ジョゼップ・グアルディオラ単語

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ジョゼップグアルディオラ
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ジョゼップ・グアルディオラ・イ・サラJosep Guardiola i Sala, 1971年1月18日 - )とは、スペインカタルーニャサッカー選手サッカー導者である。称はペップペップ・グアルディオラと呼ばれることも多い。
イングランドプレミアリーグマンチェスター・シティ監督。元サッカースペイン代表

180cm76kg。利き足は右足。ポジションは守備的MF

概要

現役時代のポジションは守備的なミッドフィルダーで、ヨハン・クライフドリームチームなどFCバルセロナとして活躍。バルサキャプテンを務め、6度のリーガ・エスパニョーラ優勝を経験。1991-92シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグとの2冠を獲得。4番(ピボーテ)の代表的な選手として、その後の選手たちにも大きなを与えている。

監督してはFCバルセロナ就任1年で6冠を成し遂げ、就任4年で合計14個のタイトルをもたらしており、ヨハン・クライフが率いたドリームチームが残した結果を上回る黄金時代を築き上げている。また、バイエルン・ミュンヘンマンチェスター・シティでもリーグ優勝を達成。世界でも最高レベルの名将として名を馳せている。また、史上6人しかない選手、監督両方でUEFAチャンピオンズリーグ優勝を成し遂げた人物の1人である。さらには、バルセロナマンチェスター・シティの2チームにおいて史上初となる2度トレブル達成を成し遂げた、まさに稀代の名将である。

現役時代も監督としても、バルセロナシンボルとしてカリスマ的な人気を持っている。また、監督としての哲学は、サッカー界全体に大きなを与えており、戦術マニアたちの研究材料として用いられることが多い。また、リオネル・メッシ世界最高のフットボールプレイヤーへと育てあげ、ケヴィン・デ・ブライネなどの才を見出すなど育成面でも大きな成果をあげている。

経歴

クラブでのキャリア

カタルーニャ地方のサンパドーで生まれ、が2人、が1人という4人兄弟で、レンガ積み職人主婦だった。労働者階級だった庭は決して裕福ではなかったが、ペップは家族を何よりも重んじ、誇りを持った両に育てられた。自宅の近くの公園サッカー場があったため、幼少期の頃から毎日ひたすらボールを蹴っており、自然サッカーにのめり込んでいた。カンプノウからわずか100mほどの学校に通っており、幼い頃の憧れの選手は元ドイツ代表のベルント・シュスターだった。

13歳でFCバルセロナカンテラに入り、ラ・マシアに入寮。このときバルセロナトップチームヨハン・クライフに率いられドリームチームと呼ばれており1990ー91シーズンから1993ー1994シーズンリーガを4連覇しているが、グアルディオラはクライフに才を認められ1990年に20歳でトップチームデビュー。翌シーズンにはレギュラーの座を掴み、以降不動のピボーテ(中盤の底に位置する)として君臨。スターいのチームコントロールする重要な役割を任される。1991-92シーズンには、としてUEFAチャンピオンズカップ優勝をもたらし、ドリームチームの中心人物の1人として活躍し続けた。

クライフチームを去りドリームチーム要な選手の多くがいなくなった後もグアルディオラはバルセロナの中心選手として活躍。チームにやって来た数々の一流のアタッカーを操り、1996-97シーズンには怪物ロナウドと共演している。しかし、1997-98シーズンふくらはぎの負傷によって長期の欠場を経験したのを皮切りに、深刻な怪によって戦線を離脱することが多くなる。2001年4月11日カンテラ時代から17年間プレーし、将も務め、16個のタイトルをもたらしたバルセロナを退団することを表明。

2001年セリエAのブレシアに移籍。当時所属していたロベルト・バッジョと一緒にプレーしたかったというのが新地を選んだ理由だった。その後、ASローマにも所属したがセリエAではあまり活躍できなかった。また、2001年11月ドーピングによって禁止物のドーピングによって陽性反応が示され、4カの出場停止処分を受けている。

その後はカタールアル・アハリに移籍し、2006年メキシコドラドで現役を引退。グアルディオラは現役中にドラド揮するマヌエル・リージョ監督の下でプレイしたかったという。

一方、2005年に有罪判決まで下されたドーピング疑惑については、一貫してイタリアの検方法の杜撰さを理由に無罪しており、引退後もこの戦いは続いていた。一度は無罪判決を受けたものの、イタリアオリンピック委員会が上訴したことで問題は長引き、全に潔明される判決が下されたのは2009年9月となった。

