フランス第二共和政とは、1848年の二月革命から1852年のルイ・ナポレオンの皇帝即位まで続いたフランスの政体(共和国)である。激しい政治闘争の混乱により4年に満たない短命に終わった。
概要
フランス革命によって激動の時代を迎えた近代フランスでは、ナポレオン(1世)の帝政を経て、王政に戻ろうとする反動的な力が働いていた。ワーテルローの戦いでナポレオンが失脚するとブルボン朝が復活し、中世的な貴族特権や絶対王政を復活させようとする。
それに対して1830年に七月革命が起こり、ブルボン朝のシャルル10世を追放し、ルイ・フィリップによる立憲君主制が始まった。しかしルイ・フィリップの七月王政はブルジョワに優しく人民に厳しいものであったため、人々は自分たちで政治を行うための共和制を望みはじめた。
- 絶対王政
王様が専制君主となって国の政治を行うシステム - 立憲君主制
王様はいるが、議会の定める憲法の下での存在となる。王様の政治権力は強力~皆無まで様々。天皇制のある現代の日本もこれ - 共和制
王様はおらず、国民の中から選ばれた人が国のトップ(=大統領など)に立つシステム。必ずしも民主主義ではない。
国民の興奮は1848年に最高潮に至り、二月革命をもって七月王政を倒し、第二共和政が樹立された。これは労働政策を行ったり普通選挙による議会をもっていたりと近代的な国家システムであった。
しかし、国立作業場を巡る争いをはじめとして数々の政治闘争が発生し、その政治基盤は不安定であった。四月の普通選挙の後に六月蜂起が勃発。そしてやがて国民の信頼を失っていった。その後、十二月大統領選で皇帝ナポレオン一世の甥のルイ・ナポレオンが当選した。
1851年にルイ・ナポレオンが国民の支持の下でクーデターを起こして共和政を崩した。翌年の国民投票で信任を得て、ルイナポレオンはナポレオン三世として皇帝に即位した。ここにフランス第二帝政が開始される。
関連する主な党派
色んな党派がたくさん登場するのでややこしい。その党派が革命的か反動的かだけはチェックしておこう。基本的には上の方ほど反動的で、下の方ほど革命的である。
党派 | 階級的基盤 | 代表的人物 | 思想 |
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正統王朝派(レジティミスト) | 土地所有ブルジョワジー | ファルー、ベリエ | 昔は良かった!革命なんてなかった事に!→(七月革命後)まずはブルボン朝復活を目指す |
オルレアン派 | 金融、大工業ブルジョワジー | ギゾー、ティエール、モレ、バロー、デュパン、シャンガル、ニエ | 人権ありきの立憲君主制が理想、金持ちが政治に参加できる |
穏健共和派(ブルジョワ共和派) | 中産階級(ブルジョワ、弁護士、官僚) | ラマルチーヌ、マラスト、カヴェニャック、ジラルダン | 七月王政下ではオルレアン派ほど恩恵に与れていないが、社会主義者ほどの不満も無い |
ジャコバン派(小市民的民主派) | 小市民(小店、手工業) | ルドリュ=ローラン | まずは普通選挙を実現して政治に参加、(上からの)改革を |
社会主義者 | プロレタリアート | ルイ=ブラン、コシディエール | 労働者のための社会を作るために(下からの)改革を |
革命的共産主義者 | プロレタリアート | ブランキ、マルクス | 人民による武力革命、武装独裁が必要だ!! |
正統王朝派はルイ16世の系譜のブルボン朝、オルレアン派はルイ・フィリップのオルレアン家を支持する勢力である。正統王朝派とオルレアン派は1848年5月に連合して秩序党を結成し、保守派となった。いわゆる右翼である。
穏健共和派はブルジョワ共和派、または純粋共和派とも呼ばれる。またジャコバン派は急進共和派、社会的共和派、小市民的民主派、モンターニュ派と呼称されることもある。小市民的民主派と社会主義者は1849年1月に提携して社会民主党を形成した。
以上の派閥は第二共和政のなかで互いに主導権争いをつづけ、人民の信頼を失った。結局最後に勝ったのはルイ・ボナパルトのボナパルト派であった。
ボナパルト派 | フランス国民、ルンペンプロレタリアート | マニャン、モルニ公、モーパ | フランス革命の成果を重視しつつ、皇帝による強力な中央集権を目指す |
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前史 ~ 復古王朝
王政復古、ブルボン朝の復活
ルイ18世 シャルル10世
1815年、ナポレオンがワーテルローの会戦において破れてセントヘレナ島に流されると、フランス革命のときに亡命していた貴族(エミグレ)が復権を求めて帰国した。彼らの手によってルイ16世の弟、ルイ18世が国王に即位し、ブルボン朝も復活。
エミグレの望みはかつての絶対王政と封建的貴族特権の復活であったが、それは半ばにしか達成されなかった。しかし、それでもかつて王権と強く結びついていたカトリック権力を回復させたり、反革命的な王政復古の動きは続いた。
そんな中で行われた下院議員選挙では「国王よりも王党派的」と言われるユルトラ(超王党派)が勢力を伸ばし、封建社会へのさらなる回帰を目指した。野心に燃えるユルトラは皮肉なことに国王ルイ18世と対立するまでに至り、ついにはユルトラ議会は国王に解散させられてしまった。
次に行われた選挙では立憲王党派が優勢となった。彼らの下でフランスの自由化が進むと思われたが、その矢先にブルボン王族の暗殺事件(ベリー公暗殺事件)が発生し、結局、時代錯誤なユルトラ(超王党派)の内閣がフランスに成立した。ユルトラ議会は自由主義を徹底的に弾圧し、カトリック権力や封建制度の復活などフランスを中世へ逆行させる政策を次々ととった。
1824年、ルイ18世が崩御し、シャルル10世がフランス国王に戴冠する。シャルルは宗教心が強く、それによりさらにカトリック教会は勢いづいていく。
七月革命と、ルイ・フィリップの七月王政
1829年、亡命貴族と自由主義者の間の緊張は極限まで高まっていた。
きっかけになったのはシャルル10世の憲法に対するクーデタともいえる四か条の王令の発布であった。
この強力な反自由的で反動的な七月王令をみて、反政府系勢力が一斉に反発。彼らはトリコロール(フランス国旗)をかかげて蜂起する。フランス七月革命の勃発である。
まず反王権派の新聞社に対して警察が介入。パリ都内の小競り合いには軍隊まで投入された。労働者はパリの各所にバリケードを築き、大銀行家のラフィットや労働者や職人までもがそれに協力した。この戦闘では死者は800人、けが人は4000人弱がでたが、それでもかつてのフランス大革命や後の二月革命に比べれば戦闘自体は小規模であった。
一進一退の攻防の末に、月末には反政府派が大勢を得て臨時政府を樹立する。シャルル10世は亡命。代わりにルイ・フィリップを頂点とする立憲君主政が立った。これを七月王政という。しかしこれは人民が望んだ共和制ではなかった。
ルイ・フィリップの即位によって王権神授説に基づく絶対王権は崩れ、憲法と議会に従う世俗的な君主が誕生した。絶対王権と結びついていたカトリック教会は迫害され、フランスの教会権力は衰退した。中世的な貴族や地主の特権は次々と否定され、フランスはブルジョワ的価値観に立脚した国家へと変化していった。共和派は取り締まられたものの、自由主義的な風潮が世の中を覆っていた。
しかし革命の受益者はブルジョワばかりであり、とりわけ初代首相に就任したラフィットをはじめとした銀行家が革命の利益を獲得した。ロスチャイルド家などによる金融貴族が国家財政に群がり、いわば一種の金融封建制が生まれていた。産業革命の萌芽が芽生え始めるフランスでは既に労働者たちが苛烈な労働環境と劣悪な生活環境に苦しんでおり、こうした社会問題から社会主義運動もまた活発になっていく。
ルイ・フィリップの七月王政はたしかにアンシャン・レジーム(旧体制)への逆戻りを阻止した。といっても近代的な自由主義国家へと移行するわけでもなく、それは中途半端なブルジョワ国家であった。選挙権は金持ちに限定され、議会はブルジョワに支配されるものであった。そこで共和派や選挙から疎外された人々は議会の外での大衆運動や、ジャーナリズム運動による政治改革を頑張っていた。
