単語記事: ナショナリズム

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ナショナリズムとは、自らが所属するネイションを尊重する意識と行為一般である。ナショナリズムは、時にはネイションへの深い感情的なコミットメントを構成し、ネイションへの所属がメンバーにとって自己自身を定義する不可欠なアイデンティティの一部として感ぜられる。民族義、国家主義とも訳される。

ネイションの定義

ネイションは、「民族」「民」「国家」などと訳される。ネイションは邦訳の多様性が示すように、実質的な定義を与えようとすると困難になる。国家民の不在は政治を考えるとあり得ないとしても、ネイションを定義しようと、外部から観察可客観的性質を分析しようとしても、必要かつ十分に定義する条件は見つけられないからである。例えば、血縁のような生物学的類似性は、ネイションの条件ではない(ex.混血)。離散の民=ディアスポラの存在が示すように、領土もネイションにとって不可欠な条件ではない(典的にはユダヤ人クルド人)。言は、ネイションの成立にとって非常に重要な要素の一つだが、それ自体でネイションが存在するわけではない。言の分布とネイションの区画が合致しないことは往々にしてある。宗教も重要なファクターだが、言の分布以上似、ネイションの界からの乖離が大きい。

ヒュー・シートン=ワトソンは、ネイションという現は確かに存在するが、それについてのいかなる科学的定義も不可能だとしている。逆にアントニースミスは、「歴史上の領域、共通の神話歴史的記憶、大衆的・的文化、全構成員共通の経済、共通の法的権利・義務、特定の名前」によってネイションを定義しているが、この定義は補になりそうな性質を列挙したもので、これに当てはまる共同体はあまりに広い。例えばこの定義に従えば、古代ギリシャ都市国家も、邪馬台国も、伝統的な中国帝国も全てネイションだということになる。しかし、歴史的には、ネイションは極めて特異な共同体である。ネイションの定義の困難あるいは不可能性をスミスは逆説的に示す。ネイションの本質は、積極的に固定化されるいかなる性質にも還元できないところにある。

「ネイション」という自身は古代からあるが、その示対は、今日のネイションではない。ラテン語のnatioの直接の義は「生まれてきた者」であり、古代ローマでは、こので、出自を同じくする外国人グループ示されていた。正式のローマ市民よりも地位の低い、周辺的な住民として扱われていた。しかし、中世ではこの示対は大きく変化し、中世キリスト教会において、教会共同体の内部の諸党と諸党を代表する文化的・政治エリートや権威の事をす。「ネイション」が、今日的な意味で、人民の共同体示するものとして使われた最初の事例は、16世紀初頭の絶対王政イギリスに見られる。こうしてネイションは歴史的には、一方で出自によって結びついた周辺的で特殊な共同体という意味を、他方には理念上は世界そのものと同一視されていた共同体(教会)の中心的なメンバーという、振れ幅を持った意味を持ちながら存在している。

特殊主義と普遍主義

ネイションは、少なくとも二つの必要条件を満たす政治共同体である。第一にそれは、生活様式の共通性に基づく自生的な単位である。多くのネイションが、政治導者の決定に基づく制度や民衆的な社会運動に媒介されて誕生した面を持つが、ネイションが全面的に意識的な作為の産物であるということはない。それは自生的な核なしには存在しない。それゆえネイションは、歴史の展開の中で自然発生したそれぞれに特殊な伝統によって自身を外部から区分する共同体である。

第二に、ネイションは直接の面識関係やその集積をはるかえたコミュニケーションの範囲を覆っている。どんなに小さなネイションでも、メンバー同士が互いによく知っていることはなく、どの場合、互いに一生会うことはない。ベネディクトアンダーソンがネイションを「想像の共同体」と呼んだのはそのためである。ネイション以前の、あるいはネイション以外の共同体においては、メンバーが他のメンバー共同体そのもののためにときに命を賭しても良いと思うほどの連帯感や着を持つためには、メンバーが互いに直接の関係を持っているか、少なくとも直接の関係を具体的に辿る事が出来るほどに近い関係で繋がっていなくてはならなかった。ネイションは、互いに直接の関係を持たない大量のメンバー同士が、命懸けの同胞意識を持つようになった、最初の共同体である。

