バレンティーノ・ロッシとは、MotoGPの生きる伝説である。
最高峰クラスだけで7回、全クラスでは9回の世界チャンピオンに輝き、優勝回数は100回を優に超える。
1979年2月16日生まれ。
2021年8月5日に、2021年シーズン終了を持って引退することを表明した。
2021年11月14日のバレンシアGPを最後にMotoGPライダーを引退。2022年以降は4輪に転向し、GTワールドチャレンジヨーロッパ選手権にチームWRTから出場している
概要
1996年からGP125、1998年からはGP250、そして2000年からは最高峰クラス(GP500/MotoGP)に参戦。それぞれのクラスで2年目にチャンピオンを獲得しており、特に最高峰クラスではGP500時代からホンダとヤマハで5連覇している(その後、2008年と2009年にヤマハで連覇している)。さらに2011年にはドゥカティに移籍したが、2年間勝利を挙げられずに2013年はヤマハへ復帰。オランダGPで2010年マレーシア GP以来の優勝を挙げた。
それから2019年に至るまで、毎年チャンピオンシップの上位を争っているが、戴冠には一歩及ばないというシーズンが続いていた。2020年シーズン以後は勝利から遠ざかってしまっていた。
だが、その人気は未だに凄まじい物が有り、大半のGPではスタンドが黄色の46(ロッシのゼッケンナンバー)の旗を持ったり関連グッズを身につけた観客で埋まっていた。
ロッシが居なくなった2022年も相変わらず黄色い46の旗やらTシャツが見られる。
最近はイタリア人ライダーの後継を育成することにも力を入れており、Moto2やMoto3クラスに自らがオーナーのチーム(VR46)を作り、若手を参戦させている。また、バレランチと呼ばれる自前のトレーニング用オフロードバイクコースを作り、イタリア人に限らず有望な若いライダーに練習の機会を与えている。
2018年のシーズンイン早々に、2020年シーズンまでヤマハで走る契約をしたことが発表された。少なくともそれまでは彼の生ける伝説は続くことになった。2021年シーズンはヤマハサテライトのペトロナスSRTチームに移籍、そのまま同シーズンの最終戦、第18戦バレンシアGPをもってMotoGPライダーを引退した。
引退レースでは、仲間のライダーたち、レース関係者、そして観客が一体となったお祭りとなり、引退の悲壮感を一切感じさせないロッシらしい明るいお別れとなった。ロッシ自身は2022年1月のガルフ12時間レースを皮切りに、4輪レースへの積極的な参加を表明している。まだ彼の生きる伝説はある意味続くのである。
ゼッケン、ヘルメット、レーシングスーツ、名前
ゼッケンは46番を使用している。
1990年から1992年までヴァレンティーノはミニバイクをしていて、そのときに46番を付けていた。
父親グラツィアーノから与えられた日本GPのビデオの中に、雨の鈴鹿サーキットをもの凄い速さで走る
ゼッケン46の日本人ライダーがいて、その走りに魅了されて46を選択したのである。この日本人ライダーはいったいだれなのかというと、おそらく1988年日本GP予選の伊藤真一ではないか、と言われている。
1993年から1995年まで46番を付けず、他の番号を付けていた。
1996年からMotoGP125ccクラスに参戦することが決まったとき、ヴァレンティーノはどの番号にするか迷っていた。父親グラツィアーノの番号にしようかと調べてみると、なんと1979年にグラツィアーノが46番を付けてMotoGP250ccクラスを走っているではないか。しかもその年に3勝している。おまけに1979年はヴァレンティーノが生まれた年である。これで運命を感じ、ヴァレンティーノは46番を付けることにした。
年間チャンピオンを獲った翌年はゼッケン1を付ける権利を得るのだが、ロッシはその権利を行使せず、46番を使用する。こういう風にゼッケンを固定する風習は1970年代のバリー・シーンがやっていた程度で、それから20年近くほとんど誰も行っていなかったが、ロッシが久々にやってみせた。現在では前年にチャンピオンを獲ったライダーが1を付けない風景が目立つようになった。
ヘルメットはイタリアのAGV、レーシングスーツはイタリアのDainese(ダイネーゼ)と契約している。AGVの親会社はDaineseで、そしてロッシはDaineseの大株主になっている。ゆえにこの2社はロッシ御用達である。
ロッシはしょっちゅうスペシャルヘルメットを作ってくる。毎回凝ったデザインでファンを楽しませる。このヘルメットデザインを担当するのはアルド・ドゥルディというデザイナーである。
ロッシは蛍光色の黄色を使うのが昔から好きで、彼を象徴する色になっている。
ロッシのファングッズも黄色い蛍光色ばかりで、それを身につけたファンが集まると黄色の大軍団になる。ロッシのファンたちはイタリア語で「Popolo Giallo(ポポロ・ジャッロ)」と呼ばれる。popoloは英語のpeopleと同じで「人々」、gialloは「黄色」。「黄色い人たち」という意味。
ロッシはRossiと書き、赤を意味するrossoと同じ語源である。それゆえロッシが赤を企業カラーとするドゥカティに移籍するときは「Rossi in Rosso(赤が赤に入団)」と新聞に書かれていた。
イタリアで最も多い名字は「ロッシ(Rossi)」である。つまり最もありふれた名字である。
日本GPにやってきたロッシに向かって「ロッシ~」と声を掛けても無視されたが「ヴァレ~」と声を掛けたら振り向いてくれた、ことがあるらしい。
ロッシを始めとするMotoGPライダーの多くが「日本では名前の後にサンを付けると敬称になる」ということを知っているので、「ヴァレさ~ん」「ヴァレンティーノさ~ん」と呼んでも良いかもしれない。
愛称と言えば「ヴァレ」や後述の「The Doctor」のほかに、「ろっしふみ」と自ら称していたことも。これはノリックこと阿部典史の走りを見て感激し、彼へのリスペクトから名乗り始めたもの。ロッシにとってノリックはアイドルと言うべき憧れの存在で、ノリックが2007年10月に交通事故で急逝した時には大きなショックを受けている。
ライディングスタイル
ブレーキングが上手い
ブレーキングが非常に上手なライダーである。
マシンをやや傾けてバイクを曲げながらじわっとブレーキレバーを握って減速する、テクニカルなブレーキングを得意とする。
ロッシのブレーキングが光る場所の1つはセパン・インターナショナルサーキットの9コーナーで、ここで彼は若い頃からパッシングを繰り返してきた。9コーナーの前はわずかに左にカーブしていて、左にマシンが傾いた状態でじわっとマシンを止めてスルスルッとインに入ってくる。
身長182cmで手足が長く、荷重移動が上手である。電子制御が発達する前の最大排気量クラスはハイサイド転倒が多かったが、ロッシはハイサイド転倒が明らかに少なかった。これは荷重移動が上手であるからと説明されていた。この荷重移動の上手さもブレーキングの上手さにつながる。マシンを倒した不安定な状態でしっかりマシンをブレーキングできるのはこのためである。
