バレンティーノ・ロッシ単語

41件
ロッシフミガンバッテ
2.4万文字の記事
  • 4
  • 0pt
掲示板へ

ロッシ(GP500ホンダ時代)

バレンティーノ・ロッシexitとは、MotoGP生きる伝説である。

最高峰クラスだけで7回、全クラスでは9回の世界チャンピオンき、優勝回数は100回を優にえる。

1979年2月16日生まれ。

2021年8月5日に、2021年シーズン終了を持って引退することを表明した。

2021年11月14日バレンシアGPを最後にMotoGPライダー引退2022年以降は4輪に転向し、GTワールドチャレンジヨーロッパ選手権にチームWRTから出場している

概要

1996年からGP125、1998年からはGP250、そして2000年からは最高峰クラス(GP500/MotoGP)に参戦。それぞれのクラスで2年チャンピオンを獲得しており、特に最高峰クラスではGP500時代からホンダヤマハで5連覇している(その後、2008年2009年ヤマハで連覇している)。さらに2011年にはドゥカティに移籍したが、2年間勝利を挙げられずに2013年ヤマハへ復帰。オランダGPで2010年マレーシア GP以来の優勝を挙げた。
それから2019年に至るまで、毎年チャンピオンシップの上位を争っているが、戴冠には一歩及ばないというシーズンが続いていた。2020年シーズン以後は勝利から遠ざかってしまっていた。
だが、その人気は未だに凄まじい物が有り、大半のGPではスタンド黄色の46(ロッシのゼッケンナンバー)の旗を持ったり関連グッズを身につけた観客で埋まっていた。
ロッシが居なくなった2022年も相変わらず黄色い46の旗やらTシャツが見られる。

最近はイタリアライダーの後継を育成することにもを入れており、Moto2Moto3クラスに自らがオーナーチームVR46)を作り、若手を参戦させている。また、バレランチと呼ばれる自前のトレーニングオフロードバイクコースを作り、イタリア人に限らず有望な若いライダー練習の機会を与えている。
2018年シーズンイン々に、2020年シーズンまでヤマハで走る契約をしたことが発表された。少なくともそれまでは彼の生ける伝説は続くことになった。2021年シーズンヤマハサテライトのペトロナスSRTチームに移籍、そのまま同シーズンの最終戦、第18戦バレンシアGPをもってMotoGPライダー引退した。

引退レースでは、仲間ライダーたち、レース関係者、そして観客が一体となったお祭りとなり、引退悲壮感を一切感じさせないロッシらしい明るいお別れとなった。ロッシ自身は2022年1月ガル12時レースを皮切りに、4輪レースへの積極的な参加を表明している。まだ彼の生きる伝説ある意味続くのである。

ゼッケン、ヘルメット、レーシングスーツ、名前

ゼッケンは46番を使用している。

1990年から1992年までヴァレンティーノはミニバイクをしていて、そのときに46番を付けていた。
父親グラツィアーノexitから与えられた日本GPのビデオの中に、鈴鹿サーキットをもの凄い速さで走る
ゼッケン46の日本人ライダーがいて、その走りに魅了されて46を選択したのである。この日本人ライダーはいったいだれなのかというと、おそらく1988年日本GP予選の伊藤一ではないか、と言われている。

1993年から1995年まで46番を付けず、他の番号を付けていた。

1996年からMotoGP125ccクラスに参戦することが決まったとき、ヴァレンティーノはどの番号にするか迷っていた。父親グラツィアーノ番号にしようかと調べてみると、なんと1979年にグラツィアーノが46番を付けてMotoGP250ccクラスを走っているではないか。しかもその年に3勝している。おまけ1979年はヴァレンティーノが生まれた年である。これで運命を感じ、ヴァレンティーノは46番を付けることにした。

年間チャンピオンを獲った翌年はゼッケン1を付ける権利を得るのだが、ロッシはその権利を行使せず、46番を使用する。こういうにゼッケンを固定する習は1970年代のバリー・シーンがやっていた程度で、それから20年近くほとんども行っていなかったが、ロッシが久々にやってみせた。現在では前年にチャンピオンを獲ったライダーが1を付けない風景立つようになった。

ヘルメットイタリアのAGVexit、レーシングスーツイタリアのDainese(ダイネーゼ)exit契約している。AGV会社はDaineseで、そしてロッシはDaineseの大になっている。ゆえにこの2社はロッシ御用達である。

ロッシはしょっちゅうスペシャルヘルメットを作ってくる。毎回凝ったデザインファンを楽しませる。このヘルメットデザインを担当するのはアルド・ドゥルディexitというデザイナーである。

ロッシは色の黄色を使うのが昔から好きで、彼を徴する色になっている。

ロッシのファングッズも黄色色ばかりで、それを身につけたファンが集まると黄色の大軍団になる。ロッシのファンたちはイタリア語で「Popolo Giallo(ポポロ・ジャッロ)exit」と呼ばれる。popoloは英語peopleと同じで「人々」、gialloは「黄色」。「黄色い人たち」という意味。


ロッシはRossiと書き、を意味するrossoと同じである。それゆえロッシが企業カラーとするドゥカティに移籍するときは「Rossi in Rossoに入団)」と新聞に書かれていた。

イタリアで最も多い名字は「ロッシ(Rossi)」である。つまり最もありふれた名字である。

日本GPにやってきたロッシに向かって「ロッシ~」とを掛けても無視されたが「ヴァレ~」とを掛けたら振り向いてくれた、ことがあるらしい。

ロッシを始めとするMotoGPライダーの多くが「日本では名前の後にサンを付けると敬称になる」ということを知っているので、「ヴァレさ~ん」「ヴァレンティーノさ~ん」と呼んでも良いかもしれない。

称と言えば「ヴァレ」や後述の「The Doctor」のほかに、「ろっしふみ」と自ら称していたことも。これはノリックこと阿部典史の走りを見て感し、彼へのリスペクトから名乗り始めたもの。ロッシにとってノリックはアイドルと言うべき憧れの存在で、ノリックが2007年10月交通事故で急逝した時には大きなショックを受けている。

ライディングスタイル

ブレーキングが上手い

ブレーキングが非常に上手なライダーである。

マシンをやや傾けてバイクを曲げながらじわっとブレーキレバーを握って減速する、テクニカルブレーキングを得意とする。
ロッシのブレーキングがる場所の1つはセパン・インターナショナルサーキットの9コーナーで、ここで彼は若い頃からパッシングを繰り返してきた。9コーナーの前はわずかに左にカーブしていて、左にマシンが傾いた状態でじわっとマシンを止めてスルスルッとインに入ってくるexit

身長182cmで手足が長く、荷重移動が上手である。電子制御が発達する前の最大排気量クラスハイサイド転倒が多かったが、ロッシはハイサイド転倒が明らかに少なかった。これは荷重移動が上手であるからと説明されていた。この荷重移動の上手さもブレーキングの上手さにつながる。マシンを倒した不安定な状態でしっかりマシンブレーキングできるのはこのためである。

ロッシはブレーキングが得意なので、当然パッシングも上手い。
このため予選では順位を上げることにこだわらずマシンセッティングに集中し、決勝を低い順位からスタートしてズバズバ抜いていく戦術を採ることが可である。
彼ほどのライダーにしてはポールポジション(予選最速で1番手から発走すること)の数が少ないが、これはパッシングの上手さに自信があることの現れと言える。