スペイン代表としてのキャリア

1992年U-23スペイン代表のキャプテンとして、地元開催となったバルセロナオリンピックに出場。初戦となったコロンビア戦でゴールを決めるなどとして活躍し、初の金メダル獲得をもたらしている。

フル代表には、1992年10月14日アメリカW杯欧州予選北アイルランド戦でデビュー1994年6月には、1994 FIFAワールドカップに出場。グループリーグボリビア戦でゴールを決めているが、出場はスタメンで出た2試合のみとなった。

1994W杯後のスペイン代表は、長きに渡って敗を誇り、無敵艦隊と称されていた。しかし、スター選手相手でも容赦なく厳格に振る舞うハビエルクレメンス監督との折り合いが悪く、たびたび控えに回されることもあり、UEFA欧州選手権1996ではメンバーから外されている。1998W杯ヨーロッパ予選では、ユーゴスラビア勝し、試合後「たちは強いんだ」と過小評価してきたメディアに自分たちのアピールする発言を残している。しかし、1998 FIFAワールドカップ本大会は負傷のために欠場となる。

その後、代表に復帰し、2000年に開催されたUEFA EURO2000に出場。中盤の底からラウール・ゴンザレスら若いアタッカーにパスを供給し、ベテランとしてチームを支えるが、準々決勝でジネディーヌ・ジダンを擁するフランスの前に敗。以降は怪もあって代表から遠ざかり、2001年10月14日メキシコとの善試合が代表での最後の出場となる。

スペイン代表としては47試合に出場し5得点

指導者としてのキャリア

バルセロナ

現役引退後、導者としてのに進み、2007年FCバルセロナBの監督就任。6年ぶりに古巣へ復帰し、監督としてのキャリアスタートさせる。当時テルセーラ・ディビジオン(4期)に所属していたチームを就任1年でセグンダ・ディビジオンB(3部)に昇格させる。

2008年5月8日2008-09シーズンよりフランクライカルトの後を受けてFCバルセロナトップチーム監督に就任することが発表される。当時のバルセロナは2シーズン連続で冠に終わる暗黒時代に入っていた中、ロナウジーニョデコサミュエル・エトー選手の構想外を宣言(エトーは残留)。チームリオネル・メッシシャビアンドレス・イニエスタといったカンテラ出身の選手を中心に構成する。トップカテゴリでの監督経験し、リーグ開幕戦で昇格組のヌマンシア敗北といった要素からグアルディオラの手腕を不安視するもあったが、ディフェンラインを高く保ち、最終ラインから組み立てる攻撃的なポゼッションサッカー武器2位レアル・マドリーに9ポイント差をつけてリーガ・エスパニョーラを制覇。コパ・デル・レイUEFAチャンピオンズリーグでも優勝スペインクラブとして初めて三冠トレブルを成し遂げた。

2009-10シーズン頭にはスーペルコパ・デ・エスパーニャUEFAスーパーカップで勝ち、2009年12月にはクラブワールドカップ優勝。この年エトーとのトレードでズラタン・イブラヒモビッチインテルから獲得したが、チームフィットしきれていないとみると見切りをつけ、メッシを偽の9番として起用し、純CFタイプの選手を置かない新しいスタイルを模索。さらに、バルセロナB時代の教え子であるセルジ・ブスケッツペドロ・ロドリゲスを重用。CLベスト4でインテルに敗れたが、リーガ連覇を達成。最終的に6つのタイトルを獲得したシーズンとなった。

就任3年となった2010-11シーズンチーム完成形に到達し、シャビイニエスタブスケッツを擁する中盤の圧倒的なポゼッションによって全ての試合で試合を支配することができ、メッシダビド・ビジャペドロのMVPトリオは中盤とうまく絡みながらゴールを重ねていく。2010年11月29日エル・クラシコでは、宿敵レアル・マドリードを5-0で撃破し、世界中を震撼させる。2011年には、CL、コパ・デルレイも含めて4度クラシコクアトロクラシコ)がおこなわれ、戦績こそ五分だったもののチームの質でマドリーに差を付ける。また、就任以来エースとして起用したメッシ異次元の才を発揮するようになり、非の打ち所がない欠のチームとなる。結果、コパ・デル・レイこそ逃したものの、リーガ、そして二度CL優勝ビッグタイトルを総なめにしたシーズンとなり、導者としてもクラブ黄金時代を築き上げる。