ロッシはブレーキングが得意なので、当然パッシングも上手い。
このため予選では順位を上げることにこだわらずマシンセッティングに集中し、決勝を低い順位からスタートしてズバズバ抜いていく戦術を採ることが可能である。
彼ほどのライダーにしてはポールポジション(予選最速で1番手から発走すること)の数が少ないが、これはパッシングの上手さに自信があることの現れと言える。
アクセルワークはどうかというと、ケーシー・ストーナーのような超人レベルではない。
ケーシーは電子制御をできるだけ無効化させて、アクセルをバンバン開けるライディングを好んだが、ロッシはそこまでアクセルワークが化け物レベルというわけではない。ロッシはわりと電子制御をキチッと効かせてエンジン出力を抑えるタイプである。
総じて見ると、ケーシー・ストーナーとは対照的なライディングスタイルと言える。
ロッシはブレーキングが上手くてパッシングが上手く、追い上げ上手。
ケーシーはアクセルワークが上手くてブレーキングは普通で、先行逃げ切りタイプ。
足を出す
2009年頃からロッシはコーナー進入時にイン側の足をぶらぶらさせるようになった。
ロッシがやっているのを見て数多くのライダーが真似するようになった。
この動画を見ても、ロッシを始めとして多くのライダーが足出しをしてコーナーに飛び込んでいる。
これについて問われたロッシは「足を出すとなんとなく荷重がうまくかかる気がするからやっているんだ。データを見てみると、足出ししない走りの時のデータと足出しするときのデータは全く同じ」と答えていて、単に気分でやっているだけと答えている。
一応元GPライダーらが色々試した結果「ブレーキング時にバイクが振られた時、両ステップを踏んでいると体も振られるので安定しない、片足を外すことで緩和している」と「ステップから足を外すとリア荷重が減るので、ちょっとだけドリフト状態に持ち込みやすい」という2つの仮説が発生しているが真相は不明。
セッティングを出すのが上手い
マシンセッティングを出すのが上手い。僅かなマシンの差を敏感に感じ取り、それをメカニックに上手に伝えることができる。
ロッシのライダースーツの尻には「the doctor(お医者さん)」と書かれている。
実際ロッシはお医者さんのように知的なライダーで、ロッシがメカニックに考えを伝える姿を初めて見たフィリッポ・プレツィオージ(ドゥカティワークスの天才的技術者)は「ロッシの話しぶりはまるで大学教授の講義のようでした」と語っている。
MotoGPは金・土・日の3日間で行われるのだが、ロッシは金・土の2日間で苦戦するも日曜日にはセッティングを上手く出してきて一気に戦闘力を向上させる、そういう姿をしばしば見せる。
反面、セッティングがでないと苦しむ傾向が見られる。「セッティングが出ていないマシンだと攻められない」とロッシが認めていたこともある。
この点でもケーシー・ストーナーとは対照的で、ケーシーはセッティングが出ていないマシンでも平気で乗りこなして攻めまくるライダーだった。セッティングが異なるマシンで全く同じタイムを出し、レプソルホンダの中本修平HRC副社長を驚嘆させていた。
ケーシーは「マシンセッティングを出すことに熱中することは時間の無駄ですよ」と言って、走るのをさっさとやめてしまうことも多かった。セッティングを出すのに夢中になるロッシとは対照的である。
観察力が高い
ロッシは観察力が高い頭脳派のライダーで、いろんなところをよく見ている。
1996~1997年の125cc時代、日本人ライダーを尊敬し親しくしているロッシはちょくちょく「あのコーナーは何速のギアで回るの?」と日本人ライダーに質問していた。
坂田和人さんや青木治親さんもそういう質問を受けたが、たまに嘘のことを答えることがあった。
2速で回っていたコーナーなのに「3速で回った」と嘘をつく。
そうすると、ロッシは「いやそれは違うんじゃない?2速でしょ」と指摘してきたという。
ロッシは坂田和人さんや青木治親さんの真後ろに付けて、左足の小さな動きを見て、シフトチェンジの回数を見抜いていた。
ロッシは自著でもこんなことを語っている。「鈴鹿サーキットを速く走るためにはあらゆるコーナーの特徴を頭に叩きこまなければならない。小さな凹凸をすべて把握し、路面のシミまでしっかり記憶する、そうしてからハイスピードで走ることが必要だ」と、受験生みたいなことを言っている。
1992年の冬、13歳の冬にロッシは二輪のレースに進むことを選んだ。このときまでは学校の成績も悪くなかったと答えており、「あのときバイクレースの道を選んでなければどうなってただろう」と語っている。
得意なサーキット、不得意なサーキット
流れるように中高速コーナーが続くサーキットの成績が非常に良い。
TTサーキット・アッセンで10勝、カタルーニャサーキットで10勝。
ムジェロサーキットで7連覇を含む9勝、ヘレスサーキットで9勝。
フィリップアイランドサーキットで5連覇を含む8勝。
ドニントンパークで4連覇を含む7勝、セパン・インターナショナルサーキットで7勝、ブルノサーキットで7勝。
2018年オーストリアGPのレース前記者会見で「あなたが考える理想のサーキットは?」と問われ、ロッシはこんなイラストを描いている。中高速コーナーが流れるように続くサーキットが好みと分かる。
ツインリンクもてぎは「あまり好きじゃない」と語っている。通算2勝。
本人がはっきり苦手と言っているのがバレンシアサーキットである。ここは低速コーナーが続き、中高速コーナーがあまり多くない。通算2勝。
30代の後半になるとやはり体力が落ちてきて、体力を求められるサーキットで成績が伸びていない。その典型はセパン・インターナショナルサーキットで、31歳の2010年の勝利が最後である。このサーキットは暑く、体力消耗が半端ではない。
人柄
技術者たちに礼儀正しく、親切である
ヤマハワークスの古沢政生さんやブリヂストンの山田宏さんは口を揃えて「ロッシは礼儀正しい好青年」と褒めていた。
2000年から現在に至るまでロッシのメカニックを務めるアレックス・ブリッグスは、「ロッシは自分の家族のことを常に気に掛けてくれる」と語っている。
ファンに愛想を欠かさない
ロッシはプロ選手らしくファンに対する愛想は欠かさない。
ムジェロサーキットやミサノサーキットで行われるレースで、彼は表彰台に上がれなかった場合も表彰式の後に表彰台付近に現れ、詰めかけたファンたちに感謝の言葉を述べる。4位以下に終わって悔しさいっぱいの気持ちなのにそれをこらえてちゃんと挨拶する。
ロッシがイタリア国内レースでの表彰式後の挨拶を欠席したのは2016年ムジェロのときぐらいである。このときはこんな具合にエンジンが白煙を上げて壊れ、ロッシは失望のあまり表に出られなかった。
メディアの取材に応じる
ロッシはメディアの取材にもちゃんと応じる。ロッシが「もうこの辺でいいでしょ」といった具合に自分からテレビ局のインタビューを打ち切るのは滅多に見られないという。それが発生したのは2013年ムジェロのアルヴァロ・バウティスタ追突事件のときで、それ以外はちゃんとインタビュアーの求めに応じるのが常であるとのこと。
ものを大事にする
