プロレス入場曲とはプロレスラーが入場する際に流されるBGM、落語家や芸人でいうところの出囃子である。
元々はテレビ中継の効果音的な役割であり、テレビ中継のない興行や前座レスラーの試合では曲がかからなかったが、現在は第一試合はもちろん、興行の開始にもテーマ曲がかけられるようになっている。
概要
現在、各プロレスラーにはそれぞれ異なる入場曲がある。会場でこれらの入場曲がかかると観客は「ああ、あの選手がやってくるんだな」とテンションが上がり、レスラーも曲によって戦う気分が高まるといったしだい。
使われる曲は人それぞれ。オーソドックスなところではヘビーメタルやハードロック、クラッシックやオペラなど気持ちが高揚する曲が選ばれやすいが、アイドルソングやJ-POP、ポップス、パンクロック、はてはレゲエやアニメソングなどを使う選手もいる。
入場だけではなく、1990年代頃からは試合の決着がつくと、演出として勝者側の入場曲がかかるようにもなった。両者リングアウトや時間切れ引き分けなど決着がつかなかったときも、それ専用の曲がかかるようになっている。
プロレス入場曲の始まり
日本におけるプロレス入場曲の歴史は、1974年の国際プロレスまでさかのぼる。
当時、国際プロレスに来日したアメリカの人気プロレスラー、スーパースター・ビリー・グラハムの入場に合わせて、彼のリングネームの由来でもある「ジーザス・クライスト・スーパースター」のテーマ曲を流したのが、日本最初のプロレス入場曲とされている。これはドイツのハノーバー・トーナメントに出場したとき、プロレスラーたちが入場する際にそれぞれ専用の曲がかかっていたことを、マイティ井上が東京12チャンネル(現在のTV東京)のプロデューサーに話したことがきっかけであるそうだ。ただし、原曲ではなく101ストリングス・オーケストラのバージョンだったらしい。
ちなみにハノーバー・トーナメントでマイティ井上の入場曲として使われたのは、ちあきなおみの「四つのお願い」だったそうである。
その後、全日本プロレスでは1975年10月30日の蔵前国技館大会、ジャンボ鶴田対アブドーラ・ザ・ブッチャーの試合で鶴田入場の際にフランスのディスコグルーブであるバンザイの「チャイニーズ・カンフー」を流した。全日本プロレスで初めてのプロレス入場曲はこれらしい。
だが、本格的にプロレス入場曲が定着したのは、1977年に全日本プロレスで使用されたミル・マスカラスの「スカイ・ハイ」からだというのが定説とされている。当初はマスカラス来日の予告編VTRのBGMとして使われたのが入場曲にも使われたようである。マスカラスの華麗な覆面とファイトスタイルが楽曲にマッチし、プロレスファンの間で大ヒット。また、初来日のころに比べると徐々に落ちてきたマスカラス人気も、この曲をきっかけにV字のように復活したと言われている(選曲をしたのは、当時の全日本プロレス中継でディレクターをしていた梅垣進氏である)。
この流れを受けて、やがてどの団体もレスラーの入場の際になんらかのテーマ曲がかけられるようになった。
その中でもヒットしたのが、アントニオ猪木の入場曲「炎のファイター」だった。元々は、1976年に対戦したモハメド・アリの曲だった「アリ・ボンバイエ」を友情の証としてもらい受け、「アリ!ボンバイエ!」というフレーズを「猪木!ボンバイエ!」と吹き替えなおしたものなのだが、これがやはり、猪木の闘魂プロレスにマッチして、やがて来る80年代プロレスブームの牽引車的な役割も果たすようになった。
それまでは選手のイメージに合わせて既存の曲から選曲していたが、1977年にオリジナルの入場曲が誕生する。ザ・ファンクス(ドリー・ファンクJr.とテリー・ファンク)の入場曲である「スピニング・トーホールド」である。
この曲はロックバンド「クリエイション」のリーダーでプロレスファンでもある竹田和夫がファンクスに捧げた曲で、全日本プロレス年末の「世界オープン・タッグ選手権」から使用された。同年12月15日の蔵前国技館大会、優勝決定戦でザ・ファンクスがザ・シーク、アブドーラ・ザ・ブッチャーを破って優勝したシーンで流れたのはオールドファンの記憶に今も残っているだろう(え? 「笑う犬の冒険」? なんのことでしょう……イキテルッテナーンダーロ イキテルッテナーニー?)。
じゃ、力道山の時代や日本プロレスのB.I砲の時代はどうだったかというと…無音で入場していたそうである。
入場曲のタイプ
入場曲には大きく分けて2つのタイプがある。
一つは既存の曲から選ぶ選曲型、もう一つはその選手独自の曲を作曲家に発注するオリジナル型である。
選曲型の利点は、ファンが曲を収録したレコードまたはCDを買い集めて、自分なりに聞いて楽しむ行為がしやすいこと。
