- フランスの軍人・政治家、ナポレオン・ボナパルト。後に皇帝に即位し、ナポレオン1世となる。
- ブランデー(コニャック/アルマニャック)の等級名。
- ナポレオン(トランプ) - トランプの遊び方のひとつ。
- ナポレオン(GBA) - ゲームボーイアドバンスで発売されたナポレオン・ボナパルトを題材としたゲーム。
- ナポレオン(ボードゲーム) - 任天堂より発売されたボードゲーム。
- ナポレオン - ディズニー製作のアニメ作品「おしゃれキャット」に登場した犬のキャラクター。
- ナポレオン - ジョージ・オーウェルの小説「動物農場」に登場した雄豚のキャラクター。
ここでは2.、3.の由来となった、1.ナポレオン・ボナパルトについて説明する。
ナポレオンとは。
長いし複雑だしこれだけで一冊の本になるものなので、より詳細な内容については各種有名どころの歴史書、ナポレオニックなサイトなど調べてほしい。また、あくまでもマンガであるため随所に脚色・誇張があることをただし書きとしたうえで、長谷川哲也氏の「ナポレオン -獅子の時代-」などで理解を深めるのが良いだろう。
ここでは概略を記するだけとする。
コルシカ島出身。当時の名前は、ナブリオーネ・ブオナパルテ。この名前をのちにフランス風に改めて、ナポレオン・ボナパルトとした。
父親のウマい立ち回りで、フランス領となったコルシカからフランスへ移り住み幼年学校、士官学校への道を歩む。当時としても傑出した才能があった…と言われるがどうだろうか。
砲兵士官の道へ進んだあと、生地であるコルシカ島へ赴任されるがここで騒ぎに巻き込まれ、フランスに家族ともども移住する。
当時フランスは、フランス革命以後の大混乱の渦中の真っ只中にあり、フランス周辺国は革命の余波が自国に及ばないよう第1次対仏大同盟を組んでいた。つまり国内では政争、国外では戦争という状態だった。この中でナポレオンはトゥーロンへ派遣され結果を出し、大尉→少佐→少将という破格のスピード出世を果たす。
その後、さらにヴァンデミエールの反乱でも頭角を現し、一躍フランスの表舞台へと名乗り出ることになった。
以後、イタリア戦役、エジプト遠征の戦いの後、第一執政を経て皇帝の座につく。
一概に戦争英雄と見られがちな側面があるが、数多くの内政面での功績も特筆されるだろう。何しろ、現代につながる「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」を盛り込んだナポレオン法典の導入や現代でも続くメーターやグラムなど根拠のある度量法の統一など様々な功績を果たしていることは特筆に値する。
その後、トラファルガー海戦の敗北のためイギリス攻略は頓挫したものの、反転してプロイセン、ロシア、オーストラリアの各軍を破った「アウステルリッツの戦い」で欧州の覇権を握ることに成功した。
…とはいえ、ナポレオンの絶頂期はこのあたりまでで、のちのロシア遠征失敗を契機に破綻が始まり、部下からも裏切りにあうなどして帝位を失い、エルバ島へと流される。
が、決してあきらめなかったナポレオンはエルバ島を脱出。
再度フランス皇帝の座に舞い戻ったものの(百日天下)、当時の勢いはすでになく「ワーテルローの戦い」ですべてを失い、今度はさらに遠いセント・ヘレナ島へ流され、そこで亡くなった。52歳だった。
ナポレオンがもたらした軍事的革新と限界
よく言われることだが、当時フランス軍がどうして精強だったのか。という点についてあげられる国民軍の確立、砲兵・騎兵・歩兵の三兵戦術などは、ナポレオンが編み出したわけではなく、革命後のカルノーらが果たした軍制改革によるところも多い。
ではナポレオンがどうして現代に至るも賞賛されているか、といわれれば、スピードを生かした兵力の移動と集中が見事だったといえるだろう。国民皆兵の士気の高さなどが可能とした昼夜問わず異常なまでの行軍スピードで進軍しつつ、さらに分進合撃、すなわち各師団、軍団をバラバラに進ませ、要所で終結させるという手法は、当時の旧態依然とした歩みの各国軍勢を翻弄した。
1805年においては800kmをわずか5週間で踏破する驚異的な進軍スピードを見せている。毎日徒歩を中心として20~25kmを進軍した計算となり、当時の交通網を考えると驚異的ともいえるだろう。
一人であればさほど難しくないと思われる距離だが、万レベルの人員が動くのである。隊列を維持し、大砲などの重装備を移動させる困難さを考えれば一日20kmオーバーがどれほど驚くべきものか想像がつくだろう。