MotoGPライダーの中には、ものに怒りをぶつけるライダーがある。
看板パンチ、グローブブン投げ、マシンパンチ、ピットに戻って備品キック・・・といった具合である。
MotoGP観戦者の多くはMotoGPという競技の恐ろしさ・過酷さをよく知っているので、ライダーがそういう挙に出てもある程度は許容する。時速340kmを超えるような恐るべき環境に身を投じているのだから、ある程度は致し方ないのである。
ところがロッシは全くものに当たらない希有な存在である。彼がものに怒りをぶつけているシーンは、相当なGPファンでも思い出せないだろう。
2010年最終戦ではヤマハのマシンを「彼女」とよびキスをしていたが、とにかくマシンやものを大事に扱う傾向がある。
後輩に優しい
近年のロッシはタヴーリアにあるランチ(ranch 農場・牧場という意味)というコースに後輩を集め、一緒にモトクロスでトレーニングするのが習慣となっている。毎週金曜日にレースをする。
このときのロッシは後輩ライダーに対して実にフレンドリーな態度で接している。
日本の体育会系の一部では「年長者が貴族、年少者は平民」という上下関係の構築に忙しいが、ロッシは決してそういうことをしない。
一緒にトレーニングする後輩ライダーが優勝するとヤマハワークスのピットから小走りで駆けつけ、パルクフェルメで祝福する。
ライバルに厳しい
ここまで書くと、ロッシが聖人君子に思えてくる。
ところがやはり、どうしても、激しく危険なスポーツをすることで胸の中に憤懣と怒りが渦巻いており、それが「ライバルへの厳しさ」となって現れるのである。やはりすべてにおいて完璧な人間はいない。
ロッシはライバルに厳しい。2010年には「ライバルを憎悪することは普通のこと」と語っている。
青山博一は、「2010年はロッシが首位争い常連、自分が10位争い常連でロッシと住む世界が違っていた。そのせいか2010年まではロッシは自分に話しかけてきてくれた。ところが2011年にはロッシと自分が同じ位置を走るようになりロッシは全く話しかけてくれなくなった」と語っていて、自分のライバルに厳しいロッシの姿が浮かび上がってくる。
自分を脅かすチームメイトにはさらに厳しく、ホルヘ・ロレンソには最大級の警戒をしていた。
2008年はロッシがブリヂストン、ロレンソがミシュランなので機密保持を理由にピットの壁を作った。
2009年はロッシ・ロレンソともにブリヂストン使用となったのにピットの壁が維持された。
2010年はロッシ側から情報交換を拒否して、互いの走行データを参照できなくした。
精神攻撃
ロッシはメディアを通じた精神攻撃をするのが得意である。
メディアを通じて一方的に皮肉と非難をする。公開の場で言い合いをすることはしない。相手に反論させる機会を与えないのがロッシ流である。
この精神攻撃の犠牲となったのはマックス・ビアッジ、セテ・ジベルノー、ケーシー・ストーナーだった。この3人はロッシ被害者の会を結成してもおかしくないだろう。
ケーシー・ストーナーへの精神攻撃は2007年から2010年まで続き、おかげでケーシーはヨーロッパのすべての国でブーイングを浴びることになった。ケーシーは「ブーイングを浴びなかったのは日本とオーストラリアだけだ」と日本のイベントで語っている。
2011年と2012年にドゥカティワークスで悪夢の2年間を送ったことを機に、ロッシは精神攻撃をやめた。
そのあと数年はなりを潜めていたが、2015年10月22日(木)にマルク・マルケスに向け、記者会見の場で水をごくごく飲みながら(ロッシは緊張すると水を飲みまくる癖がある)久々の精神攻撃を披露。現在もマルクに向け激しい精神攻撃を繰り広げている。
ちなみにロッシのケーシーへの皮肉の代表例は「ケーシーは迷いがあって攻め切れていない」「ケーシーは電子制御に頼っている、電子制御時代の申し子だ」というものだった。
この2つとも間違いで、実際にはケーシーは何一つ迷わず序盤から攻めまくるタイプで、それゆえレース序盤の転倒が多いタイプだった。またケーシーは電子制御を嫌っていて、電子制御をできる限り少なくしようとしているとレプソルホンダの中本修平HRC副社長が語っている。ライバルに関するロッシの言葉はあまり当てにならないということは周知の事実となってしまった。
ロッシの英語
ロッシはイタリア訛り全開の英語を駆使してインタビューに答えるが、いくつかの言葉を良く使い回す。
good race 良いレース
unfortunately 不運にも
important 重要な 「インポルタント」と発音する
think 考える 「ティンク」と発音する
thank for my team チームに感謝「タンクス フォル マイ ティーム」と発音する
Jorge ホルヘ・ロレンソのこと。「ヨルゲ」とイタリア語読みに発音する。
自国読みで好き勝手に読む風習はイタリア人に限らずヨーロッパ人全員に言えることである。
ドルナ実況者のニック・ハリスはイアンノーネを「イアンノーニ」と発音するし、
城彰二がリーガ・エスパニョーラで「Jo」という名前で登録したら「ホー」と呼ばれて困っていた。
また、イタリア人はハ行の発音が非常に苦手なので、「ホルヘ」と読むのが苦痛なのである。
ヤマハを「ヤマー」、ホンダを「オンダ」と読むのがイタリア流である。
ロッシもハ行が苦手なので、「ヨルゲ」と呼んでいる。
英語圏の人やスペイン語圏の人が「ホルヘ」とちゃんと発音しているのを見て「ホルヘの中のホぐらいはちゃんと発音してみようか」と思うこともあるらしく、「ホルゲ」と呼ぶこともある。
ロッシゆかりの土地
ウルビーノ生まれ
ヴァレンティーノ・ロッシは1979年2月16日にイタリア・マルケ州ウルビーノで生まれた。
ウルビーノにいたのは生まれてから数年のみで、そのあと一家揃ってマルケ州タヴーリアに引っ越した。
ウルビーノは人口1万5千人ながら世界遺産が多く、ルネサンス期の画家ラファエロの出身地でもあり、美術館となっている宮殿もあり、荘厳な礼拝堂もある観光都市だが、ロッシ自身はあまり寄りつかない。ロッシの自伝にもあまり「ウルビーノに行って遊んだ」という記述は現れない。
ウルビーノはペーザロ・エ・ウルビーノ県の県都の1つである。ペーザロ・エ・ウルビーノ県の中にはロッシゆかりの土地が数多く含まれる。
タヴーリアに住み、ペーザロで遊ぶ
マルケ州タヴーリアこそがロッシの地元であり、ここの友人たちと遊びながら育っていった。
タヴーリアは人口8000人ほどの小さな内陸の街である。大きな店はそんなに多くない。このため何か買い物をするときはマルケ州ペーザロへ行くのが常であった。ペーザロは人口9万5千人のなかなか大きい都市で、スーパーもレストランもある。
このためペーザロはヴァレンティーノにとってもう1つの地元である。「ペーザロ市民のヴァレンティーノ・ロッシ」と紹介されることも多い。
ヴァレンティーノが母ステファニアさんに連れられカメのぬいぐるみを買ってもらったのは、ペーザロのスーパーマーケットだった。
ペーザロには坂田和人さんのチームや上田昇さんのチームの拠点があった。ヴァレンティーノは彼がMotoGPにデビューする1996年以前から坂田さんや上田さんと親しくしていた。