難点はVIDEOやDVDなどのように映像ソフト化する際、原盤権を持つ版権管理団体への使用料が高額となるため、無版権のオリジナル曲に差し替えられることが多いこと。また、ニコニコ生放送などのネット配信でも使用料の関係から入場シーンが無音となり、見ている側の気分がどうしても高揚しづらくなる。
もう一つの難点は選曲とリミックス。団体によってはマイナーなカバーバージョンや廃盤になって久しい曲を使うなど、選曲がマニアックなものになりすぎて、原盤が入手しづらいことが多々ある。また、原曲にかけ声や歓声、SEなどを被せる独自のリミックスも多く、曲そのままでは聞いててどこか物足りなくなるケースも多い。
選曲型の難点をさらに挙げるとするなら、アルバムに収録されたカバー曲の存在がある。レコード会社の関係で、曲の中にはどうしてもカバーにならざるを得ないものがあるのだが、CDを買ったファンからするとそれは全くの別物。聞くと「これじゃない」「チッ、糞カバーかよ」と落胆してしまう。ところがプロレスラーによっては、そうしたカバー曲を入場曲に採用するケースがあるから話はややこしい。
代表的な例としては、マサ斎藤の入場曲「The Fight」が挙げられる。マサ斎藤の曲は映画「オーバー・ザ・トップ」のサントラCDに収録されているのだが、かつて発売された新日本プロレスの入場テーマ曲CDではこれがカバーバージョンとなっていた。これだけならファンとしてはただの「糞カバー」で済むのだが、DDTプロレスリングの高梨将弘がマサ高梨のリングネームだった頃にこのカバーバージョンを正式な入場曲としていたため、入場曲マニア的にとてもややこしい事態になっている。
オリジナル型の利点は、楽曲の版権を多くは団体が保持しているため、映像ソフト化されても曲が差し替えられずに済むこと。難点は、団体もしくはレスラーによっては音源を頒布しておらず、会場もしくはテレビやネットの試合中継などで聞くしか楽しむ術がないこと。もちろん、曲が全部かかる前に入場したらそこで音楽は止まるので、フルコーラスを聞くのはかなり難しい。WWEやかつてのKAIENTAI-DOJO、最近のDDTプロレスリングや大日本プロレスのように(インディー版含めて)公式サントラCDをリリースしてくれればいいのだが、バラモン兄弟のようにCD-Rによる頒布すらないケースはファンとしては厳しい。
変わる入場曲
プロレス入場曲は基本的に一人一曲であるが、レスラーによっては何度も変えるパターンがある。その代表的な例がスタン・ハンセンとジャイアント馬場である。
ハンセンは新日本プロレス時代に「ウエスタン・ラリアート」という曲を使用していたが、全日本プロレスに移籍してからはスペクトラムの「SUNRISE」を使用している。しかも、前の項で説明したように、団体側でリミックスしているため、原曲を買っても本来の入場曲にならないという困ったことになっている。ニコニコ動画に上がっている曲でも、大半に「カバーなのが残念」というコメントがついている。
こうした移籍による入場曲の変更は、他にも何人かいる。中にはブルーザー・ブロディのように曲そのものは同じだが、アレンジが大きく異なるというケースもある。
ジャイアント馬場の場合は当初、全日本プロレス中継のOP曲でもあったを使用していたが、1984年から晩年までは「王者の魂」を使うようになった。「NTVスポーツ行進曲」はその後、輪島大士の曲となった。
こうした例は他に、アントニオ猪木から藤田和之へ「炎のファイター」を、坂口征二から安田忠夫へ「燃えよ荒鷲」を、佐々木健介から中嶋勝彦に「POWER 08」を譲渡したケースが挙げられる。
また、蝶野正洋のようにヒール転向によって入場曲を変えるもの、武藤敬司や藤波辰爾のように何かの節目節目で曲が変わるものもいる。
プロレス入場曲マニア
プロレスファンの中には、入場曲にこだわるマニアも多く、ネットで検索するとデータベースのようなものを構築している人も多い。ニコニコ動画にプロレス入場曲をうpする人も、その多くはそうした入場曲マニアだろう。
プロレス業界人にも入場曲マニアは多いが、その代表と言えるのが新日本プロレスの実況などでおなじみの清野茂樹アナウンサーと、全日本プロレスの木原文人リングアナウンサーの2人。どちらもNHK-FMの「今日は一日プロレス・格闘技テーマ曲三昧」にも協力しており、清野アナはゲスト出演もしていた。ぶっちゃけていうと、この記事も清野アナの「プロレス入門講座」がベースとなっている(おい)。
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