単語記事: チンギス・ハン

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チンギス・ハンは中世モンゴル英雄モンゴル帝国の建者(太祖)。
生没年1162(1155、1167の説もあり)~1227年。
12~13世紀のモンゴルに割拠し周辺諸を次々と討滅、アジアにまたがるモンゴル帝国を打ち立てた。
その征事業は子孫達にも受け継がれ、ユーラシア広域を版図に収めた大帝国に発展した。

として鎌倉時代の日本に兵を送ったフビライ・ハーンの祖にあたる。
モンゴル帝国」については別記事を参照。

チンギス・ハン即位以前の部分は元秘史を参考に作成しています。

少年時代

本名はテムジン(由来は後述)。後に大征者として名を馳せるチンギス・ハン人生の幸先は良いものではなかった。

父親のイェスゲイモンゴルの勇猛な一部族長であり、中々の勢であったがテムジン少年の頃に敵対する
タタール部族の者に殺されてしまう。するとそれまでイェスゲイに従っていた部民や臣は次々と立ち去り、
テムジンと幼い妹達と共に、厳しいモンゴルを生きる事を強いられる事となった。

やがてテムジンに様々な事件が襲いかかる。異のベクテルテムジンに不満を抱き逆らうがテムジンは返り討ちにしてを殺してしまう。

ある時、テムジンが生き延びている事を知ったタイチウト部族が一家を襲撃。テムジンは捕らえられるが、
ソルカンという親切な男に助けられて虎口を脱した。

またある時、一家の財産であるのほとんどを盗まれてしまう。を探す途中でテムジンは一人の少年に出会った。奇特にも少年テムジン探しの手伝いを申し出た。この少年こそがテムジン生涯の右腕となり、
モンゴル帝国筆頭将にまで上り詰めるボオルチュの若き姿であった。

こうしてテムジン青春は困難のうちに経過していく。

青年時代

成長したテムジンは微弱ながらも部族の長としての活動を始めた。
幼馴染の婚約者であったボルテを娶り、ボオルチュを最初の幕僚として迎え、達も頼もしい勇者に成長していた。だがメルキト部族の襲撃を受けて新妻ボルテが攫われてしまう。メルキトは勇猛な部族である、まだテムジンにはメルキトと戦えるかった。

そこで、の盟友(アンダ)であったケレイト部族のオン・ハンのを借り、テムジン自身の盟友であるジャダラン部族のジャムカと交友を復活させた。二人のを借り、ボルテを取り返す事が出来たが、ボルテはすでに身篭っており、生まれた男の子はジュチ(賓客)と名付けられた。

こうして寄る辺を得たところでテムジンは次第に頭を現し始めていく。も知恵もあり器も大きいテムジン原での人望を獲得していき、その下には多くの人々が集ってきた。いくつかの部族からも支持を得て地位を固めていく。

こうなると面くないのがジャムカであった。テムジンが自分より強な存在になる事に危惧を抱き始めた。
盟約はやがて決裂し、原の覇を競う群雄として対する事となった。
テムジンタタールタイチウト、ジュルキンといった諸部族を滅ぼし、グル・ハンを称して一勢を築いていたジャムカも撃ち破り追放した。

しかし、彼らはまだ中程度の群雄であった。モンゴル高原には三大部族たる勢が健在であった。
すなわち東のケレイト、西のナイマン、北のメルキトの三つの王である。

テムジンからチンギスへ

レイトオン・ハンはテムジンにとっては宗、亜ともいえる存在であった。一時オン・ハンはナイマンとの戦いで没落しかけたがテムジンの助で返り咲き、テムジンは皮にも彼の兵として働き、強大化に寄与する事で、頭を抑えられる事にもなった。なんといってもケレイトは豊かな先進国であり、ヨーロッパまで名が伝わっている程である。

だが両雄の対峙は時間の問題であった。オン・ハンの息子セングンはテムジンを疎んじ、客分となっているジャムカに唆されてテムジンを討つ事を決める。老いたオン・ハンも子に従うしかなかった。

1203年にケレイトとの戦争が勃発し、最初は一敗地にまみれた。僅か19人の部下にまで撃ち減らされたテムジンであったが、落ち延びたバルジュナを啜り、捲土重来を誓って反撃を開始した。たちまちのうちに兵をかき集めて、ケレイトを奇襲して撃破に成功。そのまま王を奪い取る大逆転となった。
こうしてテムジン全に独立した。

