ダグラス・マッカーサー単語

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ダグラスマッカーサー
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ダグラス・マッカーサー1880年1月26日-1964年4月5日、満84歳)とはアメリカ陸軍の軍人である。
軍帽、サングラスコーンパイプがトレードマーク
第一次、第二次世界大戦太平洋戦争)、朝鮮戦争官を務め、GHQ日本の占領に従事。
ウィンストン・チャーチルフランクリン・D・ルーズベルトとは遠い戚である。

 sm9動画サムネ  

ニックネーム

アメリカシーザー の大君(アメリカマスコミ

ダグアウトダグ・・壕に籠って出てこないダグラスという意味フィリピンアメリカ兵)

天皇・・朕(天皇)より上にいるという意味 元帥・・マッカーサー元帥の略日本人) 

偉大なる親父朝日新聞

好戦・・ウォーモンガー中国共産党

などたくさん

経歴

南北戦争に従軍したアーサー・マッカーサー・ジュニア中将息子として、アーカンソー州陸軍宿舎で生まれる。アーサーは当時植民地だったフィリピンで初代総督も務めており、2代に渡って関わる事になる。

マッカーサーも軍人をし、ウェストポイント陸軍士官学校受験し優秀な成績で入学を果たす、その後卒業まで優秀な成績を残し、卒業時はトップであった。ここで重要なことは、他の都市トップ卒業者はすべて忘れ去られたのに対し、マッカーサーはそうではなかったことであろう。
1903年に陸軍士官学校少尉の階級で卒業した後、工兵隊に入隊。2年間フィリピンで働き日本東京で勤務した。
この時、とともに日露戦争を観戦しているが、アメリカの一部では日露戦争最後の決戦となった奉の戦いで、当時工兵中尉だったマッカーサーが、日本軍の一部隊揮しロシア軍台を攻略したという伝説が信じられていたりする。ネタ元は親バカだった親父だという説も)

戦後大山東郷平八郎木希典といった日露戦争で活躍した日本軍将星たちと面談し、大きな感銘を受けている。

第一次世界大戦

1917年にアメリカ参戦。
マッカーサーは様々な州から集められた、第42師団「レインボー師団」の参謀長・団長として参戦した。
指揮官でありながら最前線揮を続け、2回負傷し、外の勲章も含めて15個の勲章を受章した。
塹壕体の中で偵察写真から塹壕を見つけ、戦線を突破して行ったという。この時史上最年少の38歳で少将に昇進した(ただしたった3か後には35歳の二人の少将にあっさり抜かれることになるが)。しかしWW1のあまり犠牲の多い戦いの経験から、のちの彼の戦略を与えることとなった。

戦後、その功績から歴史上2番若さウェストポイント陸軍士官学校校長に就任、しごき止し軍事のみにとらわれず広い世間に知見を広げた将校の育成をして教育革を行った。1928年には第9回アムステルダムオリンピックアメリカ選手団団長も務めている。そしてまたまた1930年に、今度は米軍史上最年少50歳で参謀総長にも昇進するなどエリート街道を突き進んだ。

参謀総長時代の1932年に、第一次世界大戦の復員兵が生活困窮により、慰労の前倒しでの支給を要し起こしたデモ活動に対し、フーヴァー大統領の命を受けて催ガスまで投入して武鎮圧を図った(ボーナスアーミー事件)。この時にマッカーサーに前面に出ての鎮圧を思いとどまる様説得した部下の内の一人が、後の連合総司令官・第34代アメリカ大統領ワイト・D・アイゼンハワーであった。武鎮圧による死者はほぼゼロであったが、ボーナスアーミーは民の同情を得ており、共産主義者の活動を鎮圧したと得意げなマッカーサーに対し非難が集中し、以後は特にアメリカ民主党流のリベラル層に政敵として執拗なネガティブキャンペーンを受けるようになった。

世界恐慌の対応に苦しむフーヴァー大統領選挙に敗れ、1933年フランクリン・ルーズベルト大統領が就任し、ニューディールが開始された。陸軍Civil Conservation Corps市民保全部隊)の立ち上げを導することとなった。工兵隊出身のマッカーサーはここで才をいかんなく発揮し、数十万人の雇用促進に大いに貢献することになった。民主党流層から蝎のごとく嫌われ解任圧の強かったマッカーサーであったが、ルーズベルトの一言で留任が決まった。しかしニューディールによる陸軍予算削減はすさまじいものがあった。陸軍はそもそもWW1後に将校の地位は大戦以前に戻され、将校と兵士と問わず、昇進はまるで氷河の動きのように遅く、大佐に昇進するのが通常59歳で、マーシャルのような有能な将官でも、准将になったのはやっと56歳であった。ほかの多くの将校はマーシャルのように優秀でも意欲的でも幸運でもなくまともな昇進は望めなかったのである。マッカーサーはしばしば大統領と衝突し、その仕事は楽なものではなかった。それでもマッカーサーの陸軍参謀総長はさらに任期を延長され1935年まで及び、M1ガーランドの制式採用や陸軍航空隊になけなしの予算を割いてのちのB-17開発を成功させるなど実績を残した。

