ジョン・ボーナム(JOHN BONHAM)とは、イギリスのロックドラマーである。
1980年9月25日、享年32歳の若さで死去している。
1970年代を代表するロックバンド、レッド・ツェッペリンのドラマーとして有名。
フルネームはジョン・ヘンリー・ボーナム(John Henry Bonham)。
「俺は意識して最高のドラマーになろうとしたことはないし、なりたいとも思わない。俺に向かって『あなたより上手なドラマーはたくさんいますよ』とか言ってくるキッズは多い。だけど俺は自分の出来る限りの力で演奏することを楽しんでいるし、だからこそ続けられている。バディ・リッチよりエキサイティングだぜなんて言い張るつもりはない。ただし気に入らないものはプレイしない。シンプルで正統派のドラマーだよ、俺は。実力以上のものをひけらかすつもりはないんだ」:ジョン・ボーナム(スティーヴン・ディヴィス著『レッド・ツェッペリン物語』より)
概要
ロックドラムの成立に貢献し、数多のフォロワーを生んだ偉大なドラマーである。彼の持ち味である、まるでツーバスなど不要だといわんばかりの、精妙かつ桁外れに速いペダルコントロールと、決して扱いの容易くはない大口径のドラムキットを雷鳴の如く打ち鳴らしても、まだ余りある絶大なパワーとスタミナ、余人の模倣を許さない唯一無二と呼ばれた、独特のタイム感から生みだされる個性的なビートは、レッドツェッペリンのサウンドの象徴であった。
また、生前ボーナムの生み出した素晴らしいフレーズの数々は、スピードを変え加工され、数えきれないほど多くのポピュラーミュージックの足元を支えている。現在のロックで王道的に使用されるフレーズのそのほとんどは、ボーナムが生前編み出したものとまでいわれているほどである。
ドラム専門誌や音楽雑誌でドラマーの人気投票を行うと、必ず1位になるドラム界の絶対神といえる存在。
使用機材
ボーナムのキットには特注品ではなく、一般で普通に市販されていたラディック社製の製品であった。通常セットされるバスドラムは1台で、フットペダルはビートルズのリンゴ・スターも使用していた、ラディック社製のシングルペダルの製品を愛用していた。金物はパイステ製を愛用。彼の最も有名な使用機材は、映画『永遠の詩(狂熱のライヴ)』で見ることが出来る、琥珀色をした透明アクリル樹脂製のドラムキット『ヴィスタライト』であるが、スタジオ録音には使用されなかった。
■ステック:ラディック2A
■フットペダル:ラディック・スピード・キング201
■ベースドラム:26×14(初期は26×16)
■スネアドラム:14×6スープラ・フォニック402(ないしブラック・ビューティーLB417)(42本スナッピー)
■ラックタム:14×10
■フロアタム:16×16、18×16
■クラシックティンパニ:29インチマシーンティンパニ、30インチペダルティンパニ
■ハイハット:パイステ15インチサウンド・エッジ(ドラム用タンバリン装着)
■ライドシンバル:パイステ2002シリーズ24インチ
■クラッシュシンバル:パイステ2002シリーズ16インチ、18インチ、20インチ、22インチ
■ゴング:38インチパイステ・シンフォニック
■パイステ・カウベル
■コンガ・ドラム2台
■ドラム用椅子:ロジャース製
(ドラム・ヘッドはレモ・アンバサダーかそれに相当するラディックの製品を使用していたが、後年はラディック・シルヴァー・ドッツないし、レモ・バック・ドッツに変更された。)なお、1969年のボルチモア公演では28インチのバスドラム2台でプレーしたとの証言があるが、あまりにも大音響が過ぎて他の楽器の音が聴こえなくなり、本人も動揺しメンバーたちから酷く不評をかった。同キットと思われる物をスタジオでの録音にも持ち込んだが、ボーナムのトイレ休憩の際に、ジョン・ポール・ジョーンズがバスドラムを1台取り外して隠してしまい、それ以来ツーバスの使用を諦めている。
