ドラガン・ストイコビッチ単語

ドラガンストイコビッチ
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ドラガン・ストイコビッチДраган Стојковић, 1965年3月3日 - )とは、ユーゴスラビア(現セルビア共和国)・ニシュ出身の元サッカー選手サッカー監督である。
現・サッカーセルビア代表監督。元サッカーユーゴスラビア代表。

称は妖精を意味する「ピクシー」。名古屋グランパス監督を務めた際は、「ミスター」と呼ばれていた。

ポジションは攻撃的なミッドフィルダーまたはフォワード175cm73kg。利き足は右足。

正統な功績も多々あるが、審判に逆イエローカードを出したり、監督なのにロングボレーでゴールしたり (後述) と、様々な伝説をもつ。

概要

1980-1990年代を代表するミッドフィルダー。また初期のJリーグを支えた世界的な外国人選手の一人。

1984年に19歳でユーゴスラビア代表に選出され、1990年イタリアワールドカップではベスト8に貢献。スペイン戦のボレーのフェイントからのゴールフリーキックは有名である。1998年フランスワールドカップでも、ユーゴスラビア代表のキャプテンとして活躍。

1986年からレッドスター・ベオグラードに移籍し、2年連続でMVPを取るなど活躍し、レッドスター・ベオグラード人(10年間で最も活躍した選手に贈られる称号)に選出されている。その後オリンピック・マルセイユ、ヴェローナなどに移籍したが度重なる怪などによりあまり活躍できなかった。

1994年名古屋グランパスエイトに移籍し、2度の天皇杯獲得などに貢献。1995シーズンにはリーグMVPを獲得。オールスターでは96年、98年、00年の3度MVPを獲得している。2001年引退した。現在でもJリーグ最強外国人トップに挙げられることが多い。

豪雨の中リフティングドリブルを決めたり、相手をドリブルで引きつけてからのキラーパスなど麗なプレーを持ち味にグランパス徴と呼べる活躍をする一方で、非常に頭に血が上りやすく、審判との口論や警告も日常茶飯事であった。

引退後はユーゴスラビアサッカー協会会長、在任中のユーゴ解体によりセルビアモンテネグロ会長レッドスター会長を歴任した後、2008年から名古屋グランパス監督に就任。

2010年グランパスを念願のリーグ制覇に導いた。優勝インタビュー監督を流していたことがどれほど初優勝がうれしいかを物語っているだろう。

2015年5月29日、「日本セルビア間の相互理解の促進及びサッカー界の発展に寄与」したことが評価され、日小綬章を受章

選手としての経歴

生い立ち

セルビア第二の都市ニシュの近郊で生まれ、3歳の頃にはすでにストリートサッカーじていた。南米らしくすらある正確で柔らかいボールコントロールは、この時のストリートサッカーで培われたとも言われている。

小柄で子供たちの間では戦になるか疑問視されていたが、ゲームを始めればよりもゴールを挙げていた。少年時代アイドルフランス将軍ミシェル・プラティニだった。

子供の頃は、ある時間になると、たとえ試合中だろうとサッカーを止めてに帰ってしまい、「ピクシーディクシー」というテレビアニメを欠かさず見ていた。そんなストイコビッチの様子を見た友人たちがいつしか付けたあだ名現在でも称として定着している「ピクシー」だった。

ラドニツキ・ニシュ

1979年、地元のクラブであるFKラドニツキ・ニシュの下部組織に14歳で入団。16歳となった1981年にはプロデビューを果たしている。

17歳となった1982-83シーズンには出場機会が増え、非な才によって当時2部リーグに所属していたチームを1部昇格へと導く活躍を見せる。

1983-84シーズントップリーグプレーするが、若いながらも高いポテンシャルを発揮し、ユーゴスラビア代表でプレーするほどの選手にまで成長。

20歳となった1985年に兵役のために1年間サッカーから離れることになるが、その間にチームは2部へ降格。またこの頃、サッカー選手として活動しながら地元の大学経済学を学んでいる。

