フレディ・スペンサー単語

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フレディスペンサー
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フレディ・スペンサー(Freddie Spencer)exitとは、アメリカ合衆国出身の元・MotoGPライダーである。

1961年12月20日生まれ。

1983年1985年に最大排気量クラスチャンピオンを獲得した。特に1985年250ccクラスダブルエントリーして250ccクラスチャンピオンも同時に獲得した。

本名はフレデリックバーデッド・スペンサー(Frederick Burdette Spencer)という。
 

ゼッケン、レーシングスーツ、ヘルメット、愛称

アメリカで走っていたときからゼッケン19番を好んで付けていた(画像1exit画像2exit画像3exit)。1985年250ccクラスはゼッケン19番で走っていた(画像exit)。

1984年までのレーシングスーツダイネーゼを使用していた。1985年から1995年頃までのレーシングスーツは、日本南海部品を使用していた。このためイベントで左鎖骨付近に「NANKAI」と文字の入った南海部品スーツを着ることがある(画像exit)。ただし、近年のイベントにおいて、マーク印のアルパインスターズのレーシングスーツを着用することも多い(画像1exit画像2exit)。

ヘルメット日本Araiを長らく使用している(画像1exit画像2exit画像3exit)。1977年フレディ15歳の頃に、Araiヘルメット米国法人社長ロジャーウェストン(Roger Weston)サーキットフレディをかけて以来、ずっとAraiを使っている(RACERS vol.01 99ページexit_nicoichiba)。

ヘルメットは、星条旗カラーを織り込んだカラーリングにすることが多かった(画像exit)。

称は、ファスト・フレディFast Freddie)。「速いフレディ」という意味。
 

ライディングスタイル

色んなバイクに対して、即座に適応するがある。本記事の「経歴」の項の『1977年 アーヴ・カネモトと出会う』の章で、様々なバイク乗り換えつつ速く走るエピソード紹介されている。また、1985年250ccマシン500ccマシン乗り換えながら両方のチャンピオンを獲得した。


かなりエンジンを酷使するタイプ。回転数を上げまくってエンジンを痛めつける(RACERS vol.01 58ページexit_nicoichibaRACERS vol.08 55ページexit_nicoichiba)。

エンジンの回転を示すタコメーターをろくすっぽ見ずに運転し、同じギアでひたすらエンジンの回転を上げ、速が伸びないと思ったらギアを1つ上げる、という走りを繰り返していた(RACERS vol.01 41ページexit_nicoichibaRACERS 1983年特集号 34ページexit_nicoichiba)。

初めてのサーキットで、コース図など一切見ない。データ収集機が発達する前の時代において、サーキットで走るライダーコーナーごとに何回転にしているか記憶していたものだが、フレディは回転を憶えていないどころか、コース図のコーナーを示されても「ここはどのコーナーだっけ」と言い出していた(RACERS vol.01 79ページexit_nicoichiba)。もう、感覚としか言いようがない感じのライダーだった。

金澤賢は「フレディは、自分が何速のギアを使って走っているか、把握しないまま走っていた」と言している。またフレディについて「コースの前の風景があるままに走り、ギアにいたっては、自分が感じるエンジンの振動なり何なりのフィーリングがいいか悪いかという、その判断だけで走っていたのだと思います」と述べている(RACERS 1983年特集号 89ページexit_nicoichiba

全日本の250ccクラスで活躍していた小林大exitは、250ccマシンに乗ったフレディ・スペンサーの走りを調べてみようとフレディコメントを調べたが、何を言っているのかさっぱり分からなかった。もちろん、小林だけでなく、周囲のスタッフフレディの言うことを理解できなかった。当時のHRC監督の尾洋一が「フレディが走り終えたら、ヘルメットの内装を触ってみて、どれくらいをかいているかで判断するしかないな」と冗談を言うほどだった(RACERS vol.21 72ページexit_nicoichiba)。


スロットルを開けていくときにフロントタイヤを強く路面に押しつけるのが好みで、フロントに負担をかける乗り方を好んだ。言い換えると、フロントタイヤに荷重をかけながら勢い良くコーナーに飛び込んで行くのが好きだった。そのため、フロントタイヤは、一番硬いものを選ぶ傾向にあった(RACERS 1983年特集号 50ページexit_nicoichibaRACERS vol.16 69ページexit_nicoichiba)。

身長178cmで、バイクレース界の中では大柄な部類に入る。そして手足も長く、荷重移動も容易で、転倒しそうなところを転倒せずに乗り切る技術があった。もともとはダートトラックexit坦な土の路面を走る競技)の出身なので、滑りかかったマシンを制御する技術に優れていた。

ヒザで転倒しかかったマシンを立て直すことが上手かった。この当時はニースライダーなんてものがないので、ヒザにガムテープを何枚も貼って補強して、ヒザを使っていた(RACERS vol.01 31ページの写真、58ページ、77ページexit_nicoichiba
 