アクセルワークはどうかというと、ケーシー・ストーナーのようなレベルではない。
ケーシーは電子制御をできるだけ効化させて、アクセルをバンバン開けるライディングを好んだが、ロッシはそこまでアクセルワーク化け物レベルというわけではない。ロッシはわりと電子制御をキチッと効かせてエンジンを抑えるタイプである。

総じて見ると、ケーシー・ストーナーとは対照的なライディンスタイルと言える。
ロッシはブレーキングが上手くてパッシングが上手く、追い上げ上手。
ケーシーアクセルワークが上手くてブレーキングは普通で、先行逃げ切りタイプ

足を出す

2009年頃からロッシはコーナー進入時にイン側の足をぶらぶらさせるようになった。

ロッシがやっているのを見て数多くのライダー真似するようになった。
この動画exitを見ても、ロッシを始めとして多くのライダーが足出しをしてコーナーに飛び込んでいる。

これについて問われたロッシは「足を出すとなんとなく荷重がうまくかかる気がするからやっているんだ。データを見てみると、足出ししない走りの時のデータと足出しするときのデータは全く同じ」と答えていて、単に気分でやっているだけと答えている。

一応元GPライダーらが色々試した結果「ブレーキング時にバイクが振られた時、両ステップを踏んでいると体も振られるので安定しない、片足を外すことで緩和している」と「ステップから足を外すとリア荷重が減るので、ちょっとだけドリフト状態に持ち込みやすい」という2つの仮説が発生しているが相は不明。

セッティングを出すのが上手い

マシンセッティングを出すのが上手い。僅かなマシンの差を敏感に感じ取り、それをメカニックに上手に伝えることができる。

ロッシのライダースーツには「the doctor(お医者さん)exit」と書かれている。
実際ロッシはお医者さんのように知的なライダーで、ロッシがメカニックに考えを伝える姿を初めて見たフィリッポ・プレツィオージexitドゥカティワークス天才技術者)は「ロッシの話しぶりはまるで大学教授の講義のようでした」とっている。

MotoGP・土・日の3日間で行われるのだが、ロッシは・土の2日間で苦戦するも日曜日にはセッティングを上手く出してきて一気に戦闘力を向上させる、そういう姿をしばしば見せる。

反面、セッティングがでないと苦しむ傾向が見られる。「セッティングが出ていないマシンだと攻められない」とロッシが認めていたこともある。


この点でもケーシー・ストーナーとは対照的で、ケーシーセッティングが出ていないマシンでも気で乗りこなして攻めまくるライダーだった。セッティングが異なるマシンで全く同じタイムを出し、レプソルホンダ中本修平HRC社長を驚嘆させていた。

ケーシーは「マシンセッティングを出すことに熱中することは時間の無駄ですよ」と言って、走るのをさっさとやめてしまうことも多かった。セッティングを出すのに中になるロッシとは対照的である。

観察力が高い

ロッシは観察が高い頭ライダーで、いろんなところをよく見ている。

1996~1997年125cc時代、日本人ライダーを尊敬ししくしているロッシはちょくちょく「あのコーナーは何速のギアで回るの?」と日本人ライダーに質問していた。
坂田和人さんや青木さんもそういう質問を受けたが、たまにのことを答えることがあった。
2速で回っていたコーナーなのに「3速で回った」とをつく。
そうすると、ロッシは「いやそれは違うんじゃない?2速でしょ」と摘してきたという。
ロッシは坂田和人さんや青木さんの後ろに付けて、左足の小さな動きを見て、シフトチェンジの回数を見抜いていた。

ロッシは自著でもこんなことをっている。「鈴鹿サーキットを速く走るためにはあらゆるコーナーの特徴を頭に叩きこまなければならない。小さな凹凸をすべて把握し、路面のシミまでしっかり記憶する、そうしてからハイスピードで走ることが必要だ」と、受験生みたいなことを言っている。

1992年、13歳のにロッシは二輪のレースに進むことを選んだ。このときまでは学校の成績も悪くなかったと答えており、「あのときバイクレースを選んでなければどうなってただろう」とっている。

得意なサーキット、不得意なサーキット

流れるように中高速コーナーが続くサーキットの成績が非常に良い。

TTサーキット・アッセンで10勝、カタルーニャサーキットで10勝。
ムジェロサーキットで7連覇を含む9勝、ヘレスサーキットで9勝。
フィリップアイランドサーキットで5連覇を含む8勝。
ドニトンパークで4連覇を含む7勝、セパン・インターナショナルサーキットで7勝、ブルノサーキットで7勝。

2018年オーストリアGPのレース記者会見で「あなたが考える理想のサーキットは?」と問われ、ロッシはこんなイラストを描いているexit。中高速コーナーが流れるように続くサーキットが好みと分かる。

ツインリンクもてぎは「あまり好きじゃないexit」とっている。通算2勝。

本人がはっきり苦手と言っているのがバレンシアサーキットである。ここは低速コーナーが続き、中高速コーナーがあまり多くない。通算2勝。

30代の後半になるとやはり体力が落ちてきて、体力められるサーキットで成績が伸びていない。その典セパン・インターナショナルサーキットで、31歳の2010年勝利が最後である。このサーキットは暑く、体力消耗が半端ではない。

人柄

技術者たちに礼儀正しく、親切である

ヤマハワークス古沢政生さんexitブリヂストン山田宏さんexitは口をえて「ロッシは礼儀正しい好青年」と褒めていた。

2000年から現在に至るまでロッシのメカニックを務めるアレックス・ブリッグスexitは、「ロッシは自分の家族のことを常に気に掛けてくれる」とっている。

ファンに愛想を欠かさない

ロッシはプロ選手らしくファンに対する想は欠かさない。
ムジェロサーキットミサノサーキットで行われるレースで、彼は表台に上がれなかった場合も表式の後に表台付近に現れ、詰めかけたファンたちに感謝の言葉を述べる。4位以下に終わって悔しさいっぱいの気持ちなのにそれをこらえてちゃんと挨拶する。

ロッシがイタリアレースでの表式後の挨拶を欠席したのは2016年ジェロのときぐらいである。このときはこんな具合exitエンジン煙を上げて壊れ、ロッシは失望のあまり表に出られなかった。

メディアの取材に応じる

ロッシはメディアの取材にもちゃんと応じる。ロッシが「もうこの辺でいいでしょ」といった具合に自分からテレビ局インタビューを打ち切るのは滅多に見られないという。それが発生したのは2013年ジェロアルヴァロ・バウティスタ追突事件exitのときで、それ以外はちゃんとインタビュアーのめに応じるのが常であるとのこと。

ものを大事にする

MotoGPライダーの中には、ものに怒りをぶつけるライダーがある。
看板パンチグローブブン投げ、マシンパンチピットに戻って備品キック・・・といった具合である。

MotoGP観戦者の多くはMotoGPという競技の恐ろしさ・過酷さをよく知っているので、ライダーがそういう挙に出てもある程度は許容する。時速340kmをえるような恐るべき環境に身を投じているのだから、ある程度は致し方ないのである。

