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ニホンピロムーテー
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ニホンピロムーテーとは、1968年生まれの日本競走馬である。鹿毛

「適性距離マイル」と言われながら1600mのロングスパートで長距離重賞である菊花賞勝利した、福永洋一騎手の「天才」という評価を不動のものにした競走馬

な勝ち
1971年:菊花賞(八大競走)、毎日杯神戸盃京都新聞杯
1972年:中日新聞杯
1973年:サンケイ大阪杯

※当記事では活躍した当時に合わせて旧齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。

概要

ムーティエ、ニホンピロー、ソロナウェーという血統。

ムーティエはフランス産の外種牡馬。現役時代は現在G3のオカール賞を勝っているものの、英ダービーパリ大賞典などクラシック三冠に位置付けられるような大レースでは良い結果を残すことが出来なかったが、日本に来てからは初年度から二冠馬タニノムーティエを輩出し成功した。ニホンピロムーテーは2年産駒である。

ニホンピローは日本ピロブロック株式会社(現FYH株式会社)創業者の小林保氏の持ちで、史上初めて「ニホンピロ」の名を付けられた競走馬。現役時代は中央競馬で42戦走り5勝を挙げた。

ソロナウェーは1960年代を代表するアイルランド生まれの外種牡馬。66年には日本リーディングサイアーになっている。代表産駒ダービーキーストンとしては1つ下に宝塚記念ハマノパレードがいる。

1968年4月6日にかつて小林オーナーが所有したニホンピロエースを生産した河の牧場で誕生。と同じ小林オーナーの所有となった後、冠名の名を合わせて「ニホンピロムーテー」と名付けられた。名のムーティエが「ムーテー」になっているのはそのままだと名が9文字えてしまうためで、元々「ニホンピロー」だった冠名を「ニホンピロ」に省略した上で理やり9文字に抑えた。昔の人だからティーをテーと呼んでいたとかそういうことではない。

3歳になったニホンピロムーテーは後にキタノカチドキリードホーユー、そしてニホンピロウイナーを管理する東の服部正利厩舎に入厩した。

現役時代

1970年11月福永洋一騎手上にデビューしたが、4戦して2着3回3着1回と勝てず、4歳1月未勝利戦で勝ち上がった。勝ち上がり初戦の条件戦賞を4身差で圧勝した後はクラシック三冠に挑戦するためシンザン記念へ向かったが、未勝利時代に2着に敗れたフイドールに再び敗れ、2月末の賞で3勝を挙げた。

その後は福永騎手がエリモガルフに騎乗するため簗田善則騎手に乗り替わり毎日杯へ出走。9頭立て6番人気と低人気だったが、それを跳ね返し重賞初制覇。クラシックの有になった。その勢いのままの二冠に乗り込んだニホンピロムーテーと簗田騎手であったが、71年のの二冠は最後方から最終直線で全ごぼう抜きのサラ系追い込み電撃の差し脚」ヒカルイマイの独壇場と化し、ニホンピロムーテーは皐月賞を5番人気で10着。日本ダービー距離不安があると見られて14番人気になった上8着と良いところく敗れてしまった。

ダービーから1か後、の休養を前に北海道に渡っていたニホンピロムーテーは再び上に福永騎手を迎えて1700mのオープン戦へ出走。ダービーとは打って変わって1番人気に支持されそれに応えて勝利。2戦ステークス南関東から移籍してきたアポスピードに敗れこそしたものの2着とし、休養に入った。

の休養を終えたニホンピロムーテーは距離が長すぎるという懸念を抱えながらも菊花賞10月の前神戸盃から復帰。4先頭からの押し切りで1番人気スインホウシュウを下して勝利すると、2戦京都新聞杯では二冠馬ヒカルイマイダービー以来の再戦。しかしとは違って中団から群を快にぶち抜き差し切り勝ち。ヒカルイマイは9着に敗れている。ニホンピロムーテーはムーティエ譲りの気性の荒さを持っていたが、福永騎手はそんなニホンピロムーテーを多くの騎乗経験から巧みに操り、自在な脚質をレースに出せるまでになっていた。

迎えた菊花賞。ニホンピロムーテーは前戦2連勝の実績により、ダービーの14番人気から一転、19頭立て単勝5.3倍の1番人気に支持された。しかし依然としてニホンピロムーテーには3000mの菊花賞は長すぎるのではないかと言われており、何より戦の福永騎手もそう考えていた。その中でも福永騎手はニホンピロムーテーを勝たせるべく「歩く競馬四季報」と呼ばれた程の情報収集で他の出走情報を集め、その中から7番人気に支持されていたハーバーローヤルをマークする標的に選んだ。

