ニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908)とはロシアの国民楽派に属する作曲家である。
概要
軍人の家に生まれ、12歳の時海軍の兵学校に進学した。しかし17歳の時、ミリイ・バラキレフと出会い、ロシア5人組のメンバーと知り合うのである。リムスキー=コルサコフは軍隊の生活はそのまま、バラキレフに作曲を師事し、すでにこの時交響曲第1番を作り始めていた。
18歳から3年間長期航海演習に出かけた後、交響曲を完成。バラキレフが主催していたコンサートで発表し、作曲家としての道が開ける。リムスキー=コルサコフは海軍に属したまま作曲を続けていくが、27歳の時、サンクト・ペテルブルク音楽院の教授に抜擢されるのである。
こうして1873年、ついに彼は海軍を除隊し、海軍の軍楽隊に移る。しかしこの結果作曲に欠けられる時間が激減し、40歳までは作曲家としては停滞していたといってもいい時間を過ごした。一方でこの時期には各地をめぐり、ロシアの民謡を集め、1877年に『100のロシア民謡集』を発表している。さらに、1881年にムソルグスキーが、1887年にボロディンが亡くなると、リムスキー=コルサコフはグラズノフらと協力して、彼らの遺作を補筆していった。
その間彼のインスピレーションも刺激され、43歳から44歳にかけて、『スペイン奇想曲』、『シェエラザード』、『ロシアの復活祭』の3作を立て続けに発表していった。またミトロファン・ベリャーエフとの出会いによって、経済的な支援を受けられるようになり、多くの曲が国内外に発表されていったのである。
やがて世紀末になると、リムスキー=コルサコフは『クリスマス・イヴ』、『サトコ』といったオペラや多くの歌曲集を発表し、依然として国民学派の王道を歩み続けた。しかし「血の日曜日」事件で反体制側についた生徒たちを擁護したリムスキー=コルサコフは、解任。生徒たちの抗議で一度は復職したものの、そのまま64年の生涯を終えることとなった。
こうして亡くなったリムスキー=コルサコフであったが、オーケストレーションに卓越した才能を発揮しただけでなく、それを開設する多くの書籍を書き記し、20世紀の音楽界に大きな影響を与えたのである。アナトーリー・リャードフ、アントン・アレンスキー、イーゴリ・ストラヴィンスキー、セルゲイ・プロコフィエフといった弟子たち、アレンスキーに学んだ孫弟子にあたる、アレクサンドル・スクリャービン、セルゲイ・ラフマニノフ、レインゴリト・グリエールといったロシア音楽界を代表するそうそうたる顔ぶれが彼の影響下にあるのである。もちろんロシア音楽界にとどまらず、イタリアのオットリーノ・レスピーギといった海外にも影響は及んでいる。
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