ところがロッシは全くものに当たらない希有な存在である。彼がものに怒りをぶつけているシーンは、相当なGPファンでも思い出せないだろう。

2010年終戦ではヤマハマシンを「彼女」とよびキスをしていたが、とにかくマシンやものを大事に扱う傾向がある。

後輩に優しい

近年のロッシはタヴーリアにあるランチranch 農場・牧場という意味)というコース後輩を集め、一緒にモトクロストレーニングするのが習慣となっている。毎週金曜日レースをする。

このときのロッシは後輩ライダーに対して実にフレンドリーな態度で接している。
日本体育会系の一部では「年長者貴族、年少者は民」という上下関係の構築に忙しいが、ロッシは決してそういうことをしない。

一緒にトレーニングする後輩ライダー優勝するとヤマハワークスピットから小走りで駆けつけ、パルクフェルメで祝福する。

ライバルに厳しい

ここまで書くと、ロッシが聖人君子に思えてくる。

ところがやはり、どうしても、しく危険なスポーツをすることで胸の中に憤懣と怒りが渦巻いており、それが「ライバルへの厳しさ」となって現れるのである。やはりすべてにおいて完璧人間はいない。

ロッシはライバルに厳しい。2010年には「ライバルを憎悪することは普通のこと」とっている。

青山博一は、「2010年はロッシが首位争い常連、自分が10位争い常連でロッシと住む世界が違っていた。そのせいか2010年まではロッシは自分に話しかけてきてくれた。ところが2011年にはロッシと自分が同じ位置を走るようになりロッシは全く話しかけてくれなくなった」とっていて、自分のライバルに厳しいロッシの姿が浮かび上がってくる。

自分を脅かすチームメイトにはさらに厳しく、ホルヘ・ロレンソには最大級の警をしていた。
2008年はロッシがブリヂストン、ロレンソがミシュランなので機密保持を理由にピットの壁を作った。
2009年はロッシ・ロレンソともにブリヂストン使用となったのにピットの壁が維持された。
2010年はロッシ側から情報交換を拒否して、互いの走行データを参照できなくした。

精神攻撃

ロッシはメディアを通じた精神攻撃をするのが得意である。
メディアを通じて一方的に皮と非難をする。開の場で言い合いをすることはしない。相手に反論させる機会を与えないのがロッシ流である。

この精神攻撃の犠牲となったのはマックス・ビアッジ、セテ・ジベルノーケーシー・ストーナーだった。この3人はロッシ被害者の会を結成してもおかしくないだろう。

ケーシー・ストーナーへの精神攻撃2007年から2010年まで続き、おかげでケーシーヨーロッパのすべてのブーイングを浴びることになった。ケーシーは「ブーイングを浴びなかったのは日本オーストラリアだけだ」と日本イベントっている。

2011年2012年ドゥカティワークス悪夢の2年間を送ったことを機に、ロッシは精神攻撃をやめた。

そのあと数年はなりを潜めていたが、2015年10月22日(木)にマルク・マルケスに向け、記者会見の場でをごくごく飲みながら(ロッシは緊するとを飲みまくるがある)久々精神攻撃を披露。現在マルクに向けしい精神攻撃を繰り広げている。


ちなみにロッシのケーシーへの皮の代表例は「ケーシーは迷いがあって攻め切れていない」「ケーシーは電子制御に頼っている、電子制御時代の申し子だ」というものだった。
この2つとも間違いで、実際にはケーシーは何一つ迷わず序盤から攻めまくるタイプで、それゆえレース序盤の転倒が多いタイプだった。またケーシーは電子制御を嫌っていて、電子制御をできる限り少なくしようとしているとレプソルホンダ中本修平HRC社長っている。ライバルに関するロッシの言葉はあまり当てにならないということは周知の事実となってしまった。

ロッシの英語

ロッシはイタリア訛り全開の英語を駆使してインタビューに答えるが、いくつかの言葉を良く使い回す。

good race 良いレース

unfortunately 不運にも

important 重要な 「インポルタント」と発音する

think 考える 「ティンクと発音する

thank for my team チーム感謝タンクス フォル マイ ティーム」と発音する

Jorge ホルヘ・ロレンソのこと。「ヨルゲ」とイタリア語読みに発音する。

読みで好き勝手に読む習はイタリア人に限らずヨーロッパ全員に言えることである。
ドルナ実況者ニックハリスはイアンノーネを「イアンノーニ」と発音するし、
二がリーガ・エスパニョーラで「Jo」という名前で登録したら「ホー」と呼ばれて困っていた。

また、イタリア人はハ行の発音が非常に苦手なので、「ホルヘ」と読むのが苦痛なのである。
ヤマハ「ヤマー」exitホンダ「オンダ」exitと読むのがイタリア流である。

ロッシもハ行が苦手なので、「ヨルゲ」と呼んでいるexit

英語圏の人やスペイン語圏の人が「ホルヘ」とちゃんと発音しているのを見て「ホルヘの中のホぐらいはちゃんと発音してみようか」と思うこともあるらしく、「ホルゲ」と呼ぶこともあるexit

ロッシゆかりの土地

ウルビーノ生まれ

ヴァレンティーノ・ロッシは1979年2月16日イタリア・マルケ州ウルビーノexitで生まれた。
ウルビーノにいたのは生まれてから数年のみで、そのあと一家ってマルケ州タヴーリアexitに引っ越した。

ウルビーノは人口1万5千人ながら世界遺産が多く、ルネサンス期の画ラファエロの出身地でもあり、美術館となっている宮殿もあり、荘厳な礼拝堂もある観光都市だが、ロッシ自身はあまり寄りつかない。ロッシの自伝にもあまり「ウルビーノに行って遊んだ」という記述は現れない。

ウルビーノはペーザロ・エ・ウルビーノ県exitの県都の1つである。ペーザロ・エ・ウルビーノ県の中にはロッシゆかりの土地が数多く含まれる。

タヴーリアに住み、ペーザロで遊ぶ

マルケ州タヴーリアexitこそがロッシの地元であり、ここの友人たちと遊びながら育っていった。
タヴーリアは人口8000人ほどの小さな内陸のである。大きな店はそんなに多くない。このため何か買い物をするときはマルケ州ペーザロexitへ行くのが常であった。ペーザロは人口9万5千人のなかなか大きい都市で、スーパーレストランもある。

このためペーザロはヴァレンティーノにとってもう1つの地元である。「ペーザロ市民のヴァレンティーノ・ロッシ」と紹介されることも多い。

ヴァレンティーノがステフニアさんに連れられカメぬいぐるみを買ってもらったのは、ペーザロのスーパーマーケットだった。

ペーザロには坂田和人さんのチーム上田昇さんのチームの拠点があった。ヴァレンティーノは彼がMotoGPデビューする1996年以前から坂田さんや上田さんとしくしていた。

MotoGPスーパースターになりお金持ちになったヴァレンティーノは、現在、ペーザロの港にクルーザーを所有していて、たまにクルーザーに乗ってで遊ぶ。そのときは彼女を連れていて、イタリア芸能雑誌にパパラッチされてしまうのがお決まりのパターンとなっている。

ミサノサーキット

ヴァレンティーノのグラツィアーノは、ヴァレンティーノ3歳の頃イモラサーキットexit事故を起こし、九死に一生を得ている。(このことの詳細はクリニカ・モビレの記事を参照のこと)

このためグラツィアーノステフニアはヴァレンティーノにカート(小さな四輪マシン)のレースやらせようとしていた。そのためヴァレンティーノは13歳になる1992年までカートレースをしていて、その合間にミニバイクで2輪の腕を磨いていた。