MotoGPでスーパースターになりお金持ちになったヴァレンティーノは、現在、ペーザロの港にクルーザーを所有していて、たまにクルーザーに乗って海で遊ぶ。そのときは彼女を連れていて、イタリアの芸能雑誌にパパラッチされてしまうのがお決まりのパターンとなっている。
ミサノサーキット
ヴァレンティーノの父グラツィアーノは、ヴァレンティーノ3歳の頃イモラサーキットで事故を起こし、九死に一生を得ている。(このことの詳細はクリニカ・モビレの記事を参照のこと)
このため父グラツィアーノと母ステファニアはヴァレンティーノにカート(小さな四輪マシン)のレースをやらせようとしていた。そのためヴァレンティーノは13歳になる1992年までカートのレースをしていて、その合間にミニバイクで2輪の腕を磨いていた。
1992年の冬にヴァレンティーノは2輪の道に進むことを決意し、両親にそれを伝えている。両親はともにあまり喜んだ様子ではなかったという。
このとき彼は、友達からアプリリアの125ccマシンを借り、ミサノサーキットで初走行している。ギアの付いた2輪マシンに乗るのはこれが初めてだった。本格的なサーキット走行もこれが初めてだった。
パノラミカ
1993年2月16日にヴァレンティーノ・ロッシは14歳になり、合法的にスクーターを乗ることができる年齢になった。
「怪我をしてはいけないからバイクで街乗りをしない」と彼が考えるはずがなかった。
タヴーリアの仲間たちとともにスクーターを乗り回し、公道をサーキット代わりにして飛ばすのである。このとき、彼らなりにルールを設けていて「直線はゆっくり走る」「決して反対車線にはみ出ない」ということを厳守していた。また、人気のない道を選んでいたため、他の人に迷惑を掛けることは少なかったようである。とはいえ、警察が見逃すはずもなく、しょっちゅう捕まってたっぷり説教されてスクーターを没収され、トボトボと家路につくことも多かった。
没収されたスクーターが警察から返却されると懲りずに公道に繰り出してまた走り回る。そして警察に捕まって「またお前らか!」と叱られまくる、18歳頃までずっとこの繰り返しだった。
ヴァレンティーノが19歳になる1998年はMotoGP250ccクラスに移った最初の年であり、この年から彼はMotoGP一筋に打ち込むことにして、公道でのスクーター乗り回しから卒業していった。
ヴァレンティーノたちが好みにしていた道はパノラミカという海岸沿いの道で、ガビッチェ・モンテとペーザロを結ぶ道だった。Googleの地図でSP44と表示されている曲がりくねった道で、拡大するとパノラミカ・アドリアーティカ通り(str. Panoramica Adriatica)と表示される。「パノラマ(景観)が良いアドリア海沿いの道」といった意味。
ヴァレンティーノの父グラツィアーノの時代からこの道は絶景の道として知られていたらしく、グラツィアーノとその友人アルド・ドルディ(MotoGP御用達デザイナー)もよくツーリングしていた。
パノラミカでの走行中に転んで怪我をして出血すると、海岸に降りていって海水で消毒する。「昔からの言い伝えだが、不思議とこの方法が効果的だった」とヴァレンティーノは語っている。
2004年頃の自伝で「最近のパノラミカは自動車が多くなってしまい、以前のように走ることができなくなってしまった」と語っている。
パノラミカの走行動画は検索すると出てくる。曲がりくねった山道で、途中で綺麗な海が出現する。
ピスチーノ
タヴーリアのすぐそばに、エミリア・ロマーニャ州カットーリカという街がある。
その南隣にサン・ジョヴァンニ・イン・マリニャーノという街がある。
航空写真で見てみると、無骨な灰色の建物が集まる場所があり、ここが工業団地なのである。
こうした工業団地は夜になると無人に近くなる。
そこでヴァレンティーノたちは勝手に侵入し、道路をコースにしたサーキットをこしらえて、スクーターでレースをしていた。無人の倉庫をパドックにして、すぐ近くのミサノサーキットからいろんな手法を駆使して集めてきた垂れ幕(タイヤメーカーのものや、タバコ企業のものなど)を掛け、本物のサーキットみたいな様子になる。近くの街から女の子が見物に来たりして、ヴァレンティーノたちはやる気満々になり(パノラミカでは女の子の声援など来ない)レースにさらに熱中した。
1995年の秋に骨折して、当時参戦していたヨーロッパ選手権のレースへの参戦が危ぶまれたロッシ。
担当してくれた外科医には「骨は治りかけていて、順調だ。ただ筋力は落ちているだろう。どこかでレース用マシンを走らせて、筋力を確認するといい」と言われた。
このとき、免許がなかったので公道でレース用マシンを走らせるわけにはいかなかった。
サーキットを借りることもできない。
さてどうしようか、と考えたときに思いついたのはピスチーノで、ここでレース用マシンを走らせ、筋力を確認したこともある。
こういう馬鹿騒ぎをしていて警察が気付かないわけがない。
なんども警察の手入れを喰らって色んなものを没収され、ピスチーノは閉鎖ということになった。
モンテッキオ
そんなヴァレンティーノだが、一応真面目に学校へ通っていた。
小学校は自宅のあるタヴーリアのヴィットリア・ジウンタという学校。
中学校は父親グラツィアーノから「MotoGPに参戦するときに必要だから英語を教えるところに行け」と言われ、タヴーリアから南に3km離れた隣町モンテッキオにあるピアン・デル・ブルスコーニという学校に行くことになった。
高校はペーザロの語学学校。このころ父親グラツィアーノと母親ステファニアが離婚間近になっていてヴァレンティーノは母親ステファニアとともにモンテッキオに住むことになる。モンテッキオとペーザロをスクーターで往復していた。
モンテッキオやペーザロのあたりは、冬になると雪が降って寒い。
一番寒い月は平均最高気温7度・平均最低気温0度となり、日本の関東地方並みの寒さになる。
しかも雪がしっかり降る。近くのミサノサーキットも雪化粧する。
スクーターで冬のモンテッキオを走るのは苦痛であった。
しかしヴァレンティーノは朝があまり早いほうではなく、できるだけ遅く家を出たいと考えるタイプで、早く家を出なければならないバス通学は嫌がっていて、冬でもスクーターなどで通学していた。
1996年、MotoGP125ccクラスに初参戦する17歳のとき、学校への欠席が増えてしまい、しかたなく退学することになった。
ミラノ~ロンドン、イビサ島
1997年頃あるいは1998年頃から1999年頃はイタリア北部の大都市ミラノに住んでいた。
ヴァレンティーノはミラノを本拠地とする名門サッカークラブのインテル・ミラノが大好きで、ずっとそこに住みたいと思っていた。
ところが、そのころになると彼の人気は国民的なものになってしまい、落ち着いて生活ができなくなった。しかたないので、2000年4月からはイタリアを脱出してイギリスのロンドンに住むことにした。ロンドンでは周囲の人たちが適度に無関心でいてくれるので落ち着くことができた。
2003年2月には、地中海に浮かぶスペイン領のイビサ島に別荘を購入した。