2011-12シーズンは、カンテラ出身であるセスク・ファブレガスアーセナルから獲得し、クライフの時代のフォーメーションだった3-4-3を導入するなど、新たな試みにチャレンジすることでチームをさらに発展させようとしていた。しかし、ビジャの長期離脱を筆頭にに怪人が続出したこともあって後半戦にチームは失速。死の3連戦とも呼ばれた2012年4月の重要な試合に1勝もできなかったことでリーガCLタイトルを失い、4月27日に心身の消耗を理由に退任を表明。最後の試合となったコパ・デル・レイ決勝に勝利し、優秀の美を飾る。

バイエルン

退任後はアメリカ家族との時間を過ごし、フリーの身となった直後からプレミアリーグの複数チームから打診があったようだが、2013年1月16日ドイツブンデスリーガFCバイエルン・ミュンヘン2013-14シーズンより揮する事が決まる。

前のシーズンにユップ・ハインケス監督三冠を達成したチームを引き継ぐ形となったが、バルセロナ時代の教え子であるチアゴアルカンタラを獲得し、自らの哲学チームに植え付けていく。キャプテンフィリップ・ラームを中盤にコンバートするなど大胆な革をもたらし、バルセロナの頃とべて長いボールを有効活用しながらアリエン・ロッベンフランク・リベリの両ウイングによるアイソレーションを多用したサイドアタックを前面に打ち出したスタイルを構築。圧倒的な強さでブンデスリーガでは首位を独走し、7試合残しての優勝を達成。一方、CLは準決勝でレアル・マドリードに大敗し、批判を受ける。それでも、DFBポカールタイトルを獲り、内二冠を達成。

2シーズンとなった2014-15シーズンは、ロベルト・レヴァンドフスキシャビ・アロンソフアン・ベルナトが加入したことで4-3-3と3-5-2、3-4-3を試合ごとに使い分けられるチーム作りを進める。しかし、に長期離脱を強いられる選手が続出する異常事態となり、本職のCBがいないメンバー構成で試合に臨むこともあった。業を煮やしたのか、チームメディカルチーム然と批判したことで医療スタッフと対立。長年チームドクターを務めたミュラー=ヴォーハール医師が辞任したことで、一部のクラブOBとも対立する。それでもブンデスリーガでは、開幕から独走して優勝。一方、CLでは準決勝で古巣のバルセロナと対戦するが、教え子であるメッシに試合を決められ、敗。

2015-16シーズンも開幕からリベリとロッベンの両が不在となるが、ドグラスコスタとキングスレイコマンが代役以上の活躍を見せ、ブンデスリーガでは開幕から9連勝を飾る。このシーズンも怪人の多さに悩まされることとなるが、ダビド・アラバやヨシュアキミッヒをCBで起用するなど、工夫を凝らすことで乗り切り、2年ぶりの内二冠を達成。しかし、CLではカウンター対応という課題をしきれず、準決勝でアトレティコ・マドリードに敗れる。ドイツでの3年間はバルセロナの時ほどチーム作りがうまくいかず、クラブの伝統を重んじるOBからの反発もあったが、ドイツ代表がポゼッション志向のチームを進めるなど、ドイツサッカー界にを残した。

マンチェスター・シティ

2016年2月イングランドプレミアリーグマンチェスター・シティFC監督2016-17シーズンから就任することが発表される。マンチェスター・シティ2012年にグアルディオラの盟友であるチキ・ベギリスタインをフットボールディレクターとして就任させており、以前からグアルディオラを監督として迎えるための準備を進めていた。

就任1年からポゼッションをベースとしたスタイルバイエルン時代に編み出した偽のサイドバックを導入し、開幕5連勝という々しいスタートを切る。しかし、ケヴィン・デ・ブライネダビド・シルバを中心とした攻撃は機していたが、守備の脆弱さがに付いていた。特に古巣のバルセロナから引き抜く形となったクラウディオブラーボがプレミアリーグ特有のスタイル染めず、ミスを連発するなど極度のスランプに陥ってしまったのが大きな誤算となった。結局プレミアリーグで3位に入ってCL出場権を獲得するのがやっとで、トップチーム監督を務めてからのキャリアでは初のシーズン冠に終わる。