1992年にヴァレンティーノは2輪のに進むことを決意し、両にそれを伝えている。両はともにあまり喜んだ様子ではなかったという。

このとき彼は、友達からアプリリア125ccマシンを借り、ミサノサーキットexitで初走行している。ギアの付いた2輪マシンに乗るのはこれが初めてだった。本格的なサーキット走行もこれが初めてだった。

パノラミカ

1993年2月16日にヴァレンティーノ・ロッシは14歳になり、合法的にスクーターを乗ることができる年齢になった。

「怪をしてはいけないからバイク乗りをしない」と彼が考えるはずがなかった。

タヴーリア仲間たちとともにスクーターを乗り回し、サーキット代わりにして飛ばすのである。このとき、彼らなりにルールを設けていて「直線はゆっくり走る」「決して反対線にはみ出ない」ということを厳守していた。また、人気のないを選んでいたため、他の人に迷惑を掛けることは少なかったようである。とはいえ、警察が見逃すはずもなく、しょっちゅう捕まってたっぷり説教されてスクーター収され、トボトボと路につくことも多かった。

収されたスクーター警察から返却されると懲りずにに繰り出してまた走り回る。そして警察に捕まって「またお前らか!」と叱られまくる、18歳頃までずっとこの繰り返しだった。

ヴァレンティーノが19歳になる1998年MotoGP250ccクラスに移った最初の年であり、この年から彼はMotoGP一筋に打ち込むことにして、でのスクーター乗り回しから卒業していった。

ヴァレンティーノたちが好みにしていたパノラミカという海岸沿いので、ガビッチェ・モンテexitとペーザロを結ぶだった。Google地図でSP44と表示されている曲がりくねったで、拡大するとパノラミカ・アドリアーティカ通り(str. Panoramica Adriatica)exitと表示される。「パノラマ(観)が良いアドリア海沿いの」といった意味。

ヴァレンティーノのグラツィアーノの時代からこの絶景として知られていたらしく、グラツィアーノとその友人アルド・ドルディexitMotoGP御用達デザイナー)もよくツーリングしていた。

パノラミカでの走行中に転んで怪をして出血すると、海岸に降りていって消毒する。「昔からの言い伝えだが、不思議とこの方法が効果的だった」とヴァレンティーノはっている。

2004年頃の自伝で「最近のパノラミカ自動車が多くなってしまい、以前のように走ることができなくなってしまった」とっている。

パノラミカの走行動画は検索すると出てくるexit曲がりくねった山道exitで、途中で綺麗な海が出現するexit

ピスチーノ

タヴーリアのすぐそばに、エミリア・ロマーニャ州カットーリカexitというがある。
その南隣にサン・ジョヴァンニ・イン・マリニャーノexitというがある。
航空写真で見てみると、無骨な灰色の建物が集まる場所exitがあり、ここが工業団地なのである。

こうした工業団地になると人に近くなる。
そこでヴァレンティーノたちは勝手に侵入し、道路コースにしたサーキットをこしらえて、スクーターレースをしていた。人の倉庫をパドックにして、すぐ近くのミサノサーキットexitからいろんな手法を駆使して集めてきた垂れ幕(タイヤメーカーのものや、タバコ企業のものなど)を掛け、本物のサーキットみたいな様子になる。近くのから女の子が見物に来たりして、ヴァレンティーノたちはやる気満々になり(パノラミカでは女の子援など来ない)レースにさらに熱中した。

1995年骨折して、当時参戦していたヨーロッパ選手権のレースへの参戦が危ぶまれたロッシ。
担当してくれた外科医には「は治りかけていて、順調だ。ただ筋は落ちているだろう。どこかでレースマシンを走らせて、筋を確認するといい」と言われた。
このとき、免許がなかったのでレースマシンを走らせるわけにはいかなかった。
サーキットを借りることもできない。
さてどうしようか、と考えたときに思いついたのはピスチーノで、ここでレースマシンを走らせ、筋を確認したこともある。

こういう馬鹿騒ぎをしていて警察が気付かないわけがない。
なんども警察の手入れを喰らって色んなものを収され、ピスチーノは閉鎖ということになった。

モンテッキオ

そんなヴァレンティーノだが、一応学校へ通っていた。
小学校は自宅のあるタヴーリアのヴィットリア・ジウンタという学校
中学校父親グラツィアーノから「MotoGPに参戦するときに必要だから英語を教えるところに行け」と言われ、タヴーリアから南に3km離れた隣町モンテッキオexitにあるピアン・デル・ブルスコーニという学校に行くことになった。

高校はペーザロの学校。このころ父親グラツィアーノ母親ステフニア離婚間近になっていてヴァレンティーノは母親ステフニアとともにモンテッキオに住むことになる。モンテッキオとペーザロをスクーターで往復していた。

モンテッキオやペーザロのあたりは、になるとが降って寒い。
一番寒い均最高気温7度・最低気温0度となり、日本関東地方並みの寒さになる。
しかもがしっかり降る。近くのミサノサーキット化粧する。
スクーターのモンテッキオを走るのは苦痛であった。
しかしヴァレンティーノはがあまりいほうではなく、できるだけ遅くを出たいと考えるタイプで、を出なければならないバス通学は嫌がっていて、でもスクーターなどで通学していた。

1996年MotoGP125ccクラスに初参戦する17歳のとき、学校への欠席が増えてしまい、しかたなく退学することになった。

ミラノ~ロンドン、イビサ島

1997年頃あるいは1998年頃から1999年頃はイタリア北部の大都市ミラノexitに住んでいた。
ヴァレンティーノはミラノを本拠地とする名門サッカークラブインテル・ミラノが大好きで、ずっとそこに住みたいと思っていた。

ところが、そのころになると彼の人気民的なものになってしまい、落ち着いて生活ができなくなった。しかたないので、2000年4月からはイタリアを脱出してイギリスロンドンに住むことにした。ロンドンでは周囲の人たちが適度に関心でいてくれるので落ち着くことができた。

2003年2月には、地中海に浮かぶスペイン領のイビサ島exitに別荘を購入した。
それからはロンドンの自宅とイビサの別荘を往復する生活だったという。
2003年夏休みにはセテ・ジベルナウをイビサの別荘で行うパーティーに招待している。

ちなみに、イビサ休暇を過ごすMotoGPライダーは多い。検索すると記事が出てくるexit

タヴーリアに戻る

2007年8月頃、イタリアの財務警察がヴァレンティーノ・ロッシを脱税容疑で告訴した。
ロンドン居住と申告しているが実際はイタリアでの居住が長いので、イタリア所得税を納めなさい・・・これが財務警察であった。
当初、ロッシに突きつけられた請額は1億1200万ユーロ。1ユーロ100円と考えると112億円。
ロッシは会計士を雇って抗戦の構えを見せたが結局諦め、3500万ユーロ支払いで合意した。

これに懲りたヴァレンティーノはタヴーリアに戻ることを決意した。

イタリアという日本と全く違うであり、脱税に対する意識も正反対である。
日本においては脱税は重大なルール違反であり、名誉を大きく損なうスキャンダルとなる。
ところがイタリアというは何ともメチャクチャなことに「脱税は一種のゲーム」という潮があり、脱税で問題になった人への視線があまり厳しくない。ロッシはイタリア民に温かく迎えられた。

