単語記事: ヘンリー・ダーガー

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ヘンリー・ダーガーHenry Darger)、ヘンリージョセフ・ダーガーHenry Joseph Darger)は、アメリカ合衆国作家アーティストである。1892年に生まれ、1973年に81歳で没した。

概要

19歳ごろから数十年間をかけ、人知れず幻想小説を書き続けていた。

中でも代表作とされる『非現実の王国で』と呼ばれる小説15000ページ以上にも及び、1名の作家によって英語で書かれた小説としては最長クラスである。さらに、独学で身に付けたらしい変りな手法により、数枚にわたる挿絵をも描いていた。

だがダーガーの死の前年まで、彼の作品について知る者は彼自身以外には居なかったとされている。孤独な人生を歩んでいたダーガーは、おそらく「自らのためだけに」、発表する相手などもいないままに創作を続けていた。完成した作品群も、彼の自室に仕舞い込まれていた。

そのため、これらの非常に長大で、そしてあまりにも独創的な(見る人によっては「奇怪な」)作品群は、彼の死後にに知られることもなく消えていく可性もあった。

だが1972年、老齢で体が衰えたダーガーは約40年間暮らしたアパートの自室から出て老人養護施設に入ることになった。そのしばらく後、そのアパート大家「ネイサン・ラーナー」(Nathan Lerner)が彼の部屋の片付けを行った際に、これらの作品群が偶然発見された。そしてダーガーにとっては幸か不幸か、ラーナーは芸術であったために、ダーガーの作品の持つ特殊な芸術性をはっきりと認識した。

ダーガーの死後、1977年には彼が住んでいたシカゴで彼に関する最初の展覧会が開かれ、以後も様々な場所で彼の作品が開された。その後も、彼の知名度や評価は時代を経るごとに高まっていった。

1992年ロサンゼルス・カウンティ美術館によって企画・開催された「Parallel Visions: Modern Artists and Outsider Art」という「アウトサイダーアート」に関する展覧会はアメリカ外にも巡回し、1993年には東京でも開催された。この頃から、「アウトサイダーアーティスト」の代表例の一つとして日本でも彼の知名度が高まった。

こうして、「独りぼっちで作り上げた想像上の王」であり、「他ののためでもない、ダーガー自身のためだけの世界」だったものは、「世界中の人々の注を浴びる芸術作品」へと変貌したのである。

彼の作品の一部は2016年現在アメリカ芸術作品を集めた「アメリカン・フォークアート・ミュージアム」やモダンアートの殿堂「ニューヨーク近代美術館」(MoMA)、フランスにあるアールブリュット(アウトサイダーアート)の美術館アールブリュット・コレクション」などに収蔵されている。

ダーガーの住んでいたアパート2000年に取り壊された。だがダーガーの部屋内にあった彼の私物は、同じシカゴにある「Intuit: The Center for Intuitive and Outsider Art」という施設に一部が移された。2016年現在では同施設内にある「The Henry Darger Room Collection」という展示として開されており、その雰囲気を伝えている。

彼を特集した映像作品もいくつか作成されている。彼が亡くなった1973年に彼の部屋を記録した8ミリ映画Darger's Room 1973』、2004年の『非現実の王国で ヘンリー・ダーガー』(原題:『In the Realms of the Unreal: The Mystery of Henry Darger』)、2012年の『Revolutions of the Night: The Enigma of Henry Darger』など。

このうち『非現実の王国で ヘンリー・ダーガー』は基本的には彼自身に関するドキュメンタリー映画だが、彼の作品の画像を加工したアニメーション映像も含んでいる。この映画日本でも2008年に劇場開され、日本語DVDも発売されている。

彼の名字Darger」の正確な発音は不明。彼を知っていた人の中には、「ダーガー」と発音していた人もいれば「ダージャー」と発音していた人もおり一貫していない。だが本記事では、日本で一般的な「ダーガー」表記とする。

経歴

生い立ち

ヘンリー1892年アメリカ合衆国のイリノイ州シカゴで、彼と同名の父親ヘンリージョセフ・ダーガーと、その妻ローザRosa)の間に生を受けた。ヘンリーの前にもこの夫妻の間に2名の子供が産まれていたとの記録もあるようだが、彼らについては詳細が不明である。