2017-18シーズンは、懸案事項だったGKにエデルソン・モラレスが加入したことで守備が安定するようになり、デ・ブライネラヒーム・スターリングレロイ・サネといった選手が急成長するなど、自身の哲学チームに浸透するようになる。この頃から、自らの戦術スタイルを言化するようになり、ポジショナルプレー、5レーンの理論世界中に広がり、サッカー界のブームとなる。特にハーフスペースの住人として導してきたデ・ブライネはグアルディオラの哲学全に自分のものにし、世界最高クラスMFに君臨する。最後の懸念材料だったCBアイメリク・ラポルテに加入し、チーム完成度を増す。プレミアリーグではリーグ記録の15連勝、クラブ記録の22試合連続敗、史上初の勝ち点100到達と数々の記録を作り出し、2018年4月15日優勝を決める。

就任3年となる2018-19シーズンは、ユルゲン・クロップ監督率いるリヴァプールFCとのしい首位争いを繰り広げることとなる。チームの大柱に成長したデ・ブライネが怪シーズンの大半を不在となったが、ベルナルド・シウバを中盤にコンバートすることでを埋める。開幕から15試合連続敗、最終節まで14連勝という圧倒的強さを見せながら、食らいついてくるリヴァプールとの優勝争いは最後までもつれ込むが、勝ち点わずか1の差で逃げ切りに成功し、リーグ戦連覇を達成。同時にFAカップとEFLカップ優勝し、三冠を達成。一方、CLでは準々決勝でトッテナム・ホットスパーを相手にアウェイゴールの差で敗れ、2年連続でベスト8止まりとなる。

2019-20シーズンは、最終ラインを中心に怪人が立ち、毎試合バックラインの構成を組み替えなければならないような状況もあって、開幕から取りこぼしが多くなった。2020年に入ったあたりには、首位を走るリヴァプールの独走を許すこととなり、事実々と優勝戦線から脱落することとなった。EFLカップでは3連覇を成し遂げたが、CLでは準々決勝のオリンピック・リヨン戦での奇策が裏に出て不覚を取り、3年連続でベスト8敗退となる。

2020-21シーズンの序盤は退団したダビド・シルバが埋まらず、レスター・シティを相手に5失点を許しての大敗を喫するなど不安定なスタートとなる。だが、新戦ルベン・ディアスフィットするようになったことで懸案事項だった守備が安定するようになる。さらにはSBジョアンカンセロインサイドハーフのように振る舞わせる偽SBの発展形「カンセロロール」やイルカイ・ギュンドアンを偽の9番に置いた新機軸の戦術が見事に嵌り、プレミアリーグで28試合連続敗(26勝2分)という破の快進撃を見せ、シーズン中盤以降は首位を独走。最終的には2位以下に勝ち点差12をつける圧倒的な強さで2シーズンぶりのリーグ優勝を達成。CLでも内同様の強さを見せ、シティクラブ史上初の決勝進出に導く。しかし、決勝のチェルシー戦では前年同様に奇策を用いたことが裏に出てしまい敗北。またも悲願のビッグイヤー獲得は成し遂げられなかった。

2021-2022シーズンでは、攻撃時に2-3-5の形に可変する新たな戦術を採用。期待されたストライカーの獲得はならなかったが、ベルナルド・シウバ覚醒やラヒム・スターリングの復調もあって9番タイプの選手が不在でも連勝を重ね、首位を走ることになる。一方、最大のライバルであるクロップ率いるリヴァプールも圧倒的な強さで追い上げを見せ、最終節まで2強が互いに譲らないしい優勝争いを繰り広げるが、2018-19シーズンと同じように勝ち点1の差で振り切り、プレミアリーグ連覇を達成。就任6年で4度リーグ制覇となった。一方、CLでも順当に勝ち上がるが、準決勝のレアル・マドリード戦では2nd legの試合終了間際に同点ゴールを許し、延長戦で敗れる逆転負けを喫し、またしても悲願のビッグイヤー獲得を果たすことはできなかった。

2022-23シーズンは待望のストライカーであるアーリング・ハーランドを獲得。驚異的なペースゴールを量産するハーランドによって勝ち点を積み重ねたものの、チーム戦術としての機性はむしろ低下し、前半戦はアーセナルに首位を走られていた。1月の段階でこれまで戦術の核となっていたカンセロ放出を決断し、最終ラインを対人守備の強いタイプを並べて守備の安定を図るようになる。怪でコンディションを崩していたルベン・ディアスジョン・ストーンズが復調すると、攻撃時はストーンズがアンカーの隣に移動した3-2-4-1、守備時は4-4-2の可変システムを採用。これによって圧倒的な強さを手にするようになったチームは驚異的な勝率を重ねるようになり、アーセナルとの直接対決を二度とも制したこともあってプレミアリーグを連覇。さらにFAカップ優勝。また、CLでもベスト8でバイエルンを4-1、準決勝ではレアル・マドリードを5-1で圧勝。決勝ではインテルを1-0で破り、悲願だった初のビッグイヤー獲得をもたらす。自身にとってはバルセロナ時代以来3度CL優勝、そして2度三冠トレブル)達成となった。

