バルテュス(Balthus, 1908年2月29日 - 2001年2月18日)とは、フランスの画家である。バルチュスとも表記される。
概要
本名はバルタザール・ミシェル・クロソウスキー・ド・ローラ (Balthasar Michel Klossowski de Rola)。
東プロイセンのシュラフタ(ポーランドの貴族階級)の父とロシア・ユダヤ人の母の間に生まれる。
兄のピエール・クロソウスキーはマルキ・ド・サドやフリードリヒ・ニーチェの研究者・作家。
裕福な家柄であり、また両親ともに芸術家であった為、充実した少年時代を過ごす。自宅には画家のピエール・ボナール、アンリ・マティスらが夕食に来たり、伝説的バレエダンサーのニジンスキーや作曲家のストラヴィンスキーとも知遇を得ていた。
1914年、第一次世界大戦の影響で、一家はフランスを退去してベルリンに移住。更に4年後に両親が別居すると、子供達は母についてスイスのジュネーヴに疎開した。
1921年、11歳で素描画集『ミツ』を出版した。日本名「ミツ(光)」という名の猫と自身がモデルの少年の交流を題材とした、素朴な作品である。当時母と不倫関係にあった詩人・リルケがこの作品を絶賛し、序文を寄せている。この時のペンネーム「バルテュス」を、彼は生涯自分の名として使い続けた。
この頃から東洋に対する憧れを抱き、中国や日本の文化に強い関心を示していた。岡倉天心の『茶の本』ドイツ語版を読み、感銘を受けたと述懐している。
両親からは画業を反対された為、バルテュスは独学で絵の道を志した。ルーヴル美術館で様々な古典絵画の模写を行い、技術を身に着けた。当初は作品の売り込みや話題集めに苦労したという。
1930年、滞在先のモロッコで2年間軍役を経験。1933年にパリに戻り、本格的に画業に力を入れ始める。当時隆盛を極めつつあったシュルレアリスムのメンバーがアトリエを訪問するようになるが、バルテュス本人は前衛芸術に興味を抱く事はなかった。
1937年にベルンの貴族であるアントワネット・ド・ワットヴィルと最初の結婚をし、二人の子供をもうけるが後に離婚(後述)。しかしアントワネットとは生涯の友人であり続けた。
1940年、ナチス・ドイツのフランス侵攻に伴い、一家はフランス南東の農場に疎開。有名な作品『シャンプロヴァンの風景』『リビングルーム』を製作する。
1941年、パブロ・ピカソが彼の作品『ブランシャール家の子どもたち』を購入。これがきっかけで親交が始まり、3年後にバルテュスはピカソの住まうパリを訪問している。その他にもアントナン・アルトー、ジャコメッティ、アルベール・カミュなど、錚々たる文化人と交友関係を結んだ。
第二次世界大戦では兵士として前線に立ったが負傷により後方に送られ、以後はパリやスイスで暮らした。
1961年には当時フランスの文化大臣を務めた友人のアンドレ・マルローにより、アカデミー・ド・フランス館長に任命された。この時バルテュスはアカデミーの建物「ヴィッラ・メディチ」の修復に没頭し、後に「生涯で最も幸福な時期だった」と述べている。
1962年、バルテュスは東京を訪問。パリでの日本美術展の作品選定が目的だったが、ここで彼は運命的な出会いを果たす。当時20歳の出田節子に一目惚れしたのだ。
当時バルテュスはまだ離婚しておらず、離婚成立後の1967年にようやく二人は結婚。節子夫人はセツコ・クロソフスカ・ド・ローラとなった。歳の差34歳の夫婦の間には、1973年に娘が誕生している。
バルテュスは節子夫人に和服で過ごす事を希望し、彼女もそれを承諾した。彼もまた和装をこよなく愛しており、着物姿の写真が多数残されている。
少年時代同様、自宅には当代の文化人を招き、親しく過ごした。女優のオードリー・ヘプバーン、映画監督のフェデリコ・フェリーニなどが自宅を訪れていたという。
1977年以降はスイスのグラン・シャレに住み、そこを終の住処として製作を続けた。2002年に死去。
その他
作品を制作する時は一切の照明をつけて制作せず、日中の自然光の下で行っていた。
勝新太郎と交流があった事は有名。1964年にバルテュスが来日した際、映画『兵隊やくざ』のポスターを見て、オノレ・バルザックを彷彿とさせる容貌に感銘を覚えた。
仲介者によってグラン・シャレを訪問した勝はバルテュスと意気投合、殺陣や居合、女形、三味線を披露したという。その後も勝が1997年に亡くなるまで親交は続いた。
『Guitar lesson』(1934)など、成熟前、あるいは成熟途上の少女の裸体画をよく描いた。画家が少女の裸体画を描くのは珍しいことではなく、オットー・ディクスの『Little girl』、ジナイーダ・セレブリャコワの『Study of a sleeping girl』などの作品がある。
ともすれば猥褻ではないかと物議を醸す作品が多い。2017年12月には、ニューヨーク・メトロポリタン美術館所蔵の『夢見るテレーズ』が猥褻であるとしてネット上で撤去を呼び掛ける運動が起こり、話題となった。
良く言われるのが「バルテュスの描いた『美』は『完全なる存在』ではなく『過渡期にある存在』である」というもの。この「移行の美」を彼はこよなく愛していた。
技術的には新古典主義とされるが、様々な芸術家から影響を受けており、一概にこれとは言い切れない。様々な影響を独自に昇華させた点において「20世紀で最も重要な画家」として認識されている。
バルテュスの主張は「絵画は見るべきものであって読むべきものではない」というものだった。
これを示す例として、回顧展では自分の伝記を作る事を拒否。展示会場のギャラリーに
伝記の詳細なし。バルテュスは何も知られていない画家だ。さあ、絵を見よう。よろしく
と電報を打っている。
トマス・ハリスの小説『ハンニバル』シリーズのハンニバル・レクターは、バルテュスの従兄弟に当たるという設定が存在する。
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