レッドスター

1986年には、ユーゴスラビアで随一の強クラブであるレッドスター・ベオグラードへ移籍する。レッドスターはストイコビッチを獲得するにあたり、スタジアムに照明を付けられるだけの巨額の移籍レギュラー5人を対価として支払っている。移籍直後からその実人間性を高く評価され、加入1年の21歳ながらクラブ史上最年少でのキャプテンに任命される。大きな期待を背負うこととなったが、1年ながら1986-87シーズンチームトップの17ゴール記録麗なプレーサポーターを魅了し、あっという間にレッドスタースター選手となる。

1987-88シーズンでもストイコビッチは圧倒的なきを見せ、この年チームに加わったロベルトプロシネツキやドラギシャ・ビニッチと共にプルヴァ・リーガ優勝を達成。この年もチームトップであり、リーグでも2位の15ゴールを挙げ、リーグの年間最優秀選手に選ばれている。

1988-89シーズンには後に天才と呼ばれたデヤン・サビチェビッチレッドスターに加入し、共演。この年初めてUEFAチャンピオンズカップに出場し、当時黄金期にあったACミランと2回戦で対戦。チームは敗れたが、2試合で2得点を決め、若き日のパオロ・マルディーニを圧倒するなど西側諸国に対して自身の存在をアピールすることになった。この年レッドスターリーグ優勝は逃したが、自身は高いパフォーマンスを見せたことで2年連続での年間最優秀選手を受賞。

1989-1990シーズンには、レッドスターを自信にとっては2度となるプルヴァ・リーガ優勝に導き、3年連続でのリーグ最優秀選手に選ばれる。この活躍ぶりに加え、クラブに対する貢献度や人格、人気などが称えられ、クラブ史上5人となる「ズベズディナ・ズベズダ」(人)の称号レッドスターから授かることになる。この称号は、クラブに長く貢献した選手への功労賞のような側面を持っており、在籍わずか3年の24歳の若手であったストイコビッチの受賞は極めて画期的なことであり、同時にストイコビッチほどの選手は今後10年は現れないという評価を意味していた。

そして、1990年ワールドカップに出場した後、当時独立の機運が高まり社会情勢が不安定になっていたこともあり、ユーゴスラビアを離れることを決断する。当時のユーゴスラビアは25歳以下の選手の外移籍を認めていなかったが、これまでの功績から特例で認められることとなった。

マルセイユ

1990年フランスリーグ・アンの強オリンピック・マルセイユへ移籍。ジャンピエールパパンやエリックカントナといったフランス代表のスター選手が名を連ねる中で背番号「10」が与えられ、当時監督だったフランツ・ベッケンバウアーが「ストイコビッチは世界最高の選手。数年後にバロンドールを獲らなかったとすれば、それは何か手違いがあっての事だろう」と発言するほど大きな期待が集まっていた。
ところが、1990-1991シーズン開幕戦のFCメツ戦で相手GKに膝を踏まれて負傷。全治までに3度の手術が必要になる大怪を負い、シーズンの大半を棒に振ることになる。復帰後も本来のフォームを取り戻すことはできず。この年のチャンピオンズカップ決勝で1年前まで所属していたレッドスターと対戦するが、ストイコビッチは試合に出場することができず、ベンチを暖めたまま数々の栄をもたらした古巣の欧州初制覇を眺めるというこのうえない屈辱を味わうことになる。

マルセイユで出場機会が得られないことから、1991-92シーズンイタリアセリエAエラス・ヴェローナへレンタル移籍する。しかし、前年に負った膝の負傷が癒えず、加えて当時クロアチア戦争で勃発し、西側諸国から「悪」とされていたセルビア人であるため、周囲からも冷ややかなで見られていた。そので結果を残すことができず、失意のままイタリアを後にする。

1992-93シーズンマルセイユに復帰するが、怪で一度も公式戦に出場することができず。前のシーズンチャンピオンズカップ優勝し、リーグ5連覇と絶頂期にあったマルセイユにおいてもはやストイコビッチの居場所はかった。オフにはクラブから引退を提案されるほど追い込まれていた。

懸命のリハビリによってコンディションが回復し、1993-94シーズンにはピッチに戻ってきたが、この年マルセイユのベルナール・タピ会長による八百長スキャンダルが発覚。チームは2部への降格処分が言い渡され、多くのチームを離脱。ストイコビッチも2年の契約延長を拒否し、退団を決意する。