逸話(無名時代)
ボーナムの無名時代のエピソードには不明な点が多いが、ここではよく知られている逸話のみを紹介する。
1948年5月31日イギリスはウェスター州レディッチの建設業を営む両親の元に生まれる。
5歳頃から既に物を叩くことが好み、コーヒー豆の空き缶を叩いてドラムの真似事をしていた。
8歳の頃には父親の嗜好の影響を受けてジャズを好むようになり、ジーン・クルーパー、バディ・リッチなどが、ボーナムのアイドルとなる。やがてビッグ・バンド・ジャズ華やかし頃に活躍していた、
ギャリー・オルコックというドラマーに師事し、ジャズドラムの手ほどきを受けるようになった。
また、学校では決して勉強熱心ではなかったボーナムは学校の通知表に、【彼はおそらく清掃員になるか、億万長者になるかのどちらかでしょう】と書かれてしまうほどの成績でやがて退学した。
15歳になると父親から中古品で錆びだらけであったが、本格的なドラムキットをプレゼントされる。
ボーナムは学校を退学になったあと、父親と一緒に建設現場で働くようになるが、ドラムで生計を立てることを夢みて練習に励み、家業と音楽修行を両立させた。ボーナムの誇った屈強な身体は、この少年期に経験したレンガやセメント袋を運んでは積み上げるという、過酷な肉体労働で養われることとなった。やがて”テリー・ウェブ&ザ・スパイダース”、”ア・ウェイ・オブ・ライフ”といった、地元の無名バンドを転々としながら技をみがいていく。
1965年頃、ボーナムは地元バーミンガムに程近いブラック・カウンティで、リズム&ブルース・バンド、
”ザ・クローリング・キング・スネイク”で歌う、ロバート・プラントの実力に見惚れた。
ボーナムはプラントに【お前、なかなかやるじゃないか。だけどお前には俺が必要だぜ。俺みたいなベスト・ドラマーはそうそう見つかるもんじゃないからな。】と話しかけ、自分とプレイした共演者のことを自慢するが、ボーナムと同じくらい自信家であったプラントに【お前がプレイしているようなポップスは好きじゃない。俺はR&Bにぞっこんなんだ。】と痛烈に返されてしまう。だがやがてプラントは、ボーナムの素晴らしいプレイを目の当たりにし、ボーナムが口先だけの男ではなく、本物の実力者であることを知る。
その後ボーナムが、ア・ウェイ・オブ・ライフのドラムスと兼任で、クローリング・キング・スネイクの正ドラマーの地位につくと、バンドはミッドランズ最強のバンドとして、地元で勇名を鳴り響かせることとなった。この頃のボーナムは、しばしばバスドラの皮を打ち破る凄まじいプレイを行い、ボーナムとは同郷で親友であった、コージー・パウエルらを大いに震撼させていた(パウエルのキットをボーナムが叩いてみると、パウエルが叩く場合とは桁違いに大きな音で鳴るので、パウエルと彼のドラムテックは驚愕したという別の逸話もある)。
だがボーナムは店や客さえも耐えられなくなるような凄まじい大音響を上げ、バンドはやがて演奏場所に困窮することとなる。酷いことに当時ギグを行った店の中には、騒音測定器が設置されていて、ある一定の音量以上の大きな音をたてると、自動的に楽器の電源が落とされるようにされていた会場すらあったのだが、ボーナムはステックの一撃で、そんな店のデシベルメーターの針を振り切ってみせ、バンドを興行不能に陥れる元凶となっていた。その後もプラントと組んだバンドは商業的に悉く失敗することとなる。
1968年5月、ボーナムは”ザ・バンド・オブ・ジョイ”が前座をしたアメリカのロックシンガー、ティム・ローズに見惚れられバックバンドの一員となる。ボーナムが抜けたバンド・オブ・ジョイは解散。このままプラントと活動を続けていても、飢え死にすると思ったのだ。その後、ボーナムはブルースシンガーのクリス・ファーローにも腕を買われ、ツアーへの同行を誘われる。そんなボーナムにプラントから再び、何か胡散臭いと感じる誘いを受けることになったのは、ボーナムにとっては、ようやく音楽で生計が立てられる環境が整いつつあった同年8月頃であった。