レイトを「簒奪」して飛躍的に勢を増大したテムジンは残ったナイマン、メルキトも立て続けに討ち滅ぼし、
ナイマンの参謀となっていたジャムカを処刑すると、モンゴルテムジンの敵はいなくなった。

世界帝国の建設

帝国の基礎

1206年に「チンギス」と称しハンとなり、全モンゴルの支配者として即位する。
チンギス・ハンモンゴル帝国(イェケ・モンゴルウルス)の誕生である。

チンギスは討滅・属した部族を千人隊に分けて再編成し、功臣と下の部族長を千人隊長に封じた。
千人隊長兵士1,000人を揮する武将であると同時に、1,000人を動員できる民を治める貴族ともなった。
特に勲功がすぐれていた者は万人隊長となり、多数の千人長を統率した。
千人隊は中軍、右翼軍、左翼軍の各万人隊に配属され、一部の者達は王傅(チンギス一族の老的存在)として分配された。
 
また、ハン直属の親衛機関ケシクを設立し、将来の幹部を養成を行い。
情報伝達の駅伝ジャムチ)の開通。
チンギス法典ともいうべき大ヤサの制定が行われ、強な戦闘集団たるモンゴル帝国軍の原が作り上げられた。

こうしてモンゴル高原を本拠地とした帝国の第一次世界征服作戦が発動されていく。

アジア席巻

チンギス自身は西方の経略を担当し、右翼軍万人隊長ボオルチュを軍師に据え。
東方中国方面には、左翼軍万人隊長ムカリを派遣して兵の半分を分け与えた。また、大部隊を動かしつつ、
ジェベ、スブタイといった驍将を遊撃部隊として各地で暴れさせて威偵察や略奪を行わせている。

1227年にチンギスが崩御するまでに、中央アジアのホラズム帝国、西を滅ぼし、中国北半のの大部分を征した。蹄は南はインド、北はロシアにまで達し、チンギスが生涯に滅ぼしたは四十を数えたという。
しかし、チンギスは単なる略奪者ではなく統治者としても振る舞い、征したシステム帝国に取り込み経済や官僚機構の整備を行なう。こうして遊牧民の武と定住民のが結合した一大帝国が創りあげられていった。

宗教に対しては帝国属する限り何を信じようと自由と寛容なスタンスを示した。異教徒の共存を可として東西の文明の通しを良くし。
同時にモンゴルシャーマン信仰を背景として、自身に迫ったテブ・テングリを粛清して、モンゴル内の宗教統制を行なっている。

最後の遠征は中国西北の西であった。西を降すも中で倒れ没した。生前の遺言により次期ハンは三男のオゴタイとなる。

敵対者

チンギスの半生の盟友にして宿敵となったジャムカはセチェン(賢明)の称号を持つ智謀に長けた雄であり、
チンギスとの戦いに敗れて基盤を失った後でも、ケレイトやナイマンの元に身を寄せて謀としてチンギスに敵対した。しかし、チンギスとナイマンとの戦いではわざとナイマンの長であるダヤン・ハンに、いかにチンギスが恐ろしいかを吹聴して臆病なダヤンの心を砕いたという。
やがて捕虜となったジャムカに、チンギスは昔のように友達に戻ろうと手を差し伸べたが、ジャムカ感謝しつつも拒否する、やむを得ずチンギスは人の礼遇をもって旧友を処刑した。


ナイマンのダヤン・ハンの王子であるクチュルクと違い知勇にすぐれ、ナイマンが滅亡すると西に亡命。
皇帝に気に入られて皇女を娶ると西を乗っ取ってしまった。だが仏教を強制してイスラム教徒が多い民の不満を招き、内が混乱したところをチンギスが送り込んだ部隊により討ち滅ぼされた。


ホラズム帝国の皇子ジャラー(ジャラールッディーン・メングベルディー)は古の英雄にも例えられ、モンゴル帝国との戦闘で勝利した勇者であった。インダスとの戦闘では破れるが単騎で敵中突破を行い、な武者ぶりにチンギスもあえて追撃はせずに、あのような息子を持ちたいものだと称賛した。

家臣

チンギス・ハンは自身が傑出した英雄であると同時に、有な臣下達を束ねる天才でもあった。人種や宗旨に拘ず有な人物は登用してに相応しい仕事と褒美を分け与えた。彼の麾下には多くの人材が結集した。

