJは当時としては新しいデザインだったのだ。それに縛られるって、なんだかおかしくね?どうしてこうなった、どうしてこうなった。おそらく保守的な顧客に配慮したのだろうが。
経営の方はというと、会社がフォードにドナドナされる。以後はフォード傘下で経営する時代となる。
1990年代半ばになると、新たな二つのモデルが登場。XJ-S後継となるクーペのXKと、第ニ世代の大幅なマイナーチェンジを受けたXJだ。XKはモダンなデザインをした流麗なクーペで、Eタイプを彷彿とさせるものの、新たな時代のジャガー・クーペを見せ付けるものであった。まぁこれは良い。問題はXJだ。X300のコードが与えられたそれのデザインは、丸目4灯のライトと良いなんとかかんとか、要するに初代XJを明らかに意識しすぎたデザインで出てきたのだ。まぁマイナーチェンジだからしょうがないのかもしれないけど。それでもやはり、アメリカ人はこう考えたのだろう「ジャガーと言ったらこれじゃね?」と。もちろんこれが美しいのは間違いないが、いつまで経っても初代縛りである。
後にイアン・カラムは、日本の自動車雑誌のインタビューで次のように語っている。
「当時、既にもうこの方向性のデザインは無理じゃないかな、と思ってました。だけど当時のデザイン部門の責任者は、アメリカ人にデザインを制限されていたんだよね(要約)」
但し中身は勿論進化していて、ボディパネルは日本製の工作機械を使ってプレスし、電装品のマネジメントはデンソーと、品質向上が計られている。
こういう思いが現場レベルにあることも考えず、V8・OHVエンジンのハートで有鉛ガソリンを燃やすメリケンの勢いは止まらない。モンデオベースのXタイプがでるが、やっぱりXJを無理矢理焼きなおして小さくしたような外観。さらにSタイプというEセグメントぐらいの車をだすが、これは殆どマークII。なんか見ようによっては、ジャガーはマツダとは比にならないくらい不遇じゃないかね。親会社同じなんだぜ、これで。
メリケンの暴走でデザインが制約されまくっていた1999年、デザインディレクターのジェフ・ローソンが55歳という若さで亡くなった。後年は、経営陣に押し付けられたクラシック一辺倒のデザインに翻弄された、波乱の人生であった。
後任として、生前にローソンから後継指名を受けていたイアン・カラムが、ついにジャガーにやってくる。イアンは考えた。
そしてコンセプトカーのRクーペを出した後で、現行XKを発売。さらにコンセプトカーのC-XFを出し、完全にモダンなジャガーサルーンを顧客に提示した。後にこのコンセプトモデルのデザインをモチーフにした、XFというEセグメントモデルを発売。ジャガーらしさを踏まえつつ形には拘らないという、温故知新の道を歩み始める。
さて、肝心のXJはといえば、X350のコードとなる三代目はやはり従来的なXJのスタイルであった。だが用いられる技術はすごい。最も顕著なのは総アルミモノコックボディで、組み付けには溶接を使わず、非貫通リベットと接着剤を使用。同クラス他社製品より大幅に軽量化することができた。しかし物凄く新しいことをやっているのに、デザインは相変わらず初代縛りのクラシックという。FMCしてもこれだよ。
それでも売れれば良かったのだが、実際はあまり売れなかった。理由の一つは廉価モデルが上位移行をしたことで最低価格が上昇し、ヨーロッパの企業で行われているカンパニーカー(幹部社員向け車両貸与)需要が離れたこと。廉価モデルがEセグメントと同程度の値段だったのに、Fセグメントと同等になったら、そりゃ客層は変わるわな。もう一つは、あまりにクラシックなデザインであったために、マニア以外の受けが今ひとつだったことである。
だがそれもこれまでだ。カラムは新世代XJ、つまりX351となる現行モデルだが、C-XF以降のデザインを踏まえたモダンなXJにシフトさせた。エンジンはXFにも搭載されることになった新しい5L・V8エンジンで、アルミボディは先代の技術をベースにしている。
劇的にデザインが変わったことは、一部で「ジャガーらしさがない」という否定的な反応を生んだ。一方で、他社Fセグメントからの乗り換え需要があるのもまた事実であり、 クラシックを求める人以外からは良い注目を浴びていると言える。
経営については大きな変化があった。21世紀の最初の10%が終わりに近づいた時、リーマンショック以降の景気低迷でビッグ3がブリティッシュ・レイランド化。母屋が傾いたフォードはPAGの高級ブランドを売却し始め、ジャガーはタタ・モーターズにドナドナされて行った。タタの方針は「金は出す、口は出さない、配当は貰う」というもの。どうやらこの件に関しては、アメリカ人よりインド人の方が話が通じるらしい。