名古屋グランパスエイト

1994年6月13日Jリーグ名古屋グランパスエイトへの移籍が発表される。新地に日本を選んだ理由は、マルセイユ八百長スキャンダルに加え、セルビア人ということで偏見を向けられることで欧州サッカーに嫌気がさし、欧州を離れたかったからだった。しかし、当時の日本サッカー欧州べてはるかレベルが落ち、その中でもお荷物チームと揶揄された名古屋はとても彼を満足させる環境ではなかった。9月17日ジェフ市原戦で見せた豪雨の中でのリフティングドリブルなどスーパープレイは見せたが、無気力レベルの低いチームメイト、劣悪なピッチ、不可解なジャッジに苦しんだ。自身、デビュー戦では開始18分で退場。その後も警告、退場を繰り返してサポーターから批判され、名古屋シーズン最下位に終わる。

元々、日本へやって来たのは気分転換の旅行のようなもので半年すれば欧州へ戻る予定だった。ところが、1995年フランスの名将アーセン・ベンゲル名古屋監督に就任。兼ねてからベンゲルを尊敬していたストイコビッチベンゲルの下でプレーしたいと考え、名古屋に残留する。シーズン序盤は相変わらずイライラが募り、退場を繰り返していたが、Jリーグの中断期間を経てベンゲルの戦術がチームに浸透し、名古屋をストイコビッチ中心のチームに作り替えたことで本来の実を発揮。敵味方関係なく、日本サッカーファンは彼の麗なプレーの数々に酔いしれることとなる。お荷物チームと言われた名古屋優勝争いに加わるほど生まれ変わり、優勝は逃したもののこの年のJリーグ最優秀選手賞を受賞。さらに1996年1月1日天皇杯決勝サンフレッチェ広島戦でも攻撃リードし、チームの初タイトル獲得に貢献する。

1996年名古屋は前年の勢いを維持し、優勝争いを演じることになる。すっかりリーグでもトップクラススター選手となったストイコビッチは、満員のスタジアムにコールされる「ピクシーコール」に感動し、いつしか日本を第二の故郷と思えるほど着がわいていた。この年の9月ベンゲルイングランドプレミアリーグの名門アーセナルへ移籍するため退団することが決まり、ベンゲルからアーセナルへ来るように誘われていた。当時、アーセナルへの移籍も考えたが、名古屋との契約を2年延長し、引き続き日本プレーすることを選択する。

1997年チーム歯車が噛み合わず、優勝争いから取り残されて低迷。しかも、当時舞台に復帰した代表の欧州予選に出場していたため日本欧州の往復を繰り返し、コンディション調整に苦労していた。7月9日横浜マリノス戦では、提示されたイエローカードを逆に審に付きつけるという行為をし、4試合の出場停止処分を受ける。

1998年チームは試合後ごとに波があり、1stステージこそ優勝争いに加わったが、2ndステージ々と優勝争いから脱落。悲願のJリーグ制覇はまたしても達成できなかった。この頃、再び欧州へ移籍する噂が流れるが、本人は日本で現役生活を終えることを決断していた。

1999年は呂ワグナー山口楢崎正剛といった日本代表の3選手が加入する大補強をチームが敢行。初のJリーグ制覇に大きな期待が集まるシーズンとなった。この頃、NATOによるユーゴスラビアへの爆が開始され、3月27日ヴィッセル神戸戦後ユニフォームの下のアンダーシャツに「NATO STOP STRIKES」というメッセージを書き、抗議する。優勝補の筆頭とまで言われたチームは噛み合わず、1stステージは8位と低迷。2ndステージになると、チームはようやく本来のポテンシャルを発揮し、10連勝を記録するなど快進撃を見せたが、2位に終わりあと一歩で優勝を逃す。自身はこの年3度となるJリーグベストイレブンに選出される。そして、元旦おこなわれた第79回天皇杯では、サンフレッチェ広島を相手に1ゴール1アシストの活躍を見せ、2度となる天皇杯優勝に貢献する。

2000年は経営的に厳しい状況にあったフロントの意向によって3選手の戦力外通告突然発表される。震が走ったチームは動揺が走り、優勝争いに加われないままシーズン冠で終える。11月30日契約を半年だけ延長し、2001年1stステージ終了後に現役を引退することを発表する。なお、この年来日して7年にして初めて退場処分を受けなかった。