タヴーリアに戻ってからVR46という企業を設立し、地元自治体の税収アップに貢献。
また、タヴーリアの外れのこの場所exitオフロードバイクで走行できる施設サーキットを建設し、ランチranch 英語で農場・牧場の意味)と名付け、若手ライダーを多く集めて一緒にトレーニングをするようになった。

「タヴーリアに戻ったことが自分にとっては良かった」とるようになっている。

アペカー

モンテッキオからペーザロの高校スクーターで通うヴァレンティーノは、凍える寒さのでもスクーター通学していた。

寒さと闘うヴァレンティーノの姿を見て、グラツィアーノステフニアは心配に思った。
そしてグラツィアーノはついに「寒いだろう・・・アペカーを買ってあげるから、それに乗りなさい」と言いだした。

アペカーapecar)とはイタリアで見られる50cc原動機付き三輪のことである。
アペ(ape)とはミツバチという意味で、ピアッジオ社が生産している。
外見はこんな感じexit英語版Wikipediaexitもある。
見てわかるように、年金暮らしの老人や農夫が乗るようなクルマで、オシャレに気を遣う少年が乗るようなものではない。ヴァレンティーノは当然のように「えぇ?アペカー?勘弁してよ・・・」と言ったが、グラツィアーノはすぐにアペカーを買ってきて、「さあ乗りなさい」と言ってきた。

渋々ながら乗ってみたヴァレンティーノは、寒さをしのげることに気付くのだった。

タヴーリア仲間たちにアペカーを見せたとき、みんな一様にショックを受けていたという。
「うわ・・・だっさい」というのが顔に表れている。グラツィアーノが買ってきたのは1979年製で、14~5年ほど経っている中古であった。そんな彼らにヴァレンティーノは

「なあみんな。寒いんだろ?」と言ったという。

その一言に動かされたのか、タヴーリア仲間たちの間でアペカーを買うことが大流行した。

そして、やはりというか、案の定というか、スクーターの時と同じようにアペカー改造して、アペカーをぶつけ合ってで競走する遊びをするようになったのである。
スクーターと違って体が防護されているので思い切ってガチガチンとぶつけ合う。
当然、警察に見つかってはアペカー収され、アペカーが返却されるとまたで競走、その繰り返しとなった。排気量50cc140cc程度にアップさせて時速80kmで飛ばすので、警察官に思いっきり叱られ、罰とアペカー収となる。

収されたアペカーが戻ってきたその日のうちに再びアペカー収されたこともある。
そのときはヴァレンティーノもグラツィアーノを蹴飛ばされたという。

こちらの動画exitは当時のヴァレンティーノがアペカーを走らせている重な記録映像である。

タヴーリアのヴァレンティーノ邸の門にはアペカーが突き刺さっている。
Googleストリートビューでも確認できるexit

儀式

ヴァレンティーノ・ロッシは迷信深いのか、いくつかの行為をレース前に必ず行う。

Moto3クラスのスタートを観戦

MotoGPはほとんどの場合Moto3クラスMoto2クラスMotoGPクラス(最大排気量クラス)の順でレースが行われる。ロッシは必ずMoto3クラスの決勝がスタートするときにピットウォールまで行き、Moto3の若手ライダースタートする様子を観戦する。

この理由は、スタートシグナルの点滅の様子を確認しているのだろう、と言われている。
サーキットごとに機械が異なるので、スタートシグナルの点滅(に「レッドが1~5個まで順に点ブラックアウト」と「レッドがいきなり全部点ブラックアウト」)のパターンも異なる。
ロッシはその違いを観察しにやってきているのではないか、と推測されている。

右ステップバーを両手で掴む

ピットからコースへ出る前、つまりマシンにまたがる前に、ロッシは必ずマシンの右側にうずくまり、両手で右ステップバーを掴む。動画1exit動画2exit

ステップバーで踏ん張って立ち上がり、下半身をいじる

ピットからコースへ出る前、ピットロードを時速60kmで走っているときにロッシは必ず下半身をいじる。ステップバーで踏んって立ち上がり、上半身をひねり、下半身をいじる。動画1exit動画2exit

この下半身いじりをイタリアコメディアン真似されることがある。

自分でマシンにステッカーを貼る

ロッシは自分のマシンカラーや見栄えを非常にこだわる性格である。
このためマシンに貼られるステッカーも厳重に吟味し、自ら貼り付ける。ステッカーのズレがあると気になってしょうがないのだという。

このステッカーを貼る儀式に行われる。
MotoGPパドックでは夕方まで作業が行われ、スタッフはホスピタリティでお食事をしてからサーキット近くのホテルへ帰っていく。スタッフが帰った後に、ロッシは自分のモーターホームから出て、パドックし、ガラガラッとシャッターを開けてピットに侵入して自分のバイクと1人向き合い、ペタペタステッカーを貼る。このステッカー貼りは最もお気に入りの儀式だという。

ステッカーを貼ることを楽しみにするライダーは他にもいる。坂田和人さんもその1人exit

犬と猫と亀

ロッシゆかり動物というと犬と猫である。

犬(ブルドッグ)

1990年頃までロッシを飼っていたが、それから10年、ロッシはを飼っていなかった。

2000年4月イギリスロンドンへ引っ越したとき、ロッシはを飼いたくなり、1匹の雄犬を買った。イギリスだからか、イングリッシュブルドッグという種だった。名前グイド(Guido)で、グイドのステッカーマシンお尻に近い場所に貼り付けることがロッシの儀式の1つとなった。

ところがグイドは心臓に持病があり、長生きできなかった。2008年10月17~19日のマレーシアGP前に死去してしまう。ロッシは「グイドがなくなる時に自宅に居合わせたことは幸運だった」とっている。

悲しみのどん底の中、マレーシアGPを走ったロッシ。

イタリアに帰すると、大急ぎでに帰り、に乗って一直線にペットショップへ行き、イングリッシュブルドッグを探すと可愛い雄犬に入った。速攻で店に「これください」と言うのだった。

すると店は「この雄犬にはがいるんですよ」と言うではないか。可愛い兄妹を引き裂くことなどロッシにできることではなかった。「ちくしょう、そんじゃ2匹とも買っちまえ!」となり、2匹ともタヴーリアのロッシ邸に迎えられることになった。雄犬チェーザレ(Cesare)の雌セシリアCeciliaと名付けられた。

※この項の資料はこちら。この文章が書かれたのは2009年頃のようである。

2008年のロッシのマシンのシートにはグイドのステッカーが貼られているexit
2009年以降のロッシのマシンのシートにはチェーザレとセシリアのステッカーが貼られているexit



Guido valentino rossi」と画像検索するとexit、グイドの写真がいくつか出てくる。画像1exit画像2exit画像3exit  写真を見るとわかるように、体の大部分が真っ白で、右や右のあたりだけ色くなっている。

グイドのステッカーの画像はこちらexit。本物と同じように、右や右のあたりが色い。グイドが逝去した直後のステッカーなので、グイドに羽が生えている。


Cesare Cecilia valentino rossiexit」と画像検索すると、チェーザレやセシリア写真がいくつか出てくる。画像1exit画像2exit  写真を見るとわかるように、チェーザレとセシリアは似ているが見分けが付く。顔のどん中に真っ白な線がタテに一本通っているのがチェーザレ、顔のん中にい線があるがそのい線がYの字の形になっているのがセシリアである。