歴史(モータースポーツ)
ジャガーのモータースポーツへの挑戦は、ウィリアム・ライオンズがXK120がレースの舞台で活躍し始めたことに刺激され、ル・マン24時間レースへのワークス参戦を決意したことに始まる。
もちろん、戦前のSS社時代から同社のレース・ラリー参戦はすでに有った。だが、ライオンズは社の拡大に力を入れていたのかそれほど熱心ではなく、すべて活動は個別に車を購入して参戦するプライベーターによるものであった。高級車の体を持つジャガーの車が砂煙を蹴立てて疾走する当時の写真は、まるでカーアクションの映画の一場面のような、一種のシュールさすら感じさせるものである。
ともあれ、本格的なレース用のスポーツプロトタイプカーの開発が行われた。XK120をベースにフレームをラダー・フレームからパイプを組んで作るチューブラー・フレームに改め、リアサスペンションもリーフ・スプリングからトーションバー・スプリングとした。ボディもアルミ化によって1トンを切る軽量化を達成。ベース車のイメージを保ちつつも実際には別物の車となった。これは、コンペティション(競技)の頭文字であるCを加えてXK120Cと名付けられ、やがて単純にCタイプと呼ばれることになる。
このCタイプは、1951年のル・マン24時間にて初出場にして初優勝という快挙を成し遂げる。
翌々年も勝利を収めたジャガーは、さらに1954年に後継車のDタイプを投入。これは、シャシーをモノコックとし、さらに先進的なマシンとなっていた。このDタイプは翌年の勝利を皮切りにル・マン24時間を三連覇した。
なお、Cタイプ、Dタイプはプライベーター向けにそれぞれ50台あまり生産されているが、Dタイプのロードカー仕様としてXKSSというモデルが販売された。ただ、工場の火災によって予定の生産ができず、実際には16台しか世に出ていない希少な車である。
しかし、1958年に安全上の理由からスポーツプロトタイプカーの排気量が3000ccに制限され、Dタイプの時代も終わる。以降はワークス参戦はEタイプのプロトタイプ、E1Aを実験的に走らせるという限定的なものにとどまった。
一方、GTクラスに移ったスポーツカー世界選手権では、「エボモデル」フェラーリ250GTOが猛威を振るっていた、これに対抗するためにジャガーはEタイプのライトウェイトモデルを制作するが、やはりGTOには敵わなかった。また、市販車ベースのマーク2によるサルーンカーレースでの活躍も60年代初期にあったが、これもロータス・コルティナという強敵によって終焉となる。
さて、スポーツプロトタイプは3000ccの制限を解かれ、ミッドシップ大排気量マシンの時代に移りつつあった。ジャガーでもこれに再び参戦すべく、5000ccV12エンジンのXJ13を開発する。しかし、すでにライオンズはレースでの情熱を失いつつあったのか、社内のゴタゴタでデビューは延び延びとなり、結局は中止となって試作車がお宝として保存されるにとどまっている。
こうして、しばらくジャガーはモータースポーツとは縁遠い存在となってしまう。
状況が変わるのは、1975年。すでにライオンズは第一線を退き、上記のとおりブリティッシュ・レイランド傘下となったジャガー。クーペのXJ12CでETC(ヨーロッパツーリングカー選手権)に参戦するが、高級車としてならともかくレースカーとしてはパワーしかとりえのないXJ12Cはボロ負け。惨めに撤退となった。
一方、海の向こうアメリカではブリティッシュ・レイランドクオリティによって販売不振になってしまったのを打開すべく、地元のチーム「グループ44」によってEタイプが戦っていた。パワー上等のアメリカンレーシングならそのV12エンジンを活かして十分勝負できたのである。76年にはXJ-Sにスイッチ、78年にドライバーズ・メイクス両タイトルを獲った。
そして、ヨーロッパでもトム・ウォーキンショーの率いるTWRからXJ-SでETCに挑戦。1982年に参戦して、84年に遂にタイトルをゲットするのである。
このアメリカのグループ44は今度はプロトタイプマシンに手を伸ばし、1982年からIMSA-GTPシリーズにXJR-5で参戦する。これは彼らにとって5台目のレーシング・ジャガーという意味であった。この活躍がジャガー本社のイーガンの目に止まり、イギリスにマシンを持ち込んでのテストの結果、1984年のル・マン24時間レースに実に20年ぶりのワークス参戦を果たす。もちろん、ワークス体制だからって即勝てるほど甘くはないがイーガンらジャガー首脳は本気で同レースの制覇を目指すことになる。しかし、アメリカからいちいち遠征していては効率が悪い。ジャガー本社はETCでの実績を買ってTWRにXJR-5を元にしたグループCプロトタイプのXJR-6を製作させる。