それからはロンドンの自宅とイビサ島の別荘を往復する生活だったという。
2003年の夏休みにはセテ・ジベルナウをイビサ島の別荘で行うパーティーに招待している。
ちなみに、イビサ島で休暇を過ごすMotoGPライダーは多い。検索すると記事が出てくる。
タヴーリアに戻る
2007年8月頃、イタリアの財務警察がヴァレンティーノ・ロッシを脱税容疑で告訴した。
ロンドン居住と申告しているが実際はイタリアでの居住が長いので、イタリアに所得税を納めなさい・・・これが財務警察の主張であった。
当初、ロッシに突きつけられた請求額は1億1200万ユーロ。1ユーロ100円と考えると112億円。
ロッシは会計士を雇って抗戦の構えを見せたが結局諦め、3500万ユーロ支払いで合意した。
これに懲りたヴァレンティーノはタヴーリアに戻ることを決意した。
イタリアという国は日本と全く違う国であり、脱税に対する意識も正反対である。
日本においては脱税は重大なルール違反であり、名誉を大きく損なうスキャンダルとなる。
ところがイタリアという国は何ともメチャクチャなことに「脱税は一種のゲーム」という風潮があり、脱税で問題になった人への視線があまり厳しくない。ロッシはイタリア国民に温かく迎えられた。
タヴーリアに戻ってからVR46という企業を設立し、地元自治体の税収アップに貢献。
また、タヴーリアの外れのこの場所にオフロードバイクで走行できる施設サーキットを建設し、ランチ(ranch 英語で農場・牧場の意味)と名付け、若手ライダーを多く集めて一緒にトレーニングをするようになった。
「タヴーリアに戻ったことが自分にとっては良かった」と語るようになっている。
アペカー
モンテッキオからペーザロの高校へスクーターで通うヴァレンティーノは、凍える寒さの冬でもスクーターで通学していた。
寒さと闘うヴァレンティーノの姿を見て、グラツィアーノとステファニアは心配に思った。
そしてグラツィアーノはついに「寒いだろう・・・アペカーを買ってあげるから、それに乗りなさい」と言いだした。
アペカー(apecar)とはイタリアで見られる50cc原動機付き三輪車のことである。
アペ(ape)とはミツバチという意味で、ピアッジオ社が生産している。
外見はこんな感じ。英語版Wikipediaもある。
見てわかるように、年金暮らしの老人や農夫が乗るようなクルマで、オシャレに気を遣う少年が乗るようなものではない。ヴァレンティーノは当然のように「えぇ?アペカー?勘弁してよ・・・」と言ったが、グラツィアーノはすぐにアペカーを買ってきて、「さあ乗りなさい」と言ってきた。
渋々ながら乗ってみたヴァレンティーノは、寒さをしのげることに気付くのだった。
タヴーリアの仲間たちにアペカーを見せたとき、みんな一様にショックを受けていたという。
「うわ・・・だっさい」というのが顔に表れている。グラツィアーノが買ってきたのは1979年製で、14~5年ほど経っている中古であった。そんな彼らにヴァレンティーノは
「なあみんな。寒いんだろ?」と言ったという。
その一言に動かされたのか、タヴーリアの仲間たちの間でアペカーを買うことが大流行した。
そして、やはりというか、案の定というか、スクーターの時と同じようにアペカーを改造して、アペカーをぶつけ合って公道で競走する遊びをするようになったのである。
スクーターと違って体が防護されているので思い切ってガチンガチンとぶつけ合う。
当然、警察に見つかってはアペカーを没収され、アペカーが返却されるとまた公道で競走、その繰り返しとなった。排気量50ccを140cc程度にアップさせて時速80kmで飛ばすので、警察官に思いっきり叱られ、罰金とアペカー没収となる。
没収されたアペカーが戻ってきたその日のうちに再びアペカーを没収されたこともある。
そのときはヴァレンティーノもグラツィアーノに尻を蹴飛ばされたという。
こちらの動画は当時のヴァレンティーノがアペカーを走らせている貴重な記録映像である。
タヴーリアのヴァレンティーノ邸の門にはアペカーが突き刺さっている。
Googleストリートビューでも確認できる。
儀式
ヴァレンティーノ・ロッシは迷信深いのか、いくつかの行為をレース前に必ず行う。
Moto3クラスのスタートを観戦
MotoGPはほとんどの場合Moto3クラス~Moto2クラス~MotoGPクラス(最大排気量クラス)の順でレースが行われる。ロッシは必ずMoto3クラスの決勝がスタートするときにピットウォールまで行き、Moto3の若手ライダーがスタートする様子を観戦する。
この理由は、スタートシグナルの点滅の様子を確認しているのだろう、と言われている。
サーキットごとに機械が異なるので、スタートシグナルの点滅(主に「レッドが1~5個まで順に点灯→ブラックアウト」と「レッドがいきなり全部点灯→ブラックアウト」)のパターンも異なる。
ロッシはその違いを観察しにやってきているのではないか、と推測されている。
右ステップバーを両手で掴む
ピットからコースへ出る前、つまりマシンにまたがる前に、ロッシは必ずマシンの右側にうずくまり、両手で右ステップバーを掴む。動画1、動画2
ステップバーで踏ん張って立ち上がり、下半身をいじる
ピットからコースへ出る前、ピットロードを時速60kmで走っているときにロッシは必ず下半身をいじる。ステップバーで踏ん張って立ち上がり、上半身をひねり、下半身をいじる。動画1、動画2
この下半身いじりをイタリアのコメディアンに真似されることがある。
自分でマシンにステッカーを貼る
ロッシは自分のマシンのカラーや見栄えを非常にこだわる性格である。
このためマシンに貼られるステッカーも厳重に吟味し、自ら貼り付ける。ステッカーのズレがあると気になってしょうがないのだという。
このステッカーを貼る儀式は夜に行われる。
MotoGPのパドックでは夕方まで作業が行われ、スタッフはホスピタリティでお食事をしてからサーキット近くのホテルへ帰っていく。スタッフが帰った後に、ロッシは自分のモーターホームから出て、パドックを徘徊し、ガラガラッとシャッターを開けてピットに侵入して自分のバイクと1人向き合い、ペタペタとステッカーを貼る。このステッカー貼りは最もお気に入りの儀式だという。
ステッカーを貼ることを楽しみにするライダーは他にもいる。坂田和人さんもその1人。
犬と猫と亀
犬(ブルドッグ)
1990年頃までロッシ家は犬を飼っていたが、それから10年、ロッシは犬を飼っていなかった。
2000年4月にイギリス・ロンドンへ引っ越したとき、ロッシは犬を飼いたくなり、1匹の雄犬を買った。イギリスだからか、イングリッシュ・ブルドッグという犬種だった。名前はグイド(Guido)で、グイドのステッカーをマシンのお尻に近い場所に貼り付けることがロッシの儀式の1つとなった。
ところがグイドは心臓に持病があり、長生きできなかった。2008年10月17~19日のマレーシアGP前に死去してしまう。ロッシは「グイドがなくなる時に自宅に居合わせたことは幸運だった」と語っている。
悲しみのどん底の中、マレーシアGPを走ったロッシ。