レッド・ツェッペリン結成
1968年イギリスの中堅ロックバンド”ヤードバーズ”は活動の一時停止を求め、アメリカでの興行を強く拒否したキース・レルフ、ジム・マッカーティ側と、バンド活動の継続を求めたジミー・ペイジ、クリス・ドレヤ側との間で、バンド内での深刻な意見対立が続いていた。やがてレルフ側はバンドのマネージャー、ピーター・グラントを介して、今後のヤードバースの活動は、ペイジ側に一任するとの書面を取り交わすと、同年7月、レルフとマッカーティはペイジ、ドレヤの2人を後に残してバンドを脱退し、自分たちの新バンド”ルネッサンス”の結成に動く。だがこの急事態により、ヤードバーズはプロモーターと契約済みある約2ヶ月後に予定されていた、北欧ツアーの実現が危ぶまれ、違約金がバンドに重く圧し掛かりかねないという危機に直面する。
バンドは一刻も早く不足したメンバーを探すことになるが、その難航の最中、ドレヤは音楽活動を諦め写真家に転向するとして脱退した(レッド・ツェッペリン1stアルバムのジャケットにあるZEPメンバーの集合写真はドレヤが撮影した物である)。こうしてバンドの全権限と全責務を一身に負ったペイジは、音楽誌上でメンバーの募集を伝え、その記事を読んだジョン・ポール・ジョーンズの妻モーが、夫ジョーンズに参加を勧めヤードバーズは優秀なベーシスト兼アレンジャーを獲得。その後、以前ヴォーカリストの誘いを断られたテリー・リードから、当時ほぼ無名であったシンガー、ロバート・プラントを紹介され、ヴォーカリストの獲得にも成功する。続いてプラントは友人のジョン・ボーナムをドラマーに推薦し、バンドは辛くも危機を脱しそうであったが、ボーナムのバンドへの参加は非常に難航することになる。
プラントからボーナムのことを【イギリス一ラウドでヘヴィなドラマーだ】と推薦されたペイジは、ティム・ローズのバックで叩くボーナムをロンドンのクラブ、マーキーにチェックに行った。そのプレイに驚いたペイジは、翌日ジェフ・ベックとアメリカに居たピーター・グラントに、ボーナムをメンバーにするべきだと報告した。グラントは倹約家で名高いペイジが、わざわざ国際電話をかけてきたことで、これはよっぽどのことが起こったのだろうと直感する。
だが、プラントからニュー・ヤードバーズへの参加を要請されたボーナムはそれを断り続けていた。理由のひとつはボーナムの妻パットが夫がプラントと組むと、いつも決まって一文無しで帰って来て、なのに夫は嬉しそうに笑っていると、プラントとボーナムが一緒に仕事をすることに反対であったことと、ボーナム自身もこの先行き不透明な新バンドについて非常に猜疑心を持っており、ティム・ローズとの仕事より割が良いものだとは思っていなかったからであった。【”ニュー・ヤードバーズ”?まるで”ニュー・ヴォードヴィル・バンド”(1920年代風の装いをした色物コミックバンド。ピーター・グラントがマネージメントしていた)みたいな響きじゃないか。きっとキャバレーバンドなのだろう。】と思い込んでいたほどであった。そんなボーナムにグラントとプラントは、合計30通以上にものぼる電報をボーナム宅に送り、なんとかバンドに参加させようとする。最終的にはプラントが【お前はこのバンドに入るんだよ!】と言い聞かせ、列車でボーナムを連れてロンドンまで引っ張って来くることで、ボーナムの参加がようやく実現する。ボーナムは週給50ポンドの契約であったが、コンサートのあと機材車は自分が運転するからと、もう30ポンドを要求してきたという。