これらの驚異的な移動速度の速さを確保できたのは当時としては丁寧に構築された兵站システムに負うところが大きいとも言われている。
ナポレオンといわれるとイタリア戦役やロシア戦役などで行った現地調達の話が印象に残り、兵站など軽視していたと見られがちではあるのだが、当時は状況がそれを許さなかったためであったケースであり、通常は国内からの進軍などを行い際には事前の見積もりに基づき兵站拠点を準備するなど当時としては手厚い兵站路を構築していた。
(ただし現在ではこの行軍速度については他国とあまり差がないのではなかったのか。という意見もある)
彼は望むとき、望む場所で相手に戦いを強要した。分進合撃は、敵軍指揮官にしてみれば各個撃破のチャンスであると考えられたが、それ自体がナポレオンの罠だった。分散しているように見える軍勢はナポレオンの緻密な指示のもとで、ある時、ある地点において集合することが可能だった。つまり敵軍は優位と信じて進出し、対峙したときにはフランス軍もまた同程度の軍勢がそこに現れていたという形になる。
また戦場においてもそれは変わらなかった。従来までの戦列歩兵的横列陣形が主体だった会戦に、散兵戦術及び縦列陣形から横列陣形への陣形転換などの新機軸を盛り込んだ。
つまり、戦場を選ぶだけでなく、戦場においてもポイントを選び出し相手に損害を強いることができたのだ。
同数の兵力で対峙しても巧みな欺瞞と迅速な運動で局所的に兵力の優位を作るほか、砲兵を移動させつつ攻撃させ集中砲火を行い、必要であればアウステルリッツでは有利な丘陵を明け渡す、あるいは自陣本陣をオトリにするなど敵軍の移動方向を制限するなどの手腕をみせたこともある。
ただし戦いが進むにつれ、柔軟で複雑な動きを可能とした経験ある将兵たちが失われていき、ナポレオンの戦術は壮麗さを失って愚直なものとなっていったことも忘れてはいけないだろう。
なにより、このナポレオン戦術は各国により分析されることになる。有名なところではプロイセン(当時のドイツ)の高級士官たち、シャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツたちの参謀集団たちはこの戦術を理解し、従来の傭兵主体から国民兵への転換など様々な軋轢の中、プロイセンの軍政、及び国内改革を促すことになる。
オーストリアも同様に、そしてスウェーデンもナポレオンに敵対したフランスの将軍、ベルナドットを王として向かえて研究を重ねていった。こうしてナポレオンの敵対国は彼の戦いを身につけ、対応策を講じていくことになる。
これは皮肉な結果だといえるだろう。
ナポレオン自身が傑物だったために、フランス陸軍(大陸軍)の指揮は極論で言えばナポレオン本人が考え、本人が指示を出すことで勝利することが出来たのである。
当時のフランス軍の師団長、元帥号をもつ各軍団長はそれぞれ特徴をもち有能かつ戦意に溢れた指揮官たちだったが、その能力はどこまでいっても前線指揮官としての能力であり、ナポレオンの意図を高次元で理解し、あるいは独自の判断で戦い、勝利を勝ち取ることの出来る将官は…本当に数が少なく、ダヴー、マッセナなど一握りだけでしかなかったのだ。
勇猛を誇ったフランス大陸軍の元帥たちはナポレオンがいない戦場では総じて並、あるいは並以下の指揮官でしかなかった。それはナポレオンが望んでいたことでもあるのだが。
以上のようにナポレオンという偉大な天才がいたことでフランスは強力だったが、それはフランスの弱みともなったのである。逆にプロイセンの秀才たちが集う参謀本部は、シャルンホルストが志半ばで倒れたあとも、なおその他の将官たちが支えることが出来た。 彼らはたった一人の閃きをもつ天才にすべてを委ねるより、貴族、平民問わずに秀才たちを集め、軍事的知識をつけさせた。
これによって集団指導と、委託命令、つまり作戦目的と目標を明確に指示するのみで実施にあたっては各部隊の指揮官-参謀の独自裁量で行うことを可能にできたのである。
フランス側も参謀制度はあったものの、参謀長役を長年務めたベルティエにしても日本で参謀といわれるとイメージの強い軍師的な、あるいはプロイセンの参謀本部的な役目ではなく、ライン&スタッフのスタッフ側、つまり事務方的任務の立場であり、指揮官の戦術立案の補佐という意味合いからは遠い。
