ビヨン・ボルグはスウェーデンの元テニス選手である。ウィンブルドンと全仏オープンという芝と土の両方で強さを発揮したため、いまだに史上最強の声がある選手。
概要
Bjorn Borg | |
基本情報 | |
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国籍 | スウェーデン |
出身地 | スウェーデン: セーデルテリエ |
生年月日 | 1956年6月6日 |
身長 体重 |
180cm 73kg |
選手情報 | |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
デビュー年 | 1971年 |
引退年 | 1983年 |
テニス選手テンプレート |
70年代から80年代初頭にかけて活躍した大選手。ウィンブルドン5連覇、全仏オープンでは4連覇含む6回優勝と、芝と土という相反する環境で圧倒的な強さを見せた。全米オープンでも4回決勝に進出したが、70年代はジミー・コナーズ、80年代はジョン・マッケンローのアメリカコンビに阻まれ準優勝に終わっている。
ウィンブルドン決勝における2年連続のマッケンローとの対戦は非常に有名。特に5連覇を達成した1980年の決勝は伝説的な試合として知られる。翌1981年はウィンブルドン連覇が止まって燃え尽きたのか、この年を最後に本格的なツアー転戦を止めてしまう(正式な引退表明は1983年1月)。以降は散発的な大会出場にとどまり、以前のような強さを見せることも無かった。後に本格的に復帰を試みたこともあったようだが失敗に終わっている。
25歳の若さで実質引退状態になったため、通算マッチ勝率は非常に高い。特に四大大会でのマッチ勝率はオープン化以降では最高の.898を誇る。その一方で伝説的大選手としてはマッチ勝利数はかなり少ない。実はランキング1位もコナーズに抑えられていた期間が長かったため意外にも2年程度しかない。
引退後は下着ブランドを立ち上げたが、うまくいかなかったともっぱらの噂(ただし本人は失敗を否定している模様)。2006年にはウィンブルドンの優勝トロフィーと1980年の決勝で使ったラケットをオークションに出したこともあった。最終的に出品は撤回されたが、翻意のきっかけは現役時代にライバルだったマッケンローからの電話だったという。ロジャー・フェデラーの5連覇がかかった2007年、15回目の四大大会優勝がかかった2009年のウィンブルドン決勝では観戦に姿を見せている。また最近では新たに立ち上げられたレーバーカップの大会で、欧州選抜チームの監督を務めている。現役時代はどこのキリストかと言いたくなる風貌だったが、今はいい感じに落ち着いたおっさんになっているようである。
トップスピンの第一人者
トップスピンを使ったストロークを武器に、特にクレーコートで圧倒的な強さを見せた。クレーでのマッチ勝率はラファエル・ナダルが現れるまで歴代1位だった。トップスピンが標準的に使われ始めたのはボルグ以降だと言われている。後の選手のプレイスタイルに影響を与えたと言う点でコナーズと並んで非常に重要な選手。一方1980年、1981年のウィンブルドン決勝でのプレイを観てみると意外にもかなりの割合でネットに出ていることが判る。サーブ&ボレーも多用しており、ラケット性能が悪かった当時、芝ではネットに出ることが必須だったことが伺える。サーブもそこそこ強力で得意ショット以外でも穴が少なく、非常にオールラウンドな選手だったようだ。
主な実績
- ATPシングルスランキング1位(在位109週)
- ウィンブルドン優勝5回(1976年~1980年:当時のオープン化後最多記録、後にピート・サンプラス、フェデラーが更新)
- 全仏オープン優勝6回(1974年、1975年、1978年~1981年:当時の歴代最多記録、後にナダルが更新)
- ウィンブルドン準優勝1回(1981年)
- 全米オープン準優勝4回(1976年、1978年、1980年、1981年)
- シングルス通算優勝回数 64回(記事作成時点で歴代5位タイ)
- シングルス通算マッチ成績 609勝127敗
- ウィンブルドン5連覇はオープン化後の大会最長連覇タイ記録(後にフェデラーも達成)
- 全仏オープン4連覇は当時の大会最長連覇記録(後にナダルが更新)
- 芝でのマッチ41連勝は当時の芝でのマッチ連勝最長記録(後にフェデラーが更新)
全豪オープンの実績が無いのはそもそも1973年というキャリア初期の1回だけしか出場していないためである。当時の全豪オープンは大会規模が他の大会に比べ小さく(1973年の男子シングルスドローは56名、全豪以外の四大大会は既に128名)、四大大会の中では最も格下の大会と捉えられていた。日程的にも77年から85年までは年末に開催されており、出場を渋ったトッププレイヤーが多かった。仮定の話をしても仕方ないとはいえ、もし出ていたら何回か優勝できたと想像されるのもボルグ最強論が未だに語られる理由の一つだと思われる。78年~80年にかけては全仏、ウィンブルドンを両方優勝しているので、全米も獲っていれば年間グランドスラムを狙って全豪にも出ていたかもしれない。
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関連項目
- テニス
- ウィンブルドン
- ジョン・マッケンロー - 2年連続のウィンブルドン決勝での対戦はもはや伝説となっている
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