イタリアに帰国すると、大急ぎで家に帰り、車に乗って一直線にペットショップへ行き、イングリッシュ・ブルドッグを探すと可愛い雄犬が目に入った。速攻で店主に「これください」と言うのだった。
すると店主は「この雄犬には妹がいるんですよ」と言うではないか。可愛い兄妹を引き裂くことなどロッシにできることではなかった。「ちくしょう、そんじゃ2匹とも買っちまえ!」となり、2匹ともタヴーリアのロッシ邸に迎えられることになった。兄の雄犬はチェーザレ(Cesare)、妹の雌犬はセシリア(Cecilia)と名付けられた。
※この項の資料はこちら。この文章が書かれたのは2009年夏頃のようである。
2008年のロッシのマシンのシートにはグイドのステッカーが貼られている。
2009年以降のロッシのマシンのシートにはチェーザレとセシリアのステッカーが貼られている。
「Guido valentino rossi」と画像検索すると、グイドの写真がいくつか出てくる。画像1、画像2、画像3 写真を見るとわかるように、体の大部分が真っ白で、右耳や右目のあたりだけ茶色くなっている。
グイドのステッカーの画像はこちら。本物と同じように、右耳や右目のあたりが茶色い。グイドが逝去した直後のステッカーなので、グイドに羽が生えている。
「Cesare Cecilia valentino rossi」と画像検索すると、チェーザレやセシリアの写真がいくつか出てくる。画像1、画像2 写真を見るとわかるように、チェーザレとセシリアは似ているが見分けが付く。顔のど真ん中に真っ白な線がタテに一本通っているのがチェーザレ、顔の真ん中に白い線があるがその白い線がYの字の形になっているのがセシリアである。
チェーザレとセシリアのステッカーの画像はこちら。本物と同じように、チェーザレは白いタテ線1本、セシリアはYの字模様になっている。
猫
ロッシは猫も飼っていて、名前はロッサーノ(Rossano)という。茶色い猫。
2017年8月31日にロッシはトレーニング中に転倒して骨折し、9月初旬のサンマリノGPを休場した。治療の経過を尋ねるため、インタビュアーがロッシの自宅に押しかけたのだが、そのときソファーに座るロッシにロッサーノがやってきて話題となった。動画1
2015年3月の開幕戦までは猫を飼っていなかったらしく、シートのステッカーに登場しない。
このときのシートのステッカーは2匹の犬が描かれているだけである。
2015年9月のサンマリノGPの頃までに猫を飼ったらしく、スペシャルヘルメットに猫が登場する。
このときのスペシャルヘルメットは、サメ(ホルヘ・ロレンソ)に追われる小魚(ロッシ)というのが話題になったが、ヘルメット後頭部にはゴーグルを付けて潜水する2匹の犬と1匹の猫が描かれている。
2匹のブルドッグと1匹の猫のステッカーが2018年頃のロッシのマシンのシートに貼られているが、これはロッシのペット勢揃いのステッカーということになる。
犬(アメリカ系ゴールデンレトリバー)
2018年のチェコGPにおいて、ロッシのマシンにある異変が起こった。
シートの後ろのステッカーが、「フサフサの毛を持つ犬2匹と猫1匹」になったのである。
これを見たメディアが色々探索し、ロッシの彼女のフランチェスカ・ソフィア・ノヴェッロさんのnstagramに、同様の犬が映っている画像を発見した。※こちらとこちらの記事で取り上げられてる
さらに2019年1月、ロッシがこの画像を自分のInstagramに投稿して、最終的な答えが出た。
あのフサフサの毛を持つ犬はアメリカ系のゴールデンレトリバーで、2018年3月にロッシが飼い始め、2019年1月には成長して巨大化した(Instagramのサムネイルは2018年3月画像で、画像の中の>をクリックすると2019年1月画像になる)。名前はウリッセ(Ulisse)とペネロペ(Penelope)。
ウリッセは男性名、ペネロペは女性名なので、ロッシの飼うゴールデンレトリバー2匹は、雄1匹と雌1匹であると考えていいだろう。
ちなみにUlisseとPenelopeは、古代ギリシャの詩人ホメロスの作品『オデュッセイア』に出てくる登場人物の名前である。ウリッセ(Ulisse)が主人公で、ペネロペ(Penelope)はその奥さん。
Ulisseは英語でユリシーズ(Ulysses)と呼ばれる。また、Ulisseの別名はオデュッセウスという。
オデュッセウスについてはニコニコ大百科に詳しい個別記事がある。
亀
亀はペットではなく、ロッシにとってお守りである。
1990年のある日、11歳のヴァレンティーノは、母親ステファニアとペーザロのスーパーにいた。そのときヴァレンティーノはカメが店先に並んでいるのを見て、ステファニアに買ってくれとせがんだ。
ヴァレ「ねえお母さん、買ってよ」
ステフ「ダメ」
ヴァレ「良い子にするって約束するから。お願い」
ステフ「しょうがないわね・・・良い子にするのよ」
こんな感じのありがちなやりとりを経て、ヴァレンティーノはカメを手に入れた。
このとき店頭に並んでいたのは「水槽に入った生き物の亀」ではなく、ニンジャタートルのぬいぐるみだったようである。ニンジャタートルとはアメリカのアニメで、日本語版Wikipediaもある。
このニンジャタートルのぬいぐるみを買ってもらった1週間後に、ロッシはミニバイクを始める。ミニバイクのレースにも必ずぬいぐるみを持っていって、お守りにしていた。最初はぬいぐるみをヘルメットに吸盤でくっつけていたらしい。
なんと1998年のMotoGP250ccクラス参戦時にもニンジャタートルのぬいぐるみを持ち込んでいた。このことは原田哲也さんが証言している。
現在もロッシにとってカメはお気に入りで、カメのデザインのVR46グッズが多い。
2013年イタリアGPではカメのデザインのスペシャルヘルメットを持ち込んだ。
太陽と月、WLF
太陽と月
ロッシは「太陽と月」のデザインを好んでいる。画像検索すると色々ヒットする。
これは、ファンに対して太陽のように陽気で明るくフレンドリーになる性格になることと、ライバルに対して月のように冷酷で陰湿で苛烈な性格になることの二面性を表していると言われている。
ロッシがライバルに対して精神攻撃を始めたら「ロッシが月モードに入った」と表現される。
WLF
ロッシのライダースーツの首元の部分にはWLFと描かれている。
画像検索するとWLFのデザインのグッズが多くヒットする。
Wが緑、Lが白、Fが赤で、イタリア国旗を模している。
このWLFは「Viva La Figa」の意味。vivaのvとvを合わせてwにした。
vivaは「バンザイ」「素晴らしい」といった意味。
laは英語のtheに相当する定冠詞で、女性名詞の前に来る。
figaという言葉は・・・あまり上品な表現ではないのだが、ちょっと解説をしておきたい。
figaはもともとはイチジクの果実という意味である。
これを見たイタリア人は、×××××をfigaと呼ぶようになった。
さらに、女性のことをfigaと呼ぶようになったのである。
figaというのはちょっと下品な表現で、女性が言うような言葉ではないし、落ち着いた大人が言うような言葉でもない。10台の若者が男同士集まったときに「あいつはイイ女だよな~」と言い合うことがあり、そういうときにfigaと言う・・・そういう感じの言葉で、軽薄な感じの言葉なのである。