その中でも有名なのが「四駿四狗」と称される者達である。
駿)はボオルチュムカリボロクルチラウンといい側近や高位の将軍としてチンギスの補佐を行った名臣。
四狗()はジェルジェベスブタイクビライであり先鋒や遠征軍の指揮官として用いられた猛将。
さらにモンフト部族のイルダルウルウト部族のジュルチダイという勇敢な二人の盟友を加えて「十功臣」となる。

他にも多くの功臣達が活躍し、モンゴル譜代の者は「八十八功臣」。
レイトとの敗戦で共にバルジュナの誓いを行った者達は「バルジュナト」「バルジュナの十九功臣」と称される。

異郷の人物としては楚材が有名。後世に帝国の宰相格として謳われるが、実際はそこまでの権限はなく、
チンギスのお気に入りの占術師という立ち位置であったという。オゴタイの時代で中国北部の有な官僚の一人となったというのが実情らしい。

四人の皇子

長男ジュチボルテがメルキトに囚われた後に生まれた事からチンギスの胤か?と疑うがあり。
次男のチャガタイは厳格な性分から、これを信じを軽んじていたので、温厚なジュチも気分をし両者の仲は非常に険悪であった。
チンギス自身はジュチを拘りなく扱い、ボルテに対する情も変わらず以後8人もの子供を産ませている。
だがやはり心中屈託していたのか、後に讒言を信じ、ジュチが謀反を企んで地に引きこもっていると思い込み、
チャガタイとオゴタイに討伐を命じた。その途中でジュチが実で、病死した事を知り大いに悲しんだ。


それまで二人のの間を取り持っていたのが三男のオゴタイである。兄弟達から一おかれ、揚で太っなオゴタイをチンギスは高く評価して後継のハンとして名する。


四男のトゥルは次期ハンとは別に、チンギスの末子として遺産を相続できる立場からか冷静を貫いた。
後のオゴタイ時代の行動から、あまり権勢には興味く、戦争に情熱を注ぐ武人気質の人物だったらしい。


四人の皇子達は個性は違ったが知勇に優れた人物で、の覇業を良く手伝い、帝国の発展に寄与した。
チンギスはジュチに狩猟、チャガタイ法律、オゴタイに財産、トゥルイに戦争の管理を委ねさせた。

一族とウルス

チンギスのエル、正室のボルテは賢夫人としてチンギスの苦難を内助して支え、チンギスも二人を重んじた。

チンギスの後宮には500人の妻たちが控えていたという。それらはボルテを筆頭とした5人の皇后により、
複数のオルドに分けられて運営された。チンギスがけた子女で史料に確認されている者は15人(9男6女)であり、そのうち9人(4男5女)はボルテの所生となる。


ボルテが生んだ4人の皇子ジュチチャガタイオゴタイトゥルは嫡子として別格の扱いを受け、上の三人は帝国西方土を与えられてウルス(国家)の建設を許された。
末っ子のトゥルイは末子相続の慣習に則りモンゴル本土と遺産の大半を受け継いだ。

サルチウ(の遺児アルダイ)、テムゲには帝国東方ウルスを与えられた。

達は部族間の紐帯を強くするために各部族の首長のがされた。

ベルグタイではなく大貴族として遇し、嫡庶の分別を示したものの、例外的に晩年にけた
庶子コルゲンはチンギスも余程可かったのか、正嫡の皇子と同等に扱われウルスを与えられた。


こうして建初期には、西方の三王+中央の二王?(トゥルは本土でおそらくコルゲンは付随)+
東方の三王、合わせて八王帝国に内包する事となった。後に四つに分裂した帝国はこれらの王ベースとしている。

チンギス以降のユーラシアの遊牧系国家では、チンギスの男系の子孫でないとハーンになれないという、
「チンギス統原理」という掟が生まれた。
ある学説ではチンギス・ハンの子孫は現在1,600万人をえると推計される。

呼称について

漢文表記は「成吉思汗」(ピンイン: Chéngjísī Hán, チェンヂースー・ハン)。
各言での表記や発音の関係から「チンギス・ハン」、「チンギス・カン」、「ジンギス・カン」等と呼称されている。13世紀当時の中期モンゴルの発音では「チンギス・カ(ア)ン」となる。
英語では Genghis Khan 等と表記して「ゲンギス・カーン」あるいは「ジンギス・カーン」と発音する。「チ」が「ジ」や「ゲ」に訛っているのは、アラビア文字で書かれた文献が欧州翻訳された際に生じたものである可性がある。
モンゴルで「」をすチン(ching)に由来する説、あるいはバイカル湖したテンギス(tenggis)に由来する説、などなど諸説乱立しているがはよくわかっていない。