チェーザレとセシリアステッカーの画像はこちらexit。本物と同じように、チェーザレはいタテ線1本、セシリアはYの字模様になっている。

ロッシはも飼っていて、名前はロッサーノ(Rossano)という。色い

2017年8月31日にロッシはトレーニング中に転倒して骨折し、9月初旬のサンマリノGPを休場した。治療の経過を尋ねるため、インタビュアーがロッシの自宅に押しかけたのだが、そのときソファーに座るロッシにロッサーノがやってきて話題となった。動画1exit

2015年3月の開幕戦まではを飼っていなかったらしく、シートのステッカーに登場しないexit
このときのシートステッカーは2匹のが描かれているだけである。

2015年9月サンマリノGPの頃までにを飼ったらしく、スペシャルヘルメットに猫が登場するexit
このときのスペシャルヘルメットは、サメホルヘ・ロレンソ)に追われる小(ロッシ)というのが話題になったが、ヘルメット後頭部にはゴーグルを付けて潜する2匹のと1匹のが描かれている。


2匹のブルドッグと1匹のステッカー2018年頃のロッシのマシンのシートに貼られているがexit、これはロッシのペットいのステッカーということになる。

犬(アメリカ系ゴールデンレトリバー)

2018年チェコGPにおいて、ロッシのマシンにある異変が起こった。
シートの後ろのステッカーが、「フサフサの毛を持つ犬2匹と猫1匹exit」になったのである。

これを見たメディアが色々探索し、ロッシの彼女フランチェスカソフィア・ノヴェッロさんのnstagramに、同様のが映っている画像を発見した。※こちらexitこちらexitの記事で取り上げられてる

さらに2019年1月、ロッシがこの画像exitを自分のInstagram投稿して、最終的な答えが出た。

あのフサフサの毛を持つアメリカ系のゴールデンレトリバーで、2018年3月にロッシが飼い始め、2019年1月には成長して巨大化した(Instagramサムネイル2018年3月画像で、画像の中の>をクリックすると2019年1月画像になる)。名前ウリッセ(Ulisse)とペネロペPenelope)。

ウリッセは男性名、ペネロペ女性名なので、ロッシの飼うゴールデンレトリバー2匹は、雄1匹と雌1匹であると考えていいだろう。

ちなみにUlisseとPenelopeは、古代ギリシャ詩人ホメロスの作品『オデュッセイアexit』に出てくる登場人物の名前である。ウリッセ(Ulisse主人公で、ペネロペPenelopeはその奥さん
Ulisseは英語ユリシーズUlysses)と呼ばれる。また、Ulisseの別名はオデュッセウスという。
オデュッセウスについてはニコニコ大百科に詳しい個別記事がある。
 

ペットではなく、ロッシにとってお守りである。

1990年のある日、11歳のヴァレンティーノは、母親ステフニアとペーザロのスーパーにいた。そのときヴァレンティーノはカメが店先に並んでいるのを見て、ステフニアに買ってくれとせがんだ。

ヴァレ「ねえお母さん、買ってよ」
ステフ「ダメ」
ヴァレ「良い子にするって約束するから。お願い」
ステフ「しょうがないわね・・・良い子にするのよ」

こんな感じのありがちなやりとりを経て、ヴァレンティーノはカメを手に入れた。

このとき店頭に並んでいたのは「水槽に入った生き物」ではなく、ニンジャタートルのぬいぐるみexitだったようである。ニンジャタートルとはアメリカアニメで、日本語版Wikipediaexitもある。

このニンジャタートルのぬいぐるみを買ってもらった1週間後に、ロッシはミニバイクを始める。ミニバイクレースにも必ずぬいぐるみを持っていって、お守りにしていた。最初はぬいぐるみヘルメットに吸盤でくっつけていたらしい。

なんと1998年MotoGP250ccクラス参戦時にもニンジャタートルのぬいぐるみを持ち込んでいた。このことは原田哲也さんが言している。

現在もロッシにとってカメはお気に入りで、カメのデザインのVR46グッズexitが多い。

2013年イタリアGPではカメのデザインのスペシャルヘルメットを持ち込んだexit

太陽と月、WLF

太陽と月

ロッシは「太陽と月」のデザインを好んでいる。画像検索すると色々ヒットするexit

これは、ファンに対して太陽のように陽気で明るくフレンドリーになる性格になることと、ライバルに対してのように冷酷で陰湿で苛な性格になることの二面性を表していると言われている。

ロッシがライバルに対して精神攻撃を始めたら「ロッシがモードに入った」と表現される。

WLF

ロッシのライダースーツの首元の部分にはWLFと描かれている。

画像検索するとWLFのデザインのグッズが多くヒットするexit
Wが、Lが、Fがで、イタリア国旗を模しているexit

このWLFは「Viva La Figa」の意味。vivaのvとvを合わせてwにした。


vivaは「バンザイ」「素晴らしい」といった意味。

laは英語のtheに相当する定冠詞で、女性名詞の前に来る。

figaという言葉は・・・あまり上品な表現ではないのだが、ちょっと解説をしておきたい。

figaはもともとはイチジクの果実exitという意味である。
これを見たイタリア人は、×××××をfigaと呼ぶようになった。
さらに、女性のことをfigaと呼ぶようになったのである。

figaというのはちょっと下品な表現で、女性が言うような言葉ではないし、落ち着いた大人が言うような言葉でもない。10台の若者が男同士集まったときに「あいつはイイ女だよな~」と言い合うことがあり、そういうときにfigaと言う・・・そういう感じの言葉で、軽薄な感じの言葉なのである。

だから「Viva La Figa」とは「イイ女は素晴らしい」といった感じの意味になる。

ロッシのWLFのFはである。このFの持つ意味を知ってからFの赤色を見ると、呆れるというか驚くというか、頭を抱えたくなるというか、そういうことになるだろう。



figaという言葉について伏せ字しで意味を知りたいという方は「figa イタリア語」で検索しましょう。

家族

グラツィアーノ・ロッシ

ヴァレンティーノの父親グラツィアーノ・ロッシの個別記事を参照のこと。

ステファニア・パルマ

ヴァレンティーノの母親ちょくちょくピットに顔を出すexit

ヴァレンティーノの自著では息子に向かって「良い子にしてるのよ」「なんで良い子にしないの」と言うお母さんとして登場する。

2005年の頃はタヴーリア役所で技術調官の仕事をしていた。

ヴァレンティーノはインタビューで、「母親とは今でも電話します。ブレーキやサスペンションセッティングのアドバイスをもらうんですよ」と言う。このインタビューexitでもそう言っているし、2017年マレーシアGPの木曜記者会見でも同じ事を言っていた。そして自著でも同じ事をっている。

ヴァレンティーノの自叙伝exit_nicoichiba331ページによるとヴァレンティーノが「ねえ、今日ブレーキトラブルを抱えてたんだ」と言うとステフニアがよく分からないながらも適当に「そうね・・・○×が原因じゃないかしら」と言っている、というのが実情らしい。それでもお互い、会話を楽しんでいるということらしい。

ヴァレンティーノ最大のライバルであるマックス・ビアッジを褒めていた。
2015年10月からヴァレンティーノの宿敵となったマルク・マルケスを「マルクのことを嫌いになることはないでしょう」と発言している。息子がイザコザを起こす相手へのフォローを忘れない。