マッカーサー陸軍参謀総長退任後、1935年フィリピン軍の軍事顧問に就任した。マッカーサーは優秀なアイゼンハワーを気に入っており副官としてフィリピンに連れていった。しかし陸軍の予算は乏しく、フィリピン軍の育成はそれに輪をかけて貧相であり、どうにも成功しそうにない不毛な仕事であった。さしもの温厚なアイゼンハワーも音を上げ、本に何度も転任願いを出したが、マッカーサーがマニラでの行軍パレードをアイゼンハワーの責任に押し付けた事件をきっかけについに1940年アイゼンハワーは袂を分かち本に復帰した。

1937年12月、マッカーサーはアメリカ陸軍を退役し、フィリピン軍の初代元帥に就任した。(フィリピンアメリカより1946年独立約束されており、独自の軍隊の編成中であった)。フィリピン独立準備政府初代大統領マニュエル・ケソンが、独立軍の完成には、50万ドルボーナスを支払うことを約束していたのである。

第二次世界大戦

1941年7月日本印進駐に伴い日の関係が悪化していた頃、61歳のマッカーサーはホワイトハウスによって再招集され、再びフィリピンに赴任した。しかし1940年6月ヒトラーフランスにより情勢が大きく変わっていた。アメリカイギリス戦争となった場合ドイツを先にたたくことで合意しており、補給路が欧州戦線の3倍にもなるフィリピンについては防衛を放棄したためである。

そして12月真珠湾攻撃と同時に、フィリピン日本軍との戦いが始まった。アメリカの物資及び戦の多くは大西洋に向かい、バター半島およびコレヒドールの戦いで日本軍に大きな損を与え撃退するなど健闘したものの、援軍の見込みはなく追い詰められた。マッカーサーは最期まで戦う覚悟だったが、すでにマレー及びシンガポール日本軍に占領、多くの兵士が捕虜となり本土の危機に陥ったオーストラリア政府アメリカに対し共同軍の指揮官を懇願、ルーズベルト大統領より撤退の命が出され渋々承諾する事となった。オーストラリアに退避したマッカーサーは豪州マスコミインタビューにて「I shall return (必ずや私は戻って来るだろう)」と発言した。この言葉は有名なスローガンになり、マッカーサーが彼の約束1944年10月に果たすまで、フィリピン人の希望を保持するのに役立つことになる。

しかしコレヒドールの要塞の地下壕に閉じこもりバター半島に出てこないマッカーサーを将兵らは『ダグアウトダグぐらに籠るダグラス・マッカーサー)』とあだ名を付けて『ダグアウトダグは震えて岩石の下で横になってる。ぐらは爆撃機から安心でどんなショックも怖くない』という歌まで作って揶揄していた。しかしこの歌は不なものだった。地下の部はいつもしい撃にさらされていたし、マッカーサーはしばしばトンネル内の部から地上にでて、いっさいのものを破壊する身の毛もよだつ危険や脅威に、然とたち向っていたからだ。個人的なヒロイズムということになると、例によって、マッカーサーは部下の模範になる以上の態度をしめした。しかし前線にいる将兵は、この官の姿を見ることが出来なかったのである。

また日本軍の猛攻と飢えや病気で苦しむ自分らを見捨てて(いくら大統領とは言え)逃げ出したマッカーサーに対して、フィリピンで戦い日本軍の捕虜となった多くの将兵は非難の気持ちを抱いていたと言う。

マッカーサーは連合軍である南西太平洋方面最高官に就任すると、豪州カーティ首相と緊密な信頼関係を立した。米軍はさまざまな技術協インフラ整備に協し、オーストラリアの生産は大いに伸長し、1939年には、工作機械を生産するオーストラリア企業は3社しかなかったが、1943年までには100社以上になり、膨大な缶詰などの食料車両リバティ船などがニューギニアやがなるカナルに供給されるようになった。豪州WW2においてアメリカレンリースより多くの物資をアメリカに供給したほとんど一のとなった。この補給体制の確立により、日本軍の予想より1942年末からニューギニアをにおいて連合軍の反抗が始まり、アイランドホッピングという損の少ない戦い方で日本軍を撃破していき、名民的人気を更に高めていった。