例えば改革宴会という名の選挙法改正運動がある。これは政治集会を禁じた法律の網の目をくぐるために会食という形がとられる政治活動であった。この集会は、当初こそ正統王朝派とオルレアン左派の議員や、有権者など政府側を中心とするサロン的なものにとどまっていたが、しだいに共和派や非有権者の一般市民も参加するようになっていった。この運動の中心は、マラストの主催する穏健共和派の『ナシオナル』、ジャコバン派の『レフォルム』新聞などであった。
七月王政では政治家と官僚の兼任が可能であったため、政治家や官僚の不正が横行し、都市での政治に対する不満が高まっていた。一方で1840年代には農村で飢饉が相次ぎ、イギリスの金融恐慌も相まって社会不安は高まっていた。それらのフランス市民の憤懣が爆発したのは1848年のことである。
革命と普通選挙
二月革命の勃発
フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー ルイ・アドルフ・ティエール
1847年まで続いた社会不安がようやく安定し始めた1848年2月24日、18年続いた七月王政はあっけなく崩壊する。
きっかけは単純な事件であった。1848年2月22日、その日、正統王朝左派のバローと、反体制新聞の『ナシオナル』の共和主義者たちの呼びかけによって、パリ第12区で改革宴会の催しが予定されていた。当時の12区は労働者が多く住む街であり、フランス大革命以来、民衆蜂起の伝統を持つ場所であった。
政府はこの宴会を禁止処分にし、主催者であるバローらも衝突を恐れて延期を決定した。しかし、急進派学生や共和派結社の活動家たちはこの禁令に反抗してデモを敢行し、ブルボン宮を取り囲んだ。市内では暴動が発生し、各地にデモ隊と賃金労働者の手によってバリケードが築かれた。フランス二月革命の勃発である。200人から始まって、ブルボン宮に向かう途中どんどんと膨らんでいった群衆は、その日のうちに正規軍によって鎮圧された。政府もこの時点ではこの事件を大したものだとは思っていなかった。
しかし革命の火は翌日、2月23日にますます燃え上がっていった。政府は正規軍を動員し戦略拠点を確保したが、パリ国民衛兵12連隊のうち招集に応じたのは2連隊のみで、残りは革命派、あるいは日和見の立場をとった。ルイ・フィリップはあわてて首相のギゾーを解任して国民の感情をなだめようとした。このギゾーは「選挙権が欲しければ金持ちになりたまえ」と問題発言をしたり以前から人気の低かった人物であった。だが、それで国民の感情が和らげられることはなかった。ギゾーの後がまにはモレがついたが、彼はギゾーよりもさらに劣る人物であった。
その日の夜、国民衛兵の合流に士気を高めたデモ隊が赤旗を掲げながら、キャプシーヌ街を進行した。そのとき、正規軍がこの人々に対して一斉射撃を浴びせかけてしまう。36人の死者と約70人の負傷者をだしたデモ隊はそれでも女性の死体に松明を掲げながら葬送行進をつづけた。このキャプシーヌ街の惨劇により民衆運動はますます燃え上がった。蜂起はさらに拡大し、150以上のバリケードがパリを覆った。市庁舎やチュイルリ宮が相次いで陥落し、暴徒は王宮にまでなだれ込んでルイ・フィリップの玉座を窓から放擲し、バスチーユ広場にまで担いでいって燃やした。
パリ市民は暴徒に好意的であったわけではないが、それ以上に彼らは国王ルイ・フィリップのことを嫌っていた。2月24日、追いつめられたルイ・フィリップはとりあえずギゾーの後継者であったモレをわずか一日で解任し、ティエールとバローを中心とした自由主義的な内閣をつくった。そして次に、アルジェリアの征服者ビジョウを鎮圧部隊の指揮官に置いた。ルイ・フィリップはこのときまだ事態を収束することができると希望を抱いていたのだ。
ビジョウはその日の早朝から革命市民との対話を開始する。すさまじい緊張状態のなか進められた話し合いの結果、ビジョウは革命市民と戦う意思をなくしてしまった。コンコルド広場やシャートードオで偶発的な武力衝突はあったものの、両者は和解し、かたやルイ・フィリップは完全に悪役に立たされてしまった。
臨時政府、第二共和政のスタート
23日の夜には反乱者がパリを完全に制圧した。ここにきて、それまで反乱に参加していなかった各種の政治指導者たちが革命市民のもとを訪れることとなる。というのは、理念のない革命市民たちはバリケードでパリを制圧することができても、それ以降なにをすべきかが分からなかったので、その指針を得るために政治指導者を必要としたのである。その代表集団には穏健共和派とジャコバン派があった。
穏健共和派(ブルジョワ共和派)は自分たちの発行する『ナシオナル』紙の編集室で、革命後に成立するであろう臨時政府の構成員をすでに検討していた。彼らの構想の特徴は、現政府の内閣にいる王党左派のバローを省き、かわりにルドリュ・ローランが付けくわえらていたことにある。
一方、ジャコバン派(モンターニュ派)は自らの『レフォルム』新聞で、『ナシオナル』とは別のリストを作成していた。とはいえ彼らのリスト内容はほぼかぶっていた。しかし著名な社会主義者のルイ・ブランと労働者代表のアルベールは外されていた。
国王の側にある議会も、国王退位後のフランスの政府について色々と考えていた。彼らはティエールとバロー内閣こそが臨時政府の指導者にふさわしいと結論をだした。ティエールは1834年に労働者の暴動を鎮圧した実績があり、バローもその実力を代議士たちから認められていたのである。しかしティエールはその実績ゆえに民衆からは敬遠され、バローは王党左派であったため、共和派の市民たちからは好かれていなかった。彼らは結局ブルボン宮に突入してきた反乱者たちから権力を奪われてしまった。
革命はついに七月王政を倒し、ルイ・フィリップはイギリスに亡命し、デュポン・ド・ルールを首長とする臨時政府が成立した。臨時政府では、詩人のラマルチーヌ、『ナシオナル』派のマラスト、アラゴ、『レフォルム』派のフロコン、ルドリュ・ローランらが中心となって共和制を宣言した。ラマルチーヌやアラゴらは共和派ではなかったが、民衆の圧力に応じて共和主義者を自称するようになった。この日和見共和主義者たちのことを「翌日の共和派」と呼ぶ。臨時政府には『ナシオナル』紙の名簿から排除されていたルイ・ブランとアルベールも、民衆の要望にこたえて便宜的な秘書官として参加することになった。
実は、宣言をするまえに臨時政府は「共和国を宣言すべきかどうか」で揉めていた。
穏健共和派は「地方人民に相談することこそが民主主義の原則だ」と主張した。ジャコバン派は反対に「革命を実際に起こしたパリ市民は共和制を望んでいる」として直ちに共和国宣言を行うことを主張した。臨時政府では穏健派のほうが多数派であったものの、彼らは結局パリ市民の意思を妥協的に受け入れ「[地方]人民に諮問し、もし承認されるのであれば臨時政府は共和国を希望する」と発布した。反乱市民はこの宣言を事実上の共和国の声明だと考え、満足した。
ここにフランス第二共和政が始まる。だが、これらの革命は民衆を苦しめる問題を何一つ解決するものではなかった。七月革命でブルジョワに革命を奪われたことを民衆は忘れてはいなかった。武器を手にした労働者たちは、機械工マルシェを先頭に、共和政が真に民衆のためになるように赤旗を国旗にせよと臨時政府につめよった。
しかし結局彼らはラマルチーヌに翻弄され、トリコロールをフランス国旗にすることを受け入れた。だが民衆運動によって人々は、臨時政府に社会主義者のルイ・ブランと機械工アルベールを加えることに成功し、さらに労働権と生活権の保証も獲得した。
こうして第二共和政はとりあえず始まった。しかし、この政権は微妙なバランスの上に立った、実に不安定なものであったのだ。
- 人民の中から自然発生的に勃発した、政治指導者不在の革命であった。
- 革命の火が盛り上がったのはカピュシーヌ発砲事件があったからで、それは偶発的な革命であった。
- 臨時政府は共通の目的をもたない寄せ集め集団であった。
