/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / \ / ヽ / ̄\ l \,, ,,/ | ,┤ ト | (●) (●) | ピッチャーデニー! | \_/ ヽ \___/ | | __( ̄ | \/ ノ ヽ___) ノ
デニー友利(デニーともり)とは、横浜ベイスターズ、西武ライオンズ、中日ドラゴンズに所属した元プロ野球選手(投手)。右投右打。現在は横浜DeNAベイスターズの一軍投手コーチ。
概要
1967年9月21日生まれ、沖縄県浦添市出身。父がアメリカ人、母が日本人のハーフで、日本名の「友利結」とアメリカ名の「ローレンス・フランクリン・デニー」という二種類の本名を持つ(国籍は日本)。
1986年のドラフト会議で、阿波野秀幸のハズレ1位として横浜大洋ホエールズに入団。登録名は日本名の「友利結」。身体能力はピカイチだったものの入団後は伸び悩み、特に制球が全く定まらず、高校時代のサイドスローからオーバースローに転向したもののまたサイドスローに戻したりしていた。一時は任意引退選手となって支配下登録から外れた(現在で言う育成落ちに近い処置)こともあった。
1995年、登録名を「デニー友利」に変更し、9年目でようやくプロ初勝利を挙げる。1997年にトレードを志願して西武ライオンズに移籍。登録名が「デニー」となる。この年ようやく才能が開花し、以降西武のセットアッパーとして活躍。1998年にはオールスター出場も果たした。しかし伊原春樹監督となった2002年にはほとんど登板機会すら与えられず、同年オフに古巣の横浜ベイスターズへトレードで移籍。登録名は再び「デニー友利」に戻った。
2003年、山下大輔監督はデニーを抑えとして重用したが、打ち込まれて負けるパターンを繰り返し、それでもデニーの起用にこだわり続けたため、デニーの登板はファンの間で「敗北の方程式」と呼ばれるまでに至り、「ピッチャーデニー」は大ちゃんの迷采配を代表するフレーズとなって親しまれた。ちなみにこの年の成績は52試合で1勝8敗7セーブ、防御率4.40。
2004年は登板機会が減り、同年オフにメジャー移籍を目指して自由契約に。ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結ぶもメジャー昇格はならず、2006年は日本に戻って中日ドラゴンズに入団。中日では31試合で8ホールドを挙げ防御率3.10とベテランとして優勝に貢献した。
2007年、戦力外通告を受け現役引退。通算成績は399試合で18勝29敗30セーブ、防御率3.89。主に2003年のイメージなどで何かとネタにされがちだが、西武や中日ではリリーフとして優勝に貢献し、21年間大きな怪我もなく現役を続けた立派な選手である。
引退後は解説者、およびレッドソックスの国際担当顧問兼巡回コーチを務めた。
2012年から、横浜DeNAベイスターズの一軍投手コーチに就任。ちなみに同年、奇しくも2003年の監督である山下大輔も二軍監督として横浜に復帰することになった。
エピソード
横浜時代、同僚の外国人選手に「モデルになればビバリーヒルズに住める」と言われたり、球団から引退勧告として「モデルの事務所を紹介する」と言われたり、実績の無い頃から新ユニフォーム発表のモデルに採用されたりするほどの、7頭身192cmのイケメンである。
父親は幼い頃に離婚して音信不通となり、野球用具を買うお金も無いような貧しい母子家庭で育った。その経験から、西武時代には年間シートを自費で購入し、そこを「デニーズシート」として母子家庭の親子を招待していた。練習用のグローブにも「母子家庭」の文字を入れていた。
西武移籍後に才能が開花したのは、東尾修監督に「どうせノーコンなんだから全力で真ん中目がけて投げろ。そうすれば勝手にどっかに散る」と言われて開き直れたからだという。また西武時代は松坂大輔の教育係を務めており、松坂とは兄弟のように仲が良い。
登録名を「デニー友利」に変えたのは、姓名判断で「結」という名前が起承転結に通じてこれ以上伸びしろが無いと言われたからだそうである。なお「デニー」「友利」とも姓である。
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関連項目
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読み:デニートモリ
初版作成日: 11/12/17 03:11 ◆ 最終更新日: 11/12/18 00:44
編集内容についての説明/コメント: エピソード加筆
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