ラストイヤーとなった2001年1stステージは、開幕から好調だったが、当時黄金期にあったジュビロ磐田優勝を持っていかれることになる。7月14日サンフレッチェ広島戦ではラストゴールとなる決勝ゴールを決め、7月21日東京ヴェルディ戦を最後に現役を引退する。引退セレモニーでは、日本語で「皆さん、ありがとう。感動ありがとう」と述べている。

Jリーグ通算184試合57得点

2001年10月9日には、豊田スタジアム名古屋vsレッドスターによる引退記念試合が開催。

ユーゴスラビア代表

1983年18歳という若さユーゴスラビア代表に選出。デビュー戦となったフランス戦では憧れの存在だったプラティニユニフォームを交換している。

1984年6月2日ポルトガル戦では代表での2試合にして初ゴールを決めている。直後にフランスで開催されたEURO84にも出場し、チームは3連敗でグループリーグ敗退となったが、最終戦となったフランス戦でPKを決め、当時のUEFA欧州選手権最年少ゴール記録を打ち立てている(2004年にウエインルーニーが塗り替えている)。この年の8月にはアメリカで開催されたロサンゼルスオリンピックに出場し、銅メダルを獲得。その後、代表のエースとして活躍するようになる。

1986 FIFAワールドカップEURO88では予選で敗退し本大会出場を逃したものの、1988年9月韓国で開催されたソウルオリンピックに出場。チームグループリーグで敗退したが、自身は3試合に出場し2得点1アシストと活躍を見せる。

1990年には、自身初の出場となる1990 FIFAワールドカップに出場。当時、ユーゴスラビアでは独立の機運が高まり、だったズボニミール・ボバンが大会直前にチームを離脱する事件が起きたが、他民族が集まる難しい情勢にあったチーム監督イビチャ・オシムがまとめあげ、ストイコビッチは10番キャプテンとしてチーム徴となった。グループリーグでは鳴りを潜めていたが、決勝トーナメントに入りその才世界に知らしめることになる。ラウンド16のスペイン戦では、2ゴールの活躍でチーム勝利に導いてみせる。準々決勝のアルゼンチン戦では、ディエゴ・マラドーナとの10番対決に注が集まる。この試合でもマラドーナに勝るとも劣らない破格の才を発揮するが、PK戦で失敗し、チームベスト8で敗れる。試合後、を流したの対し、マラドーナから「泣かないで欲しい。君には明るい未来しかない」とをかけられた。まだ25歳だったストイコビッチの際的な評価はこの大会で急速に高まり、次の時代は「ストイコビッチの時代になる」と予想する者もいた。

EURO92の予選でユーゴスラビアは破の勢いで本大会出場を決め、本大会でも優勝補の一と見られていた。ところが、祖国では内戦が本格的に勃発。大会直前にオシム監督が辞任する事態にまで発展する。それでも、チームは現地のストックホルムに入り、大会に向けての調整をスタートしていたが、内戦への裁定として国連が制裁措置を取り、1992年5月31日UEFAから本大会の出場権を剥奪されてしまう。これを最後にユーゴスラビア代表は際試合を禁止され、事実上の解体となり、当時怪で苦しんでいたストイコビッチはさらに失意のどん底に立たされてしまう。

ユーゴスラビア代表(分離後)

1994年12月国連の制裁措置が一部解除されたことで代表チームとしての活動が可になる。日本で新たな挑戦を始めていたストイコビッチは、新生ユーゴスラビア代表のキャプテンとなり、12月23日ブラジルとの善試合に出場する。その後処分が全面的に解除され、1998年ワールドカップ欧州予選への出場が認められる。予選が開催されるたびに遠い日本から駆けつけ、個性タレントチームキャプテンとして牽引し、プレーオフハンガリーに大勝し本大会出場権を勝ち取る。