性格

ドタキャン常習犯

福井威夫はフレディに対し「育ちが良くて、レースのことしか知らないお坊ちゃん」「若くて純で走ることしか知らない」という印を受けていた。(RACERS vol.01 56ページ、58ページexit_nicoichiba

若い頃のフレディは、レース以外の付き合いの重要性を理解しておらず、ドタキャンの連続だった。ホンダ社長と会う約束なのに来なかったり、南海部品イベント大阪にて握手会をするはずなのに来なかったり、と、枚挙にいとまい。(RACERS vol.01 58ページ、88ページexit_nicoichiba
 

内向的で恥ずかしがり

金澤賢はフレディに対し「83年当時は、ものすごくつっけんどんでしたね。サーキットに入っても、セッション以外の時間は自分のモーターホームにこもっていて、全然外に出て来ない。(中略) ただ、数年前にフレディと再会して一緒に食事をしたとき、『あのときは自分も若くて、人に会うのが恥ずかしかったったんだ。だから、ああいうふうになってしまったんだ』と。初めてそう彼から聞きましたよ」(RACERS vol.01 79ページexit_nicoichiba

エディ・ローソンフレディについて「人物的にはまったく分からない。本当に知らないんだよ。パドックで会っても挨拶を交わすだけで、それ以上話したことがないんだ。(中略) パドックの中でフレディと付き合いのある人がいたって話は聞いたことなかったし、それどころかフレディパドックで見かけることすら少なかったからね。変わった人間だったよ」とっている(RACERS vol.07 41ページexit_nicoichiba)。英語圏の人同士は英語が通じるのでメーカーチームの垣根を越えて仲良くするというのが、MotoGPの慣習なのだが、フレディはそういう慣習から思いっきり離れていた。

内向的なので、ガ~ッと喋るべきときに、黙りこくっていたことがある。2019年アルゼンチンGPで、カル・クラッチロージャンプスタートをして、ペナルティを受けた。そのジャンプスタートは軽微なものだったので(動画exit)、カルは激怒してレース運営部屋に乗り込んで猛抗議した。カルが抗議している最中、レース運営の一員であるフレディは、黙ったまま腕を組んで立っていたという(記事exit)。
 

経歴

アメリカ南部のルイジアナ州生まれ

フレディは、1961年12月20日に、アメリカ合衆国南部ルイジアナシュリーヴポートexitで生まれた。

この1961年というのは、アメリカ南部黒人による公民権運動exitが盛り上がっていた時期として知られている。ルイジアナ州シュリーヴポートは白人黒人の人口率が50:50ほどだったので、公民運動を強く感じる土地柄だった。また、後述するように、フレディの近くにはレヴィーC(Levy C)という黒人がいて、使用人としてスペンサーを支えていたのだが、そのレヴィーCも自由トイレを使わせてもらえないという人種差別を受けていたので、フレディもその問題に敏感に反応していた(フレディ自伝exit_nicoichiba)。

ルイジアナ州シュリーヴポートは、が長くて蒸し暑く、の最高気温は14度程度であり(資料exit)、日本鹿児島市とほぼ同じ環境である(資料exit)。でもなど全く降らないので、気でバイクを走らせることができる。バイク乗りにとって、素晴らしい環境といえる。

ちなみにアメリカ合衆国は、南北の距離が長いで、北はガンガン降るのでモータースポーツ自体があまり盛んではなく、南のテキサス州exitルイジアナ州exitカリフォルニア州exitが降らないのでモータースポーツが盛んである。アメリカ合衆国出身のMotoGPライダーは、南の地方出身の人ばかりである。

ルイジアナ州というのは、全の中で1、2を争う貧困州として知られている。貧困州といえば、ルイジアナ州とその隣のミシシッピ州、というのが定番である。

南部全般に共通することだが、ルイジアナ州には言葉の訛りがあり、北部などの人から、言葉の訛りでからかわれることがある。フレディもご多分に漏れずルイジアナ訛りが強かった。訛りが強くてからかわれるとホームシックにかかって故郷に帰りたくなる、というのは洋の東西を問わない現のようだが、フレディもそうだったようで、「アメリカ内で走っていたとき、フレディは、ルイジアナ州の高校友達と仲が良く、レースが終わるといつも地元に帰りたがっていた」とアーヴ・カネモト言している(RACERS 1983年特集号 82ページexit_nicoichiba

1973年フレディを含むスペンサー一家は、レース活動を円滑に進めるため、テキサス州ガーランドexitアパートを借りて、そこを生活拠点にしようとしたことがあるが、6ヶフレディホームシックにかかり、すぐにルイジアナ州シュリーヴポートの元のへ戻ったという(フレディ自伝exit_nicoichiba)。
 