だから「Viva La Figa」とは「イイ女は素晴らしい」といった感じの意味になる。
ロッシのWLFのFは真っ赤である。このFの持つ意味を知ってからFの赤色を見ると、呆れるというか驚くというか、頭を抱えたくなるというか、そういうことになるだろう。
figaという言葉について伏せ字無しで意味を知りたいという方は「figa イタリア語」で検索しましょう。
家族
グラツィアーノ・ロッシ
ヴァレンティーノの父親。グラツィアーノ・ロッシの個別記事を参照のこと。
ステファニア・パルマ
ヴァレンティーノの母親。ちょくちょくピットに顔を出す。
ヴァレンティーノの自著では息子に向かって「良い子にしてるのよ」「なんで良い子にしないの」と言うお母さんとして登場する。
2005年の頃はタヴーリア市役所で技術調査官の仕事をしていた。
ヴァレンティーノはインタビューで、「母親とは今でも電話します。ブレーキやサスペンションのセッティングのアドバイスをもらうんですよ」と言う。このインタビューでもそう言っているし、2017年マレーシアGPの木曜記者会見でも同じ事を言っていた。そして自著でも同じ事を語っている。
ヴァレンティーノの自叙伝の331ページによるとヴァレンティーノが「ねえ、今日はブレーキトラブルを抱えてたんだ」と言うとステファニアがよく分からないながらも適当に「そうね・・・○×が原因じゃないかしら」と言っている、というのが実情らしい。それでもお互い、会話を楽しんでいるということらしい。
ヴァレンティーノ最大のライバルであるマックス・ビアッジを褒めていた。
2015年10月からヴァレンティーノの宿敵となったマルク・マルケスを「マルクのことを嫌いになることはないでしょう」と発言している。息子がイザコザを起こす相手へのフォローを忘れない。
ルカ・マリーニ
ルカ・マリーニはヴァレンティーノの異父弟。1997年8月10日、ウルビーノ生まれ。
母親はステファニア・パルマ。父親はマッシモ・マリーニ。
マッシモは画像検索してもサングラスをかけた姿しかヒットしない。
ヴァレンティーノとは顔がよく似ている。また、手足が長いところも似ている。
2016年からMoto2クラスにフル参戦を開始し、2018年ドイツGPで初表彰台を獲得した。2018年マレーシアGPでキャリア初優勝を収めている。2021年からは、MotoGPクラスに昇格して1シーズンのみだが兄と同じクラスでのレースをともに走ることを実現している。
友人
ウーチョ
ヤマハワークスの中に黒いシャツを着ていつもロッシのそばに付き従っている人がいる。
この人はウーチョといい、ロッシの親友である。詳しくは、ウーチョの記事を参照してください。
マックス・モンタナリ
ヤマハワークスの中に黒いシャツを着ていつもロッシのそばに付き従っている人がいて、ウーチョではないもう1人はマックス・モンタナリ(Max Montanari)という。本名はマッシミリアーノ(Massimiliano)。
このシーンで頭を抱えている。 この動画の37秒の辺りからインタビューに出ている。
1972年7月10日生まれでロッシの7歳年上の友人。料理人で、アプリリア時代からロッシに付き従い、ロッシの所属するチームのホスピタリティ(食堂)で料理をしてきた。記事1、記事2
現在はヤマハワークス所属ではなく、VR46所属としてロッシチームに帯同している。役割としては、レーシングスーツやグローブを準備する世話役である。
ロッシの自著ではマルコ・モンタナリというフィジカルトレーナーの名前が出てくる。マルコはマックス・モンタナリの親族かもしれない。
この動画は、マックス・モンタナリのインタビュー動画。「ヴァレンティーノが引退したら、僕もMotoGPパドックから去るだろうね」と語っている。
マウリツィオ・ヴィターリ
レース中のヤマハワークスのピットの中ではウーチョとマックス・モンタナリの他にもう1人、ロッシの周りで世話役をしている人がいる。
レース中は椅子に腰掛けて応援している。2006年、2009年、2015年、と動画が上がっている。
この人はマウリツィオ・ヴィターリ(Maurizio Vitali)と言い、AGVの技術者で、ヘルメットの修復を行う人である。
2015年日本GPでは、AGVと契約しているアンドレア・イアンノーネに対し、AGV特製の「やるっきゃないヘルメット」を授けている。
この動画ではヘルメットをロッシに届けに行く姿を撮影されている。
この記事の下の方に、「AGVの技術者」と紹介されている。
1957年3月17日生まれ。元・MotoGPライダーで、1980年代に125ccクラスや250ccクラスで活躍した。イタリア語版Wikipediaに戦歴が書いてあり、125ccクラスで2勝を挙げた強豪ライダーだったことがわかる。1993年に引退した後すぐにAGVに就職し、ヘルメットの修復・洗浄・乾燥といったメンテナンスを行う技術者になった。
アルド・ドルディ
アルド・ドルディはロッシのヘルメットのデザインを担当するデザイナー。
1958年生まれ、デザインを手書きで行う職人肌。
ロッシの他にも多くのライダーにデザインを提供する。ヘルメットデザイン以外にも多くのデザインを手がけており、MotoGP御用達デザイナーの観がある。
2017年以降のアプリリアワークスのマシンデザインはアルド・ドルディが担当した。
2018年サンマリノGPのポスターは彼が担当した。
アルド・ドゥルディはヴァレンティーノの父グラツィアーノの友人で、一緒にツーリングしていた。
グラツィアーノにもヘルメットデザインを提供していた。
リノ・サルッチ
リノ・サルッチはロッシファンクラブ会長を務める。こちらの動画で紹介されている。本名はチェザリーノ(Cesarino)。
ウーチョの父親で、ロッシの父グラツィアーノと昔から仲が良かった。このためヴァレンティーノとウーチョも仲良しになった。
フラヴィオ・フラテッシ
フラヴィオ・フラテッシはロッシファンクラブ副会長を務める。
こちらの動画でインタビューに答えている。
ロッシが優勝後にパフォーマンスをしていた頃、ロッシとともにアイディアを生みだしていたのはこのフラヴィオ・フラテッシであった。
2017年サンマリノGPの表彰式のとき、マルク・マルケスに向けてブーイングを飛ばす者が続出した。このときフラヴィオ・フラテッシは「ブーイングをする者はファンの資格がない」「私はマルク・マルケスを賞賛している」と発言している。
アルベルト・テバルディ(アルビ)
アルベルト・テバルディはロッシの友人で、ロッシを支援する企業であるVR46の代表を務める。
まさしくロッシの右腕。愛称はアルビ(Albi)。
VR46に入りたいという若手ライダーはアルビとウーチョの面接を受けなければならない。
VR46と契約を結ぶときの記念写真は、アルビとウーチョが映るのが定例となっている。
アルビもたまにランチでモトクロスを走らせて遊ぶ。
ちなみにVR46の本社はタヴーリアの北西にあるピラーノという街にある。ガラス張りの建物。