1998年6月フランスで開催された1998 FIFAワールドカップに出場。久々舞台に帰って来たストイコビッチは、グループリーグの第2戦のドイツ戦でゴールを決める。存在感を見せたユーゴスラビア2位グループリーグを突破し、決勝トーナメント進出。ラウンド16のオランダ戦でもFKから同点ゴールアシストするが、試合終了直前に失点し、惜しくも敗れている。それでも、久々世界の表舞台インパクトを残すこととなった。

EURO2000す新チームでは、35歳ベテランになったことと若いデヤン・スタンコビッチの台頭もあって控えに回ることになる。2000年6月EURO2000でも控えという立場でスタートするが、初戦のスロベニア戦でビハインドを背負った状況となり前半終了間際に投入される。0-3とビハインドを背負った状況の中、ストイコビッチのゲームメイクで息を吹き返したユーゴスラビア引き分けに持ち込む。続くノルウェー戦ではスタメンで起用され、1-0の勝利に貢献し、MOMに選出される。しかし、第3戦のオランダ戦では1-6で大敗し、グループリーグ敗退。事実上、この大会で代表としてのキャリアの幕を閉じる。

2001年7月4日事実上の代表引退試合の対戦相手は第二の祖国と呼ぶ日本だった。この試合で90分間プレーし続け、代表のユニフォームを脱ぐことになる。

ユーゴスラビア代表通算84試合15得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1981ー82 ドニツキ・ニシ スハプスカリーガ 1 0
1982ー83 ドニツキ・ニシ スハプスカリーガ 17 1
1983ー84 ドニツキ・ニシ プルヴァ・リーガ 27 3
1985ー86 ドニツキ・ニシ スハプスカリーガ 25 4
1986ー87 レッドスター プルヴァ・リーガ 32 17
1987ー88 レッドスター プルヴァ・リーガ 28 15
1988ー89 レッドスター プルヴァ・リーガ 29 12
1989ー90 レッドスター プルヴァ・リーガ 31 10
1990ー91 マルセイユ リーグ・アン 11 0
1991ー92 ヴェローナ(loan) セリエA 19 1
1992ー93 マルセイユ リーグ・アン 0 0
1993ー94 マルセイユ リーグ・アン 18 5
1994 名古屋グランパスエイト Jリーグ 14 3
1995 名古屋グランパスエイト Jリーグ 40 15
1996 名古屋グランパスエイト Jリーグ 19 11
1997 名古屋グランパスエイト Jリーグ 18 2
1998 名古屋グランパスエイト Jリーグ 28 7
1999 名古屋グランパスエイト J1リーグ 24 11
2000 名古屋グランパスエイト J1リーグ 26 5
2001 名古屋グランパスエイト J1リーグ 15 3

個人タイトル

引退後

引退直後には名古屋テクニカル・アドバイザーの契約を締結。2001年9月にはユーゴスラビアサッカー協会(2003年からはセルビアモンテネグロサッカー協会)の会長に就任する。しかし、盟友サビチェビッチ監督を務める代表チーム2002 FIFAワールドカップEURO2004の出場権を逃してしまう。2004年3月には日本外務省より西バルカン平和定着・経済発展のための「平和大使」を委嘱される。

2005年サッカー協会の会長を辞任し、古巣であるレッドスター・ベオグラード会長に就任する。就任後の最初の2シーズン優勝カップ戦の内二冠を成し遂げるが、この頃セルビアモンテネグロ治安の悪さを理由にパリに移住。2007年10月12日導者としてのを歩むために辞任する。

指導者としての経歴

名古屋グランパス

2008年名古屋グランパス監督に就任し、7年ぶりに日本へ帰ってくる。自らを「ミスター」と呼ぶように呼びかけると、監督経験がかったがそれまでリーグ中位の成績だったチームを攻撃的なサッカーで3位に導く。また、15年間勝ちを挙げることができなかったカシマスタジアムでの鹿島アントラーズ戦で勝利ジーコ呪いを打ち破ったことも忘れてはいけない。