個人成績

選手としての成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1998ー90 バルセロナB セグンダB
1990ー91 バルセロナ ラ・リーガ 4 0
1991ー92 バルセロナ ラ・リーガ 26 0
1992-93 バルセロナ ラ・リーガ 28 0
1993-94 バルセロナ ラ・リーガ 34 0
1994-95 バルセロナ ラ・リーガ 24 2
1995-96 バルセロナ ラ・リーガ 32 1
1996-97 バルセロナ ラ・リーガ 38 0
1997-98 バルセロナ ラ・リーガ 6 0
1998-99 バルセロナ ラ・リーガ 22 1
1999-00 バルセロナ ラ・リーガ 25 0
2000-01 バルセロナ ラ・リーガ 24 2
2001-02 ブレシア セリエA 11 2
2002-03 ローマ セリエA 4 0
2003-04 ブレシア セリエA 13 1
アル・アハリ スターズリーグ 18 2
2004-05 アル・アハリ スターズリーグ 18 3
2005-06 ドラドス・デ・シナロア リーガMX 10 1

監督としての成績

シーズン クラブ リーグ 順位 獲得タイトル
2007ー08 バルセロナB テルセーラ 1位 テルセーラ・ディビシオン
2008-09 バルセロナ ラ・リーガ 1位 ラ・リーガ
コパ・デル・レイ
UEFAチャンピオンズリーグ
スーペル・コパ・デ・エスパーニャ
2009-10 バルセロナ ラ・リーガ 1位 ラ・リーガ
UEFAスーパーカップ
FIFAクラブワールドカップ
スーペル・コパ・デ・エスパーニャ
2010-11 バルセロナ ラ・リーガ 1位 ラ・リーガ
UEFAチャンピオンズリーグ
スーペル・コパ・デ・エスパーニャ
2011-12 バルセロナ ラ・リーガ 2位 コパ・デル・レイ
FIFAクラブワールドカップ
UEFAスーパーカップ
2013-14 バイエルン・ミュンヘン ブンデスリーガ 1位 ブンデスリーガ
DFBポカール
FIFAクラブワールドカップ
UEFAスーパーカップ
2014-15 バイエルン・ミュンヘン ブンデスリーガ 1位 ブンデスリーガ
2015-16 バイエルン・ミュンヘン ブンデスリーガ 1位 ブンデスリーガ、DFBポカール
2016-17 マンチェスター・シティ プレミアリーグ 3位
2017-18 マンチェスター・シティ プレミアリーグ 1位 プレミアリーグ、EFLカップ
2018-19 マンチェスター・シティ プレミアリーグ 1位 プレミアリーグ
FAカップ
EFLカップ
FAコミュニティシールド
2019-20 マンチェスター・シティ プレミアリーグ 2位 EFLカップFAコミュニティシールド
2020-21 マンチェスター・シティ プレミアリーグ 1位 プレミアリーグ、EFLカップ
2021-22 マンチェスター・シティ プレミアリーグ 1位 プレミアリーグ
2022-23 マンチェスター・シティ プレミアリーグ 1位 プレミアリーグ
FAカップ
UEFAチャンピオンズリーグ
2023-24 マンチェスター・シティ プレミアリーグ FIFAクラブワールドカップ
UEFAスーパーカップ

指導者としての個人タイトル

プレースタイル

バルセロナでは多くの選手の憧れのポジションである中盤の底に位置するピボーテ(4番)のポジションを担い、クラブ歴史に残る名手の一人として認識されている。フィジカル、運動量、スピードといった身体的なは特別秀でたものがあるわけではないが、視野の広さと正確なパスを活かしたゲームメイクは人並み外れたものがあり、才に惚れ込んだヨハン・クライフから若くして4番のポジションを任されるほどだった。

長短織り交ぜたパスでチャンスを作り出し、1本のパスで決定機を生み出す。バルセロナのパスワークのほとんどがグアルディオラを経由し、ロマーリオ、フリスト・ストイチコフ、ロナウドルイス・フィーゴ、リバウドといった歴代のバルセロナのアタッカーを操縦。当時「バルセロナの攻撃はダイレクト前線に繋ぐよりもペップを経由したほうが速い」と言われたほどで、もが気付かないようなわずかなスペースに針のをも通すような正確なパスを通し、観るものを唸らせ続けた。