このように、二月革命は偶然的かつ雑多な革命であった。しかしその影響は大きく、革命は国境を越えてヨーロッパ各地で三月革命を引き起こした。まずオーストリアではウィーン会議の主催者であったメッテルニヒが失脚、プロイセン、イタリア、ポーランド、スイスでも革命や暴動が発生し、イギリス、スイス、東欧諸国と様々なところに革命の影響は広がっていった。諸国民の春と呼ばれるそれら諸々の革命は、ナポレオン戦争以来のウィーン体勢の崩壊を意味していた。
諸国民の春の中でももっともフランスに関連深かったのはイタリアである。オーストリアに国土の半分以上を支配されていたイタリアでは、二月革命の後にローマに共和政府が成立し、教皇ピウス9世は1848年11月にガエタに亡命していた。後にルイ・ナポレオンは大統領選挙の際にカトリックの支持を受けるのと引き換えにローマを教皇に返還させることを約束し、イタリアに派兵をしている。しかしこの派兵に関してもまた政争がおき、共和政を揺るがせていくのが、とりあえずそれは先の話だ。
革命クラブ
穏健共和派は臨時政府において多数派であり、また地方の支持を受けていたものの、自分たちの地位が不安定なものだと知っていた。臨時政府なんていったところで、パリの労働者の機嫌を損なえばいとも簡単に瓦解してしまうものなのだ。
そこで穏健派は民衆の意向を受けて、妥協的にジャコバン派のコシディエールがパリ警察の警視総監になることを承認した。また内務大臣の地位もやむなくルドリュ・ローランに譲った。国民兵の招集権は内務大臣の特権であったため、穏健派にとってこれは大きな譲歩といえる。コシディエールは、パリの秩序を維持するために労働者からなる特別な警察隊を組織した。
ジャコバン派と過激共和派側の有力な支持者には、革命直後に世に出てきた数々の革命クラブがあった。これらの政治クラブの特に強力なものはジャコバン派支持の立場をとっていたのだ。代表的なものに以下のようなものがある。
- カベによる『中央友愛協会』。平和的共産主義思想によってパリの労働者から支持されていた。
- ラスパイユの『人民の友クラブ』
- ブランキによる『中央共和協会(ブランキクラブ)』
- 雄弁家クレオル・バルベスを有する『大革命クラブ』
カベもラスパイユも非暴力を基本としてはいたが、傲慢な富裕者には一切の手加減をしなかった。これら4つのクラブのうち3つはジャコバン派に属していたが、ブランキの『中央共和協会』のみは左派を支持していた。
これらの政治クラブはフランスを揺るがす恐ろしいものだと新聞で報道されていたが、その実はそれほど力は持っていなかった。彼らが影響を持っていたのはパリだけであり、地方に誕生した政治クラブとの連携に失敗していた。これらのクラブは、パリをいまだ騒がす暴動を鎮圧したりしていた。政治クラブの中でもっとも有能だったブランキは、かつてフランス大革命で恐怖政治を指導したロベスピエールやマラーとは違い、単なる反乱者にすぎなかったことが臨時政府にとって幸運だったといえよう。
臨時政府の労働政策、リュクサンブール委員会と国立作業場
国立作業場の様子
設立したばかりの臨時政府の安定がさっそく崩れたのは「労働権」と「労働の組織化」に関する問題であった。臨時政府は労働者向けの社会政策として2つの機関を設けた。ひとつは彼らに仕事を与えるための国立作業場であり、もうひとつはその国立作業場を監督するという名目でリュクサンブール宮にて開かれた「労働者のための政府委員会」(通称リュクサンブール委員会)である。
国立作業場は、失業労働者にその能力や技術とは無関係に土木の公共事業の仕事を与えて、一日2フラン(働かなくても1〜1.5フラン)を支給するというものであった。これを担当した公共労働大臣のマリは、これらの失業労働者たちを軍隊式に編纂し、リュクサンブールに集まる意識の高いベテラン労働者たちに対抗させようとした。
一方のリュクサンブール委員会はこの国立作業場を監督するためにルイ・ブランを委員長として設立されたものであった。しかしその実体はなんの予算も権限ももたない諮問機関であった。委員会は所詮「労働組織化省」の設置を要求する民衆の圧力をかわすためのものにすぎなかったのだ(しかしブルジョワの抵抗にあってほぼ無力だったものの、労資調停の役割をわずかなりとも担った委員会は近年の再評価も起きている)。
委員会は労働組織化の具体的プランも議会に送ったが、すでにジャコバン派は勢力を失っており、それは無視された。この報告書は、
などを骨子としている。これは社会主義者として有名だったルイ・ブランの著作『労働組織論』をほぼ引き写したものであった。
リュクサンブール委員会に代わって実際にここを監督したのは公共労働省であった。その大臣のマリは穏健派のなかでももっとも穏健で、ルイ・ブランの理論を実行するつもりはまったくなかった。そもそも国立作業場とはいっても工場などは存在せず、労働者は各地の役所から失業証明書をもらい、土木作業などをしていただけである。それはルイ・ブランが想定したような社会主義的工場とは似ても似つかないものであった。
国立工場が設立されるとすぐに、技術者のエミル・トーマスはそこの責任者に任命された。その際に彼は自分の部下として「技術製造中央学校」の生徒たちを雇うことを認めてもらっている。パリの労働者は先輩から指導を受けるという徒弟文化があり、労働者たちは彼ら元学生から仕事面でも労働環境面でも自分の味方になってくれることを期待していた。
国立作業場の評価は当初のまちまちで、社会主義が失敗であったと証明するために国立作業場が頓挫することを望んでいる者や、労働者に政治に目を向けさせないためにもっと国立作業場を充実させると主張する者もいた。
エミル・トーマスは穏健な共和派であったが、彼は効率主義者であった。彼は社会主義的工場よりも、より効率的に労働者を働かせるための工場を望んだ。彼はそのための援助を大臣のマリに望んだが、それは受けいれられなかった。
順風満帆に見えた国立作業場であるが、そこに集まる労働者はすぐに彼らの想定をこえて膨れ上がってしまった。1848年3月末には3万人弱であった登録労働者は、5月にはパリ人口の1割にあたる10万人を突破した。これは国立作業場の噂を聞きつけた地方労働者がパリに集まってしまったからである。これは、ただでさえ金に困っていた臨時政府にとって致命的な財政的負担となった。
臨時政府は財政再建と金融パニックの緩和のために、国民割引銀行網の創設に取り組み始めていた。政府はこの財源のために45%も直接税を増税した。これによる地方民衆の不満は政府だけでなく、パリの国立作業場の労働者と、それを支えていると誤解されたルイ・ブランら社会民主派にも向けられた。
とはいえ、国立作業場のおかげで政府はしばし労働者たちから政治のことを忘れさせることができた。この後の1848年3月、4月と続けて革命クラブがデモを決行するが、国立作業場の労働者たちはそれに加わらなかった。そしてやがてトーマスと彼の若い技術者が、労働者の求心力を失い始めたとき、臨時政府がもつ軍事力と政治力は二月革命勃発時とは比べ物にならないほど強大になっており、もはや労働者のご機嫌を伺う必要もなくなっていた。
カトリックと臨時政府
カトリック教会と共和派の同盟もまた危ういバランスの上に成り立っていた。
二月革命が発生したとき、聖職者たちは以前の七月革命のときのようにカトリック弾圧が起きるのではないかと不安がった。しかしそれは杞憂であった。2月24日にチュイルリ宮を襲った群衆は、国王の礼拝堂から十字架と聖杯を運び出し、王宮近くのサン・ロック教会へとデモ行進した。それは世俗的なルイ・フィリップから十字架を奪い返し、神聖な場所へと移そうとする意図がある。
彼らはキリストと自由を礼賛する言葉を叫びながら、市街戦で傷ついた戦友に秘蹟を与えてくれる聖職者を求めていた。パリ大司教アッフルはみずから病院を訪れ、宗教的秘蹟を患者に与えた。このような市民と教会の結びつきに続いて、3月初旬にはアッフルが臨時政府を訪問し、共和派とカトリックの友好関係を築いた。ラマルチーヌは「1848年の革命はキリスト教の発露である」とまで語った。
もともとカトリック教会は反七月王政の立場であった。教会の教書でも自由放任(レッセフェール)経済を批難し、政府に弱者救済の社会政策を要求していたのだ。世俗的な宗教色の強い社会主義者やジャコバン派の原始キリスト教礼賛を踏まえれば、この同盟は不自然なものではなかった。