これ以降、TWRジャガーは「Silk Cut」タバコの紫色のスポンサーカラーをまとって、WEC、WSPC、SWC(名称はコロコロ変わったが、意味するところはどれもスポーツカー世界選手権)に1985年から1991年に至るまで参戦。1988年、1990年のル・マン24時間レース制覇を含め、再びジャガーのレース活動に黄金期をもたらすのである。詳細は、→グループC
なお、かつてのXJSSをよみがえらせるかのように、1988年のル・マン24時間勝利車であるXJR-9をベースにしたロードカー、XJR-15が販売されている。
1992年にSWCがプジョーに勝たせてフランス万歳!するためにレギュレーションを変えたのに反発、グループCからは手を引くことになる。1993年にはXJ220をGTカテゴリーにエントリーさせるが、94年にはまたレギュレーションが変わったためにジャガーのスポーツカーにおけるワークス参戦は終わりを告げた。
時を同じくして、1989年にジャガーを買収していたフォードグループは、自社ブランドでのF1制覇の野望を抱いていた。だが、いきなり大会社が力ずくで参戦してもロクな結果にならないのは火を見るより明らか。そこで、かつてのF1チャンピオン、ジャッキー・スチュワートの名を借りることにした。あくまでも彼のプライベーター参戦の体で「スチュワートGP」を立ち上げ、1997年からデビューさせ、裏では事実上のワークスサポートを行ったのである。
「スチュワートの名前なら、もし失敗してもフォードの名は傷つかないもんね。チームが強くなったら、即全面買収。ジャガーの名前でF1チャンピオン取ってブランド名を世界に轟かせる!俺って天才じゃね?」
かくして、1999年にスチュワートGPは1勝を含める大活躍。一応の実績に満足したのか、スチュワートは翌年2000年に向けての買収に素直に応じ、「ジャガー・レーシング」の名のもとにジャガーの歴史初のF1参戦がなったのである。
が!フタを開けるとまるで話は違った。彼らはマネージメントという問題を見落としていたのだ。もともと英国のプライベーターであったはずのチームはアメリカの偉いさんの思う通りには動かず、表彰台にも乗れずにその年を終える。
慌ててスタッフをアメリカ人中心にしてみたり、PAG代表自らチーム運営に乗り出したりしたが、グダグダのグズグズのまま時は過ぎ、やがてフォード本社は予算を大幅に削ってしまった。
かくして結果が出ないまま、2004年限りでジャガーのF1参戦は終わりを告げた。チームはオーストリアの実業家ディートリッヒ・マテシッツのレッドブルに買収される。このレッドブルチームはその後、2010年代を代表するトップチームとなるのだが、それはまた別の話である。
この後上記のとおり、フォード自身もジャガーを手放してしまい、もうジャガーのモータースポーツ参加は永久にないのかと思われた。
しかし、2016年フォーミュラEに同社は「パナソニック・ジャガー・レーシング」として参戦する。2016-2017シーズンは大きな結果は残せなかったが、2017-2018シーズンはフォーミュラE初代チャンピオンであるネルソン・ピケJr.が乗ることで、戦績の飛躍が期待された。だが、他メーカーのチームを前に優位を見いだせず、結果は横ばいに終わった。2018-2019シーズンに突入した2019年2月現在でも、まだパナソニック・ジャガーは優勝を果たせないでいる。
また、同シリーズのサポートイベントとして、電気自動車(EV)のi-PACEのワンメイクレースを行うことが決定している。
ジャガーかジャグァーかジャギュアか
日本限定だが、ジャガーはカタカナ表記をどうするかで薀蓄が語られるメーカーの一つである。まずは表記のあれこれについて述べておこう。
どれが正しいかといえば、公式に基づくならやはりジャガーである。一番馴染みがあるし。公式表記ということを考えると、ジャガーだと「通じゃない」と言うことでもないだろう。もし万が一、友人の自動車ヲタが「ジャグァーって言いなよ」などと「そしてこの顔である」で言ってきたら、温かく見守って受け流してあげよう。
ビッグキャット