これら指揮体制の極端な一極集中化による弊害は没落のはじめとなったスペイン戦線でより一層はっきりすることなった。ナポレオン一人で戦うには欧州大陸は広く、そして戦いの連続はナポレオン自身を疲弊させた。ナポレオンの一族には彼を補佐できる有能な人材はなく、ありていに言えば個人としては善良であったとしても政治的、軍事的には愚物がおおかったのも彼が常に働かねばならぬ一因でもあったのだ。
またナポレオンの天才はどこまでいっても軍事上の問題であり外交上のものではなかったことも没落の大きな一因だろう。数度にわたる対仏同盟などを打開するのに最終的には軍事力にのみしか頼れなかったところが彼の限界ともいえる。
こうしてナポレオンが過度の緊張化におかれ心身を消耗し、年と共に肉体に問題を抱え、判断にキレが無くなっていたとき、彼を支える人材はいなかった。…逆に裏切る者も現れたのである。
ロシア戦役後に行われた「諸国民の戦い」のあと、フランス国内で内線作戦を行いプロイセン軍を迎撃しようとしたナポレオンだったが、首都であるパリを護っていたマルモンが彼を裏切り降伏してしまう。それはすべてを台無しにする行為だった。
マルモンは長年ナポレオンに付き従っていた部下ではあったが、パリを明け渡すということはナポレオンの戦略を理解していれば決してとるべき対応ではなかったのだ。これは部下に対して駒として動くことを求めたナポレオン自身の失策でもあった。こうしてナポレオンの治世は終わっていったのである。
まさしく一人の天才の可能性と限界を示したといってもいいかもしれない。
ナポレオンと26人の元帥たち
ナポレオンが率いた大陸軍(グラン・ダルメ)の特色はフランス革命のため、軍の指揮官たちが一般の平民上がりなど様々な出自をもった者達が多かったことだろう。無論、生粋の士官教育を受けた貴族たちもいたが、戦場で名を上げ、かつ生き残ることができたのなら出自の怪しい平民でも出世の道はあったのだ。
彼の短い治世の中で、元帥号を受け取ったのは26人。
幾人かはナポレオンと共に戦い、倒れていった。生き残った者の多くが長く激しい戦いに倦んで彼を裏切るか彼の元を去っていった。あるいはナポレオン自らが疎んじたものもいる。
最後、ナポレオンがエルバ島から帰還したのち彼に従った元帥はわずか4名にまで減っていた。
有名な元帥としてはミュラ、ネイ、マッセナ、ダヴーなどがいる。
ナポレオニックとゲーム
ナポレオンが活躍した時代に記述した資料、文献、小説、映画あるいはシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)など極めて多岐にわたっており、ひとつのジャンルとして確立している。そしてこのジャンルや好む人々のことをナポレオニックと呼ぶ。まぁ、色々あるので興味のある人は調べてほしい。
ゲームとしては長きにわって紙ベースのシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)でもナポレオニックは定番ネタとして扱われており、日本における戦国時代を題材にしたゲームのような形でコンピューターゲーム化も数多く行われている。
ただし日本国内ではあまり知名度が高いとは言いがたく、以前光栄から出ていた「ランペルール」などゲーム化されたものは数少ない(光栄SLGのジャンルとしてみても「ランペルール」はバランスが取れた佳品である)。どうしてもナポレオニックな、最近定番のリアルタイムSLGとなると海外作品となってくるのが現状である。
ナポレオン時代を描いた作品
有名どころではトルストイの「戦争と平和」は、ナポレオン戦争時代のロシアを舞台にしている。他にも様々なものがあるが日本で手に入りやすい、あるいは読みすいものといえば、池田理代子の『栄光のナポレオン-エロイカ』、長谷川哲也『ナポレオン -獅子の時代-』(続編のナポレオン覇道進撃も含む)など漫画もある。後者はいささか誇張と脚色に過ぎる面もあるのだが、そこらへんは楽しむところといえるだろう。
映像作品では、無声映画のナポレオンなどもあるが、ここは見事にナポレオン最後の戦いを描いた「ワーテルロー」をお勧めするべきだろう。
関連項目
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3


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リビジョン番号: 1426577
読み:ナポレオン
初版作成日: 11/08/06 23:39 ◆ 最終更新日: 12/01/31 21:33
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