3月20日、シャン・ド・マルス(エッフェル塔のある公園)を埋め尽くした数千の民衆が歓喜するなかで、トリコロールをくくりつけた「自由の木」の植樹祭典が行われた。それは、カトリックの司祭がこの木をおごそかに聖別するという異例の形式であった。その後一週間、パリの街区で、さらには全国の町村で同様の植樹祭典が繰り広げられた。このとき教会と臨時政府は蜜月の関係にあった。
だがこの良好な関係は長続きしながった。共和派の目指す初等教育改革(無償・義務化、教員の待遇改善)は、教会が初等教育を担うとするカトリックとは真っ向から対立するものであったのだ。臨時政府の公教育大臣カルノーが、初等教員を共和主義教育の伝道者と呼び、4月の憲法制定議会選挙で司祭と教師がプロパガンダ合戦で対立したことをきっかけにその関係は壊れていった。
デモ
アレクサンドル・ルドリュ・ローラン ルイ・オーギュスト・ブランキ
革命直後の1848年の3月から5月にかけて、立て続けに反政府デモが発生した。
まず最初に3月17日のデモがあり、翌月4月16日にはリュクサンブール委員会と政治クラブが合同してデモを行った。このときのデモには二つの目的があった。
二つ目の憲法議会の延期について。革命派は、いま選挙をすれば自分たちが不利になることを知っていた。彼らは同盟を強化し、宣伝に力をいれ、政府から具体的に旨味のある譲歩を引き出すために時間を稼ぎたかったのだ。とはいえいくら時間を稼いだとしても彼らが選挙で勝てる見込みはなかった。革命派の目指したものは発言力のある少数派であった。
しかし4月16日のデモは失敗におわった。ジャコバン派の有力者で内務大臣のルドリュ・ローランは国民兵を招集し、デモ隊が政府のある市庁舎に来ることを阻止した。ローランはどちらかというと急進革命派であったので、同じく革命派の行動を妨害したことになる。ローランがデモを妨害した理由は明確には分かっていないが、一説には彼がブランキを信頼できなかったと言われている。いっぽうでローランはその数日前に、反革命の穏健派を政府から追放する労働者の運動を援助もしている。
時間は前後するが、4月末の憲法制定議会の普通選挙の結果は極左にとって惨敗であった。そのため彼らは自分たちの力を意思をしめすために、5月15日に再度のデモを決行する。その詳細は後述。
四月普通選挙
ガルニエ・バジェス ピエール・マリ・ド・サン・ジョルジュ フランソワ・アラゴ
1848年3月5日、臨時政府は憲法制定国民議会の選挙に、半年以上同一市町村に住んでいる21歳以上のすべての男子に投票権を与える政令を布告した。これによって有権者の数は七月王政のときの25万人から一気に900万人にまで増えた。ただ、女性はまだ除外されていた。また何ぶんはじめてということで選挙制度にも色々不備があった。こうした限界はありながらも、人々が待ち望んだ普通選挙がようやくフランスにもたらされた。民衆が議会を通じて政治参加するという近代国家がこのときはじめてヨーロッパに生まれたのである。
この男子普通選挙の結果は、皮肉なことに普通選挙を熱烈に求めていたジャコバン派にとっては芳しくないものであった。投票率は84%。議席880のうち穏健共和派は500議席を獲得するいっぽうで、ジャコバン派が獲得した議席はわずかに100であった。これは、急進的に革命が進むパリをみて、地方の農村的フランスがブレーキをかけたものとされる。ジャコバン派で臨時政府の内務大臣ルドリュ・ローランは地方に派遣委員を送り込み、師範系教師を動員して必死の選挙干渉をおこなったが、司祭や地方名望家の牙城を崩すことはできなかったようだ。
残りの280議席は共和派が占めた。当時はだれもが共和派を自称していたが、その実体はオルレアン派か正統王党派であった。彼らは共和派とはいっていても、その本質は共和派とは真逆の反革命であり、保守派であった。彼らは後に合流して、秩序党として知られるようになる。
こうして成立した制定議会は、臨時政府にかえて、5月4日、アラゴ、ガルニエ・パジェス、マリ、ラマルチーヌの4人の穏健共和派と、ジャコバン派のルドリュ・ローランの5名からなる執行委員会を任命した。ルドリュ・ローランが残ったとはいえ、二月革命勃発時の均衡は秩序志向の「翌日の共和派」に大きく傾いた。正統王朝派とオルレアン王朝派の勢力も相まって、パリの労働者とジャコバン派への包囲網は一段と狭められた。
失望と反発
六月蜂起
ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック
議会の多数派を占めた「翌日の共和派」にとって、まずなによりも金融恐慌からの脱出が問題であり、産業革命に乗り遅れないための産業資本の育成に必要な国民的信用制度を作り上げることを目指さなければならなかった。
1848年3月にフランス銀行の改革が行われ、中小企業向けの低金利貸し付けする国民割引銀行が全国67の都市に設立されていた。これにより秩序と生産を回復し、産業の時代にふさわしい国民経済が発達することを政治家たちは期待していた。一方で国立作業場は秩序と財政のいずれにとってもジャマなものでしかなくなっていた。この作業場が閉鎖されるのも時間の問題であった。
制定議会の普通選挙の惨敗に失望した共和派民衆クラブやリュクサンブール派の労働者たちは、5月15日、ポーランド独立支援を叫んで議会に乱入し、議会の解散と新臨時政府の樹立を宣言したが、すぐに国民衛兵に鎮圧されてしまった。この議会乱入事件によってアルベール、ブランキ、バルベら有名なリーダーが次々と逮捕され、無関係であったルイ・ブランまで関連を追及されて亡命した。また警視総監コシディエールも更迭された。この事件のとき彼らに対抗させるためにあったはずの国立作業場の労働者たちが将校ピュジョルに率いられて約14000人もがデモに参加したことは与党の穏健共和派に衝撃を与えた。
このデモの失敗の結果、穏健共和派は革命以来はじめて完全に主導権を握り、いまや「アカ」と呼ばれるようになった労働者たちの駆逐に躍起になり始めた。彼ら労働者は、革命的で反フランス的な存在と穏健共和派はみていたのである。
そしてまた彼らを収容していた国立作業場の閉鎖も決まっていく。工場の責任者エミル・トーマスは「国立作業場の廃止は暴動の発生を意味する」と強く主張したが、彼の警告は閉鎖の日時を延期しただけ5月26日には彼は解任されてしまった。
6月21日、公共事業大臣のトレラは、国立作業場に登録する18歳〜25歳の労働者の全員に対して兵役につくか、地方の土木工事に就くかの選択を迫った。コルボンやコンシデランは議会でこれに反対し、国立作業場を生産共同組合に再編することを提案したが、一蹴されてしまった。この命令の提案者は、後に公教育大臣となる王党派のファルーであった。労働者の代表が公共労働大臣のマリに訪問したとき、マリは「武力に訴えてでも勧告を実行する」と述べた。
6月22日の夜、政府との交渉が決裂しにっちもさっちもいかなくなった労働者たちは「パンか、銃弾か! 自由か、死か!」を叫んでゾクゾクとパンテオン広場に集結した。
翌日23日には、パリの東部一帯にバリケードの山が築かれた。19世紀の労働者の暴動ではパリ・コミューンに続いて二番目に大きい六月蜂起がここに始まった。この頃には彼らも経験豊富で、そのバリケードはさながら要塞のようであったとされる。一方で、ファルーは暴動に参加しなかった者には、向こう三ヶ月間、一日1フランを支払い、また300万フランの保証金も分配すると労働者の懐柔を図った。
さらに翌日の24日、議会はラマルチーヌらの執行委委員会体制に見切りをつけ、アルジェリアの英雄で共和派の将軍ウジェーヌ・カヴェニャックを行政長官に任命し全権を委ねた。パリの国民衛兵はあてにならないとみていたカヴェニャックは戒厳令をしき事態を見守っていた。優秀な将軍であったカヴェニャックは地方から6万人の部隊を集結し、労働者のいるバリケードや民家を砲撃するという乱暴な方法で、26日までには蜂起を完全におさえこんだ。
