単語記事: フェラーリ

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フェラーリとは、フィアット下の、イタリアの高級スポーツカーを製造している自動車メーカーである。
現在社長セルジオ・マルキオンネ(フィアットグループおよびクライスラーのCEOを兼務)。

概要

他の自動車メーカーとは異なり、創業者のエンツォ・フェラーリが自身のレース活動を運営する為に設立(スクーデリアフェラーリ)、1950年から行われているF1世界選手権に、初年度から現在まで参戦してる一のコンストラクターである。

また、様々な名を製造し、自動車歴史伝説を築いている。これもレースを得るためにレース車両ロードカー用に再調整されたもので、当初は性べて品質の悪さもあった。
しかしレースでの活躍がフェラーリブランドイメージを向上させ、高価であったものの、世界中のセレブリティ用されるようになった。

1960年代に経営危機に陥ったが、同じイタリアフィアットが買収、エンツォはレース活動に専念し、部門はフィアットの下で整理されて自動車メーカーらしくなっていった。

1988年にエンツォが亡くなると、彼の自社フィアットが買い取り、全部門がフィアットの管理下となった。

1991年ルカ・ディ・モンテゼーモロが社長に就任すると、リストラを含む革を行った。その結果、は大幅な品質向上に成功させ、売り上げにもつながった。さらにレース部門では、F11999年から2004年までコンストラクタータイトルを手にするなど、最古の参加チームながらもトップクラスを維持し続けた。

しかし2007年タイトルを最後にF1ではチャンピオン獲得には至らず、依然と300億円以上を予算としてかける状況に、フィアットCEOセルジオ・マルキオンネと対立構造が生まれ、ついに2014年にモンテゼーモロが更迭され、マルキオンネが新社長となった。

2009年3月9日自動車業界初のニコニコチャンネルFerrari チャンネル 」が開設された。

 現行車種

12気筒モデル

8気筒モデル

スペシャルモデル

過去車種

※数がものすごいので一部抜

スクーデリア・フェラーリ

ここでは、フェラーリレース部門であるスクーデリアフェラーリ歴史を挙げていく。あまりにも膨大なので、エンツォ・フェラーリが存命中の時代を中心に、要な出来事を書くに留める。詳しく知りたければ、専門的な書物やサイトが山のようにあるのでその辺は苦労しないはずである。

黎明期~戦前

エンツォ・フェラーリレース活動は、当時のイタリア自動車メーカーにレーシングドライバーとして参加することから始まる。やがて、名門アルファロメオに所属、1923年にラベングランリレースで初優勝を遂げる。この時の縁で、地元の名士バラッカ氏の息子である第1次世界大戦でのイタリア軍の撃墜王、フランチェスコ・バラッカのトレードマークである「キャバリーノ・ランパンテ(跳ね)」の紋章を譲られる。これが今に続く「い跳ね伝説の始まりであった。

やがて、アルファロメオムッソリーニ政権による自由への抑圧の中でグランリレースから一時撤退を余儀なくされるが、スポーツカーを切ることになる。この中で、エンツォは1929年にアルファロメオセミワークスチームスクーデリアフェラーリ」を結成した。長男ディーノが生まれたことでレーサーとしては身を引いたエンツォだったが、彼のエントリーさせたマシンはミッレ・ミリアタルガ・フローリオル・マン24時間レースといったクラシックイベントで暴れまわった。しかしやがてナチス・ドイツ威発揚を的に台頭してきたメルセデスアウトウニオンを相手に苦戦するようになり、業を煮やしたアルファロメオ本社がスクーデリアフェラーリを解散することを命じ、やがて対立したエンツォを追放してしまう。
この時の契約で、4年間フェラーリの名を使えなくなったエンツォは、ティーポ815を製作し、戦争前の最後のレースとなったミッレ・ミリアに参戦。これが、フェラーリ初のオリジナルカーであった。

戦後~1950年代

第2次世界大戦が終わり、再びスクーデリアフェラーリを名乗れることになった上で、初のフェラーリの名を冠したマシンティーポ125完成させた。これのグランプリカバージョンである125F-1が記念すべきフェラーリ初のF1マシンとなった。

1950年からF1グランプリが開始され、エンツォの標はかつて自分を袖にしたアルファロメオを打ち破ることとなった。この年は、直接対決での勝利は果たせなかったものの彼らの欠場したレースで勝利し、手応えを掴んだ。翌年、シルバーストンサーキットで行われたイギリスGPで、遂にアルファロメオを打ち破ることに成功。狂喜したエンツォはアルファロメオに対して「今もアルファロメオは私の初恋の相手だ」と賞賛なのか煽りなのかわからないメッセージを送る。後に、エンツォはこの時の気持ちをこうっている。