以上の二つの条件は、全てのネイションに共通する二つの特徴に対応している。第一に、どのようなネイションも、間的・社会的に限界を持ったものとして想定され、地球そのものと同一視されたりしない。この面で、ナショナリズムは特殊義として現れる。第二に、ネイションは、原理的に等なものたちの同志的な繋がりであると幻想されている。ネイションには、カーストの階級=ヒエラキーや、貴族民などといった階層性は適合的ではない。的な共同体であるという想定は、ネイションにとって必要条件である。徹底した義は、最終的には普遍義として現れる。

これら二つの特徴を統合することで、ネイションとナショナリズムの原理は以下のように言える。ナショナリズムは、普遍義への志向が特殊義の形式において現れたところに成立する。普遍義と特殊義のバランスの下で、ナショナリズムは成立する。そして特殊な集団の生活様式や規範を、一つひとつのネイションの内部では実際より過剰に普遍的なものとして想定するがゆえに、ネイションの内部には、必然的に、差別されるマイノリティが生み出されてしまう。マイノリティは、普遍的な標準から何らかの程度出外れていると見なされた逸脱者の集団とされる。ネイションに固有の等志向が、逆説的に差別されるマイノリティを自らの内部に生み出す。

ネイションとナショナリズムの起源

ネイションとナショナリズムがいつ成立したかをめぐって、理論は大きく二つに分かれる。一方に、ネイションは、原初的なや永続的な要因の産物であり、近代よりもはるかに以前から持続してきたという説がある。この説は、多くの場合、ナショナリストの自己理解とも合致する。日本というネイションの起伊勢神宮吉野ヶ里遺跡に見たり、フランスの起カール大帝の戴冠に見たりする場合が典である。これに対して、ネイションとナショナリズムは、近代に特徴的な要因に規定された近代の産物だとする社会科学者や歴史学者も多い。前者は原初義、後者近代義とも言われる。

原初義を素に唱える学者は少ない。原初義を修正した形でする学者は、アントニースミスがいる。スミスは、古代から存在していた「エトニー民族)」が核となり、それが様々な要因によって近代においてネイションに転換したと論じる。それに対して、近代義の代表は、アーネストゲルナーとベネディクトアンダーソンである。ゲルナーは、ナショナリズムをもたらした原因は「産業化」であるとする。産業化という機的な要請に適合的なシステム・態度として、ネイションやナショナリズムが生まれたとする。アンダーソンは、ラテン語などの「なる」に対するとして、資本主義と結びついた「俗語」の出版活動[1]、あるいは植民地におけるクレオール役人の「巡礼」にも見立てられる、植民地首都へと収斂していく出世(クレオール・ナショナリズム[2]、周囲のナショナリズムに対応して生ずる上からのナショナリズムナショナリズム[3]などから、近代に固有の「想像の共同体」としてのネイションの成立を説明した。

民衆的な準出成立したのは、18世紀末から19世紀にかけての時期と見るのが、妥当である。これは、ナポレオン戦争に現れている。18世紀までは、ヨーロッパの軍隊は、どこのでも、として外国人傭兵で構成されていた。最初の「民軍」はナポレオンの軍隊である。プロイセン義者たちは、兵卒の5割に達する外国人を半分に減らそうとしていた。つまり18世紀末には故を守ろうというナショナリズムを持った民が、ヨーロッパでは大半ではなかった。またナショナリズムというが定着するのは、アイラ・ケミレイネンによると19世紀末である。原初義寄りのスミスも、十全なナショナリズム近代の産物であると認めている。