政府軍の押収した銃は10万挺、銃殺者1500人、その他の死者1400人、逮捕者25000人。六月蜂起の惨敗は労働者や民衆に強い敗北感を植え付けた。選挙による議会共和政とブルジョワ共和主義者に対する労働者の不信感はもはや極限にまで高まっていた。
二月革命以来続いていたプロレタリアート(労働者)と下層中産階級(ジャコバン派)の同盟も完全に破局を迎えた。ジャコバン派や社会主義者、革命の有力な指導者は誰ひとりとして暴動には参加せず、また参加できなかったのだ。ブランキとバルベは獄中にいたし、ルドリュ・ローラン、ルイ・ブランらは暴動には何のかかわり合いも持たなかった。六月蜂起はあくまで労働者たちによる無秩序なクーデターであったのだ。
六月蜂起の失敗の余波はフランスの国境を越えて外国にまで及んだ。ヨーロッパの反革命派はフランス政府に勇気づけられ、フランスの地方は最初の革命以来最大の「アカ狩り」「アカの恐怖」を引き起こした。昂奮したブルジョワジーと、棍棒で武装した農民たちは革命家たちをしらみつぶしに探し、社会主義者たちを殺したのである。
六月蜂起後のパリ
ヴィクトォール・コンシデラン
六月蜂起の結果、革命家と急進派の勢いは衰えた。しかし権力は共和派の手からも遠ざかりつつあった。カトリック教会はすでに共和派を見捨てており、蜂起の間活動を停止していた執行委員会は、蜂起が集結しても再開されなかった。
六月蜂起の恐怖は「社会秩序の維持」を合い言葉に、それまでバラバラだった党派を再結集させた。正統王朝派、オルレアン派にカトリックが同盟して秩序党が結成され、「翌日の共和派」の多くがこれと親しい関係を結ぶようになった。六月事件以来、穏健共和派は次々と保守派(秩序党)にうつり、議会は右傾化した。保守派は普通選挙すら信じず本質的に反革命で、彼らは王党派であった。
その保守的な議会から全権委任されたカヴェニャック将軍は行政長官となり、12月の大統領選挙まで政権を担当することになった。皮肉にもフランスはこの共和派将軍の軍事独裁体制によって秩序を回復することに成功する。
農民やブルジョワが革命に反対するようになると、穏健共和派はますますその力を失っていった。当初は人気のあった穏健派が支持を失ったのは、先述したように、その年の3月に45%(45サンチーム税)の直接税の増税を行っていたことが理由の一つとしてあげられる。これは国家財政の立て直しのためには不可避であったのだが、この四月選挙後、この増税法案が実現されると、パリ市民は臨時政府に不満をぶつけ、「昔のほうがマシだった」と保守派支持に転じたのである。
また穏健共和派には有力なリーダーがいなかったこともまずかった。カヴェニャックは真面目であったものの今ひとつ機転に欠け、秩序党のティエールや、ルドリュ・ローランと比べると一枚格が落ちる人物であった。カヴェニャックは保守派に譲歩を続け、味方からの信頼を失った。その上、彼は保守派からも信頼されず、十二月大統領選挙をもって保守派はカヴェニャックを見捨てた。
穏健共和派が弱体化する一方で、今度はジャコバン派が力を吹き返してきた。ジャコバン派は5月のブランキのデモや六月蜂起に参加することはなかったが、そのリーダーであるルドリュ・ローランは彼らに同情をよせ、労働者の立場に立つ重要な政治家の一人であった。ローランは保守派によるフランスの反動化に対抗し、かつて仲の悪かった社会主義者と9月22日の政治宴会で同盟することを成功する。
ローランはこれらの社会主義と協力し、反動的な運動に対する闘争を開始したのだ。
1848年の六月蜂起から1851年12月の第二共和政の終焉までの3年半は、パリがシーザー主義(カエサル主義)に至るまでの過程であった。シーザー主義とは、ローマの英雄シーザー・カエサルのようなカリスマ的人物が人民の圧倒的な支持の下に独裁者となる疑似民主独裁体制のことである。それはすなわち人々が英雄ナポレオンの再来を求めていたことを意味している。この期間にはいくつかの段階があった。
- 第一段階、六月蜂起から十二月選挙でルイ・ナポレオンの大統領選就任まで
- 第二段階、保守派とルイ・ナポレオンがジャコバン派を倒すために協力した期間
- 第三段階、ルイ・ナポレオンと保守派がジャコバン派を弾圧しながらも、互いに敵対していく期間
そして1851年12月2日、ルイ・ナポレオンはクーデターをおこし、自らをフランスの独裁者に祭り上げたのである。ここに至って、革命派、ジャコバン派、保守派はすべて弾圧された。翌年にルイ・ナポレオンは国民選挙を経てついに皇帝にまで至り、ナポレオン三世の名の下に第二帝政が始まるのである。それでは以下に、ルイ・ナポレオンがいかにしてパリに現れ、また皇帝にまで上り詰めたのかをみていこう。
ルイ・ナポレオンの登場
シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン三世)
六月蜂起の後に人気を得た保守派はあえて穏健共和派に議会の重要なポストを任せ、彼らを利用する方策をとっていた。それでも保守化した議会によりパリは急速に反動化していく。
まず1848年7月28日に、秘密結社を禁じる布告がだされた。政治クラブなどの秘密結社は自治権を侵され、政治集会には一般人や警官の立ち入りを許さなければならなくなった。また公共秩序や道徳を犯すとみなされた法案はすべて禁じられた。とりわけ社会主義者が打破を目指していたブルジョワの私有財産権については強調されて保護された。
8月に制定された二つの法律は出版物に対する新しい制限を設けた。新聞の編集者は、再保証金を支払うように義務づけられ、また、議会や共和国に対する侮辱の表現は違反とされた。これらの法律は行政を支配する保守派によって施行されたので、社会主義者、急進派は出版という非常に強力な政治的武器を奪われてしまったことになる。
11月4日、1848年の第二共和政憲法が、739対30という大差で採択された。しかし直接普通選挙で選ばれる一院制議会と大統領制を基本とする新体制は、立法府と行政府が独立的でありすぎため、両者の対立を調整する術をもたなかった。この欠点が第二共和政が短命に終わった原因の一つとされる。
12月10日の大統領選挙では、ナポレオン1世の甥ルイ・ナポレオンが74%の得票率で圧勝した。対抗馬のカヴェニャックは有効得票の1/5にも満たず、ルドリュ・ローランは1/20を得ただけであった。ルイ・ナポレオンは著作『貧窮の絶滅』で社会主義的方針を世に示し、それがブルジョワ共和派の政府に失望した労働者には、カヴェニャックよりはるかにましな革新的候補と映ったのである。カヴェニャックの敗北によって、多数派であった穏健共和派は大幅に勢力を失うことになった。
また農民にとって「ナポレオン」というブランドはフランスの全盛期の思い出であり、地方の保守的な名望家支配に終止符を打ってくれる希望の星であった。農民たちは自分たちに重税を課し続ける共和国にはうんざりしていたのだ。マルクスは農民のナポレオン支持を「農民の保守性」と指摘したが、それは一面的な理解である。
一方、適切な候補者を立てられなかった秩序党にとっては政治経験のないルイ・ナポレオンは共和派のカヴェニャックよりも遥かに扱いやすい人物に映った。ルイ・ナポレオンは保守派が自分を支持してくれるのなら以下の4つの公約を守るとした。
労働者、農民、保守派にくわえ、ルイ・ナポレオンはブルジョワや、さらには急進派や革命派からの支持も受けた。これほどに「ナポレオン」のブランドはフランス国民にとっては輝かしいものだったのだ。しかしこのルイ・ナポレオンはただ叔父の名前を借りているだけの凡愚ではなかった。
ルイ・ナポレオンの躍進
ナポレオンと保守派によるジャコバン派弾圧
12月20日、大統領に就任したルイ・ナポレオンは、すぐさま穏健共和派の内閣を廃止し、保守的な王朝左派のオディロン・バローを首相に、ファルーを公教育大臣に、そしてオルレアン派の将軍シャンガルニエを陸相に任命した。第二共和政下で正式に機能した最初の首相が、共和主義者を排除した王党派連合政権であったのは皮肉なことである。