「私は嬉しくて泣いたが、悲しくもあった、なぜなら自分の母親を殺してしまったのだから…」

この年のイタリアGPで、フェラーリはまたも1-2フィニッシュでアルファロメオを破り、観客たちは新たなグランプリの役誕生に「これからはフェラーリの時代だ!」と熱狂した。現在まで続くフェラーリファンティフォシ」の始まりである。もっとも、結局タイトルアルファロメオにさらわれてしまったのだが。

1952年フェラーリは圧倒的な強さで初のワールドチャンピオンを獲得する。(当時はドライバーチャンピオンのみ)
その後は1953年も制して連覇し、その後やや低迷するが1956年1958年ドライバータイトルを獲得。しかし1958年ミッドシップマシンが現れ、FRフォーミュラカーは時代遅れになりつつあった上、この年から始まったコンストラクターチャンピオンシップの初代タイトルを獲り損ねてしまう。翌年もミッドシップマシンが立たなかったフェラーリは、いよいよ自らもミッドシップマシンを作る必要に迫られていた。

1960年代

1960年、初めてミッドシップマシンを投入したがさすがに熟成不足で、いきなり勝てるわけもなかった。しかし、翌年にマシンの性を下げるためにレギレーション定され、それまでのF2相当の1500ccエンジンと定められた。これが有利に働いた。すでにフェラーリは優秀なF2エンジンをもっており、これをそのまま新開発のミッドシップマシンに搭載すればよかったのだ。こうして、1961年シーズンフェラーリのものとなり、初めてのドライバーズ、コンスクターズのダブルタイトルを獲得した。しかし、その後はまた低迷。1964年に新エンジンを開発してダブルタイトルを取り返したが、これも一年限りだった。

1966年F13000ccとなる。これは1980年代半ばまで長らく続く規格となるのだが、これの対応でフェラーリはつまづいてしまう。ティーポ312V12エンジンパワーで圧倒する作戦に出たのだが、信頼性やバランスで勝負してきたブラバムロータスといった英国勢相手に決め手を欠く展開が続いてしまう。そこにフォードコスワースDFVという極めて汎用性に優れるエンジンが出現。結局タイトルから遠ざかったまま60年代を終えることになったのである。

スポーツカーレースでのフェラーリ

さて、ここでスポーツカーレースでの活躍にも軽く触れておこう。

上記125良した166で、1949年に再開されたル・マン24時間レースを制したフェラーリは、この166のロードカーを販売。自動車メーカーとしての一歩を踏み出す。

1952年には250シリーズデビュー。これをベースにひたすら排気量アップパワーアップを図り、1954年には375プラスで2度ル・マン24時間制覇を果たす。しかし、パワーゴリ押しする戦略には限界が来ており、安全性も含めて問題が深刻になりつつあった。ル・マンではジャガーに三連覇を許し、地元の有利さで戦えたミッレ・ミリアでも観客を巻き込む大事故を起こしてしまう。これによってスポーツカーレースは排気量が3000ccに制限される。

だが、これですでに熟成された250エンジンを再び活かすことが出来、いカムカバーを付けたテスタロッサエンジン250TRは1958年1960~1961年ル・マン24時間のみならず、スポーツカーレースメイクスタイトルをも圧勝した。
あまりに250TRが強すぎたので、今度は年間100台以上の生産を条件とするGTクラスメイクスタイトルを移し、250TRを含むプロトタイプカーを閉めだしにかかるレギレーションとなった。だがフェラーリGTクラスを上記の250GTOで対応しつつ、チャンピオンシップとは関係なくなった代わりに制限もくなったプロトタイプカーでは、250TRのパワーアップ版330TR/LMでまたも1962年ル・マン24時間を制する。

翌年、いよいよスポーツカーにもミッドシップ化の波が押し寄せる。250エンジンを積んだ250Pはル・マン24時間の優勝でスポーツカーレースの新時代を告げた。だが、の向こうからフォードGT40を引っさげてスポーツカーレースの制覇に乗り出してきた。しかし、まだギアボックスなどの信頼性に問題を抱えたフォードに対し、熟成されたフェラーリマシン1964~1965年と防衛を果たしてみせた。もっとも、1965年フェラーリワークス、330P2トラブルで潰れてプライベーターの2線級マシンである250LMがフォローした結果だったが。これは、1960年以来の6連覇という見事なものであり、フェラーリスポーツカー黄金期と言えた。