2歳頃に大やけどする

1964年フレディが2歳10ヶ頃の頃に、大やけどした。フレディ自身はあまりこのことを憶えていない。リンダが、後年にやけどのことを教えてくれたという。

そのとき、スペンサーが住む町は落ち葉がいっぱい散乱していたので、住民たちが落ち葉をかき集めて野焼きしていた。落ち葉の山はいくつかあったが、幼いフレディは、何かに躓いて、落ち葉の山に突っ込んでしまった。フレディが突っ込んだ落ち葉の山は、12時間の野焼きをしたあとだったが、まだ火がくすぶっていた。フレディ左手を大やけどし、「フレディ左手を失うかもしれない」と医師が両に通告するほどだったという。

ちなみに、フレディを落ち葉の山から救い上げてくれたのは、スペンサーの使用人として雇用されていた黒人レヴィーC(Levy C)という人である。レヴィーCはスペンサーにとって忠実な人で、スペンサーの一員のような扱いを受けていた。

※この項の資料・・・フレディ自伝exit_nicoichiba
 

家の庭で練習走行して、ダートトラックのレースで勝つようになる

フレディは4歳でバイクに乗り始め、5歳レースを始めた。

4歳の時に与えられたバイクは、ブリッグス&ストラットンexitという芝刈り機エンジンを作る企業ミニバイクだった(画像exit)。5歳になるとホンダミニトレイル50ccexitを与えられ、6歳になるとヤマハミニエンデューロ60exitを与えられた。

4歳から14歳頃まで、毎日のようにバイクに乗った。学校が終わって日が暮れるまで、3~4時間ほどバイクを乗り回していた。

実家は「2620 Amelia Ave」にあった。つまり、この場所exitである。フレディは「実家の裏にバプテスト教会があった」と言ってるので、そのとぴたり一致する。このあたりは、中流庭が住む場所だという。ちょっと田舎で、が通っておらず、井戸生活にしていた。

実家の広さは2エーカー(8093メートル)だった。約2400坪exitであり、サッカーグラウンド2面(7140メートル)よりも少し広い。そういう広いの庭で、練習走行を繰り返していた。

11歳になるまでに、故郷のルイジアナ州と、その西隣のテキサス州で、多数のダートトラックexit坦な土の路面を走る競技)のレースに勝つようになった。

1973年のころになるとレースで勝ちまくって賞を稼ぐようになったので、フレディの両は「フレディの性格がんではいけない」と心配し、フレディに「アメフト練習に参加しなさい」と言ったことがある。

※この項の資料・・・フレディ自伝exit_nicoichiba
 

1977年 アーヴ・カネモトと出会う

1973年、11歳6ヶ頃になったフレディは、ロードレース(舗装された路面を走る競技)に転向した。

1977年16歳になる年のフレディは、アーヴ・カネモトという名物メカニックと初めて出会っている。

このときのフレディは、オハイオ州のこの場所exitにあるミッドオハイオ・スポーツカーコースexitにて、WERAexitというバイクレース運営団体が催するレースを走っていた。

このときのフレディは、5~6レースほどのレースをしていたが、にも真似できないような走りをしていた。メーカーが異なるバイク乗り換えても気で走り、2気筒バイクから4気筒バイク乗り換えても気で走り、シフトダルが右についているバイクからシフトダルが左に付いているバイク乗り換えても気で走り、アップシフト(足で踏むとギアが低速になるシフトダル日本で一般的)のバイクからダウンシフト(足で踏むとギアが高速になるシフトダルレーサー用者が多い)のバイク乗り換えても気で走り、しかも気で走るだけではなくスムーズかつ上手に走ってほとんどのレース優勝していた。

フレディ父親から「息子バイクを整備してほしい」と頼まれたので、アーヴはそれを承諾した。それだけでなく、アーヴはすでに人脈を持っていたので、フレディ職業レーサーになる手引きをすることもできた。

※この項の資料・・・RACERS vol.08 51~52ページexit_nicoichiba

1978~1981年 AMAスーパーバイク選手権で活躍する

1977年12月20日フレディ16歳になり、職業レーサーとして活動し始めた。プロとしての最初のレース1978年3月だった。

1978年から1980年まで、フレディは、アーヴにヤマハマシンを整備してもらった。フレディはそのマシンAMAノーヴィス・ロードレース選手権のチャンピオンになった。AMAexitは全バイクレース連盟で、ノーヴィス(Noviceとは「初心者、見習い」という意味。ロードレースは舗装された路面のレースという意味。

1978年AMAスーパーバイク選手権にもスズキバイクで参加したが、まだ今ひとつの成績だった。

1979年になってAMAスーパーバイク選手権で快走を繰り返し、「ケニー・ロバーツ・シニア以来の天才が出現した」と騒がれるようになった。4戦のうち、2戦をドゥカティで走って、トップ走行中のマシン故障と、4位という好成績になった。残りの2戦はカワサキで走り、2連勝した。ちなみに、このときのゼッケンは8番である。