カヴェニャックの時代、議会はオーストリアと対峙している伊仏国境にあるピエモンテを救助するためにイタリアに遠征軍を送ることを承認していた。ルイ・ナポレオンが大統領になるとこの軍隊はピエモンテ救助だけでなく、ローマに進軍して法王のために玉座を奪還してくるようにとまで発展して命じられた。この命令は明らかに法律を逸脱しており、議会は大統領に抗議したがそれは無視された。立法府が行政府である大統領を制することのできないこの異常事態に、議会は予算案を議決後すぐに解散を宣告せざるを得なくなった。
制定議会では曲がりなりにも共和主義者が多数派を占めていたため、一種の二重権力状態が表面化したが、これは解散後の1849年5月の立法議会選挙で決着がつけられた。保守(右)派を結集した秩序党が53%の票を得て750議席中450議席を獲得したからである。与党であった穏健共和派は12%弱、70数議席しか獲得できず完敗した。
一方で急進左派の連合体「山岳派(モンタニャール)」の民主・社会主義者(デモ・ソック)は躍進し、35%、210議席を獲得している。さらにジャコバン派は地方選挙でも勝利をおさめていた。これはジャコバン派がルイ・ナポレオンとティエールを恐れていたからであるとされる。ここにきて革命的勢力が伸長し、ブルジョワは不安を与えた。この選挙によって、いままで憲法制定議会の主導権を握っていた穏健共和(中道)派が壊滅し、政治が保守派と急進派の右翼左翼の両極端になるという構図が議会に生まれた。
だがこの左派山岳派も一ヶ月後には解体されている。ことの経緯はこうである。新しく立法議会が招集されるとすぐにジャコバン派は保守派に攻撃を加え始めた。先述のようにこのとき新政府はローマに兵隊を派遣していた。イタリアではフランス二月革命に触発されてローマ共和国が成立していた。秩序党政権による派兵はヴァチカンのローマ法王を擁護する目的があったのだが、1849年6月11日、山岳派はこれを憲法違反だと弾劾し、パリを中心に大デモを組織した。6月13日、彼らの示威行為はバリケード戦にまで発展するが民衆の支持が得られず、あえなく鎮圧された。これによって首謀者のルドリュ・ローランがイギリスに亡命したのをはじめ、山岳派の議員団は壊滅した。
急進派に同調したと疑われた兵士と下士官はアルジェリア連隊へと転任させられてしまった。また当日パリの近い11県で攻囲状態が布告され、二日後の15日にはリヨン市近くの5県にまで拡大された。また攻囲宣言と同時に文民政府所管のすべての権力が軍部に移されることが法律で決まった。議会は「事態を沈静化させるための措置である」といって被告人たちの権利を奪ってしまった。しかし保守派はこの法律によって大統領に過度の力を与えてしまったことに気づいていなかった。軍部を掌握するのが大統領である限り、軍部の力の増長は大統領権力の増加を意味していたからである。
以上のような保守派、ナポレオンの手によるジャコバン派、左派の弾圧によって、第二共和政は共和政なのに議会に共和主義者がいないという訳の分からない状態になった。
身軽になった秩序党政権はクラブや集会を禁止し、出版印紙税を復活させて言論統制を行った。労働者のストライキももちろん禁止。穏健共和派は割と多めに見られていたものの、ジャコバン派と社会主義派は徹底的に弾圧された。彼らの政治集会は秘密結社法によって規制された。一例として、ストライキを行っている労働者に援助を与えた「労働者の友好結社」は、無許可の政治クラブとして警察に弾圧された。警察は、雇用者が認めた場所以外で労働者が集まるものはすべて平和と財産を侵害するものとみなしたのである。当然、ジャコバン派と社会主義者の出版物も弾圧しはじめる。『レフォルム』新聞は多額の罰金によって破滅し、プルードンの発行した優れた社会主義新聞『人民の代表』紙も同様に賠償金で財政的に破綻させた。
こうしてジャコバン派は地方へ、地下へと散っていった。彼らは一見政治とは関係なさそうな組織を装い、パリとリヨンにあった中央委員会の支持を受けていた。彼らは革命のためというよりはクーデター防ぐために武装していた。彼らの勢力はなかなかで選挙で勝てる可能性すら秘めていた。しかし秘密結社のままでは選挙で勝っても結局ナポレオンに勝利の果実を横取りされてしまう可能性がある。結果、彼らは1850年の中頃には選挙で勝つことを諦めていた。
大統領VS保守派
ピウス9世
六月蜂起から1851年のクーデターまで、フランスには二つの政治的対立があった。
大統領と保守派は協力してジャコバン派や社会主義者を弾圧しつつも、互いに主導権を奪おうと競っていた。
ナポレオンの政治的豪腕は手段を選ばず人民からの人気を得ようとした所にある。まずナポレオンは六月蜂起で逮捕された者たちの議会に恩赦を求めた。これは無口なナポレオンを小馬鹿にしていたバローに拒否されたが彼はノーリスクで人々の人気を得ることに成功した。
さらにナポレオンはローマ派兵もまた人気取りに利用した。フランスの派兵もあってイタリア第一次独立戦争が鎮圧され、ローマが法王に返還されたあと、法王は反動政策を強いた。ルイ・ナポレオンはそこで無謀と分かっていてあえてそれに意義を唱えた。一方で保守派は法王支持の立場をとったため、そのため後にナポレオンがバローを解任したときに、それは彼の人間性と共和制の勝利のように映った。
ルイ・ナポレオンは1849月10月31日に、バローに代わり自分を支持する閣僚を集めて新内閣を結成した。保守派はこの内閣を不信任にしたが、反対を持続するだけの力を彼らは持っていなかった。すでにナポレオンの人気は議会の多数派と同等のものであったのだ。すなわちこれは議会制君主政が破綻していることを意味していた。そしてそれはまた人民が議会よりもナポレオンを望んでいることも示していた。社会主義をのさばらせないためには、議会よりも独裁者に政治をやらせるようが良いと市民は考えていたのである。
保守派にはナポレオンと対抗する際に様々な弱点を露呈してしまった。そもそも保守派といっても統一性はなく、ある者は正統派であり、ある者はオルレアン派であり、またあるものはカトリック派であった。カトリック派はもし自分たちが教会と大統領を和解させることができるのならば、議会政治の原理は喪失してもやむをえないと思っていた。こうした保守派の分裂は当然ナポレオンの利するところである。
ファルー法と選挙法改定
保守派による一連の反動的立法のうちで一番ひどいものは、1850年3月の教育立法、ファルー法の制定である。これは近代フランス法のなかでももっとも有名な法律とされる。このファルー法は国家による教育の独占権を放棄するものであった。これによって学士を持つ者ならば誰でも小学校を設立することができるようになった。
ファルー法は一見して教育の自由化にも見えるが、その実は近代公教育というフランス大革命の成果を捨て去り、カトリック教会におもねる法律であった。というのは小学校を作れるほど資金力のある団体は教会しかなかったからだ。ファルー法によってカトリック聖職者が国民の初等教育を掌握しただけでなく、それまで大学局が管理していた中等教育にまで聖職者が進出した。歴史の中でふたたび出番を与えられたイエズス会がこの仕事を担っていた。つまりファルー法は教育の自由化などではなく、教育を教会の手に委ねるという中世への回帰であった。
また、ファルー法は共和主義的教員にたいする弾圧にも威力を発揮した。この時期、選挙法やデモへの参加を理由に、師範学校の教師の40%近くがなんらかの懲戒処分を受けている。現在のフランスの世俗教師の特徴である反教権主義は、このファルー法以後、一段と強くなったとされる。教会権力の増大を嫌うものや、良識的な市民たちはファルー法を嫌悪し、保守派はさらに人気を落としてしまった。そして、そこまでしておきながら、教会はファルー法になんら感謝することはなかった。
さらに1850年5月31日には選挙法が改定された。この新法はまず政治犯(つまりジャコバン派と社会主義者)から選挙権を奪った。その上で、選挙資格の定住期間制限を半年から3年に改定した。普通選挙の原則はそのままであったが、これによって移動の激しい労働者たちは選挙権を失っていった。この選挙法改定によりパリの労働者の40%は選挙権を失うこととなった。男子普通選挙はあらゆる共和派が共通して要求していた原則の一つであった。当然これによっても保守派は人々の信頼を失った。