ナショナリズムの時間的逆説

歴史学や社会科学者のには、ナショナリズム近代的な現に見える。しかしナショナリズムを担う当事者の主観的なには、ネイションやナショナリズムは古く、はるかな古代に起を有するように映っている。ナショナリズムの普及は、しばしば古代史や考古学のブームとともに始まる。中世ではど問題にされていなかった「歴史」という学問が、ヨーロッパ大学で中核的な講座としての地位を獲得するようになり、歴史学者が続々と産まれたのは、ナショナリズムヨーロッパを席巻した19世紀中葉以降である。ネイションは客観的には新しいのに主観的には古い、という逆説がそこにはある。原初義はこの錯覚をそのまま追認する。

客観的には古い集団や共同体に関して、当事者たちがその古さを自覚せず、起から現在までの時間的深さを小さく見積もる場合ならば、記録の不在、記憶の伝承による劣化曲、想像の欠如といった、人間としての一般的な限界や傾向性から説明できる。例えば、文字社会の当事者が、自身の神話に基づいて「あれがらの祖先がから降りてきた時に使っただ」と差している先を見ると、せいぜい齢数十年の木だったりする。あるいは中世ルネサンスの絵画には、「創世記」のある場面や新約聖書エピソードが描かれているが、その人物の姿や衣装は、描かれた当時からするとあまりに現代的で、時代考がない。イエスの誕生を祝福するために厩舎を訪れた飼いは中世の農民の衣装をまとい、古代ユダヤ人には似ていない。

しかし、ネイションの起をめぐるナショナリストの錯覚は、これとは逆であり、不自然なものである。この錯覚は、普遍義と特殊義の重なりの時間バージョンとも考えられる。ネイションの「起」とナショナリストが見る出来事は、ネイションが実際には近代的な現である事を思えば、一種の幻想ではあるが、神話のような全な創作ではなく、経験的で歴史的な事実である。普遍的な共同体を基礎づける起現実的な人類の共同体がそこから流出してくるような起を考えるとすると、それは、本来は歴史えた原点、メタ歴史的に考えるような原点でなくてはならない。しかし、その普遍的な共同体の「普遍性」を「特殊性」の方へと当てはめたら、歴史を越えた原点が、特殊な共同体歴史的な起と見なしう過去の出来事のうちに、しかも現在の経験からは隔絶していて、機としては歴史ではないような存在の始まりのように働くはるかな古代に見いだされる。これが、ネイションを巡る時間的逆説のメカニズムと考えられる。

ネイションとステイト

日本語では「ネイション」も「ステイト」も、国家と訳される事が多い。しかし英語では全く異なる意味になる。「国家」と訳される事が多い「ネイション・ステイト」も単なる民+国家ではなく、ネイションとステイトは異なる概念でありながらも、共に政治的な機の面で類似するものとして理解される。

ネイションには、シンリックアイデンティティが生まれる。ネイションは、人々の関係が複雑になり、非人格的で抽的なコミュニケーションが支配的となった大きな集団(ゲゼルシャフト)において、はじめて形成されるものである。ネイションにおいては、アイデンティティが政策的に操作可なものとなる。ネイションは民族アイデンティティを、政治の観点から意味づける概念であり、人々はそこにおいて、言や文化の価値を守るために、政治的活動することになる。

これに対してステイトとは、ある統治機構のもとで組織された集団のことである。ネイションと峻別しようとすれば、国家という訳よりは政府になる。ネイションがアイデンティティの問題なのに対して、ステイトは統治に焦点を当てた概念である。ステイトは、国家や従属国家、複数の集団が集まる連邦国家などがあり得る。マックス・ウェーバーによれば、ステイトとは、ある領域のもとで、正当な権を独占した中央集権政府を運営する強制的執行機関であり、それは行政機関や法制度、軍事的・宗教的な組織を備えていなければならない。これに対して、イギリスの法学者イアンブラウンリーは、際法によって承認された集団という観点から、一定の確定した領土、人口、政府、他からの独立という4つの特徴でもって定義する。いずれにせよステイトは、発達した統治権機構である。