ルカ・マリーニ

ルカ・マリーニexitはヴァレンティーノの異1997年8月10日ウルビーノ生まれ。

母親ステフニアパルマ父親マッシモ・マリーニexit
マッシモは画像検索してもサングラスをかけた姿しかヒットしない。

ヴァレンティーノとは顔がよく似ている。また、手足が長いところも似ている。

2016年からMoto2クラスフル参戦を開始し、2018年ドイツGPで初表台を獲得した。2018年マレーシアGPでキャリア優勝を収めている。2021年からは、MotoGPクラスに昇格して1シーズンのみだがと同じクラスでのレースをともに走ることを実現している。

友人

ウーチョ

ヤマハワークスの中にいシャツを着ていつもロッシのそばに付き従っている人がいる。

この人はウーチョといい、ロッシの友である。詳しくは、ウーチョの記事を参照してください。

マックス・モンタナリ

ヤマハワークスの中にいシャツを着ていつもロッシのそばに付き従っている人がいて、ウーチョではないもう1人はマックス・モンタナリMax Montanari)という。本名はマッシミリアーノ(Massimiliano)。

このシーンで頭を抱えているexit。 この動画exitの37の辺りからインタビューに出ている。

1972年7月10日生まれでロッシの7歳年上の友人料理人で、アプリリア時代からロッシに付き従い、ロッシの所属するチームのホスピタリティ食堂)で料理をしてきた。記事1exit記事2exit

現在ヤマハワークス所属ではなく、VR46所属としてロッシチームに帯同している。役割としては、レーシングスーツグローブを準備する世話役である。

ロッシの自著ではマルコ・モンタナリというフィジカルトレーナーの名前が出てくる。マルコマックス・モンタナリ族かもしれない。

この動画exitは、マックス・モンタナリインタビュー動画。「ヴァレンティーノが引退したら、MotoGPパドックから去るだろうね」とっている。
 

マウリツィオ・ヴィターリ

レース中のヤマハワークスピットの中ではウーチョマックス・モンタナリの他にもう1人、ロッシの周りで世話役をしている人がいる。

レース中は椅子掛けて応援している。2006年exit2009年exit2015年exit、と動画が上がっている。

この人はマウリツィオ・ヴィターリ(Maurizio Vitali)exitと言い、AGVの技術者で、ヘルメットの修復を行う人である。

2015年日本GPでは、AGVと契約しているアンドレア・イアンノーネに対し、AGV特製の「やるっきゃないヘルメット」を授けているexit

この動画exitではヘルメットをロッシに届けに行く姿を撮されている。

この記事exitの下の方に、「AGVの技術者」と紹介されている。

1957年3月17日生まれ。元・MotoGPライダーで、1980年代125ccクラス250ccクラスで活躍した。イタリア語版Wikipediaexitに戦歴が書いてあり、125ccクラスで2勝を挙げた強ライダーだったことがわかる。1993年引退した後すぐにAGVに就職し、ヘルメットの修復・洗浄・燥といったメンテナンスを行う技術者になった。
 

アルド・ドルディ

アルド・ドルディexitはロッシのヘルメットデザインを担当するデザイナー

1958年生まれ、デザイン手書きで行う職人肌。

ロッシの他にも多くのライダーデザイン提供する。ヘルメットデザイン以外にも多くのデザインを手がけており、MotoGP御用達デザイナーの観がある。
2017年以降のアプリリアワークスマシンデザインアルド・ドルディが担当した。
2018年サンマリノGPのポスターは彼が担当したexit

アルド・ドルディはヴァレンティーノのグラツィアーノ友人で、一緒にツーリングしていた。
グラツィアーノにもヘルメットデザイン提供していた。

リノ・サルッチ

リノ・サルッチexitはロッシファンクラブ会長を務める。こちらの動画exit紹介されている。本名はチェザリーノ(Cesarino)。

ウーチョ父親で、ロッシのグラツィアーノと昔から仲が良かった。このためヴァレンティーノとウーチョ仲良しになった。

フラヴィオ・フラテッシ

フラヴィオ・フラテッシexitはロッシファンクラブ副会長を務める。

こちらの動画exitインタビューに答えている。

ロッシが優勝後にパフォーマンスをしていた頃、ロッシとともにアイディアを生みだしていたのはこのフラヴィオ・フラテッシであった。

2017年サンマリノGPの表式のとき、マルク・マルケスに向けてブーイングを飛ばす者が続出した。このときフラヴィオ・フラテッシは「ブーイングをする者はファン資格がない」「私はマルク・マルケスを賞賛している」と発言している。

アルベルト・テバルディ(アルビ)

アルベルト・テバルディexitはロッシの友人で、ロッシを支援する企業であるVR46の代表を務める。
まさしくロッシの右腕。称はアルビ(Albi)。

VR46に入りたいという若手ライダーアルビとウーチョ面接を受けなければならない。
VR46と契約を結ぶときの記念写真は、アルビとウーチョが映るのが定例となっている。

アルビもたまにランチでモトクロスを走らせて遊ぶexit

ちなみにVR46の本社はタヴーリアの北西にあるピラーノというにある。ガラス張りの建物exit
Googleストリートビューにも映っているexit

ルイジーノ・バディオーリ(ジボ)

ルイジーノ・バディオーリexitは、1996年から2007年までロッシの個人マネージャーを務めた人物である。称はジボ(Gibo)。

ヴァレンティーノの父親グラツィアーノ友人で、1958年生まれ。カットーリカexit出身。1996年以前は椅子の販売をしている小売業者だった。

個人マネージャー契約交渉の代理人で、ヴァレンティーノに何か商談を持ちかけるのならジボに会わねばならない。ヴァレンティーノには各種申し込みが殺到するので、ジボの得意の一言は「NO!」であった。

ヴァレンティーノの自著では「ジボがHRCと交渉」「ジボがマックス・ビアッジにどつかれた」等という記述が散見される。

2007年8月にヴァレンティーノの脱税事件が勃発してから、ヴァレンティーノとジボの関係は悪化し、ジボは個人マネージャーを解任された。代わりにヴァレンティーノの個人マネージャーにはダヴィデ・ブリヴィオが就任した。ダヴィデ・ブリヴィオヤマハワークス監督を務めていた人である。

2010年頃にはジボも脱税疑惑でイタリアの検察に起訴されてしまった。

憧れのライダー

ヴァレンティーノ・ロッシが憧れのライダーとして挙げているライダーは、ケヴィン・シュワンツexitと、ノリックこと阿部典史exitである。

ロッシがミニバイクに乗り始めたのは1990年のことで、シュワンツの全盛期だった。

1994年の頃にはロッシは15歳になっていて、MotoGPレースの録画を5~6回も繰り返し見ていた。

そんなとき、1994年4月24日日本GPが行われた。時差があるためロッシは早起きしてテレビを見たが、そこでは鮮やかなオレンジ色を基調とするマシンにまたがり長をなびかせて疾走するライダーの姿が映っていた。それが阿部典史で、このときの走りをロッシは「まともな人間のものとは思えない」と表現しているほどで、デビューレースの新人が当時の最上ライダー優勝争いしていた。