ついに翌1966年良なったフォードの圧勝に終わり、これ以降フェラーリル・マンの優勝から現在2017年)まで遠ざかってしまう。新の330P3、330P4412Pといったマシン素晴らしいスタイリングを誇り、現在ももっとも美しいレーシングカーの一つと賞賛されている。これらはフォードポルシェを向こうに回して大活躍したが、肝心のル・マンだけは勝てなかった。

1968年には3000ccの排気量制限と引き換えに、チャンピオンシッププロトタイプカーに掛けることが認められた。これはフォードを初めとするアメリカのマッスルカー勢を排除するためだったが、フェラーリも巻き添えを食う形になり、この年の参戦を断念する。翌1969年312Pで戦ったがやはりフォードGT40に敗れた。フォードは年間50台生産を条件とした5000ccクラス認を受けていたのである…。

1970年に、5000ccクラスの条件が年間25台生産に緩和され、これに対応したニューマシン512Sを製作するが、今度はポルシェ917で立ち塞がった。翌年の良版512Mでも勝てず、再び3000cc制限に戻った1972年312Pで戦うもル・マンは欠場。しかし他のレースは圧倒してタイトルを獲得。翌73年も312Pで戦ったがついにタイトルフランスマトラに奪われた。この時、親会社であるフィアットからレース予算の削減をめられたフェラーリは、ワークス活動をF1一本に絞ることを決定。この後、現在2017年)に至るまでスクーデリアフェラーリワークススポーツカーレースに現れたことはい。WECなどにはAFコルセと言うチームからGTクラスフェラーリマシンが参戦しているものの、あくまでセミワークスであり、スクーデリアフェラーリとは別組織である。

1970年代

1970年コスワースDFVはカスタマー販売され、プライベーターでも一定の資さえあれば一線級の性エンジンを手に入れることが出来るようになっていた。実際、フェラーリを含む一部のエンジンを自製するチーム以外は、事実上DFVエンジンワンメイク状態だったのである。
もちろん、レースとしてはチーム間の格差が少なくなって盛り上がるが、フェラーリにとっては強ライバルが幾つもいることにほかならない。技術はこれまでのV12エンジンに代わって、水平対向312Bを開発。より低重心とすることでDFVに対抗しようとした。
ドライバーも才気あふれるベルギー人のジャッキー・イクスと、スイス人のクレイ・レガッツォーニのコンビとなる。1970年こそかなりの戦闘力を見せるも、その後はやはりジリ貧に陥り、特に1973年312B3の開発が全に迷走。途中休場してまで良をしたが、成果はさっぱり上がらなかった。このとき、ボツったマシンの中には「雪かき」と呼ばれる程の不格好なものもあった。現在フェラーリ黒歴史として現物をみることが可である。

1974年チームルカ・ディ・モンテツェモーロの元に革を断行。オーストリア人のニキ・ラウダといったんチームを放逐されるも呼び戻されたレガッツォーニの二人によって、急速に312B3は一線級のマシンとなっていった。チームに加わったばかりのラウダが、マシンに初めて乗るなりその出来を酷評し、エンツォを怒らせた。エンツォは、ラウダ摘するマシン善点をその通りにするからタイムを1秒以上縮めてみせろと要。ラウダは見事にそれに応えたという逸話は有名である。
翌年、重心の集中を狙った横置きギヤボックスを採用し、312TとなったマシンはついにDFV勢を圧倒する性を発揮。ラウダの初チャンピオンと共に11年ぶりのダブルタイトルを獲得した。
この後、1976年にはラウダが大事故で瀕死の重傷となるが、彼は不屈の魂で復活。1977年チャンピオンを獲る。チームコンストラクターズ3連覇を成し遂げた。第1次黄金期とも呼ぶべき全盛時代の到来であった。

ウダ77年からチームとの関係が悪化して、チャンピオンを決めた時点で一方的に離脱してしまった。さらに、ロータスウィングカーを導入したことで312Tシリーズの優位にも陰りが見える。1978年はひとまずミシュランの開発したラジアルタイヤで対抗するも、タイトルには届かなかった。
1979年にはかなり強引にウィングカー改造した312T4を開発。ジル・ヴィルヌーヴとジョディ・シェクターコンビも良好で、シェクターチームダブルタイトルを獲る。しかし、ここから20年以上もの間、チームが長いトンネルに入るとはも予想していなかったに違いない。