カワサキホンダから勧誘され、最終的にホンダを選んだ。ちなみに、フレディ逃げられたカワサキは、エディ・ローソンワークスライダーとして雇っている。

1980年ホンダからAMAスーパーバイク選手権を走り、ランキング3位。この年のゼッケンも8番。また、鈴鹿8耐にも参戦したが、わずか3周走ってリタイヤに終わった。

1981年ホンダからAMAスーパーバイク選手権を走り、カワサキエディ・ローソン戦を繰り広げて、僅差のランキング2位となった。ちなみに、19歳になったこの年は、ゼッケン19番にしている。



1978年から1980年まで、アーヴはフレディと3年ほど一緒に仕事した。アーヴは、フレディと気が合うことが分かった。フレディは内気で控えめな青年であり、アーヴの性格と似ているところがあったのである。

アーヴはフレディの底知れぬ才に驚嘆したので、「一刻もヨーロッパに渡り、MotoGPデビューすべきだ」と考えるようになった。アーヴは、自らの相棒ゲイリー・ニクソンとしいバリー・シーンexitMotoGP最大排気量クラス1976年1977年連続チャンピオンイギリス民的人気を博した)に相談したら、「さっさと連れてこい」と言われた。アーヴはフレディMotoGP行きを奨めたが、フレディヨーロッパ舞台とするMotoGPへ行くのを嫌がっている。

その時点でヨーロッパで働いた経験がなく、「このままではフレディを説得するのは難しい」と思ったアーヴは、1981年からヨーロッパに渡り、そこでMotoGPチームに所属して働いて1年の経験を積むことにした。自分がMotoGPの経験者になればフレディを上手く説得できると考えて、1981年のアーヴは、バリー・シーンヤマハ系プライベートチームに参加した。

1981年の1年間をヨーロッパで過ごし、「さあ、フレディを説得しよう」とアーヴは考えたが、ちょうどそのとき、ホンダ日本本社がフレディ獲得に動き出していた。1981年10月頃になって、まず、アーヴをメカニックとして採用し、さらには宮信一と福井威夫exitといった2輪レース部門のボスが直々に「アーヴもいるし、凄いエンジンを作る」と言いつつフレディを口説いたのでフレディの心も動き、1982年からホンダワークスに所属してMotoGP最大排気量クラスへ参戦することが決まった。


※この項の資料・・・フレディ自伝exit_nicoichibaRACERS vol.33 14ページ、21ページ、24ページexit_nicoichibaRACERS vol.08 51~52ページexit_nicoichibaRACERS vol.01 55ページexit_nicoichiba
 

1982年 MotoGP最大排気量クラスにフル参戦を開始する

1982年から、フレディは、MotoGP最大排気量クラス500ccクラス)にフル参戦を始めた。

所属するのはホンダワークスである。この当時の最大排気量クラスの状況を整理すると、次のようになる。
 

1974年までずっとMVアグスタの4スト500ccマシンが最大排気量クラスチャンピオンを獲っていたが、1975年ヤマハ2スト500ccマシンが初めて最大排気量クラスチャンピオンを獲得した。

1976年1977年スズキ2スト500ccマシンバリー・シーンexitを乗せてチャンピオンを獲り、1978年1980年までヤマハ2スト500ccマシンケニー・ロバーツ・シニアを乗せて3連覇を達成する。このように、2ストロークエンジンが最大排気量クラスを席巻していた。

1977年12月MotoGP最大排気量クラスへ復帰すると宣言したホンダは、時代に逆行する形であえて4ストロークマシンを作り、NR500exitと名付けた。1979年8月イギリスGPから参戦開始したが、惨敗続きで、1981年シーズン終わりまでノーポイントだった。

1981年1月には2スト500cc3気筒のマシンが作られ始めた。そのエンジンを載せたマシン1981年10月になるといったん完成し、のちにNS500exitと名付けられた。

 
この頃、日本市場HY戦争exitという凄まじい市場シェア争いが行われていた。ホンダの販売を促進するため、勝てない4ストエンジンを放棄するよう、ホンダ上層部の意向が働いたという。

また、こんな状況の中で、フレディ・スペンサーという大天才アメリカ合衆国に現れていた。「ホンダ4ストエンジンを放棄したのは、ヤマハスズキフレディを奪われてはたまらないからだ」と説明されることもある。

実際、2スト500cc3気筒のNS5001981年10月完成すると、そのエンジンをわざわざ飛行機アメリカ合衆国へ持っていってフレディに見せて、さらにNS500車両データフレディに伝えて、そうやってフレディを口説き、やっと契約を結んだという(RACERS vol.01 55ページexit_nicoichiba