1944年太平洋戦略において、マッカーサーはフィリピン攻略したが、ワシントンの統合参謀本部のアーネストキング提督太平洋戦争海軍戦争と考え、ニミッツ提督中部太平洋での作戦を優先、空母機動部隊はマッカーサーの嶼沿いよりいのである。しかし太平洋で実際に戦闘を行っている諸将は、南西太平洋方面軍はもとより、ハルゼー提督などの太平洋方面軍においてもフィリピン攻略を支持していた。物資の補給基地となった豪州から嶼沿いに太い補給路が確保できたからである。これらの見解の相違は、ルーズベルトもよく知っていたが、いずれにしても、これを調整する会議を開く必要があった。しかしノルマンディー上陸作戦のため英国太平洋戦線における二方面作戦に物資兵面で難色を示すと、ワシントンの統合参謀本部のマーシャル陸軍参謀総長もアーネストキング提督台湾攻略方針一本化に賛同するようになり、マッカーサーへはニミッツ海軍への兵供給と、残存の兵による印への限定的な侵攻を命じた。しかしこれは思わぬ人物により覆されることになる。

1944年7月ハワイに「日本に対する行動の段階を決める」ためにマッカーサーは、個人的に出席するよう招かれた。大きな会議にはそれまで一度も出席したことがなかったので(その後も2度と招かれなかった)、何か重要な問題が決定されるのだろうと考えていた。しかし会議には、マーシャル参謀総長もキング海軍作戦部長も出席していなかった。かわりにリーヒ統合参謀本部議長と、ルーズベルト大統領が直々に参加していたのである。この会議ではニミッツ台湾攻撃をし、マッカーサーはニミッツ戦略による被害の大きさを批判、その後ルーズベルトフィリピン解放する道徳的義務を強調した。ルーズベルトとマッカーサーは、そのあと一緒に部隊を閲兵したのである。決め手となったのは補給であった。補給路が倍になる台湾攻略は、太平洋戦線に許された物資量では極めて困難であることが分かってきたのである。9月ルーズベルト大統領は、ついにマッカーサーにフィリピン攻略を命じた。

1944年10月23日に再びフィリピンの地を踏み「I shall returnを実現させたマッカーサーは終戦までフィリピンで戦い続ける事になる。太平洋戦争の有名な戦闘太平洋正面の戦や上陸戦で、太平洋方面の連合官であった海軍チェスター・ニミッツ元帥は、マリアナ・硫黄島沖縄などで大規模な戦や上陸戦を勝ち抜き、々しい活躍をしたが、ニューギニアフィリピンで多くの日本陸軍部隊と厳しい戦闘を戦い、少ない損にて圧倒的な勝利を得たマッカーサーのの方がニミッツを上回るとの評価も多く、硫黄島沖縄での苦戦を報じたアメリカマスコミが、マッカーサーに揮をさせればここまで苦戦しなかったと論評する事もあった。

余談だが、今日マッカーサーが「I shall returnを成し遂げた間として、レイテの海岸に上陸するマッカーサーとその幕僚の写真が有名であるが、あの写真は後日海岸線日本軍を掃討し安全となった後に撮された所謂プロパガンダ写真である。流石日本軍の攻撃の中であんなのんびりと撮する余裕はなかったが、マッカーサーの強い希望により安全になった後に記念として撮され、特にそのような注釈をつけられる事もなく、上陸時の写真として今日に伝えられている。

連合軍最高司令官総司令部(GHQ)

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日本後の1945年8月30日
日本厚木基地に降り立ったマッカーサーは、東京湾に停泊する戦艦ミズーリにて行われた降文書の調印式にアメリカ代表として参加。
1951年4月11日まで連合軍最高官として日本占領に当たった。

マッカーサーとGHQは、戦後の五大革と言われる革を日本政府に命じ、日本民主化と軍国主義の排除を推し進めた。また財閥解体や農地革など経済社会制度の近代化も進め、経済体制や税制についても革を進めた。また日本国憲法の制定もマッカーサーの揮下で進められており、戦後日本の基礎を築きあげたと言っても過言ではいだろう。今日平和で豊かで自由生活をおう歌できるのもマッカーサー様のおかげですと感謝すべきかも知れない。(この辺の詳細は学校の授業で勉強するか、Wikipediaを参照下さい)