2009年には、AFCチャンピオンズリーグ揮を執り、ベスト4まで進んでいる。この年に伝説となった革靴でのロングシュートを披露している(後述)。

2010年浦和から田中マルクス闘莉王大分トリニータから生、コンサドーレ札幌からダニルソンを獲得する大補強を敢行したチームは、シーズン後半戦に入って首位に立つ。闘莉王の加入でチーム全体の意識が変わり、現役時代チームメイトだった楢崎正剛が守護として絶大な存在感を発揮。そして、11月20日湘南ベルマーレ戦に勝利し、3年にしてついにするチームを初のJリーグ年間王者に導く。現役時代には成し遂げられなかった悲願のリーグ優勝監督として成し遂げ、歓喜のを流している。この年、Jリーグ最優秀監督にも選ばれ、最優秀選手と最優秀監督の両方を受賞した史上初の人物となった。

2011年は、開幕直後に発生した東日本大震災被災者に対するチャリティーマッチにおいて、Jリーグ選抜「TEAM AS ONE」の監督としてチーム揮を執る。リーグ戦では序盤戦は低迷していたが、システム変更が功を奏した後半戦に盛り返し、一時は首位に立つ。しかし、最後は柏レイソルに勝ち点1届かず、2位に終わる。

2012年ACLとの掛け持ちとなったことでに怪人が相次ぎ、特に得点ジョシュアケネディが長期離脱したは大きく、7位という不本意な成績に終わる。

6年となった2013年は前年よりもさらにチームは低迷。組織が低下した守備は楢崎や闘莉王の個人頼みとなっていた。結局、成績は就任以来最低となる13位。このシーズンをもって名古屋グランパス監督を退任。
6年間での通算成績は102勝59敗40分。J1100勝した監督は史上6人と、監督としても大記録に名を残すこととなった。

広州富力

2015年8月中国スーパーリーグ広州監督に就任。名古屋での終盤のシーズンと同様に守備の構築に苦戦し、失点が多いチームとなったことから好不調の波がしくなっていた。2016年は6位、2017年は5位とまずまずの成績を残し、契約延長を勝ち取る。

しかし、2018年以降は守備の崩壊が立ち、2019年にはリーグワーストの72失点を喫し、12位と低迷。5年間でこれといった結果を残すことができず、2020年1月契約を2年残したまま退任する。

セルビア代表

2021年2月20日であるセルビア代表の監督に就任。2021年には日本との善試合のため久々に来日し注を集めるが、試合は1-0で敗れている。

就任後の2022 FIFAワールドカップ欧州予選では強ポルトガルと同じ組に入りながらも2位で食らいつくと、2021年11月14日に最終節におこなわれた敵地でのポルトガルとの直接対決では終了間際の劇的なゴールによって逆転勝利を掴み、逆転でのグループ首位通過を果たし、セルビアを2大会連続のワールドカップ出場に導く。

ブラジルスイスカメルーンと同じグループに入った2022 FIFAワールドカップ カタール大会では、欧州予選を戦い抜いた堅守が崩壊。調子が万全でなかったこともあって3失点で8失点を喫し、1分2敗のグループ最下位で敗退に終わる。

カタールW杯後も代表監督を続投し、EURO2024予選では苦戦を強いられながらもハンガリーに次ぐグループ2位に入り、セルビア代表になってからは初となるUEFA欧州選手権本大会出場を決める。

監督としての成績

シーズン チーム リーグ 順位 備考
2008 名古屋グランパス J1リーグ 3位
2009 名古屋グランパス J1リーグ 9位 ACLベスト4
2010 名古屋グランパス J1リーグ 1位 J1リーグ優勝
2011 名古屋グランパス J1リーグ 2位 ゼロックススーパーカップ優勝
2012 名古屋グランパス J1リーグ 7位
2013 名古屋グランパス J1リーグ 11位
2015 広州 スーパーリーグ 14位
2016 広州 スーパーリーグ 6位
2017 広州 スーパーリーグ 5位
2018 広州 スーパーリーグ 10位
2019 広州 スーパーリーグ 12位
2021~ セルビア代表 - -

幻のロングボレー

2009年10月横浜F・マリノス戦後半40分、選手の怪によるプレイ中断のため、マリノスののGK榎本哲也ボールを遠くに蹴りだした所、名古屋ベンチ前に飛んできた。

ストイコビッチ監督は、冗談半分でこれをダイレクトに蹴り返し、センターライン付近からのロングボレーにもかかわらず見事横浜側にゴールボールが濡れている上、革靴でのシュートという難しい状況にありながら、その健在さを思わぬ形で見せ付けた。