1982年フレディは、2スト500cc3気筒のNS500に乗り、2勝を挙げてランキング3位になり、20歳のルーキーとしては極めて好ましい結果を残した。

1982年の第4戦スペインGPで20歳153日のフレディポールポジションを獲得し、最大排気量クラスの最年少記録更新した。

1982年の第7戦ベルギーGPで20歳196日のフレディ優勝し、最大排気量クラスの最年少記録更新した。

このどちらも、31年後のマルク・マルケスによって更新されてしまったが(記事exit)、「最年少記録といえばフレディ」という時代が長く続いた。
 

1983年 最大排気量クラスのチャンピオンを獲得し、当時の最年少記録を打ち立てる

1983年シーズンは、ヤマハYZR500を駆るケニー・ロバーツ・シニアと、ホンダNS500を駆るフレディ・スペンサーの一騎打ちとなり、最終戦までもつれ込む大戦となった。

このシーズンについては、ケニー・ロバーツ・シニアの記事で詳しく解説しているのでそちらも参照されたい。

ホンダNS500は3気筒で、ヤマハのYZR500は4気筒だった。このため、3気筒のホンダにとって、直線でヤマハに後れをとるがコーナーで巻き返す、という戦いが続いた。2020年現在の「ホンダは直線で速く、ヤマハコーナーで速い」というイメージと反対の状況となっていた(RACERS 1983年特集号 83ページexit_nicoichiba)。

シーズンスウェーデンGPの最終ラップで、かなり強引な抜き方をしたフレディは、レース後になるとケニー激怒を浴びていた。その激怒は数十年たっても消えておらず、この記事exitで「29年連続でケニーに怒られている」と言っている。

最終的にチャンピオンになったのはフレディだった。21歳258日での最大排気量クラスチャンピオン獲得は当時の史上最年少記録であり、2013年11月10日に20歳266日のマルク・マルケス更新するまで30年間破られなかった。
 

1984年 負傷などもありチャンピオンを逃す

1984年ホンダは、フレディに対し、2スト500ccの4気筒エンジンを持ってきた。これで、4気筒のヤマハに対してパワーで互に戦うことができる。このマシンNSR500exitと命名された。

4気筒の強いエンジンというのはいいのだが、なんとホンダは、「エンジンの上にチャンバー(排気管)を置着、エンジンの下に燃料タンクをぶら下げる」という、奇想外なアイディアマシンに盛り込んできた。

画像検索すると、なんとも妙なマシンの姿がに入ってくる(画像1exit画像2exit)。「上から順に、燃料タンクエンジンチャンバーと部品が重なっているバイク」を見慣れたあとだと、ちょっと面すぎる形である。

この形は、重心を低くして、ウィリー(前輪の浮き上がり)やスピニング(後輪の回り)を防ぐためのものだった(RACERS vol.08 8ページexit_nicoichiba)。

欠点としては、ブレーキングの最中に燃料タンクの中でガソリンが動き回り、マシンが不安定になるというものであった(RACERS vol.08 45ページexit_nicoichiba


1984年フレディは、開幕戦の予選で転倒し開幕戦を欠場し、第2戦の直後のトランスアトラティック(MotoGPとは別の、練習レース)で転倒して第3戦を欠場した。

そういう負傷欠場に加えて、NSR500の仕上がりも何かがおかしく、第4戦でランディ・マモラexitが操るNS5001983年の3気筒のマシン)に後れをとって、最終的に2位ランディ・マモラに譲ってもらうといった有様だった。第5戦で、フレディNSR500を信じ切れなくなり、倉庫からNS500を引っり出し、それで優勝を勝ち取っている。

そして第9戦の後にアメリカ合衆国ラグナセカで行われたイベントレースの予選で、フレディNSR500で参戦した。この当時はテスト代わりにこういうレースに参戦することが多かったが、このレースの予選ででフレディは転倒し鎖骨骨折し、チャンピオン獲得が絶望的になった。第10~第12戦を3戦とも欠場して、シーズンが終わった。
 

1985年 250ccクラスと500ccクラスにダブルエントリーしてダブルチャンピオンに輝く

1985年から、ホンダワークスロスマンズexitという英国タバコ企業スポンサーに付き、黄金の上品な印を与えるロスマンズ・カラーマシンやレーシングスーツに塗られるようになった(画像exit)。

また、この年から250ccクラスホンダワークスが参戦することになり、それにフレディ・スペンサーが乗って、500ccクラスとの同時挑戦をすることになった。

250cc500cc同時参戦のアイディアは、1984年3月の時点でHRCからフレディアーヴ・カネモトに提示されていた。1984年シーズンが始まっても上手く走れないレースが続いたことでフレディに「来年は250cc500ccの両方に挑戦してみるか」という気持ちが湧き上がり、1984年6月30日の第8戦オランダGPで敗した後にHRCの尾洋一へ「来年は250cc500ccの両方に挑戦します」と宣告したという(RACERS vol.16 84ページexit_nicoichiba)。