以上を総合して、ネイション・ステイトとは、その政治的な正統性を、一定の文化的な至高性を持ったアイデンティティに使えるものとして引き出すような統一された政治単位と言える。これを厳密に言えば、イギリス連邦はネイション・ステイトではなく、フランスにおいて歴史的に形成されたものとなる。

ただし、ネイションという言葉は、経済的繁栄を的とする政治組織という意味で、ステイトと同じような意味で使われてきた。アダム・スミスの『富論』は、ネイションを経済的に説明している。これに従えば、イギリスフランスも、16世紀以降の重商義や18世紀の産業革命期において、ネイションとしての性格を現している。また領土を前提にしている点でも、ネイションとステイトは共通性を持つ。

日本語の「国家」は、文化的な繋がりと政治的な統治権の意味を分別せずし示す便利な言葉である。しかしながら、以上のようにネイションとステイトは同じものをすとは限らない。

国語

ネイションにとって言は重要な要素の一つである。ナポレオンに占領されたドイツベルリンで、哲学者フィヒテは、「ドイツ民に告ぐ」という講演を行なった。

国家間の最初の本的で自然は疑いもなくそれらの内的である。同一の言を話すものは、あらゆる人間の技巧に先立ってただひとつの自然によって、に見えない多数ので以て全体が結び付けられている。それは相互に理解し合い、また常にますます明瞭に理解するを持ち、同一の全体に帰属し、本性上「一者」であり、不可分の全体をなす。こうした「民族」は自己のうちに、異なる由来や国語を持つ他の民族を一つたりとも受け入れることはできないし、そのために少なくとも方向を見失い、自らの進歩の連続性を著しく乱すことなしには、他の民族との混和を望むことはできない[4]

ナショナリズムにとって、言は中心的な役割を担っている。ナショナリズムの重要な要素の一つは、自分たちに固有の俗語があるという確信である。それぞれのネイションが自分に所属しているように認識している俗語を「国語民の言)」と呼ぶ。もちろん、ナショナリズムがただちに俗語の共通性の意識と同一視されるわけではない。英語スペイン語、かつての大日本帝国日本語のように、幾つかのネイションに共有される俗語もある。逆に同一民の間に、複数の俗語が共存している場合もある。

ここで重要なのは、国語は、民衆が日常コミュニケーションに用いる言俗語であるということである。俗語への規範的な関心は、歴史的に見て大変新しく、他のナショナリズムの現と同様に、近代以降出現したものである。近代以前は、政治に用いる的言ヨーロッパ世界ならばラテン語夷秩序ならば漢語)や学問・宗教の領域で用いられるべき言には介入したが、俗語には関心を払わなかった。しかし、ネイション権は、俗語にこそ関心を示し、とりわけ学校制度を通じて標準的な俗語としての国語教育し、統制し、強制した。俗語への関心は、上からのものだけでなく、下からの民衆運動でも示され、国語は美しく善きものであり、使用されるべきという規範の普及と定着に貢献した。

ヨーロッパでは、フランス革命以降のナショナリズムが勃した18世紀末から19世紀にかけての時期に、関心が高まった。シートン=ワトソンは、この時期のヨーロッパと周辺諸地域は、俗語の辞書編纂者、文法学者、文学者、言語学者の旺盛な活動によって特徴づけられると論じている。ベネディクトアンダーソンは、ヨーロッパ俗語の辞書編纂革命を、弾薬庫に火が点き、次々と小さな爆発が誘発され、やがて日に化してしまうほどの火の手が上がる様に例えている[5]。こういった運動は、ヨーロッパのみに見られたわけではない。南アフリカトルコ俗語文学として成立するのも、ほぼ同じ時期である。日本でも、ヨーロッパ似それほど遅れることなく、俗語文学運動国語による文学運動が生じている。

