ヘルムート・フォン・モルトケ(独:Helmuth von Moltke)とは、
- ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(1800-1891) プロイセン王国の軍人。大モルトケとも。
- ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(1848-1916) ドイツ帝国の軍人。
大モルトケの甥で第一次世界大戦でシュリーフェン・プランを実行した。小モルトケとも。
…である。ここでは1.について解説する。
概要
ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ(以下、大モルトケ)は、プロイセン王国の参謀総長として、第2次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争、普墺戦争、普仏戦争を指導した。ドイツ統一の三傑のひとり。鉄道・電信をフル活用し当時の戦争を変え、また参謀本部を完成させ、「近代ドイツ軍の父」と呼ばれた。
生涯
大モルトケは、ドイツ北部のメクレンブルク地方の小都市パルヒム[1]に、ナポレオン戦争で没落したドイツ貴族とデンマーク貴族の間に生まれる。
デンマークの士官学校を出、デンマーク軍に仕官するが、ナポレオン戦争直後で人員過剰なデンマーク軍から1822年にプロイセン軍に籍を移す。その後、隊附勤務をほとんどせずに、参謀本部陸地測量部へ配属。
1833年から39年にかけて、オスマン帝国に派遣され、軍事顧問となる。このうちに第2次エジプト・トルコ戦争を体験。生涯最初で最後の敗戦を味わう。
1840年、プロイセン軍に復帰。第4軍団参謀長やベルリン=ハンブルク鉄道理事などを務め、45年以降は侍従武官として各国を回る。
1857年、参謀総長代行、翌年総長に就任。電信・鉄道等の最新技術を積極的に取り入れ、軍の革新を図る。(なお、当時の参謀本部は日陰部署で、大モルトケの総長就任も「無害そうだから」が原因だった)
1864年、第2次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争勃発。権威の全くない参謀本部から言うことを聞かない現場を指揮し、なんとか勝利する。
1866年、普墺戦争勃発。今度は軍の全権を預かり、多少はいうことを聞くようになった現場を指揮し、下馬評を覆しわずか7週間でオーストリアを下す。首相の作戦介入によりビスマルクとの関係が悪化。
1870年、普仏戦争。ビスマルクによって孤立したフランスを相手に北ドイツ連邦および南ドイツの各軍を指揮し、フランスを下す。1871年ドイツ帝国成立。
逸話
大モルトケはいわゆる「軍人」らしからぬ繊細な性格の持ち主で、また語学に堪能であるが無口であった(そのため、7か国語で沈黙すると評された)。また、自作の小説や外国文学の翻訳、戦場のスケッチ・水彩画などを残している。
大モルトケが結婚したのは、彼が42歳のときで、相手はなんと16歳の義理の姪である(なお、婚約したのはその1年前)。どう見てもロリコンです、本当にあ(ry
寡黙で小食の大モルトケは、大食漢でおしゃべりで朝寝坊のビスマルクとは仲が悪かったが、仕事の上では協力しあい、ドイツ統一を成し遂げた。
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関連項目
- プロイセン
- ドイツ
- オットー・フォン・ビスマルク
- アルプレヒト・フォン・ローン
- ヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケ(小モルトケ。大モルトケの甥)
- 軍人の一覧
脚注
- *パルヒム(Parchim)は、現在はドイツ連邦共和国のメクレンブルク=フォアポンメルン州に属している。
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