1985年ホンダは、引き続き2スト500cc4気筒のエンジンを作りつつ、「上から順に燃料タンクエンジンチャンバー」という、ごく一般的な形式のマシンを作ってきた。

また、250ccマシンも、500ccマシンと同じような感じの、伝統的な感じで作り上げてきた。

堅実な作りのバイクを与えられたフレディは、1985年シーズンをまさしく奮戦した。250ccレースを走って表式に出て、オープンカーに乗ってウィニングパレードをこなし、それから500ccマシンが用意されているピットへ行ってマシンに跨がり、ピットから出て500ccレースに臨む・・・こういうことを開幕戦からずっと繰り返した。その結果、250ccクラスで10戦7勝してイギリスGPでチャンピオンを決め、500ccクラスで11戦7勝して8月10日スウェーデンGPでチャンピオンを決めたのである。

フレディは、23歳233日の若さで、不滅の大記録を達成した。1990年代後半にMotoGPにおけるダブルエントリーが禁止されたので、フレディ記録更新することは不可能である。
 

真っ白に燃え尽き、廃人と化す

250ccクラス500ccクラスの両方を同時に制するという偉業を成し遂げたフレディは、絶大な功績の代償に、決して癒えぬ心の傷を負ってしまった。

250ccクラスレース500ccクラスレースは、ブレーキングポイント速、重、操作性、コーナーリング速度、走行ライン、などが大きく異なる。それに体と精を合わせ、そして優勝に向かって走らねばならない。

1984年オフに、250ccマシンテスト500ccマシンテストを同時に行ったとき、フレディは全身筋肉痛になり、手がマメだらけになり、あまりの疲労での中の顔がひどいものになったという(RACERS vol.16 84ページexit_nicoichiba)。

偉業を達成した後の1985年オフフレディホンダテスト断欠席した。心配になったアーヴ・カネモトフレディを訪ねていったら、フレディは放心状態の表情で、まるで廃人のようだったという(RACERS vol.16 86ページexit_nicoichiba)。
 

右手首の故障

フレディの競走人生は、実質的に、1985年で終わった。1986年以降のフレディの走りは、1985年までのかしい成績とべると、オマケとしか言いようがない。

サーキットで思い切り速く走りたい」という願望と、「体力を消耗しきって廃人になるのは嫌だ」という恐怖心が、フレディの心の中で同居し、せめぎ合っていたものと思われる。

1986年第1戦のスペインGPでポールポジションを獲ったが、決勝で右手首に違和感を感じ、そのままリタイヤした。そのあと、ずっと「右手首が痛い」と訴え続け、1986年レースに出ない日々が続いた。

1986年に、アーヴ・カネモト金澤賢(HRC技術者)がドイツ大学病院フレディを連れていき、スポーツ医学の権威に検してもらったが、医者からは「なんともない」との返事があった。ところがフレディは「痛くて走れない」と言い続けていた。(RACERS vol.01 79ページexit_nicoichiba)。

フレディのことを仮病と疑う人も出現するようになり、「嘘つきフレディ」というあだ名を付けられるようになった。

1988年3月、27歳のフレディ右手首の故障を理由に、現役引退を発表した。
 

引退撤回と、再びの引退

1989年フレディは、1年間の休養の後、「手首の傷が癒えた」と発表して現役復帰し、ヤマハ系の有チームであるチームアゴティーニと契約した。ゼッケンはお気に入りの19番だった(画像exit)。

ところが1989年も低迷した。第11戦フランスGPを痛で途中棄権し、解雇された。

1990年はほとんど休み、1991年1992年AMA(アメリカスーパーバイク選手権)に戻って2年ともフル参戦し、通算2勝を挙げた。1992年は12年振りに鈴鹿8耐へ挑戦し、ホンダ系のチームで4位で完走し、日本ファンの前で元気な姿を見せた。

1993年ヤマハ系のプライベートチームからMotoGP最大排気量クラスに参戦したが、全く好成績を残せず、これが最後のMotoGP挑戦となった。

1995年1996年AMA(アメリカスーパーバイク選手権)で走った。1995年勝利人生最後のものとなった(画像exit)。

1996年をもって現役を引退した。
 

ラスヴェガスでライディングスクールを経営する

引退後の1997年アメリカ南部ネヴァダ州のラスヴェガスexitで、ライディンスクールを開いた。

10年経った2007年頃にサブプライム住宅ローン危機exitが発生し、2008年にはリーマンショックが到来し、アメリカ合衆国を含む世界全体が不気になった。この不気の煽りを食って、2008年頃にライディンスクール閉鎖している。
 

FIMのスチュワードパネルの議長に就任する

2018年10月19日、なんの前触れもなく、「2019年からフレディ・スペンサーがFIMのスチュワードネルの議長に就任する」と発表された(記事exit)。スチュワードネルとは、レース運営の一部門で、ライダーに対する懲を担当するところである。

2019年シーズンから、MotoGPの全戦に帯同し、スチュワードネルの議長として仕事をするようになった。
 

家族、友人、元婚約者

父親名前フレデリックFrederick)で、息子フレディと区別するためフレデリック・シニアと呼ばれることがある。

1926年頃に、カンザス州プラットexitで生まれた。

高校卒業してすぐ徴兵され、太平洋戦争に従軍し、フィリピンまで遠征して、そこで腸チフスにかかった。帰後は心的外傷後ストレス障害PTSD)に悩まされた。息子フレディに対して、軍隊生活のことをほとんど喋らなかったという。