称号であるハンの部分はハーン(カーン、カアン)とも呼ばれるが、中期モンゴルでは明確な違いがある。ハン(中期モンゴルカン)は「(一部族の)王」。ハーン(中期モンゴルでカアンカーンは慣用表記)はハンの古形だったが、西域の習慣に倣ってモンゴル帝国時代に「王の中の王」(諸部族を束ねる大王皇帝、チンギスの正統に連なる王)といった意味付けがなされた。なお、チンギス自身はカンを名乗っていたが、後代より元の太祖としてカアンと呼ばれる。
しかしながら帝国と衰退に伴いハーン号を自称する支配者が乱立して格下のハン号がれると、この区別は意味を失っていった。現代モンゴルではいずれもハーン(khaan)と呼ぶ。このため、モンゴル帝国皇帝は「大ハーン」「大カアン」等と「大」を付して他のハーンと区別する場合もある。

※この記事では「チンギス・ハン」と表記します。

逸話(白)

子供の頃はが苦手で、父親から心配される程であった。


戦いに勝ち捕虜の引見を行った時、率直にチンギスを狙撃した事を告白した者がいた。
チンギスは彼の正直さと武勇を評価して、罪を免じ臣の列に加えた。この勇者は後に四狗の一人となり、勇名を知られるジェベである。

楚材を召しだした時、楚材がに滅ばされたの皇族である事から(を攻めた)おまえのは私が討っているようなものだなと言ったところ、楚材はではなくと返したので、チンギスは感心して、側近に取り立てた。

チンギスは忠心には敏感で、敵であっても忠を尽くす者を見事と感じた。そして敵味方を問わず裏切りには厳しく、たとえそれが自分に利益をもたらす事でも嫌悪した。


チンギスは量を弁えており、特に君将軍といった者は判断を鈍らせるので控えるように苦言していた。
に3回程度が丁度いい、飲まないのが一番だが、を飲まない者はいないだろう言っている。
だが跡継ぎのオゴタイアル中であった。
とまれ節度ある生活を送ったのか、チンギスは当時では長命だった方である。


臣の一人に飢えやきに非常に強い、勇猛で不死身めいた男がいた。チンギスは彼を評価しながらも、あまりに強い者は他人の痛みに鈍感となり、指揮官としては向いていない。人の上に立つものは下の者の疲労に心を配らなければならないと言っている。


ある時、長人という士を呼び寄せて不老不死の方法を尋ねた。人はそんなものはく、
長命の方ならありますと答えたところ、チンギスは気を悪くした様子もなく人の言葉を傾聴した。

逸話(黒)

ある時、チンギスは臣達に男子の最大の楽しみは何かと問いかけた。臣達は気の良い日にに乗って狩猟をする事、と当たり障りのい返答をしたが、チンギスは否定して「敵を皆殺しにして、その財産を奪い、知人たちが悲しむ顔を拝見し、分捕ったに跨り、殺した者達の妻とを抱きしめる事にある」とぶっちゃけたという。


チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した」と伝えられるように。モンゴル帝国軍は逆らう者には全く容赦せず都市ごと殲滅するのをデフォルトの戦法とし、血なまぐさい逸話には事欠かない。
ただ、後世に誇され、反モンゴルの材料として喧伝されたものや、帝国軍自体が悪名を逆用して戦略的として利用(戦わずに降伏させる)したという説もある。


タタール部族はチンギスにとって祖の敵である、彼らとの戦いに勝った時、輪より背の高い男どもは皆殺しにしてまえと命令した。のカサルにも捕虜1000人を預けて殺しとけよと命令したが、タタール出身の妻を持つカサルは半分しか殺せず半分は匿った。これを聞いたチンギスは激怒した。
チンギスとカサルは幼い頃は仲が良かった兄弟であったが、次第に険悪となっていき、後にはを殺そうとたり、
分前をわざと少なくしたりと冷遇した。カサルのほうでも増長したりと問題はあった。