マッカーサーの諸革は多くの民に支持された。マッカーサーの強リーダーシップが、当時の日本人民性に合っていたという摘もある。また、戦前・戦中は軍の圧により軍部を持ち上げていたマスコミが、軍部の圧政から解放され、GHQ礼賛に手の平返しし、マッカーサーを底的に持ち上げたことより、アイドル的な人気が過熱し、GHQの本部が置かれた第一生命館の前には毎日多数のマッカーサーの追っかけが押しかけ、大量のファンレターが届けられた。その数は50万通に達したと言われ、中には「戦前天皇陛下の御を崇めてましたが、今ではマッカーサー様のお姿を崇めております」とか「マッカーサー様の子どもを産みたい」とか「アメリカスパイにして下さい」とか「アメリカ植民地にして下さい」など微笑ましいものから笑えないものまであった。

マッカーサーGHQ日本マスコミの蜜関係は続き、在任期間中の1948年にマッカーサーが大統領選出を行うと、中立であるはずのマスコミが「マ元帥大統領に」運動を進めたほどであった。(結局、共和党大会の投票で1,094票中11票の大惨敗)後年、マッカーサーがGHQ官を解任され離日する時、熱心なクリスチャンで、日本政教分離を推し進め、国家神道を解体したマッカーサーをご神体に据えた『マッカーサー神社』を建立しようという提案がなされ、その発起人の中に大手新聞社の社長ズラッと名をえていたと言う事実だけでも、当時のマッカーサー礼賛の過熱ぶりと、マスコミとの密な関係をい知る事ができるであろう。さすがにマッカーサーもこの申し出には苦笑いで返答に困っていたと言う。

マッカーサーは占領においてソ連要な役割を得ようとするいかなる試みにも抵抗した。1947年初頭のゼネストを禁止し、行方不明となった日本人捕虜に対する優れたプロパガンダは、ソ連に対する根深い反感をを抱き続けるのに一役買った。日本ソ連の膨に対する西側の民主主義の強パートナーとなり、ソ連の占領による分割を避けることができた日本戦後を成し遂げ驚異的な経済成長を遂げることになった。

朝鮮戦争

1949年毛沢東率いる中共軍が北京を占領し、蒋介石台湾に追い出された。1950年6月北朝鮮の侵攻により朝鮮戦争が勃発、マッカーサーも国連総司令官として参戦。ソ連製の兵器で武装した北朝鮮軍の猛攻で釜山に追い込まれ、苦に立っていた国連軍と韓国軍であった。マッカーサーは共産中国を抑える的にて8月台湾蒋介石と会談を行ったが、これはトルーマン大統領激怒させた。が、9月15日博打と言われた仁川上作戦弾飛び交う前線まで自ら前線兵士を督戦すると、驚くべき程の成功で偉大な戦果をもたらし、9月ソウルを奪回すると、第八軍は釜山周辺も突破し、北朝鮮軍は潰走を始めた。ここで最前線弾に倒れれば彼の伝説々しいものとなっていただろうが、現実は…、盛者必衰であった。米軍一気に中国付近まで進撃し、そして十月六日になると、国連総会はマッカーサーの北鮮侵攻を承認するにいたる。

ハリー・S・トルーマン大統領は、10月15日ウェーク島まで出向きマッカーサーと会談している。表面的には和やかに進んだが、しかし、じつをいえば、双方がいくらうまくいったようなふりをしても、会談はうまくいかなかったのである。この会談は中間選挙を控え人気低下に悩むトルーマン時の人となったマッカーサーと会談し人気を高めようとした面があり、マッカーサーにとっては偉大な大統領の死でたまたま上り詰めたミズーリ田舎者に映り、民主党選挙政策に振り回されるのに共和党シンパのマッカーサーは苛ついていたのである。最高官眼航空機から降りるとき、彼を出迎えるための万事準備などはなく、彼は25ヤード離れたジープにただ座り、トルーマン飛行機から降りるとき何とか同時にマッカーサーもそこに到着したのだった。またトルーマン大統領に対して敬礼で出迎えるのが礼儀と考えていたが、握手で出迎え、トルーマンを苛立たせている(ルーズベルトはそのあたりはこだわりは全くなかった)。この会談ではトルーマンは次々に質問し、将軍の返答にはほとんど関心を払っていなかった。彼の見解に何らかの異議申し立てがされることもなければ、質問もされず、戦略に対する真剣議論は一切なかったのである。中国の参戦問題も一度だけ質問された。「ほとんどありえません」とマッカーサーは答えた。これはこれまでにない大を最も太った人質の一人に渡すという間違いで、この会談が政治的なものという判断は正しかったマッカーサーでも、より抜けない政治家のように発現すべてを穏当なものにしなかった、彼は驚くほどナイーヴだったのかもしれない。トルーマンは会談前の彼の非礼を慢するつもりでいたが、彼がマッカーサーの態度に怒りを募らせこの出来事を誇するようになったのは、期待した政治効果が得られないことが明らかになって以後のことだった。トルーマンはのちにマッカーサーを「真実の違いも判らない男」とこき下ろし不信感を強め、これが後のマッカーサー自身の運命を変える事となった。