1980年代

1980年は、いきなり最悪の事態で幕を開けた。昨年の「良」である312T5が全くの「悪」になってしまい、表台にも乗れずに終わったのである。予選落ちすら喫したシェクター引退チームはすでにルノーが実績を上げつつあった1500ccターボエンジンへの移行を図る。

翌年に実戦投入なったターボマシン126CKはしかし、パワーこそ素らしかったが旧態依然のシャシー全に負けており、「コーナーではまともに曲がらない。ストレートでもどこにすっ飛んでいくかわからない。」というトンデモマシンであった。新たに加入したディディエ・ピローニは普通に走らせるのがやっと。モナコスペインでの勝利はヴィルヌーヴのドライビングテクニックがもたらした奇跡に近いものであり、未だにりぐさとなっている。
1982年にはかに洗練された126C2となり、タイトル奪還に期待が集まった。だが、サンマリノGPに端を発するヴィルヌーヴとピローニの確執が、次戦ベルギーGPでのヴィルヌーヴの死という悲劇を呼んでしまう。

エンツォはヴィルヌーヴを溺愛しており、その死を悲しみこうったという。

「私がこれまで失ってきた人々の顔が浮かんでくる。その中にヴィルヌーヴの顔が加わってしまった」

これでピローニがチャンピオンシップリードするが、彼もドイツGPで再起不の重傷を負って戦線離脱。代役となったパトリック・タンベイらの奮闘もあってチームはターボマシン初のコンストラクタータイトルを手にするが、大した慰めにもならなかった。

1983年はタンベイとルノーから移籍してきたルネ・アルヌーのフランスコンビとなった。昨年の悲劇を受けての対策としてウィングカー止されたなか、チームコンストラクタータイトルを連覇するも、ドライバータイトルブラバムネルソン・ピケにさらわれてしまった。
翌年からはイタリア人のミケーレ・アルボレートが加入。「ティフォシ」たちは絶えて久しいイタリア人のワールドチャンピオン誕生への期待に心躍らせた。しかし、これ以降マクラーレンTAGポルシェホンダが立ちふさがることになる。
1984年1985年タイトルはならず、あまつさえ1986年は未勝利に終わってしまう。

1987年にはオーストリア人のゲルハルト・ベルガーが加入し、新F187ライバルに負けぬ洗練されたマシンとなった。シーズン終盤の日本GP。最大のライバルホンダの地元でのブッチギリの勝利を挙げたベルガーは、

「涙、涙だぜ。これでエンツォの親父を高くして眠れるな」

次の最終戦オーストラリアも制し、来年こそはの思いがあった。しかし、これがエンツォにとっての最後の勝利となってしまう。

翌年1988年はターボエンジン最後の年となり、様々な制限がターボエンジンに課された。しかし、これはフェラーリをも巻き込んでしまい、燃費対策のためにペースを落とさざるを得ない中、ホンダはそれらのハードルを難なくえていく。マクラーレンホンダに開幕から圧倒され、苦闘するチームに有ってはならない知らせがもたらされた。エンツォ・フェラーリがその生涯を閉じたのである。
それから間もないイタリアGP。なんとホンダエンジン勢がレース中に全滅。「ティフォシ」たちが熱狂する中ベルガーとアルボレートが1-2フィニッシュし、エンツォへのこれ以上ない手向けとなったのである。

1989年に向けて、チームは全くの新マシンを開発していた。3500ccV12エンジンを搭載した流麗なマシン640と呼ばれ、ウィリアムズから移籍してきたナイジェル・マンセルとベルガーのコンビは相変わらず強マクラーレンホンダに果敢に立ち向かう。新機軸の多いマシンゆえにリタイアも多かったが、シーズン3勝は上出来といえるもので、来る1990年代に期待は大いに高まった。だが、まだトンネルは抜けるどころか半ばも行ってないことをも知らなかった。

1990年代

1990年アラン・プロストを新たに迎えたフェラーリは、昨年の進化マシン641及び641/2でもってマクラーレンホンダをあと一歩まで追い詰めるがタイトルは惜しくも逃した。
そして、翌年からはなんとこれまでにない長いスランプにおちいることになる。3年間にもわたって1勝も出来ず、その後も年1、2度勝つかどうかであった。

フェラーリの新社長となったルカ・ディ・モンテツェモーロは、チーム監督ジャン・トッドを招聘。そしてすでに2度のチャンピオンを取っていた最強ドイツミハエル・シューマッハを迎え入れた。シューマッハとトッドはチーム常勝軍団へと引き上げることに成功。1997年1999年は常にチャンピオン争いをするところまで行き、1999年に久方ぶりのコンストラクタータイトルを取ることになった。

