ただしΤάνις(タニス)は古代ギリシャ語文献での呼称であり、現地の人間の呼称は必ずしもその通りではなかったと考えられている。
概要
下エジプト(北エジプト)に位置していた。ナイル川の支流に面しており、商業や交通、政治の要所として栄えた。エジプト第3中間期の第21王朝(紀元前1千年前後)はタニスを首都としていたため、「タニス王朝」と呼称されることもある。そのため第21王朝期に存在していたことは確定しているが、それより以前のいつ頃から存在した都市なのかは明確ではない。
この都市の遺跡で見つかった「タニスの大スフィンクス」(ルーヴル美術館所蔵)には、エジプト中王国期の第12王朝の王アメンエムハト2世(紀元前1900年頃の人物)など、複数の王朝の王の名が彫られている。よって「それらの王朝の時代には既にタニスは存在していたのではないか?」という推論も出てくる。しかし古代エジプトの遺跡では、「その場所が建設されるよりも古い時代の王朝の遺物を他の場所から移設して再利用した」という例がままみられるため、ある王朝の遺物が見つかったからと言って単純に「その王朝の時代にはこの都市はもう存在していたのだ」とは言えない。
旧約聖書の複数個所[1]で言及されるエジプトの都市「צֹעַן」(カタカナ表記ゾアン、ツォアンなど)は、ここタニスに相当すると言う説もある。
現在のタニス
現在のエジプトにおいては、タニスがあった場所はエジプト北東部のシャルキーヤ県にある小さな町「サーン・イル・ハガル(カタカナ表記は多様。アラビア語表記ではصان الحجر)」になっている。現在もナイル川支流が流れてはいるが、長い年月の末に川の流れが変化したのか、水量の少ない細い川でしかなくなっている。
この町の近くの丘には古代エジプト時代の「古代都市タニス」の様相をわずかに残す遺跡があり、荒廃した神殿やオベリスクの破片など、石造りの建造物の残骸が荒れ地の中に佇んでいる。また近年では人工衛星からの赤外線探査によって、この丘の地中に非常に多数の家屋が立ち並んでいた痕跡が残されていることが画像として示されており、古代の大都市の様相を窺い知ることが可能となっている。
この遺跡からは第21王朝や第22王朝の王(ファラオ)らの墓も見つかっている。古代エジプトのファラオの墓としては珍しく盗掘に遭っていないままに発見されたため、金とラピスラズリでできたファラオのマスクを含む多くの宝飾品が回収されている。
やや辺鄙な場所にあるためか、考古学的重要性だけでなく旧約聖書で言及された(?)というネームバリューがあるにも関わらず、観光地としてはあまり栄えていない。エジプトの首都カイロから日帰り観光は可能なようだが、車を飛ばして片道数時間かかるようで、この遺跡の観光だけに丸一日を費やすことになる。
他の都市との混同
かつてはエジプトに侵入してきたアジア系異民族「ヒクソス」の王朝の首都「アヴァリス」がこのタニスと同一のものだと考えられていた。そのため、文献によってはタニスについてヒクソスの王朝の首都と記されているものもある。2016年現在では、数十キロ離れた別の遺跡がアヴァリスに相当するとみられている。上記の旧約聖書での「צֹעַן」もタニスではなくこのアヴァリスの事だった可能性もある。
また、タニスとは別の古代都市として同じエジプト北東部に立地していた「サイス」があるが、サイスとタニスが混同されてしまう例もある。そのサイスの現在のアラビア語での地名が「サ・イル・ハガル(アラビア語表記صا الحجر)」といって、現在のタニスの地名「サーン・イル・ハガル(アラビア語表記صان الحجر)」と非常によく似ていることが原因か。また、タニスとサイスはどちらも王朝の首都であり(サイスは第24王朝と第26王朝の首都)、さらに双方ともナイル川の支流に面していた。これらの共通点も混同の一因かと思われる。
関連項目
関連リンク
脚注
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