での勝利の後、ワシントン東京では非常に楽観的な空気に包まれた。国際連合自由選挙によってえらばれた統一朝鮮立を決意していたが、今やそれが実現可かと思われたのである。マッカーサーは、9月下旬、統合参謀本部から「下の軍事標は北朝鮮軍の壊滅である」の一文で始まる北緯38度線の越境を認めるを受けた。ただし中国ソ連軍の参戦のない状態であるという条件は付けていた。防大臣マーシャルはマッカーサーに「々は、38度以北への侵攻について、下が戦略的及び戦術的に何ら制約を受けていないよう考えるよう望む」と発信した。10月周恩来米軍中国軍の参戦を警告した。しかしマッカーサーはその警告を甘く見て、統合参謀本部の反対を押し切り、中国付近にアメリカ軍を展開させた。10月25日北朝鮮に潜入された中国軍は攻撃を開始した。しかしながらその後部隊を解散させ、部隊は分散させた。しかしアメリカ軍による進撃が続いたため、11月25日30万の中国軍による攻撃が始まり、ウォーカーはマッカーサーに、中共軍が二〇万の兵戦闘に投入しており、この圧倒的な兵々は直面しているのだと報告する。マッカーサーはやむなく、撤退を命じた。途中、ずっと戦闘を続けながら、アメリカ軍は秩序正しく後退する。撤退の途中、アメリカ軍は甚大な損をうけた。しかし、潰走ではなかった。三八度線の周辺で兵を再結集するには、北進作戦と同じように、速やかにして、全な撤収作戦を実施しなければならない。十二月五日、ピョンヤン〔平壌〕を放棄する。

さらに12月30日第八軍ウォルトン・ウォーカー中将事故で不慮の死を遂げると、マッカーサーはウェストポイントの体育教官に名した1920年代からそのを高く評価していたマシュー・リッジウェイ中将を第8軍の官に着任し、した「第8軍は君のものだ、マット。君が最良と思うことをすればよい。」。1951年1月中国軍ソウルを占領した。しかし中国軍兵站は伸びきっており、リッジウェイ2月反撃を開始し、3月ソウルを奪回した。大規模な増強なしに中国軍に大打撃を与えたリッジウェイに対し、マッカーサーの碌ぶりは明らかであった。

朝鮮半島への中国の介入は、民主党が中間選挙で屈辱的敗北を喫したのと時期を同じくしていた。中国に大打撃を与えたことで、トルーマン交渉で戦争を終わらせる機が熟したと考えた。しかしマッカーサーは大統領の意に反して、中国に対し敗北を認めるか、あるいは国連の決定のリスクに直面するかを呼び掛ける長文メッセージを発した。しかし彼の行動は露大統領に逆らうものであったので、彼が自分の行動の意味を理解してなかったとは考えられない。実際のところ、彼が朝鮮戦争に対してうんざりしていたのは間違いないところだろう。さらにマッカーサーは共和党下院議員であるジョゼフマーティンに書簡をしたためた。 許可なくマスコミに意見を表してはならないという大統領が出ていたのに、彼はアメリカ最大、最も大きなをもつ通信社のひとつユナテッド・プレス(UP)のヒュー・ベイリー社長に連絡をつける。
 三月十五日づけ、ベイリー社長あてのメッセージで、マッカーサーは、第八軍に対する三八度線での作戦停止命を、「朝鮮統一という々の使命達成」から程遠いとして非難する。

「一部の人びとにとっては、奇妙にも理解しがたいことだと思われをかもしれないが、アジアのこの地は、共産主義の策諜者が世界征服を試みる場としてえらんだところであり、々は、このように戦場で提起された問題にひきずりこまれているのである。この地では、々は武器をもってヨーロッパの戦いを戦っているのであり、かの地では外交官が言葉をもって戦っているのにすぎない。もし々がアジア共産主義との戦いにやぶれるならば、ヨーロッパも同じような運命はさけられないだろう。勝つことだ。さすれば、ヨーロッパでおそらく戦争がさけられることは間違いないし、しかもなお、平和がたもたれるであろう。あなたがいみじくも摘されたように、々は勝たなくてはならない。勝利では、勝利にかわりうるものはないのだ。」〔筆者太字〕
 この書簡を表した直後、マッカーサーは統合参謀本部に対し、彼らが課した軍事行動の制限を取り外すようにめる。三月二十四日、マッカーサーは然と、またまた大統領の意にさからって、長文コミュニケをおおやけにする。それは中共の工業を問題外としたもので、敵の最高官に対しては、朝鮮ジレンマを解決するをさぐるために話しあうともちかけていた。中国本土の沿、内陸部の基地に攻撃をくわえれば、中共はうちまかせるし、それは間違いなく中共体制の軍事的な崩壊をもたらすだろうと、マッカーサーは論じたてた。このコミュニケ発表は、とくにタイミングがわるかった。 四月五日、下院議員ジョーマーチンが本会議三月二十日づけのマッカーサー書簡をよみあげたとき、ついに断がくだされた。