ペップのエレガントパサーとしてのスタイルは、後世の選手にも大きなを与えており、後にバルセロナスペイン代表で黄金時代を築いたシャビイニエスタセスクらにとっての少年時代アイドルであり、バルセロナのみならずスペインサッカー全体に大きなを残している。

指導者としての哲学

ピッチを縦に5等分した5レーンを活用しながらトライアングルを形成し、数的優位、質的優位、配置的優位を生み出し、圧倒的なポゼッションを駆使して相手を支配するスタイル哲学としている。現役時代の恩師であるクライフ哲学を現代フットボールアレンジしたものであり、後方からボール論理的に動かし、ゴールまでの筋を逆算している。また、試合の中での修正にも秀でており、対策されて手詰まりになったときでも大胆な采配によって流れを変えることを得意としている。

しばしばティキタカが注され、何本パスを繋いだかが取り沙汰されるが、ペップ自身は自伝において「ティキタカゴミで、何の意味もない」とこれを否定。パスワークはあくまで相手を支配し、導権を握り続けるための手段に過ぎないという考え方で、「明確に意図がある場合のみパスを出すべきだ」とビルドアップの的を時間とスペースを前に繋ぐことと定義し、選手のポジショングの正確さと移動によって相手の守備を動かすことをむしろ重視している。

守備に関しては、ボールを失った後の即時奪還を重要視しており、前線からのプレッシングによってボール保持の回復を狙いとする。守備の哲学については、キャリア晩年にプレーしたイタリア文化を受けており、アリーゴ・サッキがもたらしたプレッシング哲学を学んでいる。ただし、バックラインを非常に高く押し上げるため、前からのプレッシングが外されると縦パス一本で裏のスペースを突かれる大きなリスクを抱えている。

人心握術にも定評があり、裏では選手に高度な要を突きつけるが、メディアの前で特定の選手を批判するようなことはしない。また、選手の適性を見つけることにも長けており、メッシラームフェルナンジーニョ、デ・ブライネを違うポジションコンバートすることで才を開させた実績を持つ。練習も非常に論理的であることで知られ、チームにいくつものオートティズムを叩き込んでいる。一方、「選手の意見は聞いても、議論はしない」というのをモットーとしており、規を乱す選手は例えスター選手であっても容赦なく切り捨てている。そのため、エトーイブラヒモビッチ、ヤヤ・トゥーレといったの強い選手と対立したことがある。

バルセロナで成功して以降、彼のフットボール哲学世界中のサッカームーブメントを起こし、2010年代以降の戦術のトレンドを生み出している監督と言える。ペップのスタイルを模倣するチームヨーロッパ以外でも見られるようになり、むしろこれを打ち倒すための戦術が考案されるという観点でも、フットボールの発展と進化を呼び込んでいる。

を受けている導者としては、クライフ、サッキ、リージョなどが挙げられる。

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1 ななしのよっしん
2013/04/23(火) 19:41:40 ID: T8kW0HXmoa
過大評価だとかよく言われるけど、少なくともモウリーニョ天才だと認める人は彼も天才だと認めなきゃだろう。
就任したクラブを常に初年からリーグ連覇に導いてきたモウリーニョ一手こずらせた監督だからな。
バイエルン揮する頃にモウリーニョがどこに就任しているかはまだわからないけど、また二人の名将対決が見てみたい。
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2 ななしのよっしん
2016/11/21(月) 14:09:17 ID: MhNxQ5AQWW
セックスしなければいいサッカー選手になれないとか言うが、カカバロンドールを獲得する活躍をしたのは童貞時代だ
サッカーのことわかっちゃいないなと思ったよ
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3 ななしのよっしん
2016/12/06(火) 10:14:55 ID: K4NhdgKXQ3
その前のバロンドール獲得者は非童貞が多いんだが
サッカーのことをわかってないのはお前みたいな自称玄人
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4 ななしのよっしん
2017/12/25(月) 11:35:53 ID: T8kW0HXmoa
「強いチームしか揮しないチキン」とか陰口かれてきたけど、
逆に揮した全てのチームリーグ連勝記録達成出来る監督なんて他にいるか?
好き嫌いは別にしても無能と断じるのは不可能レベルの名将だと思う。
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