2000年代

2000年、ついにトップレベルマシンF1-2000を作ることに成功。マクラーレンメルセデスミカ・ハッキネンとの闘の末、チームは実に1979年以来21年ぶりのダブルタイトルを獲得。とうとうトンネルは終わったのである。
この後、シューマッハ2004年に至るまで5年連続のドライバーチャンピオンとなり、当然チームコンスクターズ5連覇。まさに第2次黄金期の到来となった。

だが、諸行常は避けられぬことフェルナンド・アロンソルノーの台頭を前に、2005年2006年は続けて惜敗することになり、シューマッハ引退2007年シューマッハに代わったキミ・ライコネンによってかろうじてダブルタイトルを獲るものの、黄金期を支えたもう一人、ジャン・トッドもこの年限りで去る。これ以降またもスクーデリア黄昏の時代を迎えることになる。

2008年コンストラクタータイトルは獲ったものの、フェリペ・マッサマクラーレンルイス・ハミルトン戦の末に1ポイント差で敗れる。続く2009年はたった1勝するだけにまで落ちぶれてしまうのである。

2010年代

2010年ライコネンに代わってかつて敵として立ち塞がったアロンソが加わる。捲土重来が期されたが、時代は新勢レッドブル・レーシングのもとに移ろうとしていた。セカンドドライバーマッサが不調に陥ったままの中、ドライバータイトルを狙い続けるアロンソだが、セバスチャン・ベッテルの前に跳ね返され続けた。2014年にはエンジンが複雑な回生システムを持つPUパワーユニット)となる新レギレーションとなり、これの対応にも失敗。メルセデス々とダブルタイトルを取るのを許すばかりか、1993年シーズン以来の未勝利に終わってしまう。

2015年アロンソマクラーレンホンダに去り、今度はベッテルが跳ねエースに座る。初年度にして2勝を挙げたのはまずまずの結果と言えた。翌年はまたもや未勝利。2017年は開幕戦から優勝して幸先良くスタート。前半戦をリードするが、後半戦に入ってからそれまでの勢いがウソのように失速。結局、メルセデスの独走を許してしまった。

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読み:フェラーリ
初版作成日: 08/11/19 13:38 ◆ 最終更新日: 17/12/24 12:09
編集内容についての説明/コメント: 過去の車種に288GTOを加筆
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フェラーリについて語るスレ

48 : ななしのよっしん :2014/07/25(金) 01:46:30 ID: DH+jW7b0Y+
え、F50GT(震え声)
雑誌で写真見たときガキはもう大奮だったわ
49 : ななしのよっしん :2015/05/24(日) 09:46:46 ID: LSvKGTQt4n
458から488GTBにチェンジしたな。
ターボ化して音が残念になった気がするが…
50 : ななしのよっしん :2015/05/25(月) 21:22:15 ID: DH+jW7b0Y+
なんというか、デザイン悪された様に感じてな>488
ラ・フェラーリは良かったのに
51 : ななしのよっしん :2015/10/29(木) 19:31:58 ID: FXiQav/2Be
個人的にはFFが好き。オシャレだと思う。
52 : ななしのよっしん :2016/01/22(金) 22:59:04 ID: 4JKp7E9D9K
ニコ生におけるNGワード。理由は言わずもがな
53 : ななしのよっしん :2016/02/22(月) 04:55:28 ID: CGfkxrtcZf
名前のせいで引っかかるネトゲも多い。理由は上に同じ
54 : ななしのよっしん :2016/09/11(日) 19:10:37 ID: hhj5GkXihL
乗ったことも生で見たこともないけど458が一番美しいと思う
特にリアのテールランプが好き ああいう円の縁をなぞるようなのに弱いんだよなぁ 
最近だと新フォードGTもああいうランプだった
55 : V :2016/10/29(土) 13:54:25 ID: 7zIEt0ELxt
マルクアレンがテスターだったとは知らなんだ
56 : ななしのよっしん :2017/03/24(金) 21:48:24 ID: KAdV2YnCY4
FF(フェラーリ・フォー)、フェラーリ・ラ・フェラーリフェラーリ・エンツォ、記事のある種へのリンクい。
57 : ななしのよっしん :2017/04/02(日) 16:02:16 ID: 7keVlquiLl
第一次スーパーカーブームフェラーリであるところの365BB512BBも重要だな
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