4月9日アーモンドにあった時、彼はもの悲しそうに言った「もう君に会うこともないだろう。だからサヨナラ打。」「何をおっしゃられているのでしょうか、この6かは何度も会いにいらっしゃったではないですか」「そうではない、政治的な問題に巻き込まれてしまった。おそらく大統領に罷免されるだろう。」。ブラッドレーは大統領に、もしマッカーサーがトルーマンが届く前ににしたら、彼が辞任する可性があると伝えた。トルーマン高した。「あの野郎から辞任を申しださせるわけにはいかない、彼は罷免されねばならないのだ。」。4月12日彼に正式に罷免が通達された。彼は妻ジーンに顔を向けた「ジニー、やっとに帰るぞ。」

多くの日本人にとって、マッカーサーの解任はあたかも家族訃報のような衝撃があった。4月12日、マッカーサーが最後に大使館を後にした日、25万人もの日本人空港までの沿を埋めたのである。吉田首相は、マッカーサーが「占領後の混乱と虚脱」から日本を救ったとし、日本の再建と、「々の社会の各方面に民主主義」をうえつけてくれたことに対し、日本国民にかわって感謝すると述べた。すでに感動的な賛辞をおくっていた天皇は、わざわざマッカーサーのもとを訪れる。日本天皇が、今やなんの資格をもたない一外国人をたずねるのは、日本の歴史上、前代未聞のことだった。天皇をうかべながら、別れを告げた。マッカーサーの離日にあたり、これがおそらく、最も感動的な出来事であったろう。マッカーサーはゆっくりしようと考えていたが、共和党のフーヴァー民主党を政権から引きずり落とす絶好の機会を逃さぬよう、路で帰宅するようにし、受け入れた。サンフランシスコでは50万人の人々が彼の帰を出迎えた。

晩年

アメリカへ帰後、ワシントンD.Cで退任演説を行った。約1時間半行われたマッカーサーの演説は、アジアに関する議論に大半が割かれた。アジアがいかに困窮し、戦争によって荒しているか、それにもかかわらず、そこがいかに今後重要になるかについて述べたのである。彼の演説は2分毎に議員たちの拍手采やスタンディングオベーションによって中断されたのである。彼は自分の部隊が増強されなかったことについて不満を述べ、前線官として課せられた制約を非難した。それで胸のつかえがとれたのか、彼な勇壮な別れのあいさつで堂々と演説を締めくくった。その時最後のフレーズである老兵は死なず、ただ消え去るのみ」は有名である。

彼は中国に対する軍事的、経済的圧を強めること、アメリカによる蒋介石への兵站上の支援の立法化をめた。しかし1951年の段階において、中国との戦争を支持するアメリカ人を見つけるのは簡単なことではなかった。そのような戦争において、中国の人口集中地区に対する核攻撃が一の勝利条件であったろう。しかし何万人もの辜の死が、朝鮮半島における一時的な後退に対する対応として適切とはいいがたかった。概してマッカーサーは中国に対してどう対処するのかについての手掛かりがなかったのである。トルーマン政府は彼の頭の混乱している状況をうまく利用した。マッカーサーは、ほぼ間違いなく第三次世界大戦を起こそうとしているタガの外れた指揮官と位置付けたのである。

民的な人気は衰えておらず、ニューヨークで凱旋パレードをした際には、元部下のアイゼンハワー凱旋時の4倍にもなる700万人の市民が熱狂的な歓迎をしたと言われている。その後マッカーサーを解任したトルーマン人気が急落、朝鮮戦争の苦戦が何故か全部トルーマンのせいにされ、全各地でトルーマンを模した藁人形が焼かれるなどアメリカ憎しみを一身に集め、22%アメリカ史上最低大統領支持率を叩き出し、トルーマンは再選を諦めざるを得なくなった。