レースではニホンピロムーテーは11番から完璧スタートを決めると、そこから抑えてハーバーローヤルを好位で追走できる位置まで下げ、1週の3コーナーを回った。そこからニホンピロムーテーと福永騎手は2週の2コーナーを回る所でハーバーローヤルに勝負に出ようとするフェイントをかけた。ハーバーローヤルはこれを察知してレースが終盤に差し掛かったと勘違い。ハーバーローヤルは持ち前の勝負根性でスパートを掛け抜かせまいとするものの、これは長距離重賞菊花賞上の藤本騎手は掛かってしまって先頭に立ったハーバーローヤルを抑えようと必死になって立ち上がって手綱を引き喧嘩を始めてしまった。これを見てニホンピロムーテーはすかさずハーバーローヤルを抜き去りハナに立った。実況していた杉本アナウンサーはこの1番人気暴走に内心「何すんねん!コイツ!」と思いながら「これは引っかかったのか、それとも福永洋一騎手作戦か!」と実況した。後続の騎手達もさすがにすぎると考えていたようだが、たちはハーバーローヤルとニホンピロムーテーに知らず知らずのうちにられてしまい、そのまま京都競馬場の第三コーナーの坂へ突入していった。

京都競馬場の坂と言えば、当時は「ゆっくり上ってゆっくり下る」のが常識。その常識に当てはまらないレースをする競走馬もいるにはいるが、そんな常識破りの競走馬はこの年の菊花賞にはいなかった。ニホンピロムーテーと福永騎手は先頭に立った後ブレーキをかけ、坂をゆっくり上っていたのである。それに気づかない後続は全く意識しないままの坂で仕掛けさせられてしまい、たちまち足を使わせられてしまった。4コーナーにかけてニホンピロムーテーはどんどん後続に差を詰められ、杉本アナウンサーも「後続が差を詰めた!」と繰り返し実況したが、ここまで抑えて脚を残していたニホンピロムーテーは先頭を譲らず走り続け、スインホウシュウを4分の3身振り切って逃げ切り勝利。ニホンピロムーテー、所属する服部厩舎、そして福永騎手は念願の八大競走勝利レース福永騎手は騎乗の内容について質問され「ニホンピロムーテーは1600mならにも負けない。だから残り1600mで仕掛けた。」と述べ、「マイラーに菊花賞を勝たせた騎手」として、福永騎手は以前より言われていた「天才」との評価を確固たるものにした。

菊花賞後疲れを癒す為有馬記念は回避。5歳になったニホンピロムーテーは年始の金杯(西)から始動したが、1番人気を裏切り1着からかなりの差を付けられ10着に敗れてしまった。2戦スワンステークスでも8着と冴えなかったが、この2戦は不良馬場と重馬場で、3戦にして遂に良馬場となった中日新聞杯では勝利菊花賞以来となる勝利重賞5勝とした。営は3月いっぱいを休養に充て標の天皇賞(春)の前戦として鳴尾記念に出走。しかし17頭立て16着のブービーに敗れ、しかもレース後に脚部不安が発覚。天皇賞(春)を回避して長い休養に入ることになった。ニホンピロムーテーは12月にどうにか復帰したものの、2戦してどちらも下位に沈み、結局この年は中日新聞杯の1勝のみであった。

6歳時の1973年も脚部不安とどうにか付き合いながら現役を続行。初戦のオープン戦では戦の福永騎手がフアストバンブーに騎乗するため、安田騎手を助っ人に招いた。そのオープン戦では福永騎手のフアストバンブーに次ぐ2着につけ復調をわせた。重賞挑戦となる京都記念()では福永騎手が今度は自厩舎の期待ユーモンドに騎乗するため今度は武邦彦騎手に乗り替わり、結果は再びハマノパレードに次ぐ2着。次走の大阪杯では遂に金杯以来の1番人気に返り咲き、前走で敗れたハマノパレードに1身半差を付け復活勝利。しかしこの後は再び脚部不安に悩まされ、9月サファイヤステークス15着を最後に引退となった。通算成績28戦10勝。うち重賞6勝。

引退後

引退後は種牡馬となったものの、重賞を勝つような産駒は現れず、1984年種牡馬のまま死去した。17歳

現役当時福永騎手は既にリーディンジョッキーの地位に就き、日本有数の騎手であることは疑いないものであった。しかしその福永騎手八大競走は未だ未勝利のままで、勝ちにこだわるあまりラフな騎乗が多く、騎手仲間からの評判は悪かった。しかしこ菊花賞の劇的な勝利により得た大きな自信によって落ち着いた騎乗が出来るようになり、今現在彼を知る人々が口をそろえて「天才」と評する実完成したと言える。ニホンピロムーテーは菊花賞後脚部不安に悩まされ結局古になってから八大競走にも出走出来なかったが、1人の天才の誕生に立ち会い、その騎手が初めて八大競走勝利した時に乗っていたとして、その衝撃的なレースと共に現代でもり継がれている。

血統表

*ムーティ
Moutiers
1958 栗毛
Sicambre
1948 黒鹿毛
Prince Bio Prince Rose
Biologie
Sif Rialto
Athgreany
Ballynash
1946 黒鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Ballywellbroke Ballyferis
The Beggar
ニホンピロ
1961 鹿毛
FNo.16-h
*ソロナウェー
1946 鹿毛
Solferino Fairway
Sol Speranza
Anyway Grand Glacier
The Widow Murphy
ヒスイ
1953 鹿毛
*プリメロ Blandford
Athasi
*レイモンド
月城
競走馬の4代血統表

クロスBallyferis 4×5(9.38%)、PharosFairway 5×4(9.38%)

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