真理語と音声口語

俗語としての国語は二つのタイプの言から区別される。一つは、真理。二つは、音である。

第一に、真理とは、世界宗教と結びついている、普遍的と見なされている言である。西ヨーロッパにおけるラテン語東ヨーロッパにおけるギリシア語イスラム圏におけるアラビア語中華文化圏における漢字などが、真理の代表的な例である。国語真理と自身を区別してきた。国語の推進者達は、真理ではないことを、美点としてきた。

国語を特徴づけているのは「言記号の恣意性」[6]の意識である。真理には、記号の恣意性の観念は縁である。ラテン語などが真理とされたのは、普遍的な真理は、その特定の言によってしか表現できない、という意識があるからである。国語は、真理のこうした権威に挑戦し、これを否定する形で普及し、定着した。

第二に、音とは現実に話される物理的な音である。俗語は、日常コミュニケーションであると同時に、音である口とも区別される。真理は、音二次的な意味しかなく、本質的に文字である。国語もまた、文字によって表される文体の中で確立された。その文体は、初期の段階では、翻訳を通じて真理からの翻訳先進国の書物からの翻訳を通じて形成された。更にその文体は、小説や新聞、学校教育を通じて普及した。しかし、国語真理と違って、自分の「文字」としての起を隠蔽しようとする。つまり、国語は「」、とりわけ「内面の」の自然な表現である、と見なされた。「言文一致」運動は、そうした認識に規定された社会運動である。国語文字としての本性を否認する文字であると言える。

国語地理的な普及範囲は、一般に真理の拡がりと音の拡がりとの中間になる。ラテン語漢字を使いこなせたのは、社会階層の上層部だったが、当時の世界を股にかけた、際的知識人であった。国語が普及した範囲は、かつての知識人が念頭に置いていた世界よりもはるかに狭いが、音よりははるかに標準化されており、音国語より多様である(典的には方言)。

国語化の原因

国語められた一つの説明は、産業化である。農業を基盤にした階層的な社会においては、一部の知識人や政治家だけが、文字によるコミュニケーションを持っているだけで十分であった。しかし、産業化が成功するためには、それだけでは足りない。どの労働者が、出自や背景を異にしている他の労働者とコミュニケーションが取れること、文字によっても音によっても意思疎通が出来ることが、産業化の不可欠の条件となる。国語教育は、コミュニケーションを備えた労働者を大量生産するのに貢献した。

但し、諸民の国語への情熱的な執着、規範的な選好は、産業化の必要からだけでは説明できない。産業化の点では原始的な段階にしかない社会にも、言を重視する運動はある。ベネディクトアンダーソンは、俗語の普及を、出版資本主義で説明した。印刷出版活動だけでは、俗語としての国語の普及にはつながらない。俗語出版物市場の初期の消費者は、典的には、下級ジェントリ、学者、専門職業人、実業たち、つまり新のブルジョワジーであった。出版活動が、消費者を開拓していこうとする資本主義的な衝動と結びついたとき、俗語は広範に普及する。

また、国語真理宗教的な地位を奪い取ったことによる事も国語への着が生まれてきた原因である。より抽的で世界観をし示すことができる地位を長らく真理は持っていた。その真理を土着化させた形で、国語はその世界観をもたらした。

日本語としての「国語」

国語」は、日本語を意味するとして使用されている。このような意味での「国語」の初出は正確には分かっていない。西周の『学連環』には「国語」があるが、それは言一般の意味である。1900年・明治33年の小学校正の時に、「国語」科が導入された。「国語日本語」が一般化するのは、これ以降である。国語としての日本語の文体、言文一致体は、明治20年頃に徐々に確立された。日本語の言文一致による最初の文学作品は、二葉亭四迷の『浮』だとされる。二葉亭四迷が言文一致体の最初の確立者のひとりとなりえたことには、ロシア文学翻訳者であったことも関係している。他の文学者や言語学者も優れた翻訳者であった。他者としての外国語を強く意識してこそ、自の言も見えてくる。

標準的とされた日本語こそが国語であり、「日本人」は国語を用いるべきだとする規範的な観念は、アイヌ琉球人、植民地朝鮮台湾でも採用された。「国語」が強制され、固有の言は排除されたのである。