しかし5月3日よりはじめられた議会朝鮮戦争に関する聴会では、彼の評判を大いに落とすこととなった。マッカーサーは戦争の遂行の仕方に関する彼の提案はすべて統合参謀本部に認められたが、ホワイトハウス務省がそれを否定したとしたのである。これには統合参謀本部のマーシャル将軍議会要な反対言を行った。五つ将軍が、慇懃にお互いを嘘つき呼ばわりするは、決して人を啓発するものではなかった。これには共和党の支持者の多くを失望させることになった。多くの歓迎を集めたマッカーサーの訪問も、5月末には高校アメフトの試合のほうがもっと人が集まる惨状となった。

ルーマンの再選断念を受け、マッカーサーは共和党大会にてオハイオ州出身のロバート・A・タフトを大統領補として支持し、応援演説を行った。皮にも共和党での大統領補の内でタフトの最大のライバルは、マッカーサー元部下アイゼンハワーであり、共和党大会の投票ではアイゼンハワー845票に対しタフトは280票であり、1回投票アイゼンハワーが使命を勝ち取った。マッカーサーは補を辞退したが4票が投票された。共和党大統領補となったアイゼンハワーは、朝鮮問題、共産主義、汚職、すなわちトルーマン政権がこれらの問題に対処して失敗しているとみなしていたことを選挙運動題にし、見事大統領への当選を果たすと、朝鮮戦争の停戦を実現させた。

マッカーサー解任後も、日本におけるマッカーサー礼賛ぶりは変わりなかったが、1951年5月上院でのマッカーサーの『日本人は12才』発言で一気に冷却化してしまった。この言の意は「アングロクソンやドイツ人は民族的には、既に成熟した45才の壮年であり、ドイツ犯罪は確信的な犯罪であった。日本人歴史こそ古いものの民族としては12歳程度の未熟さであり、ドイツの確信的な犯罪とは異なる」という事であり、日本を弁護する意味合いだったと言われている。某新聞は、この『日本人は12才』発言を受けて、「日本人に喜ばれる様にマッカーサーの野郎は口の利き方に気を付けろよ(意訳)」と光速手の平返しを行っている。

逆に、一部の保守論者が、マッカーサーが『太平洋戦争日本の自衛戦争であった』と弁護してくれたというをしているが、これは1951年5月朝鮮戦争へのアメリカの対応を協議する軍事委員会でのマッカーサーの長い発言の、ごく一部分を都合のいい解釈をしたものとの摘もある。(両論の詳細はググれ)しかし、この言をしたわずか20日ぐらい前の退任式のスピーチでマッカーサーは『日本戦争以来、現代史上で最も偉大な心をしている』と述べており、戦争突入時は日本心しなければいけない程悪かったとマッカーサーは認識していたようである。

日本での人気がガタ落ちになる一方で、マッカーサーと共に日本軍の支配から土を解放したフィリピンではマッカーサー人気は不動であり、独立15周年記念行事に国賓として招かれたマッカーサーはフィリピン民の熱狂的な歓迎を受けた。その後、レイにはマッカーサー上陸を記念してピカのマッカーサー像が建てられ、今でも観光名所となっている。

肝心のアメリカでは、過政治的発言を繰り返し存在感アピールしたが、アイゼンハワー大統領はマッカーサーに冷淡で相手にしなかった。しかし、人生の最晩年において彼はアイクとの関係が悪いまま終わることを望んでおらず、80歳の誕生日のすぐ後、ワシントンを短期訪問した。それは感動的な再開であり、最後の別れでもあった。

1961年4月ジョン・F・ケネディ大統領は、ニューヨークを訪れた際、マッカーサーを表敬訪問した。民主党員として、元海軍将校として彼は強い反マッカーサー感情を持っていたが、一緒に太平洋日本軍と戦った誼からか好奇心を抑えきれなかったのである。しかし彼はかつての知的さを取り戻していたのか、彼とのおしゃべりはひたすら愉快で、3かホワイトハウスに招いて食会を行い、食事が終わってもおしゃべりは3時間にも及んだのである。マッカーサーはケネディに、ベトナムの問題にアメリカを関与させてはならないとしたが、この的を射た助言は試みられなかったのは歴史である。1964年3月6日、老衰により死去。享年84。