ラスト3周の時点で阿部は転倒してしまい大金星を逃してしまったが、ロッシは阿部の走りに感銘を受け、それから毎日学校へ行く前に録画したビデオを見るようになった。毎7時に起きて録画を見たのは1994年4月から6月までにおよんだという。7月以降は見るペースが減ったらしいがそれでも気が向いたら再生していたらしい。

このためロッシは阿部の大ファンで、2018年現在マシンに「ろっしふみがんばってexit」という黄色ステッカーを貼り付けている。走行時に右足ふくらはぎが当たる場所が定位置である。この動画exitでも「ろっしふみがんばって」の黄色ステッカーが確認できる。

「ろっしふみ」はもちろん「ロッシ」と「典史(のりふみ)」を合わせた言葉。
「がんばって」というのは、1996年MotoGP125ccクラスデビューしたとき、日本人がこぞって「頑って!」と言ってきたのが由来となっている。

「ろっしふみがんばって」のステッカーデザインを考案したのは青木である。

46番は永久欠番にしないでほしい

近年のMotoGPではしばしばゼッケン永久欠番にすることがある。最大排気量クラスでは34、58、65、69、74が永久欠番になった。Moto2クラスにおいて48番が永久欠番になっている。

ところがロッシは「自分が引退した後、46番は永久欠番にしないでほしい」とこの記事exitっている。

とはいえ、46番を進んで使おうとするライダーは、そう簡単に出現しないだろう。

上田昇さんは、レッドブルルーキーズカップ(若手育成用の選手権)に自分の子を出場させる際、付き添いで子に着いていく。ゼッケンを決める会合の時にも子とともに行ったのだが、その場でヨーロッパ系の若手ライダーたちがも「46番がほしいです」と言い出さなかったことに驚いていた。どのライダーも、46番を恐れ多い番号として、気軽に付けようとしていなかった。

ちなみにそのときは日大治郎が「あ、じゃあが46番もらいます」と言って、あっさり決まっていた。

で、引退後の2022年5月、やっぱり永久欠番に決まってしまった。残念だが当然である。

その他の雑記

ヴァレンティーノ・ロッシはで二輪を走らせるタイプの人である。現在で走ることがある。たまにファンに見つかってしまうことがあるらしい。

シーズンオフにはモンツァラリーショーという4輪の祭典に出ることが恒例になっている。動画1exit動画2exit モンツァラリーショーイタリア北部の大都市ミラノの郊外にあるモンツァサーキットexitで行われる。

レースが大好きで、Moto2Moto3レースを毎レースしっかり見ていてとても詳しい。「あの選手は速い」「あの選手は今ひとつ」としっかりコメントすると中野真矢さんが言している。

左利きで、サインをするときに左手でペンを持つexit

彼女がいて、しょっちゅうパパラッチされている。

まだ身を固めていない(結婚していない)。母親ステフニアからは「孫の顔を見るのはルカルカマリーニ)に期待することにしてるわ」と言われている。

結構な宵っりで、いつも夜更かしする。そのために弱い。また、遅刻の常習犯でもあると自著で告白している。

ヴァレンティーノの通った高校はペーザロの学校だったのだが、そこには美術史の女教師がいた。
「そんなバカみたいなバイクにずっと乗ってばかりいて、あなた、そのうちそれでご飯が食べられるようになると本気で思ってるの?」というキッツい言葉を、若い頃のヴァレンティーノに浴びせていた。そのことは、ヴァレンティーノの自叙伝exit_nicoichiba109ページに出てくる。

時が流れて2019年1月27日、ヴァレンティーノはイタリアテレビ番組に出演したのだが、そのとき美術史の教師のことを話題に出していた。この動画exitがそのときのもので、この記事exitで内容が少し書かれている。それによると、ヴァレンティーノの従姉妹がペーザロの学校に通うようになったのだがなんとあの美術史の教師がまだ勤務していたという。あいかわらず、ちょっと怒りっぽいらしい。従姉妹の子は、ロッシの身内であることを黙っているという。

関連商品


ロッシ一の自著。ロッシがったことをエンリコ・ボルギという記者2005年中頃にまとめた。
幼少期のエピソードヤマハ移籍の内部事情、ビアッジとの衝突など細かく記述されている。



ロッシの顔がデカデカと表に出ているがロッシのことをあまり書いていない。
ヤマハワークススタッフの体験をまとめた本で、古沢政生さんexitの記述が多い。



マット・オクスレイという元二輪レーサージャーナリストが書いた本。
ミニバイク時代から2002年4スト990ccマシンチャンピオン獲得までのロッシの走りを記述している。
ライディングに関するマニアックな記述もあるし、ロッシの家族についてのエピソードもある。

関連動画

関連リンク

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 4
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

バレンティーノ・ロッシ

2 ななしのよっしん
2015/07/13(月) 13:41:59 ID: LKnFlg6/68
世界一速いサル(褒め言葉)
👍
高評価
1
👎
低評価
0
3 ななしのよっしん
2016/01/02(土) 08:08:34 ID: VZeW50GNJD
殺人キックの使い手
👍
高評価
0
👎
低評価
1
4 ななしのよっしん
2016/04/06(水) 20:17:37 ID: 55o1Z8+o7u
今日4月6日(ゼッケン46)なので記念レス
👍
高評価
1
👎
低評価
0
5 ななしのよっしん
2018/05/20(日) 11:41:25 ID: f+M9KPjavU
大幅加筆です。
ただ凄い速いだけじゃなく、現役のうちから自分のチームまで作って後進のイタリアンライダーを育てることを考えたり。
こんな人が日本にもいたら2輪モータースポーツ界の寂しい状況も変わるのにな。
👍
高評価
1
👎
低評価
0
6 ななしのよっしん
2019/08/13(火) 14:23:05 ID: 2hzdOuqvLE
まず勝てるライダーが育たないことには・・・
motoGPクラスに中上一人、しかもセカンドグループ(以下?)にいる程度じゃねぇ

いやまあ、落ちマシンプライベーターってのを考えたら十分健闘してると思うけども
仮にワークス待遇になったとしても「調子が最高に良ければ表台、更に運が良ければ優勝」っていうクラッチローポジションがいいとこで、到底年間チャンピオン取れると思えないのが悲しいところ。
👍
高評価
1
👎
低評価
0
7 ななしのよっしん
2021/05/31(月) 00:02:50 ID: SqDYTNSgBZ
遂に引退かぁ
歳もあるだろうし何より勝てねえからなあ
👍
高評価
0
👎
低評価
0
8 ななしのよっしん
2021/08/06(金) 18:56:32 ID: 58KGu7yVVU
昨日引退の正式発表がありました。
👍
高評価
0
👎
低評価
0
9 ななしのよっしん
2021/08/19(木) 07:29:23 ID: 58KGu7yVVU
パパになったそうです「女の子だといいなあ」
https://www.instagram.com/p/CSuKmzfsVIF/exit
👍
高評価
0
👎
低評価
0
10 ひでちゃん
2021/11/13(土) 10:26:52 ID: oni4twQIvz
ロッシの凄さは、バイクを壊さないことだろうな。群雄割拠、技術差均衡の昨今で、バイク壊さずにここまで勝ってきた人はロッシ以外におるまい
👍
高評価
0
👎
低評価
0
11 ななしのよっしん
2023/12/14(木) 09:21:37 ID: E65yckMXWA
来年は富士スピードウェイで会えるぞ
👍
高評価
0
👎
低評価
0