審判への侮辱行為&試合遅延行為として退場処分を食らってしまったが、「こうやって点を取るんだぞって言う、ただの冗談だったのに」と、終了後の会見ではおどけていた。ちなみに、ゴールが決まった間、いつものガッツポーズを見せている。

ゴールを決められた(?)榎本は、「怒る気にもなれない。すげぇと思った」と呆れていた。

このシュートは当時のUEFA会長であったミシェル・プラティニがらも賞賛された。

プレースタイル

妖精を意味する「ピクシー」という称の通り、麗なテクニックと予測不可能プレーアイディアで攻撃の全権をファンタジスタタイプゲームメーカー。体格もフィジカルもヨーロッパの選手の中ではけっして特筆すべきものではないが、ボールスキルの高さは一流。プレーエリアは1列と2列の間を行き来する1.5列で、自らが体となって攻撃を組み立てる。

正確キックで違いを生み出すスタイルだが、プレーそのものは至ってシンプルである。ドリブル抜く時もアウトサイドインサイドでの切り返しのみを使用し、相手の重心移動を見極めて逆を突くのが得意。抜群のスキルが余裕を生み、余裕がアイディアを生んでおり、長短問わず決定的なパスを味方に送る。

ユーゴスラビア代表時代に監督として導したイビチャ・オシムは「技術が高いだけでない。ピクシーは人を動かして、自分も動ける。彼はセルフィッシュではなくコレクト(正しい)な選手だった」と評している。

運動量そものは多いわけではなく、守備での貢献も少ないためクラシカルなタイプファンタジスタと位置付けられている。

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35 ななしのよっしん
2013/12/16(月) 01:04:35 ID: U/hol2SOnu
まだ若いし、またいつ日本揮をとってほしいな
ピクシーJAPANなんていうのも見てみたい

というか、海外での生活耐えられるのか心配だ
美味しい納豆もないぞ
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36 ななしのよっしん
2014/03/07(金) 23:03:20 ID: 8pPvj8HEg1
Jリーグチップスのオマケカードで、ピクシーカードだけ出なかった思い出。一番欲しかったのになぁ。

・・・・ラモスは1ダース分出たのに
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37 ななしのよっしん
2014/06/11(水) 15:39:29 ID: sq/EQ9dAYB
現役時代に何の本だったか忘れたが、

日本で、この人のプレイを見られることを感謝したい』

みたいなこと書かれてたな。
まさしくそのとおりだと思う。
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38 ななしのよっしん
2014/09/04(木) 13:26:56 ID: b+UJZ7/uNR
ピクシーいなくなったら名古屋リーグ中位のチームに戻ってしもうた
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39 ななしのよっしん
2015/05/01(金) 14:27:19 ID: weX97mPH7e
平成27年外国人叙勲で日小綬章を受章。おめでとうピクシー
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40 ほんわか
2017/04/29(土) 01:01:16 ID: cLYKm9KlOT
ものすごい難しいことをものすごく簡単そうにやっている選手

なんだそううな
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41 ななしのよっしん
2018/02/04(日) 15:19:40 ID: BMWChZxxHF
納豆ネタいのは逆に不自然
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42 ななしのよっしん
2021/02/22(月) 12:01:25 ID: EzkZtKbfsz
セルビア代表、強くなるぞこれは。
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43 ななしのよっしん
2022/12/06(火) 12:15:40 ID: wVsAfPvgpx
「本当に酷い」“妖精ストイコビッチ人種差別発言!? 味方のゴール奮して「暴言」を吐き捨てた映像波紋W杯】(THE DIGEST)
https://news.yahoo.co.jp/articles/0ffa5175a8d1f88ba57d75915d1aec8ca8ce4431exit

世界アルバニア系へのヘイト発言が生中継されてしまった
最近はFIFA差別に厳しいので下手すりゃ永久追放すらありうる
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44 ななしのよっしん
2023/01/17(火) 22:30:46 ID: U4uET3+oQN
コソボ絡みの話だしセルビアは何が何でもピクシー擁護するぞ確実に
下手に処罰すれば国家としてのセルビアFIFAの対立になりかねんし多分具体的な処罰は起こさないと思うわ
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