民的英雄の死に相応しく、リンドンジョンソン大統領により大々的な国葬が執り行われ、日本からは盟友吉田茂総理が参列した。

生きるに相応しい者とは、死を恐れない者である。』

『諸君が実現不可能として挙げた諸点をひっくり返せば、それだけ奇襲の効果が上がるという事だ。』

青春とは、 人生の一時期だけではない それは心の状態だ

長く生きただけで老いるものはいない、人は理想を放棄することによって老いるのだ

信念を持てば若くなり 疑念を持てば老いる 自信を持てば若くなり 恐怖心を持てば老いる

希望を持てば若くなり 絶望を持てば老いる。』

ダグラス・マッカーサー名言集

エピソード

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ダグラス・マッカーサー

74 ななしのよっしん
2022/05/21(土) 12:41:36 ID: FQXdUg1xLA
折あるごとに「ジャパンエンペラーはすげぇぞ! は彼と話したんだぞ!」って自慢してたらしいけど、晩年は特に酷くて、ほっとくと日に三回は天皇を褒め称えて奥さんや周囲もドン引きしてたらしい
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75 ななしのよっしん
2022/07/07(木) 19:41:45 ID: OQyHeBPfGM
自分の立場によって子飼いの部下もなんもかんも見捨てにゃならんかったオッサンにしてみれば、自分の命も立場も全部素っ首差し出して民(部下)の責任全部持つからって昭和天皇の対応はほんまにしかったんやろな
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76 ななしのよっしん
2022/09/15(木) 21:57:21 ID: Z4D8o0lFnI
バターン退却からの報復のくだりとかフィリピンにこだわりすぎて
太平洋戦線の揮系統分裂してたとか朝鮮戦争の対中国地帯進撃なんかの
マッカーサーの割と私情挟みまくった揮っぷりみてると
最終的にはクビになったけどアメリカも一軍人に振り回されるところあったんやなって
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77 ななしのよっしん
2022/12/14(水) 19:04:49 ID: bBbN42a5fR
戦国皇帝なんて戦争責任者の一人として殺さない理由がい マッカッサー昭和皇帝のくだり「天皇とはこのようなものでありましたか!」はさすがに盛り過ぎだと思うが、 実際に対談して「生かした方がいいだろう」と考えたのはじゃないのでは? アメリカ本土のお偉方とも熟考した上で存続を認めたんだろう
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78 ななしのよっしん
2023/03/30(木) 19:55:13 ID: TxT6YV/3fW
>>48>>49>>55>>59
別にマッカーサー憲法考えて農地解放や財閥解体のアイデア出した訳じゃなく
マッカーサー政治家や官僚が考えたSCAPINを命通り日本に実行させただけで
彼自身は飽くまで軍人なんだから日本改造の功罪はGHQに帰する

当時のマスコミマッカーサーを過剰賛美して日本人邪気に喜んでた様子だが
それは最初から連合軍賛美と日本軍叩きしたGHQ報道管制の結果でしかなく
ファンレター何十万通とか「マ元帥大統領に」とか『マッカーサー神社』とか
日本民主化と近代化への貢献を考慮しても褒め過ぎなのはプロパガンダの結果でもあった訳だ

記事本文にもGHQが放送・演劇新聞・雑誌・映画教科書と各分野で検閲しまくってた事と
マッカーサー賛美もその一環だったって事を記載しておいた方がいいと思うぞ
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79 ななしのよっしん
2023/03/30(木) 20:03:15 ID: TxT6YV/3fW
まあ多分だけど当時の日本検閲しなかったらアメ公は帰れとかマッカーサーに騙されるなとか
〇〇政策は米国日本永久に支配する為の布石だとか、やっぱり日本軍正義だったとか
右翼が中途半端に復活して革が頓挫するだろうから言論弾圧も止むしだったと思うが…

同時に今日まで続く過剰な米国万歳が一部の日本人みそに刻み込まれたのもまた事実
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80 ななしのよっしん
2023/09/22(金) 05:47:06 ID: l9TM/pJ0FY
天皇「全責任私にある」


本当は全然こんなこと言ってないのにこんな信じてるバカが多いの何でだろ
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81 ななしのよっしん
2023/09/25(月) 12:30:03 ID: I4F7uQ7SFA
占領政策についてすべてマッカーサー個人が立案したと思ってるバカがいて
取締役が営業やら経理やら全部やってると思ってんのか?
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82 ななしのよっしん
2024/03/25(月) 18:02:38 ID: 32OPjzTzdU
>>78
最初はそうだったろうけど、最後は左遷もいいとこなんで下手に慰留されたりする方が迷惑だったはずなのよね
嘘から出た真」と言うか、ここまでの人気が出るとはGHQにも想定外の部分もあったのだろうとは思う
んで当人もそれに気を良くして日本かぶれが進むもんだから引き剥がされるのは当然の流れだった
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83 ななしのよっしん
2024/04/14(日) 20:53:58 ID: EVL9dpoybg
>>80
怪しいだけで言ってないと断言はできないのでは?
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