Googleストリートビューにも映っている。
ルイジーノ・バディオーリ(ジボ)
ルイジーノ・バディオーリは、1996年から2007年までロッシの個人マネージャーを務めた人物である。愛称はジボ(Gibo)。
ヴァレンティーノの父親グラツィアーノの友人で、1958年生まれ。カットーリカ出身。1996年以前は椅子の販売をしている小売業者だった。
個人マネージャーは契約交渉の代理人で、ヴァレンティーノに何か商談を持ちかけるのならジボに会わねばならない。ヴァレンティーノには各種申し込みが殺到するので、ジボの得意の一言は「NO!」であった。
ヴァレンティーノの自著では「ジボがHRCと交渉」「ジボがマックス・ビアッジにどつかれた」等という記述が散見される。
2007年8月にヴァレンティーノの脱税事件が勃発してから、ヴァレンティーノとジボの関係は悪化し、ジボは個人マネージャーを解任された。代わりにヴァレンティーノの個人マネージャーにはダヴィデ・ブリヴィオが就任した。ダヴィデ・ブリヴィオはヤマハワークスの監督を務めていた人である。
2010年頃にはジボも脱税疑惑でイタリアの検察に起訴されてしまった。
憧れのライダー
ヴァレンティーノ・ロッシが憧れのライダーとして挙げているライダーは、ケヴィン・シュワンツと、ノリックこと阿部典史である。
ロッシがミニバイクに乗り始めたのは1990年のことで、シュワンツの全盛期だった。
1994年の頃にはロッシは15歳になっていて、MotoGPのレースの録画を5~6回も繰り返し見ていた。
そんなとき、1994年4月24日に日本GPが行われた。時差があるためロッシは早起きしてテレビを見たが、そこでは鮮やかなオレンジ色を基調とするマシンにまたがり長髪をなびかせて疾走するライダーの姿が映っていた。それが阿部典史で、このときの走りをロッシは「まともな人間のものとは思えない」と表現しているほどで、デビューレースの新人が当時の最上位ライダーと優勝争いしていた。
ラスト3周の時点で阿部は転倒してしまい大金星を逃してしまったが、ロッシは阿部の走りに感銘を受け、それから毎日学校へ行く前に録画したビデオを見るようになった。毎朝7時に起きて録画を見たのは1994年の4月から6月までにおよんだという。7月以降は見るペースが減ったらしいがそれでも気が向いたら再生していたらしい。
このためロッシは阿部の大ファンで、2018年の現在もマシンに「ろっしふみがんばって」という黄色いステッカーを貼り付けている。走行時に右足ふくらはぎが当たる場所が定位置である。この動画でも「ろっしふみがんばって」の黄色いステッカーが確認できる。
「ろっしふみ」はもちろん「ロッシ」と「典史(のりふみ)」を合わせた言葉。
「がんばって」というのは、1996年にMotoGP125ccクラスにデビューしたとき、日本人がこぞって「頑張って!」と言ってきたのが由来となっている。
「ろっしふみがんばって」のステッカーのデザインを考案したのは青木治親である。
46番は永久欠番にしないでほしい
近年のMotoGPではしばしばゼッケンを永久欠番にすることがある。最大排気量クラスでは34、58、65、69、74が永久欠番になった。Moto2クラスにおいて48番が永久欠番になっている。
ところがロッシは「自分が引退した後、46番は永久欠番にしないでほしい」とこの記事で語っている。
とはいえ、46番を進んで使おうとするライダーは、そう簡単に出現しないだろう。
上田昇さんは、レッドブル・ルーキーズカップ(若手育成用の選手権)に自分の弟子を出場させる際、付き添いで弟子に着いていく。ゼッケンを決める会合の時にも弟子とともに行ったのだが、その場でヨーロッパ系の若手ライダーたちが誰も「46番がほしいです」と言い出さなかったことに驚いていた。どのライダーも、46番を恐れ多い番号として、気軽に付けようとしていなかった。
ちなみにそのときは日浦大治郎が「あ、じゃあ僕が46番もらいます」と言って、あっさり決まっていた。
で、引退後の2022年5月、やっぱり永久欠番に決まってしまった。残念だが当然である。
その他の雑記
ヴァレンティーノ・ロッシは公道で二輪を走らせるタイプの人である。現在も公道で走ることがある。たまにファンに見つかってしまうことがあるらしい。
シーズンオフにはモンツァラリー・ショーという4輪の祭典に出ることが恒例になっている。動画1、動画2 モンツァラリー・ショーはイタリア北部の大都市ミラノの郊外にあるモンツァサーキットで行われる。
レースが大好きで、Moto2やMoto3のレースを毎レースしっかり見ていてとても詳しい。「あの選手は速い」「あの選手は今ひとつ」としっかりコメントすると中野真矢さんが証言している。
左利きで、サインをするときに左手でペンを持つ。
彼女がいて、しょっちゅうパパラッチされている。
まだ身を固めていない(結婚していない)。母親のステファニアからは「孫の顔を見るのはルカ(ルカ・マリーニ)に期待することにしてるわ」と言われている。
結構な宵っ張りで、いつも夜更かしする。そのため朝に弱い。また、遅刻の常習犯でもあると自著で告白している。
ヴァレンティーノの通った高校はペーザロの語学学校だったのだが、そこには美術史の女教師がいた。
「そんなバカみたいなバイクにずっと乗ってばかりいて、あなた、そのうちそれでご飯が食べられるようになると本気で思ってるの?」というキッツい言葉を、若い頃のヴァレンティーノに浴びせていた。そのことは、ヴァレンティーノの自叙伝の109ページに出てくる。
時が流れて2019年1月27日、ヴァレンティーノはイタリアのテレビ番組に出演したのだが、そのとき美術史の教師のことを話題に出していた。この動画がそのときのもので、この記事で内容が少し書かれている。それによると、ヴァレンティーノの従姉妹がペーザロの語学学校に通うようになったのだがなんとあの美術史の教師がまだ勤務していたという。あいかわらず、ちょっと怒りっぽいらしい。従姉妹の子は、ロッシの身内であることを黙っているという。
関連商品
ロッシ唯一の自著。ロッシが語ったことをエンリコ・ボルギという記者が2005年中頃にまとめた。
幼少期のエピソードやヤマハ移籍の内部事情、ビアッジとの衝突など細かく記述されている。
ロッシの顔がデカデカと表紙に出ているがロッシのことをあまり書いていない。
ヤマハワークスのスタッフの体験をまとめた本で、古沢政生さんの記述が多い。
マット・オクスレイという元二輪レーサーのジャーナリストが書いた本。
ミニバイク時代から2002年の4スト990ccマシンチャンピオン獲得までのロッシの走りを記述している。
ライディングに関するマニアックな記述もあるし、ロッシの家族についてのエピソードもある。
関連動画
関連リンク
関連項目
- ウーチョ(友人であり付き人。いつもロッシのそばにいる)
- グラツィアーノ・ロッシ(父親)
- ミサノ・アドリアーティコ(自宅から近い街)
- トラファルガー・ロー(漫画『ONE PIECE』に登場するキャラクター。ロッシがモデル)
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