ビッグキャット(Big Cat)とは猫科の猛獣のこと。ジャガーを指してしばしば用いられる表現。所以は「猫足」と評される、しなやかさと車の動きの良さを両立するサスペンションから。また社名やロゴに使われているジャガーや、大きな車体の高級車を作っていることにもかけている。同じく猫科の猛獣であるライオンをロゴに使っているプジョーも、やはり猫足と呼ばれている。
ニコニコ風に言えば「でっかいぬこ」。
道のデコボコを乗り越えた時、衝撃が少ないのは勿論柔らかいセッティングの足回りである。しかし単にバネレートとダンピングレートを緩やかにしただけでは、極端に言えば、ステアリングの操作をした時に車体がユラユラして落ち着かない。車体の揺れはそのままタイヤに荷重移動として伝わり、荷重移動はタイヤと路面の摩擦を変化させるので、結果として車の旋回に影響を及ぼす。またデコボコ通過時に衝撃をあまり伝えなかったとしても、その後の揺れの収束に時間が掛かれば、車体と人間は上下方向に複数回揺さぶられることになる。
このように安易な柔らかいセッティングは、結果としてフラフラとした、乗り心地も操縦性も悪い車にしてしまう。シフトレバーがDレンジに入ったままなのに、Rレンジに入ってしまうことも否定できない。かつて某社の高級車を運転した編集者は、この悪い例を体験してしまった。自分の車ならいざ知らず、人様の車だったのでRレンジに入らないように気を使った。おまけにブレーキは踏み始めは鈍く、少し踏み増すと強く効くが、そこからさらに踏み増しても減速率の変化に乏しかった。まるでオンとオフしかないようなセッティング。当然、停止直前に微妙にブレーキを緩めて、慣性力によるノーズダイブを穏やかに収束させるのなんて不可能であった。アクセルも最初の踏み始めは反応が無く、そこから少しだけ踏み増すと急に燃料が大量噴射されて加速していくような感じ。なんだったんだぜ。
閑話休題。
乗り心地と操縦性の良さを両立するには、例えばデコボコを乗り越えた時であれば、サスペンションが滑らかに動き始めることが第一である。次にフラフラさせないために、ダンピングレートはある程度あった方が良い。これが弱いと上下方向の動きを素早く抑えることができず、バウンドするように車体が動くのを許す。またサスペンション各部がしっかりと正確に動き、動揺したときにタイヤと路面の設置角度が極端に変わらないことが好ましい、そうだ。
このように、タイヤが上下方向に滑らかに動いてきれいに衝撃を吸収し、揺れを適切に減衰して車体が安定すれば、乗り心地も操縦性も良い車が出来る。ジャガーもそのような車を作ったのだ。
猫足とは、この良くできた足回りを猫の動きと重ね合わせて喩えている。猫は、飛び降りて着地する時に足がしなやかに動き、胴体はブレが少なく安定している。乗用車、なかんずくサルーンの理想の一つはそこにある。
ジャガーは猫科の猛獣であり、ジャガーサルーンのフラッグシップは5m前後ある体躯である。上記のことを踏まえれば、ビッグキャットという徒名は相応しい。イメージとしては、モフモフしたでっかいぬこが高いところから飛び降り、プニプニ肉球で地面を捉えると同時に、滑らか且つ素早い脚の動きで衝撃を吸収するようなものだろう。桂小太郎も納得。
但しパワー厨曰く、XKRは足回りがやや硬いようだ。その辺はモデルを良く選ぼう。
ちなみに「Big Cat,Jaguar」で検索しても、ヒットするのは殆ど動物のジャガーである。自動車関係では、日本国内のサイトが引っかかる。日本以外では使われない表現なのかもしれない。
セレクター
ジャガーといえば、オートマティックトランスミッションのセレクターである。これもまた個性の一つとして、特にマニアの重大な関心事になっている。以下に歴代のセレクターについて記す。
デイムラー
デイムラーは元々は独立したイギリスの自動車メーカーだったが、1960年代にジャガーが買収した。その後はジャガーのバッジ換えモデルとなる。日産自動車がプリンス自動車を吸収合併し、グロリアがセドリックの姉妹車になったようなもの。
初代XJ~X300までは健在だったが、X350へのFMCを機に一旦はモデルが途絶える。その後、2005年にV8スーパーチャージャーを搭載するスーパー8が発売された。しかしX351へのFMCを機会に、再び消息が途絶えている。
商標権は現在ではタタが保有している。折角だから、V8を縦に二つ繋げたダブルエイトとかやってほしい。まぁエンジンが入らないわけだが。
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外部リンク
関連項目
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