エスノ・ナショナリズム

エスノ(ethno、民族)・ナショナリズムは、ある民族が持つ独自の文化や政治を一定の大きさを持った統治政体において重んじようとする考え方である。言、文化、儀礼、歴史などを共有した人々が、共通の自己意識=アイデンティティを重んじるならば、人々は、自分たちが暮らす領土に着を持ち、集団的な連帯の感覚を育んでいく。

民族共同体からの発展

民族アイデンティティは、それが小規模な範囲に留まる限りは、ネイションを形成しない。ある民族メンバーが、互いに顔見知りで、規模の小さい共同体を形成している場合には、それはエトニー民族共同体と呼ばれる。これに対して民族メンバーが増大すると、見知らぬ人たちの間でコミュニケーションを調整するための、高度な統治技術が必要になってくる。互いに疎遠な人々を、一つの社会的まとまりとして維持するためには、共有された価値規範が必要になる。人々は想像を働かせて、自分たちが同じ民族に属する事を理解し、そこには共通の意識と感情を注ぎ込む必要がある。民族共同体は、想像や慣習、伝統によって価値観を共有したエスニック・ネイションへと発展していくことができる。

しかし、ネイションが更に拡されると、別の問題が生じる。膨したネイションは、その内部に移民を含み、植民地を持つことによって、多様なエスニシティを抱えることになる。するとネイションは、一つの慣習や伝統によってメンバー・たちの紐帯を維持できなくなる。同じ民族メンバー同士でも、多様な価値観をもって暮らすようになると、社会は一つの慣習や伝統によって維持はできなくなる。ネイションは次第に、多様な価値観を許容する方向へ変化せざるを得なくなる。すると、ネイションは、一人ひとりの構成員の権利をベースにして、「市民」的な価値を重んじ、多文化的な社会になる可性を秘めている。民族共同体から市民的・多文化的な国家へと発展すると考えれば、エスノ・ナショナリズムは、その中間的な形態である。一方では閉鎖的な民族共同体を拡していく局面において、進歩的な価値規範として現れる。他方では、多様な民族性、多様な価値観が生まれるところでは、一つの支配的な民族性に基づく共通の価値観によって社会を統治するという、保守的な態度を示す。

エスノの過剰がもたらす悲劇

成功したネイション・ステイトは、他の諸によっても模倣された。20世紀、植民地から独立した国家が誕生したり、ソ連を中心とする共産主義圏が崩壊していくと、西欧近代国家のネイション・ステイトは、めて理想の統治形態として注されるようになる。問題となるのは、ネイション・ステイトを模倣するときに、その市民的な側面を重視するのか、民族的な側面を重視するのかという点である。多くのでは、民族的な側面が強調された。例えば、ギリシアではギリシア正教の社会的意義が復活し、インドではヒンドゥー教への信仰が一つの神話としてまとめ上げられていった。またナイジェリアでは3つの要な民族数の多様な民族が存在していたが、一つの近代国家を形成するのに際して、諸民族の文化は合成され、共通の紐帯と感情を生み出すように工夫された。近代のネイション・ステイトを形成するのに、一つの民族的価値を支配的なものとして選び取るのか、あるいは様々な民族的価値をハイブリッド化して、一つの越的な共通価値を作り出すのかは様々な統治判断がある。

エスノ・ナショナリズムへの希は、とりわけ1989年東欧圏の共産主義が崩壊した際に、大きなうねりをなしていった。例えば、スロヴァキアハンガリー人は、ネイションとしての政治的自治をめ、旧ユーゴスラヴィアモンテネグロ人は、国家を諸国家からなる連邦機構に変えることをめた一方で、同地域のスロヴァキア人は独立国家めた。その過程で、一部の民族は他の民族を浄化するという軍事的手段に訴え、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争などの悲劇をもたらした。