各派の動向
保守派は権力を握ったものの互いに争い、また彼らには信条がなかった。その一方で、ふたたび共和派がフランスで勢力を取り戻し始めていた。小さな地方都市では、下層中産階級が共和派にうつり、農村でも共和派支持が広まっていた。共和派はそんな状況の中で「労働者は恐るるに足らず、社会改革を行っても財産には影響はない」といってブルジョワからも支持を集めた。
ジャコバン派や社会主義は、フランスの多くの街で見られるようになった秘密結社において民主主義と社会主義について議論し、好機を見計らっていた。
保守派は王位継承の問題に取り組んでいた。正統王党派のシャンボール伯(このとき30歳)を王位につけるという提案があったが、彼には子どもがいなかった。法律によればシャンボール伯のあとはオルレアン派のパリ伯になってしまう。だが、この妥協案はオルレアン派も満足できるという利点もあり、実際に後の1873年の第三共和政ではこの案がとられている。しかし、この時点ではこの案は互いに受け入れられるものではなかった。結局、保守派は互いに争いながら1851年の運命の日を迎えてしまう。
大統領ルイ・ナポレオンは秩序党議会の反動立法から距離をとって中立を装い、選挙権の移住制限法の撤廃を提起するなど、民衆サイドにたつ政治家として自己アピールした。しかし、大統領の任期はわずか4年で、しかも再選は禁止されていたため1852年3月の議会同時選挙をもって彼は権力の座から降ろされることになっていた。このためルイ・ナポレオンは再選禁止条項の修正を狙って全国を飛び回って民衆に声をかけつづけた。ルイ・ナポレオンはその胸にある野心を隠し、静かに、またゆっくりと刻を待った。
ナポレオンの攻勢
1851年1月、保守派は完全に油断していた。当時、国民軍とパリの正規軍はオルレアン派の将軍シャンガルニエが掌握していた。彼はプライドが高く、自分を動かすのは議会であり、議会の命令があれば大統領を逮捕して監獄にぶちこむことができるとまで豪語した。政権獲得を目指すナポレオンにとっては軍隊の力は必要不可欠である。そこで彼はアフリカに赴任していた将校たちを次々とパリの司令官にすえかえていったのである。大統領のこの行為に抗議できる人はおらず、むしろ新しいパリの司令官たちを従順であると感じていた。しかし彼らが従順であったのはブルボン家でも、中産階級の議会でもなく、ボナパルト家であったのである。
ナポレオンは地盤が固まったと確信したとき、秘密裏にシャンガルニエを解任した。保守派はそれに対抗することができなかった。とりあえず不信任投票は行ったものの、シャンガルニエの解任については一言も言及しなかった。ティエールはナポレオンに対してもっと断固とした態度をとるように議会にいい、さもなければ保守派は完全に大統領に屈服したと国民にみなされると主張した。さらにはこのままいけば帝政が復活する可能性すらあるとすら忠告した。
ナポレオンは議会で支持者の買収にかかり、また彼は政敵たちの分断工作も怠らなかった。ナポレオンは人気の低かった1849年の新選挙法を撤回するように議会に要求した。保守派はこれを拒否し、共和派は保守派の態度に不満を持った。ナポレオンは両派の結託を恐れていたのだ。彼は共和派を煽り、保守派の提案した「軍隊は議会に服従しなければならない」という決議を共和派に拒否させるまでに至らせた。この妨害工作によってナポレオンは軍隊を完全に掌握したといえる。
ナポレオンは味方を作るために金をバラまいていたため、議会からもらう俸給と機密費それぞれ60万フランではとても出費をまかなえなかった。借金したり、私物を売り払っても金は足りず、ナポレオンは議会に対して俸給を300万フランにしてほしいと訴えたほどであった。議会は俸給アップ自体はつっぱねたものの、選挙法改正協力のボーナスとして260万フランを彼に支給した。
クーデター前夜
軍を完全に支配下においたナポレオンがいつかクーデターを起こすのは誰の目にも明らかであった。しかしナポレオンはあくまでも慎重であった。クーデターを起こすそぶりをみせるどころか、大統領の再選が可能になるような憲法改正を議会に訴えて、平和共存アピールを繰り返した。ジャコバン派や社会主義者たちはそれに拒否反応を示したが、秩序派と穏健共和派の一部には再選を認めて良いとする議員まで現れた。
その典型はバロー内閣で外相をつとめたことのある高名な歴史家アレクシス・ド・トクヴィルであった。彼はナポレオンのクーデターは高確率で成功するとみて、妥協的に憲法改正を認めるべきだとした。しかしトクヴィルに同調する議員は増えてきたものの、憲法改正に必要な2/3にはまだ届かなかった。
1851年7月19日、立法議会はボナパルト派とバロー派の提案した憲法改正案を、賛成446票、反対278票で否決した。議員に復帰していたシャンガルニエと、ティエールらオルレアン派がジャコバン派と共和派と協力して反対票を投じたのである。これでナポレオンのクーデターはほぼ確実なものとなった。だが、この期に及んでもなおティエールやシャンガルニエはナポレオンの力を過小評価していた。彼らはナポレオンがクーデターを起こしたとて軍隊は動かないとみていたのだ。
敵が油断している間、ナポレオンはパリの軍隊に次々と自分の息のかかった人物を送り込んでいた。ナポレオンの命を受けて人材探しの旅にでていた副官フルーリは、トルコで旅団長を務めていたサン・タルノー将軍に手柄をあげさせ、パリ管区総司令官に大抜擢した。このとき既にパリ管区総司令官にはナポレオン派のマニャン将軍がついていた。また軍隊だけでなく、警察にも自分と親しいカルリエを警視総監に任命していた。軍部と警察を掌握したナポレオン陣営はさらに盤石になっていく。
とはいえナポレオンは自分に人気はあってもクーデターの実務をこなす自信はなかった。そこで彼は異父兄弟のモルニー伯爵を内務大臣に採用した。彼は才能と財とコネに恵まれており、かつてはオルレアン派だったものの1851年7月の憲法改正の否決の後にナポレオンに急接近した。ナポレオンはモルニーをクーデターの総合プロデューサーの地位においた。モルニーは杜撰なクーデター計画をすべて洗い直し、警視総監のカルリエを解任してトゥルーズの警察長官をしていたモーパーを後がまにつけた。
ナポレオンのもう一つの懸案事項は金であった。クーデターは武力で決まるが、武力を支えるのは金である。だが慢性的金欠状態にあるルイ・ナポレオンは前年度の臨時ボーナスはすでに使い切ってしまっていた。そこでナポレオンは愛人たちから借金をしまくった。元婚約者のマチルド皇女からは4000フラン、以前の愛人のエミリー・ロールズから33000フラン、現在の愛人のミス・ハワードからは200000フラン。彼女たちは私財を売り払ってナポレオンを献身的に仕えた。
運命の日、ルイ・ナポレオンのクーデター、第二共和政の終焉
シャルル・ド・モルニー ヴィクトル・ユゴー
1851年12月2日、その時時代は動いた。パリ市民たちは街灯に張り出された共和国大統領の布告ビラに驚愕することになる。
第二条 普通得選挙は復活する。[選挙法を制限する]五月三一日の法律は廃止する。
第三条 フランス国民は十二月一四日から二一日までの間に投票所に出頭する。
第六条 内務大臣は以上の布告を責任もって遂行する。
内務大臣ド・モルニー
パリ市民はこれを読んで驚きながらも「やっぱりか」と「国民議会ざまあみろ」という感情のもと、そのまま何事もなく生活に戻っていった。そのまま劇場に出向いて舞台鑑賞を楽しんでいる者すらいた。一応ナポレオンも混乱に備えて軍隊と憲兵兵が出てきていたが、彼らは無駄足になった。ナポレオンは民衆に受け入れられたのである。市民は六月蜂起で議会に弾圧され、選挙権を奪われた恨みを忘れていなかったのだ。
オルレアン派のティエール、王党派のベリエ、共和派のカヴェニャック、シャンガルニエなどの大物をはじめ、共和派の議員は軒並み逮捕され監獄に送られた。逮捕を免れたヴィクトル・ユゴーなどの議員が民衆街のフォーブール・サン=タントワーヌなどにバリケードを築き、抗戦を呼びかけたが、民衆の視線は冷ややかで、彼らはナポレオンの軍隊によってあっという間に鎮圧されてしまった。ユゴーや新聞王ジランダルは亡命し、クーデターはいとも簡単に完遂された。
