ジョアキーノ・ロッシーニ(1792~1868)とは、19世紀前半を代表するオペラ作曲家である。
概要
イタリアのペーザロで、ホルン奏者の父と歌手の母の間に生まれる。1806年にボローニャ音楽院に入学した後、21歳までにオペラを10作書き上げた。このころの代表作が「タンクレディ」と「アルジェのイタリア女」である。彼のオペラの特徴としては独白やストーリーの説明に使われるレチタティーヴォを初めて使用しなかった点である。
その後イタリア内を転々としながら「セビリアの理髪師」や「チェネレントラ」で名声を高める一方、ドイツではイタリア的オペラ作曲家ロッシーニとドイツ的器楽作曲家のベートーヴェンのどちらを高く評価するか論争を巻き起こすほど、ヨーロッパ全土で認められた存在になっていったのである。
1824年から拠点をパリに移し、フランス政府からの要請を受けてイタリア劇場の音楽監督に就任する。そこで最初に作ったのがカンタータ「ランスへの旅」であり、「コリントの包囲」をかわぎりに毎年一作品フランス語オペラを作曲していった。そしてその集大成が「ウィリアム・テル」であり、グランド・オペラを完成させ、次代のジャコモ・マイアベーアなどに引き継がせていったのである。
この「ランスへの旅」の献呈により「フランス国王の第一作曲家」の栄誉と終身年金を得た。
そして彼のオペラ作曲家としてのキャリアは1829年と早くに終わり、しばらくはサロンで人気を博したが、1836年から健康の悪化もあり事実上隠居状態となった。しかし1855年から再びパリに戻り、晩年の10年ほどはサロンを運営する一方で、小品を作っていった。
ちなみに引退の理由だが「昔はメロディの方から私の所に来てくれてたが最近来なくなった。探すのめんどくさいし辞めるわ(要約)」という、自他共に認める怠け者らしいもの。
ちなみにオペラ作曲家として活動していたのは20年あるかどうかだが、創ったオペラの数は39とかなり多く、総じて見れば超ハイペースで作曲をしている。
が、曲の中身は同じ旋律を使い回す(ウィリアム・テル)、それどころか序曲を使い回す(セビリアの理髪師→パルミーラのアウレリアーノ→イングランドの女王エリザベッタ)、他人の曲を使う(ベートーヴェンの第8交響曲を使ったものがある。ランスへの旅も最終カンタータで諸国国家丸写し)、極めつけには細部をちょっといじっただけで別の曲として出す(ランスへの旅→オリー伯爵)等、現代の観念で見ると「創作概念?なにそれ美味しいの?」と言わんばかりの問題行動だらけであった。
またウィリアム・テルでもあるように、同じ旋律を少しずつ大規模にして最後に頂点を目指していくクレッシェンドは「ロッシーニ・クレッシェンド」と呼ばれる独自の特徴でもある。
また、彼は音楽家としてだけでなく美食家の一面も持っており、引退後は年金で悠々自適に過ごしつつ高級レストランの経営や料理の創作に時間を費やしていた(ちなみに1830年に起きたフランス7月革命で発足した新政府と交渉し、前国王から給付されていた年金をちゃっかり確保している)。フランス料理で時折見かける「〇〇のロッシーニ風」は彼が由来。
また、料理名を曲名にしたり、リヒャルト・ワーグナーと鹿肉焼きながら会談していた(しかもどっちかというと焼き加減の方を気にしていたとも)というエピソードも。
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