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関連項目

脚注

  1. *宗教改革による“国語”による出版活動。ルターのドイツ語訳による聖書す。他にイタリアダンテによる『神曲』。
  2. *レオール=植民地。具体的にはアメリカナショナリズムを想定している。元々帝国の隷属的地位としてしか意味を持たなかったアメリカで、“アメリカ人意識”が醸成されていったことを、宗教の「巡礼」になぞらえている。例えば、本人ないしは本志向が強いクレオールは“植民地”に着を持たない。しかし、クレオール役人=植民地でしか出世出来ない知識人は逆に植民地首都へと“詣でる”ことを誇りにしていく。結果として単なる行政区としてしか意味をなさなかったクレオールがネイションに転化していく。南北アメリカの種々の独立戦争の動機はこうして説明される。
  3. *遅れてきたナショナリズムフランスなど西ヨーロッパ政治的中心から外れていたプロイセンロシアでのナショナリズム運動す。後進的な地域では、フランスでのような市民革命を経ず、王が啓運動として上からのナショナリズムを扇動する。日本明治維新政府もこれに含まれる。
  4. *フィヒテ『ドイツ民に告ぐ』の第十三講演
  5. *『想像の共同体』書籍工房山、2007年125
  6. *言語学ソシュールが導入した概念。言記号=シニフィアンと意味=シニフィエとの間の対応は恣意的である=必然性がないという考えである。「木」という概念は、“tree”でも、“Baum”でも、“arbre”でも、「き」でも表すことができる。国語の間の翻訳関係を示す辞書は、記号の恣意性を端的に示す。

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読み:ナショナリズム
初版作成日: 17/10/01 21:00 ◆ 最終更新日: 17/10/01 21:00
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ナショナリズムについて語るスレ

1 : ななしのよっしん :2017/10/05(木) 12:30:50 ID: q0GcdXBSyR
民族義と国家主義は別記事にすれば?
日本語では別物だろうし冒頭見る限りだと範囲も若干違う。
2 : ななしのよっしん :2017/10/05(木) 12:37:11 ID: OJmIsk9x81
>>1
若干なら別に良いのでは?
ただでさえ荒れやすい話題だし
3 : ななしのよっしん :2017/10/05(木) 12:41:52 ID: q0GcdXBSyR
>>2
少なくとも国家主義リダイレクトは解除するべき。
ナショナリズムの一部をでしかない上に、現状その解説がない。
4 : ななしのよっしん :2017/10/05(木) 12:48:37 ID: OJmIsk9x81
>>3
なら解説入れるだけでよくね?
5 : ななしのよっしん :2017/10/05(木) 12:57:47 ID: q0GcdXBSyR
>>4
単独で解説した方が分かり易いと思う。
解説載せるにせよ分けるにせよ編集者自由に委ねたいが、このままという訳には行かないよ。
6 : ななしのよっしん :2017/10/15(日) 11:01:40 ID: HyfIE8ULFH
分かりづらい大学の現代文みたいな記事だな
7 : ななしのよっしん :2017/10/15(日) 12:45:08 ID: Rvh8YTVrpq
"ナショナリスティック"からリダイレクトさせてほしい
8 : ななしのよっしん :2017/10/24(火) 15:53:11 ID: 147DlMRIr5
ちょっとこの記事いろいろおかしいような……特に真理と音周りがかなり変
ラテン語漢字などのリングワ・フランカを真理、と訳す言い方はかなり独自で、普通は共通という言い方をするし、意味も違う。また漢字は、世界宗教と結びついた言とは言えない。
また口=音だから、音では腹痛が痛い、と同じ意味重複。これも聞いたことがない言い方だ。
全体的に、どこかの文章のコピーかな?

少なくとも、これは国家主義の説明にはなってないので、国家主義についてはここから分けたほうが良さそう。
9 : ななしのよっしん :2017/10/24(火) 17:01:33 ID: Rvh8YTVrpq
>>8
編集者見ればお察し
多分、コピペ変してる
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