タケデンバードとは、日本の元競走馬である。
何の因果か、付いたあだ名は「魔性の馬」「死神」。
概要
父はNearco産駒のアドミラルバード、母エリースコットという血統。まずここからピンと来ない。
通算成績は26戦6勝、クモハタ記念・高松宮杯を勝つなどそれなりの結果こそ残した。
しかし、同期のランドプリンス・イシノヒカル・ロングエース・タイテエム・ハマノパレード・ハクホオショウ・タニノチカラら綺羅星のようなスターホースらと比べると地味の一語であった。
しかし、そんな地味な彼が大仰なあだ名を賜るに至ったのは理由がある。 しかも3つ。
「魔性の馬」タケデンバードの事件簿
その一:みずばしょう特別の惨劇
3歳(現在の2歳)に中山でデビューした彼であったが、なかなか勝ち上がれず初勝利を挙げたのは4戦目の未勝利戦、5月の頭であった。
例年であれば秋まで大舞台とはさようならだったのだが、この年のダービーは流感の影響で7月9日開催となっており、5月頭にようやく勝ち上がっても無茶すれば間に合う程度には猶予があった。
しかし、5月下旬の200万下条件(当時の未勝利の次のランク)を取りこぼし、ここで負けたらもうダービーは無理というレース、1972年6月11日のみずばしょう特別に挑んだ。
15頭立ての2番人気となかなかの高評価を受け臨んだが、4頭が絡む落馬事故という大惨事が発生。
しかしそれをよそに彼は何の不利も受けず快調に駆け抜け圧勝し、さらに500万下条件も勝ち2連勝を飾りダービーに出走したが、テスコボーイのファーストクロップであった皐月賞馬ランドプリンス・無冠の貴公子タイテエム・最強世代のダービー馬に輝いた勝ち馬ロングエースが死闘を繰り広げた先頭集団からは遠い彼方の11着に終わった。
その二:競馬史に残る大チョンボ
その後、秋は菊花賞路線を諦めて中距離路線に進んだタケデンバードはオープン級へと成長。11月のカブトヤマ記念に出走したが、凱旋門賞馬St. Crespinや当時の世界賞金王Tulyarを近親に持つハクホオショウに完敗し9着に終わる。
次走として1972年12月3日のクモハタ記念に臨んだのだが、ここでもハクホオショウが立ちはだかった。レースは逃げると目されたトーヨーアサヒまさかの出遅れという波乱のスタート。
直線、早めに先頭に立つタケデンバードをハクホオショウが追う展開となったが、ハクホオショウが地力にまかせて粘るタケデンバードを差し切って良血馬の面目躍如…と、観戦した皆が思った。そして、掲示板を見て目を疑った。
タケデンバード、めでたく初重賞ゲットである。おめでとう…なんて空気になるはずもなかった。
競馬場は騒然となり、ハクホオショウ陣営は納得せずJRAに判定写真(当時は肉眼で審判委員が着順を裁定していたが、スリットカメラの写真を公表するのが通例であったため、通常は写真がある)を出せと詰め寄るも
「スリットカメラ壊れてたから写真はない! だからウチの審判委員の肉眼で決めた! 以上!」という言い訳にもならないような理屈で訴えは退けられた。
これには陣営も、1番人気ハクホオショウが明らかに勝っていて後は2着争いと見ていたファンも激怒。
ヘタを打つと競馬離れ必至のこの事件を受けハクホオショウの関係者が、JRAと交渉した結果肉眼判定は廃止され写真判定のみで厳密に決めるようにルールが改正されたため、彼の犠牲は無駄にはならなかった。
…んだが、ハクホオショウはこの後調子を崩ししばらく苦戦の日々が続き、後に復調して秋の天皇賞に一番人気、タニノチカラを抑えた大本命として挑むも、スタート直後に予後不良級の骨折を発症し引退を余儀なくされた。
種牡馬にこそなったが、実績が足らず青森で種牡馬生活を送り、大した成績も残せずこの世を去った。このレースがなかったなら、もしかするとハクホオショウの馬生はまた違ったものになったのかもしれない。
ちなみに、JRAの標榜する公正競馬を批判するときによく引き合いに出された事件でもある。
本記事はかなりざっくり書いているので、タケデンバード事件でググるとちゃんとわかると思う。
その三:ハマノパレード、散華
その後、中距離重賞の常連として出走し続けるも結果は伴わず旧馬齢5歳の夏、1973年6月24日の高松宮杯に出走。
10頭立てのレースとなり、1番人気は前年春の天皇賞馬ベルワイド、2番人気は軽快なスピードで宝塚記念を快勝しスターへの階段を登り始めていたハマノパレード、タケデンバードは8番人気であった。
レースは軽快にハマノパレードが逃げて後続を離し、タケデンバードはその後ろで二番手を追走。
ハマノパレードの逃げは快調そのもので、そのまま逃げ切る…かに思われたのだが直線で悲劇は起こった。
開花したはずの星は早くも堕ちてしまった。そんな中、棚ボタで先頭に立ったタケデンバードが押し切って重賞2勝目をマーク。
さらに1番人気ベルワイドも旧中京競馬場の小回りかつ直線が短いことが災いし追い込みきれず3着に終わり大荒れとなった。
…しかし、ハマノパレードの悲劇はこれだけで終わらなかった。詳しくは当該記事に譲るが、あまりに悲しい結末を迎えたのであった。
最後に
という3つの大事件に遭遇、さらにその棚ボタで滑り込みでダービーに出走するきっかけを掴んだり重賞を2つも取ってしまったため、冒頭のあだ名が付いた。
ぶっちゃけちゃうと彼は悪くないんだが、 結果として彼の周りに怪しい影でも差していたかのように事件が巻き起こったのも事実である。
「魔性の馬」というあだ名は、ある意味で彼を正確に捉えた名前なのかもしれない。「死神」は言い過ぎだと思うが。
そんな彼であったが、ハマノパレード散華以降は悪運も尽きたか勝利に見放され、6歳の秋に引退。その後の動向は杳として知れない。
血統表
*アドミラルバード Admiral Byrd 1952 黒鹿毛 |
Nearco 1935 黒鹿毛 |
Pharos | Phalaris |
Scapa Flow | |||
Nogara | Havresac | ||
Catnip | |||
Woodlark 1944 鹿毛 |
Bois Roussel | Vatout | |
Plucky Liege | |||
Aurora | Hyperion | ||
Rose Red | |||
エリースコット 1962 黒鹿毛 FNo.1-m |
*スコット 1954 鹿毛 |
Souverain | Maravedis |
Jolie Reine | |||
Dissenter | Cameronian | ||
Lady Juror | |||
*フエリー 1950 鹿毛 |
Channel Swell | Fairway | |
Papilla | |||
Mavida | Marconigram | ||
Roseflight | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Pharos=Fairway 3×5×4(21.88%)、Spearmint 5×5(6.25%)
関連コミュニティ
関連項目
- 0
- 0pt