同年9月バンドはロンドンの裏路地の一角にあった狭苦しいスタジオで初のリハーサルを行う。最初に演奏した曲は、ヤードバーズのナンバー、トレイン・ケプト・ア・ローリンであった。音を出した途端、4人のメンバーたちはこのバンドに特別な魔法のケミストリーが働いていることを知る。そしてツアーに出たバンドはたちまち週給50ポンドどころではない稼ぎを得ることになる。伝説の始まりである。
その死
1980年7月のヨーロッパツアーの後、バンドは77年の悲劇以来、二度とアメリカには行かないと宣言していたプラントの説得に成功し、同年10月17日モントリオール公演を皮切りに、『Led Zeppelin 80s Part1』と題された第12回目になる全米ツアーを開始する予定であった。同年9月21日には米国での驚異的なチケットセールスが報告され、バンドは80年代に入ってもなお世界最大のロックバンドであり続けるかにみえた。
だが同年9月24日、プラントと同じくアメリカに戻ることに戸惑いを感じるボーナムは、ツアーのリハーサルが行われるその日の昼食時から、地元のパブでウォッカをあおり始め、ウィンザーのペイジの屋敷に到着してからも飲み続けていた。リハーサル後のパーティーでも飲み続け、12時間で合計ウォッカ40杯分以上を飲み干したといわれている。しまいにボーナムは泥酔して眠りこけ、ローディーの一人がボーナムを寝室に運んでベッドに寝かせた。
9月25日午後1時45分頃、何時までも起きて来ないボーナムの様子を見に、ジョン・ポール・ジョーンズとツアーマネージャー兼サウンドテクであったベンジー・ルフェーヴルの二人がボーナムの寝室に出向いた。ジョーンズとルフェーヴルは、うつ伏せで寝ているボーナムを揺り起こそうとして異変に気付く。ボーナムはミュージシャンとして、お互いが敬愛していた関係にあったジミ・ヘンドリックスと同じく、眠っている間に嘔吐物を詰まらせ窒息死していたのだ。
その後ジョーンズは何も知らず居間で談笑していたペイジとプラントにボーナムの死を伝えねばならなかった。
同時刻にはこの悲劇を知らない千人以上のシカゴのファンたちが、シカゴ・トリビューン誌の早朝版を手に入れようと長蛇の列を作っていた。そこに同年11月に開催されるシカゴ・スタジアムでの4公演のチケットの郵便申し込みの詳細が発表されることになっていたからだ。
午後7時にはマスコミはボーナムの死をかぎつけ、あらゆるメディアでトップニュースとして扱われるが、低俗なタブロイド誌などはボーナムは麻薬の過剰摂取により死んだと書き立てる。ほどなくして世界中から哀悼の意が届けられるが、その多くがボーナムを神格化していたドラマーたちからであった。
同年10月8日検死の結果、事故死であるという裁定が下される。遺体は火葬され、同月10日ウェスターシャー州のボーナムの農場に程近いラシュコック教区の教会でボーナムの葬儀が執り行われる。
『ジョン・ボーナム墓碑銘』
CHERISHED MEMORY OF A LOVING HUSBAND AND FATHER
JOHN HENRY BONHAM
WHO DIED SEPT.25th,1980 AGED 32YEARS
He will always be remembered in our hearts.
Goodnight my Love,God Bless
彼は私たちの心の中でいつまでも生き続ける
おやすみ、愛しき人
同年12月4日、以下の解散表明文が発表され人々はボンゾの死と共にバンドが終焉を迎えたことを知る。
ここで我々の意志を表明したいと思う。我々の最愛の友人を失ったこと、彼の家族に対しての深い敬意、そして我々自身とマネージャーが感じていた深い一体感を鑑みて、このまま活動を続けていくことは出来ないという結論に達した。
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