チンギスは孫の一人ムトゥゲンを大変可がっていた。しかし、ムトゥゲンはチンギスの下にいた時にバーミヤーンの戦闘で死んでしまう。怒ったチンギスはバーミヤーンの住民を皆殺しにして報復した。
その後、ムトゥゲンの父親のチャガタイを呼んで、昔チャガタイが犯した過失を蒸し返して叱責した。
チャガタイは恐れての言うことなんでも聞きますと許しを乞うた。言質をとったチンギスはおまえの息子は死んだ、だがこの件で悲しむ事は許さぬと言い渡した。チンギスが立ち去った後、チャガタイは泣いた。


チンギスは、子孫達は富に包まれて贅沢できるのは、のお陰か考えもしないだろうなと、皮めいた発言を残している。

補足

チンギスの祖先は、蒼き狼と白き牝鹿という伝承がある。が、正確には蒼き狼と白き牝鹿の末裔である男の寡婦がに感応して生まれた、ボドンチャルという人物がチンギスの祖先となる。


生まれた時に、血の塊を握って生まれてきたという。その頃イェスゲイタタールとの戦に勝ちテムジン(一般に「」を意味するテムールというに由来するとされ、製鉄器製造に関係する可性がある)という族長を捕らえたので、これを記念して自分の長男テムジン(铁木、ピンイン: Tiěmùzhēn, ティェムーヂョン)という名を与えた。


チンギスの前半生には不明な点が多く、テムジン時代の事績は『元秘史』といった史料としては神話的で正確性に欠ける英雄叙事でしか辿る事が難しくなっている。日本ではそんな背景に判官贔屓と種流来譚の伝統が合わさり、江戸時代あたりから「源義経(音読みでゲンギケイ)が大陸に渡ってチンギス・ハンとなった」という奇説が生まれた。


若い頃、オン・ハンと共に中国の依頼で働いた事があった。の異民族政策(夷をもって夷を制する)としてタタール部族と戦い、褒賞として人長の官爵を与えられた。後にチンギスは将軍、要人を多く臣下に加える事となるが、チンギス自身の位官は中国的には下級武官程度だったりする。
ダヤン・ハンから皇帝の箭筒士(衛士)呼ばわりされた事もあったという。


外見についてはいくつかの言が残されており、長身という説もあり)で立な体。額は広く、のようであり、長(まばらという説もある)を蓄えていたという。


チンギスの墓は現在まで発見されておらず、世界史のひとつとされている。

関連商品

モンゴル系史料

秘史はチンギス生誕以前からオゴタイの治世の途中までを描いたもの。
モンゴル秘史は元秘史に詳細な注釈が加えられているもの。
流はかなり趣が違っているが、独自の記述が多く含まれている。

ペルシャ系史料

モンゴル帝国史は集史をはじめとするペルシャ文献から豊富な史料が引用されている。
集史の日本語訳は現在いが、「史集」という名前の中国語訳の書籍が中国系の書店で入手可

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中国古典新書から元史の抄訳が刊行されており、太祖(チンギス)本紀の訳が載っている。残念ながら品切重版未定amazonからのリンクも不可。
海外維基文庫から元史、新元史の原文の閲覧が無料で可

書籍

歴史群像シリーズのものや、チンギス・ハーン新聞は図解やネタが効いていて読み易いが残念ながら品切重版未定となっている。

小説・漫画

は元秘史を現代でも読みやすく、架エピソードも織り込んでアレンジした小説

ペルシャの幻術師は司馬遼太郎の短篇集で、(ゴビ)の匈に登場している。
小説ハードでは敵対する武将として登場する。文庫版では大幅に訂され解釈が分れる表現となる

DVD

チンギス・ハーン中国制作された大河ドラマ級の大作。
チンギスを演じた布(バーサンジャブ)は大河ドラマ北条時宗」のフビライ・ハーン。映画レッドクリフ」の関羽の人。チンギスの次男チャガタイの末裔といわれる。(出身の新疆にはオゴタイの子孫が多い)
はボオルチュを田中邦衛が演じた事が未だにり継がれているという。

ゲーム

蒼き狼と白き牝鹿シリーズは、かつては「信長の野望」、「三國志」と肩を並べた作品。1998年以降新作は出ていない。すでにファンの渇望は念の域に達しているという。

蒼き狼と白き牝鹿
秘史での
政治
15
蒼き狼と白き牝鹿
チンギスハーンでの
政治 戦闘 智謀
81 97 92
信長の野望 烈風伝(PS版)での
政治 采配 戦闘 智謀 足軽
81 99 100 97
三國志(PK)での
統率 政治
100 92 86 73


