ソクラテス(Sôkratês、紀元前469年頃~紀元前399年)とは、古代ギリシアの哲学者である。哲学者プラトンの師匠であった。
生涯
アテナイに生まれた。母親は助産婦であったが、これはソクラテスの「産婆術」という思想と関わりがある(後述)。ペロポネソス戦争に従軍したという。
プラトン『ソクラテスの弁明』によると、ソクラテスが40歳の頃、彼の弟子が、デルポイにあるアポロンの神託所にて「ソクラテス以上に賢い者はいない」という神託を受けたという(デルポイの神託)。
ソクラテスはこれを信じることができず、世間で賢いと呼ばれる人たちに会い、自分より賢い人を探そうと試みた。しかし、実際に彼らと会ってみて、彼らが世間でいわれるほどものを理解しているわけでもなく、賢いわけでもないと思うに至った。
ここからソクラテスは「無知の知」(後述)という考え方に至り、問答法(後述)を駆使して数多くの者と議論を行った。
しかし、こうした言動がアテナイの人々の反感を招き、ソクラテスは裁判にかけられ、「神々を信じず青少年を惑わした」という罪状で死刑を宣告される。
弟子たちに脱獄を勧められるが、ソクラテスは聞き入れず、自ら毒をあおり亡くなった。
著作
ソクラテスは著作を残しておらず、彼の思想は、他の思想家の著作に書かれている彼の言動からのみ窺うことができる。これは「ソクラテス問題」ともいわれ、ソクラテスの思想を解釈する上での問題となっている。
なお、ソクラテスが描かれた著作にて、特に有名なものはプラトンの以下の三作である。
- 『ソクラテスの弁明』……ソクラテスが裁判中に弁明を行う場面
- 『クリトン』……裁判にて死刑判決を受けた後、ソクラテスが牢獄にて死刑を待ちながら、クリトンと議論を交わす場面
- 『パイドン』……死刑当日、ソクラテスが弟子たちと議論を交わす場面
ソクラテスの思想
目次
ソクラテス問題
前述の通り、ソクラテスの思想は他人の著作から窺うほかない。すると、誰の著作から読み取るかが問題になる。
ソクラテスの言動について記している著述家は、劇作家アリストパネスと、ソクラテスの弟子であったクセノポン・プラトンが有名である。
アリストパネスは著作の中でソフィストを非難しており、ソフィストの筆頭としてソクラテスを挙げている。アリストパネスの戯曲におけるソクラテスはカリカチュアライズされた部分も多く、これをソクラテスのありのままの姿と受け取ることは難しい。
クセノポンの著作は、ソクラテスの思想を記したものというより、ソクラテスに向けられた非難に対する弁明やソクラテスの擁護を目的に書かれたものなので、ソクラテスの思想を読み取るには不十分とされる。
プラトンについては、初期の著作はソクラテスの思想を代弁しているといわれるが、中期以降は、プラトン自身の思想をソクラテスの口から語らせているという形式になってしまっている。
本稿では、プラトンの初期の対話篇から読み取れるソクラテスの思想について説明する。
無知の知
前述の通り、ソクラテスはデルポイの神託を受けて、自分より賢いと思われる人々に会いに行ったのであった。ところが、実際に会ってみると、その人たちは真理について理解しているわけでもなく、賢いわけでもなかった。
ここからソクラテスは、このように考えた。
- 世間で賢いといわれる人たちは、実際には賢いわけではないし、そのことを自覚もしていない。
- 賢くないという点では、自分(ソクラテス)も彼らと同様である。
- しかし、自分は彼らと違い、自分が賢くないことに対する自覚がある。
- 賢くないことに対する自覚がある点では、自分は彼らよりも賢いのではなかろうか。
詭弁じみた考え方だが、ソクラテスがこう考えた背景には、ソクラテスが神を深く信仰していたということがある。真に賢い者とは神のみであり、それに比べれば人間の知恵などは無に等しい、わずかな知恵を競いあって賢さを誇ることは神に対する侮辱である、といった考え方である。
問答法
ソクラテスは相手と議論を交わすとき、「問答法(ディアレクティケー)」によって議論を進めた。問答法の中でもソクラテスが好んで用いたのは、「論駁(エレンコス)」と呼ばれる手法である。これは、
- 議論の相手が「AはBである」という主張を行う。
- ソクラテスが相手に対し「BはCだろうか?」と質問を重ねる。相手はこれに同意する。
- ソクラテスが相手に対し「CはDだろうか?」と質問を重ねる。相手はこれに同意する。
- (以下、これが何度が続く)
- ソクラテスが「DがEなら、EはAということになる。しかし、EとAは相反するのだから、EはAとはいえないのではないだろうか?」と、矛盾を指摘する。
という形式で行われる議論である。ソクラテスの質問に対し同意を重ねていると、相手の主張に矛盾があることが分かる。こうして相手は自分の矛盾を自覚し、「無知の知」に至る、というわけである。
ソクラテスはこうした議論の仕方を、「産婆術」とも呼んでいる。相手が「無知の知」に至り、正しい知恵を生むことを手助けするという意味でこう呼んでいる。
なお、ソクラテスが「産婆術」という名称を用いたのは、彼の母が助産婦であり、実際に産婆を行っていたことにも関わりがある。
徳(アレテー)
これまで「世間の賢者たちは賢くない」や「無知の知」などと述べてきた。しかし、そもそも「賢い」「知恵がある」とはどういう意味なのだろうか?
ソクラテスは、「徳(アレテー)」を持っていることが優れたことであると述べる。「徳」とは人間の魂に備わった善なるものである。彼が問答法によって「無知の知」に至ろうと考えたのも、賢しらな知恵を捨て、「徳」を磨くことが重要だと考えたからである。
ソクラテスが徳を説いたことの背景には、タレスに始まる自然哲学は「万物の根源(アルケー)」についてばかり考察し、人間としてのあるべき姿が論じられていないと不満と抱いたことがある。彼は若い頃、アナクサゴラスについて学んだものの、徳について論じられていないと不満を抱いている(プラトン『パイドン』に描かれている)。
後世への影響
ソクラテス自身は著作を遺していないが、西洋哲学最大のプラトンを育て、そのプラトンがアリストテレスを育てたことを考えると、ソクラテスが西洋哲学に及ぼした影響は極めて大きい。
一方で、西洋的な理性主義・知性主義の元凶であると批判されることもある。ニーチェは、ソクラテスを「理論的楽天主義」だと批判している。
逸話
ダイモン
ソクラテスは、「ダイモン」の声を聞いていたといわれる。ダイモンは、現在だと悪魔(デーモン)をイメージしがちだが、古代ギリシアにおいては超自然的な存在を指す言葉であった。ソクラテスが何かをすべきでない場合、「~するな」とダイモンの声が聞こえたという。
悪法もまた法なり
ソクラテスは弟子たちから脱獄を勧められたとき、「悪法もまた法なり」と、悪法であっても法を侵す行為をしてはならないと信じて自殺したといわれる。
しかし、『クリトン』や『パイドン』にこの言葉は登場しない。しかも、この二作で描かれているように、ソクラテスが自殺したのは、魂の永遠を信じ、死は恐れるに足りないと信じたためであり、彼が法律遵守の観点から死刑を受け入れたのかは疑問である。
クサンティッペ
ソクラテスの妻クサンティッペは悪妻と呼ばれ、現在もクサンティッペといえば悪妻の代名詞である。
しかし、彼女が悪妻であったという逸話には創作も多く、本当に悪妻であったのかどうかは不明である。
語録
関連商品
関連項目
- 7
- 0pt