軍隊生活の後は、ワイオミング州exitユニオン・パシフィック鉄道exitの路線建設の仕事をして、そのあと、ルイジアナシュリーヴポートexitに住み着いた。

ルイジアナ州シュリーヴポートで、牛乳販売店を経営するようになり、しだいに売れっ子となった。これが1950年代初頭のことである。1970年代になると、牛乳だけでなく、モートンのポテトチップスexitのような商品も販売していた。そして、ホッチキスストリートグロースリー(Hotchkiss Street Grocery)というコンビニエンスストアを経営した。

とにかく働き者で、フレディレースは、フレデリック・シニアの献身的な労働によって支えられていた。

フレデリック・シニアはシュリーヴポートで複数の店舗を経営していた。黒人が多く住む地域にも店舗を開いており、黒人を商売相手にしていた。当時のアメリカ合衆国南部人種隔離が甚だしい状況だったが、フレデリック・シニア黒人に対して融和的な人物だったと言えそうである。

フレデリック・シニアレース好きで、1950年代に、オハイオ州マンスフィールドまで遠征して、カートレース用小4輪)の全選手権レースに出たことがある。カートの後はオートバイでのレースにも熱中していた。また、ポンティアック・GTOexitという自動車で、ドラッグレースexit(静止状態からの加速性を競うレース)をしたこともある。フレディは、フレデリック・シニア許可をもらってポンティアック・GTOの後部座席の床に潜んで、ドラッグレースを体験したことがあるという。

シュライナーズexitという秘密結社に加盟していた。ただし、家族を勧誘することはしなかったという。
 

母親名前ジュンJune)。フレデリック・シニアとは違って、代々ルイジアナ州に住んでいる。

本記事の「経歴」で、2歳のフレディが大やけどしたときにフレディを救ったレヴィーC(Levy C)という黒人紹介した。レヴィーCは、ジュン祖母財産管理をしていた。ゆえに、レヴィーCは、ジュンに関わりが深い人と言える。
 

リンダ(Linda)という1947年頃生まれのと、ダニーDanny)という1950年頃生まれのがいる。

どちらも父親フレデリック・シニアと同じく、カートレースをしていた。

ダニーフレディ年齢差は11歳だった。

ダニー物の問題を抱えていて、刑務所に収監されたこともある。
 

フレディが10台の頃、ルイジアナ州やテキサス州でダートトラックレースを走っていたが、そのときの友人1958年頃生まれで、フレディとは約3歳ほどの年齢差である。

ダートトラックの選手として大成し、30年間もの長い間選手生活を続け、AMAグランドナショナルで11勝した。この動画exit紹介されている。

Facebookのアカウントexitを持っている。

テリーの好みのゼッケンは18番(画像1exit画像2exit)。一方、フレディの好みのゼッケンは19番である。何か関連があるのだろうか・・・
 

フレディの元婚約者で、フレディと同じくルイジアナ州シュリーヴポート出身。

1985年までフレディと付き合っていた。1985年ミスルイジアナ州で優勝し(結果exit)、1985年ミスアメリカで4位に入り(結果exit)、1985年9月にはミス・インターナショナルexitに挑戦して準優勝いている(結果exit)。

1985年シーズンフレディ250ccクラス500ccクラスダブルエントリーをしたが、過酷な挑戦によりフレディが疲労困憊していた。そのうえ、シーズン終了とともにサリーと別れたので、精的な打撃がフレディにさらに追加されてしまった(RACERS vol.16 86ページexit_nicoichiba)。
 

1998年11月16日生まれの画像1exit画像2exit画像3exit)。Instagramのアカウントexitを持っている。

2017年5月31日高校卒業した(画像exit)。

父親と一緒に映っている写真が多い(画像1exit画像2exit画像3exit画像4exit)。
 

2001年12月29日生まれの息子画像exit)。Instagramのアカウントexitを持っている。

2019年5月30日高校卒業した(画像exit)。卒業式に着ていると同じなので、と同じ高校に通っていたようである。
 

元妻で、ジョーディンコナー母親1993年頃にフレディ結婚した。

2007年9月チェリーの方から離婚したいと申し出て、2009年12月フレディチェリー離婚が決まり、フレディはそれまで住んでいたネヴァダラスヴェガスを出ていくことになった。一時はルイジアナ州に戻ったが、最終的にテキサス州ダラスに引っ越した。
  