シヴィライゼーションCivilization)4、Ⅴでは導者として登場する。性については掲示板1に詳細が記載されています。

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ページ番号: 5068842 リビジョン番号: 1834572
読み:チンギスハン
初版作成日: 13/04/09 16:16 ◆ 最終更新日: 13/06/16 11:39
編集内容についての説明/コメント: 名称・称号など補足および修正
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チンギス・ハンについて語るスレ

2 : ななしのよっしん :2013/04/13(土) 04:04:54 ID: IViYfB8ooE
良記事です。
細かいとこ突っ込むならワン・ハンは中国語読みなんでモンゴル読みのオンカン(ハン)の方がいいかな。

日本織田信長とは
・逆らうやつは皆殺し、でも一旦仲間になれば好待遇。
・権を持つ宗教は許さないが宗教そのものに対しては寛容。
・戦略でかつ経済重視
なんかの点で似てると思う。作りなんかは全然違うが。
あと、意外にもほとんど部下からの離反者・裏切り者を出さなかった点も違うか。
3 : ななしのよっしん :2013/06/05(水) 02:14:21 ID: TaFU46U1Hm
興味はあるが、史料が膨大でどっから読んでいいのかわかんない
4 : ななしのよっしん :2013/06/20(木) 03:46:46 ID: +cDgBjIkXd
よく、優れた導者に対して信長が引き合いに出されるけど、
似てるのは当たり前なんだよな。
信長破天荒さや天才といわれる部分が大きくクローズアップされるけど、実際には非常に堅実な戦術、戦略を取ってる。
で、その信長の行動の元になったのは過去歴史帝王学だったりするわけで。
むしろ信長は優秀な学習者といえる。(劣るという意味ではない)
5 : ななしのよっしん :2013/08/02(金) 00:56:34 ID: gMVC3F1Oq/
チンギス・ハンがレ○プしまくったから子孫が多いとかいうアホが未だに多いのには困る。

常識的に考えてレ○プしまくったからって子孫が多いことにはならんだろ。
6 : ななしのよっしん :2013/08/24(土) 09:00:39 ID: 3H3mPjG/hA
下手に胤を残すとその女の扱いを良くしないといけないから面倒だし
子孫は何度も殺されかけてるし…
ぶっちゃけ子孫はむしろすごく少ないんじゃないかと思える
7 : ななしのよっしん :2013/08/26(月) 18:43:47 ID: IViYfB8ooE
>>6
いや、実際にチンギス・カンの子孫は多いよ。

なんでかっていうとモンゴル帝国の継承政権の間で「チンギスの子孫以外はカーンを名のってはいけない」という決まり(通称チンギス統原理)ができたため。

この慣習のためにティムールは生涯カーンを名のらず、カーンを名のったエセンはたちまち支持を失い、かのイヴァン4世ですら一時的にチンギスの子孫に譲位することで権威を高めようとした。

そのため、中央ユーラシアの王侯貴族の多くがチンギスの子孫と姻戚関係を結ぶことを望み、結果としてチンギスの子孫が非常に多くなることとなった。
8 : ななしのよっしん :2013/10/09(水) 02:03:26 ID: RY1AtRiDHa
>>7
天皇の子孫が多いのも似たような理由だね。
9 : ななしのよっしん :2013/10/09(水) 02:22:18 ID: ZprzPtax0b
だかだか分からないけどこんな逸話もある
チンギスの虐殺を研究した結果、その殺人量で地球上から二酸化炭素の排出を減らし、
植物が生い茂る間を確保して酸素の排出量を増やして地球温暖化の食い止めに貢献したという結論が出た
10 : ななしのよっしん :2014/01/11(土) 02:29:27 ID: FmOva5NoGY
>>3
もだ
出生やら逸話やらモンゴル帝国築いた辺りは知ってるけど
どういう紆余曲折で帝国築いたまではあまり頭に入ってこない
11 : ななしのよっしん :2014/07/12(土) 07:01:26 ID: VJhpudzv45
>>3>>10
井上靖が執筆した、チンギス・ハン人生を描く「」っていう小説があってだな。
この手の歴史小説の常として、ある程度の脚色・創作はあるようなんだが
それは必要最低限にとどめてあり、記事の逸話にあるようなチンギス・ハンの性格について
きちんと納得できるような良い構成になっていると、自分は感じた。

興味があれば読んでみてはいかがだろうか?
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