しかし全てが上手くいったわけではない。バリケード戦で市民に死者をだしてしまったことはナポレオン陣営にとっても痛手であった。とりわけグラン・ブーヴァールでの戦闘は激しく、彼に敵対する者はこぞってそれを「虐殺」だと訴えた。
またナポレオンにとって予想外だったのは、大都市が比較的静かだったのに、地方、とりわけ南フランスで共和派の農民が反乱を起こしたことであった。彼らはパリの政治情勢にあまり詳しくなく、クーデター=悪であると思い込んでいたのである。しかし誤解に基づくとはいえ、ナポレオンにとってそれは鎮圧すべき対象であった。モルニーとサンタルノーは反乱農民に軍隊を送り、数日のうちに彼らを制圧した。
クーデターのあとは、フランス大革命後、もっとも激しい弾圧が行われた。共和派やアカと思われた人々が26000人以上も逮捕され、特別委員会に告訴された。彼らはとても近代的とはいえない裁判を経て、北アフリカやギアナへと送られた。しかしナポレオンは人気とりのために彼らの処分を軽くするように訴えかけた。流刑者の数もへっていき、後の1859年の大恩赦ではほとんどがフランスに帰国した。
1851年12月3日、立法議会は解散され、1848年憲法は失効する。形式的にはルイ・ナポレオンが皇帝になるまであと1年のあいだ第二共和政は続くが、実質的にはこの時点をもって第二共和政はおわった。布告されていた21日の人民投票では得票率83%、賛成92%という圧倒的支持がルイ・ナポレオンに与えられた。投票をボイコットした者が160万人もいたので投票率は低かったが、それでもクーデターは市民に受け入れられたといってもいいだろう。
独裁者ルイ・ナポレオン
1851年1月14日、フランス共和国の新憲法が発布された。起草者となったのは、モルニーの父親であるフラオー伯、ペルシニー、そしてメナール、トロロン、ルエールの三人の法律家である。新憲法の基本姿勢は前年度12月の国民投票で圧倒的多数で承認されているので、ナポレオンはこれで正式に10年の大統領任期を認められることになった。当然、再選も認められている。
またその憲法は彼の叔父の大ナポレオンが第一執政のときに制定した共和歴Ⅷ年憲法を踏襲していた。その特徴は、大統領の行政権力が極めて強いことにあった。この憲法によれば大統領内閣と大臣を指名する権利を持ちつつも、内閣に対して責任を負う必要はなかった。(ちなみにこれは日本の帝国憲法と同じ規定である)
大統領は、大臣、軍人、知事だけでなくすべての公務員の任命権をもち、さらには戦争の開戦権や条約の締結権までも持っていた。
男子普通選挙によって小選挙区で275人の議員が選ばれる立法院も一応存続したが、彼らは大統領に対して発言することが許されず、大統領の命令ひとつで議会は解散させられた。
また40〜50人からなる国務院の議員は大統領によって指名され、ブレーンの役割を果たした。この国務院は法律や大統領令を起草した。
この他、大統領が指名した終身議員からなる元老院があり、政府が提案し、立法院が可決した法律が憲法に合致しているかを審議する。もし合致しない場合は、それを無効とすることができる。
このように大統領は、法律の起草と最終審議という立法権の最初と最後を掌握するほか、何ものにも制約されない大統領令を発する権利であった。それはもはや共和制ではなく、大統領による独裁。いや、専制君主制であった。
独裁権を得た大統領が何をし始めるのか。フランスの民衆は期待と不安を抱きながら、ナポレオンの最初の命令をまった。
1851年1月23日、彼の最初の大統領令はオルレアン家の財産を国有化するものであった。民衆は「ナポレオンは借金を返すために金が必要だったのか」と噂したが、特に混乱は起きなかった。この命令にもっとも拒否反応を示したのは、ナポレオンの協力者であった内務大臣のモルニーであった。彼は二月革命以前から筋金入りのオルレアン派であり、そのためにクーデターの直前までナポレオンに接近しなかったという経緯を持つ。不意をつかれたモルニーは抗議としてルエール、フールト、マーニュのオルレアン派の三閣僚とともに辞表を提出した。ナポレオンは、モルニーの後がまには、自らの右腕でモルニーと仲の悪いペルシニーを座らせた。閣僚の空白にはモーパ、アバテューシ、カサビアンカを埋め合わせた。
ナポレオンは没収したオルレアンの財産をつかってかねてからの望みであった社会福祉政策を実行した。ナポレオンは社会主義者サン=シモンの著作から影響を受けた人物の一人であったのだ。少なくとも彼は皇帝社会主義者の装いをしていた。現在のフランスの社会福祉政策のほとんどはナポレオンの独裁体制だったときにはじめて実行に移されたものである。それまでブルジョワ秩序派はもちろん、共和派も貧困問題よりも政治的主導権争いを優先していたので、社会福祉政策のほとんどは議会に提案されても廃案となっていた。彼らは怠け者を甘やかしてはいけないと考えていたし、そもそも国にそんな金はなかったのである。
その一方でナポレオンは2月17日、新聞の報道を規制する大統領令をだした。二月革命で自由化された出版はクーデター以前から規制の方向に向かっていた。今回の大統領令は規制と罰則を強化するのと同時に、新聞の創刊と編集者の変更をするときには政府の許可が必要とされた。この時期、不穏当な記事を書いた新聞が発行停止処分を受けている。事前検閲はなかったが処分を恐れた新聞社は自己検閲を強いられるようになった。
またナポレオンは2月8日の大統領で、官許候補者リストというものを公布した。これはナポレオン支持の候補者には支援を与え、彼と敵対する候補者には妨害がくわえられるというものである。ナポレオンは公約通り男子普通選挙は維持したが、被選挙権について制限を加えたのである。さらに選挙区の境界線もナポレオンの恣意によって曲げられた。とはいえ、この工作は必ずしもナポレオンの意思通りには動かなかったようである。
こうした中、ナポレオンは第一回立法院選挙を迎えた。これは彼への二度目の信任投票であったといえる。国民はもう革命もクーデターもこりごりだと考えていた。彼らはナポレオンの政治姿勢は必ずしもすべて理解していなかったが、安定を求めてナポレオンの推した官許候補者に投票した。こうした信任を背景に、もはや人々はナポレオンを皇帝と認めはじめていた。
ナポレオン三世の即位、第二帝政の開始
しかしナポレオンはそれでも皇位につこうとはしなかった。そこでペルシニーは人々に「皇帝バンザイ」と叫ばせることによってナポレオンをおだて、帝政の意欲を高めさせようとした。こうした方針をナポレオンは宥めてはいたが、ペルシニーはそれでも懲りず、人々に「皇帝バンザイ、帝国バンザイ」と叫ばせ続けた。ナポレオンも徐々にその気になり、「帝国は戦争だという人がいますが、それは違います。帝国、それは平和なのです」という有名な演説をボルドーで行った。もはや皇帝ナポレオンの誕生は時間の問題であった。あとはナポレオン自身が一言「皇位にのぼる」というだけであった。
10月末になっても迷いの残っていたナポレオンであったが、周りの圧力におされ、11月5日、元老院に対して、帝国再建に関する問題の検討を求めた。二日後、元老院は、ルイ・ナポレオン・ボナパルトとその子孫を皇帝とするフランス帝国を再建するかどうか、国民投票を実子する決議をだした。このとき、議会で反対したのはかつてのナポレオンの家庭教師ヴィエャールだけであった。
国民投票は11月21日、22日に行われ、95%という圧倒的多数でナポレオンの即位とフランス帝国が承諾された。票数は賛成が782万4000票なのに対して、反対はわずか25万3000票だけであった。もっとも全国で200万人の有権者が棄権したので、帝政復活に賛成しなかったものは4人に1人はいたことになる。だがそれでも大多数の人間がナポレオン支持であったことは疑いようもない。
12月1日、ルイ・ナポレオンは即位式を行い、皇帝ナポレオン三世となった。ここにフランス第二帝政が始まり、その統治は1870年、普仏戦争でフランスが敗北するまで約20年間つづいた。
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