フレディの再婚相手。2019年7月14日ラスヴェガス結婚した(画像exit)。

2016年3月にはすでに交際していたようで、フレディ自伝exit_nicoichibaの最後尾の写真コーナーに、この人の写真が出てくる。

開ながら、Instagramのアカウントexitを持っている。
 

宗教

フレディは、「自分は敬虔なキリスト教徒である」と、ある時期から言い始めた(片山敬済『天駆ける』 134ページexit_nicoichiba)。

1983年シーズン半ばに、ある雑誌で次のようにっていた。「の走り自体はにすべてコントロールされている。に守られているのだ。そこには恐怖など何もない。ただ、ひたすらを信じて走ればいいだけのことなのだ」(片山敬済『天駆ける』 134ページexit_nicoichiba


キリスト教の中で新興宗教と扱われるモルモン教信者であると、現役時代に噂されており、その噂を受けて日本語Wikipediaにもそう書かれている。

フレディの自伝『Feel: My Story』のchapter1:FIREexitでは、モルモン教信者であることが否定されている。(このページexitで、一部分だけ立ち読みできる)。

The South at the time was extremely conservative. In many ways it still is. We were not a religious family but there was a King James Bible on the book shelf above the TV in the living room, second book from the left, and a Baptist church out the back, where I would watch the people go in and out. We never went to church or prayed in the house. Later, articles would appear and there was paddock gossip about how I was deeply religious and even that I was a Mormon or part of some religious cult. People thought they couldn't cuss around me and that I would never drink wine. None of it was true. I was not religious but I always had faith.


上記の英文をGoogle翻訳すると、このようになるexit

上記の英文を翻訳してみると、おおよそ、次のようになるだろう。

当時の南部は非常に保守的だった。多くの点で、現在南部も、相変わらず保守的である。

私の庭は信心深い(religious)というほどではなかった。居間のテレビの上の書架には、欽定訳聖書exit英語版聖書の中で最も一般的なもの)があり、書架の一番左から2番に置かれていた。

私のの裏にはバプテスト教会exitアメリカ南部人気があるプロテスタントの一)があり、そこに人々が出入りするのがからよく見えた。ただし、バプテスト教会に行ったり、バプテスト教会で祈ったりすることはなかった。

のちに、記事が書かれ、パドックMotoGP関係者の集まり)で「フレディは極めて信心深い」「フレディモルモン教か、それに類似するカルト宗教信者である」と噂されるようになった。パドックの人々は「フレディの周囲の人は、フレディを叱り飛ばすことができなかった」「フレディワインを飲んだことがない(モルモン教は飲厳禁)」と信じるようになった。これらは、すべてが間違いである。

私は、何かを信じる(faith)ということはするが、信心深い(religious)というほどではない。

 


 
状況をまとめると、フレディには宗教的情熱があるわけではなかったが、バイク走行の最中に発生する恐怖心をするため「に守られている」と自分に言い聞かせつつ周囲にも言していた。それを曲解され、モルモン教信者であるという噂を流された、ということになるだろう。
 

その他の雑記

現役時代はドクターペッパー飲していた。フレディ契約していたレーシングスーツメーカー南海部品は、フレディの機嫌をとるため、米軍基地があって米国人の多い沖縄にある沖縄支社に電話をかけ、ドクターペッパーを買いめさせたという(RACERS vol.01 88ページexit_nicoichiba)。2011年頃には飲まなくなっており「なんで自分はあんな甘いものを飲んでいたんだろうか」と喋っている(RACERS vol.08 49ページexit_nicoichiba)。

気分屋なので、周囲のホンダワークススタッフたちは相当にフレディに対して気を遣っていた。フレディが寝坊しても怒らず、フレディが好きな朝食を用意し、フレディが嫌うものを極排除していた。周囲のスタッフ必死マシン善しても0.1程度しかタイムが縮まらないが、フレディの気分が乗れば0.7ほどタイムが縮む、という現実があった(RACERS 1983年特集号 85ページexit_nicoichiba)。

1983年に史上最年少で最大排気量クラスチャンピオンを獲得した時と、1985年250ccクラスと最大排気量クラスチャンピオンを同時に獲得したとき、当時のアメリカ合衆国大統領だったロナルド・レーガンから、FAXで祝電が届いた。そのうち、1985年のものの写真は、RACERS vol.16の46ページexit_nicoichibaに掲載されている。

ゴルフ趣味で、ときどきやる。また日本製のヘリコプターラジコンで遊ぶこともある(RACERS vol.08 49ページexit_nicoichiba)。

2011年の時点で、「テキサス州ダラスexitに最近住むようになった」とっている(RACERS vol.08 98ページexit_nicoichiba)。

くまモンと一緒に映っている(画像exit)。
 

関連商品

フレディ・スペンサーの自伝で、全文が英語で書かれている。Amazonkindle版を購入することができる。
1980年から1982年アメリカホンダによるAMAスーパーバイク選手権の戦いを記録した雑誌であるが、フレディ・スペンサーのことが随所に出てくる。
1983年ホンダワークス視点から振り返る本。
1983年闘をフレディ・スペンサーとケニー・ロバーツ・シニアの両方の視点から振り返る。両者のコメントが多い。
1984年ホンダマシンを特集している。
1985年ダブルチャンピオンを取り上げている。

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