1896年、ヘンリーが4歳のときに、ローザヘンリーの出産の際に死亡する。このは里子に出された。

その後ヘンリーを育てていたは、息子に新聞などを読むことを教えた。そのかいあってか、ヘンリーは年齢にして優れた読解を身に着け、小学校では1年生から3年生へと飛び級で進級した。

だがヘンリーが8歳の頃に体を壊して教会系列の救貧院に入ってしまい、ヘンリーと別れて同じく教会系列の児童施設に入所した。

知的障碍児施設

ヘンリー12歳になった1904年、彼は問題行動などを理由に知的障児施設へと送られることになった。

それまで居た児童施設はの居る救貧院と同じシカゴにあったが、この知的障児施設の方は同じイリノイ州ではあるがシカゴから200km以上南西にあるリンカーンに位置していた。ヘンリー少年は、たった一人の家族であるから距離的にも遠く離れて暮らすことになったのである。

この施設では、虐待とも感じられるような辛い体験をしたらしく、ここでの経験は彼の心の内に「虐待された子供を守らなければならない」という信念を育てた。また彼の後の作品にも多大な影を与えている。

そして1908年、彼のが亡くなった。の死を知ったことが何らかの引き金となったのか、ヘンリーは施設からの脱走を試み始める。第1回・第2回の脱走は失敗したが第3回には脱走に成功。自由になった彼の足は、と暮らした故郷であるシカゴへと向かった。

シカゴでのその後の生活

シカゴに戻った彼は、洗礼親だった女性の助けも受けて、キリスト教系の病院の掃除夫として職に就いた。その後、人間関係の問題などから働く病院を何度か変えたものの、彼は1963年に足を悪くして働けなくなるまでの五十数年間、病院の皿洗いや包帯室勤務などで働き続けた。

1969年には交通事故に遭い、足をさらに痛めてしまった。このために、アパートの3階にあった自室への階段を上ることが困難になり始める。

この物件の大家であり、ヘンリーのことを気にかけていたネイサン・ラーナーやその妻キヨコ(Kiyoko)はこれを見かねてヘンリーに老人養護施設への入所を勧めた、ヘンリーも最初は渋っていたものの最終的にこれを受け入れ、1972年に自室から出て老人養護施設に入所した。

作品の発見

ヘンリーが入所した後、ネイサンはヘンリー本人の許可も得て、彼の部屋を片づけることにした。必要なものが残っていないか聞いたところ、ヘンリーは「部屋には必要なものは何もない。すべてあなたのものだ。何もかも捨ててしまって構わない」と答えたという。

その言葉に従い、ラーナー夫妻は彼の部屋を片付けるために立ち入った。ヘンリーと同じ階に住んでいたデイヴィッド・ベルグランドDavid Berglund)という人物も手伝ってくれた。

そしてネイサンが部屋の中にあったトランクから、手製で装丁された沢山の本と、その挿絵と思われる多くの絵画を発見した。これらこそが、彼が数十年かけて作り上げながらにも披露していなかった作品群であった。

自らも芸術であったネイサンはすぐにそれらの作品の価値に気づいた。そして、これらの作品やヘンリーの部屋を処分することなく保存することとした。

1973年ヘンリーは81歳でその人生を終えた。死因はだった。

その死の少し前、としていたヘンリーの元にベルグランド氏が訪れて彼の作品を発見したことを話すと、ヘンリーは意識を取り戻した様子でこう言ったという。

Too late now.

(今さらだ。もう遅い)

彼の墓石にはこう刻まれている。

HENRY  DARGER
1892       †       1973
ARTIST
PROTECTOR  OF  CHILDREN

彼は生前、ある人物との文通の中で「被虐待児を救援する団体を共に設立しよう」という夢をっていたが、それが実現することはなかった。

よって「PROTECTOR OF CHILDREN子供たちの護者)」との言葉は、彼が自らの作品内に登場させた「もう一人の自分」、「子供たちを護るダーガー将軍」の姿に対してげられたものである。

孤独

彼の人生の多くの期間は「孤独」と表現できる。

シカゴで就職した後の彼は、ごく少数の例外を除いてかと親密な関係を築くことがほとんどなかった。を失った後に新たな家族を得ることは終ぞなかった。養子をもらうことを願い出たことがあったが、却下されてしまっており、そのことに関する落胆を書き残している。

彼は基本的に非社交的であり、会話も苦手としていた。キリスト教会のミサには頻繁に参加していたが、教会でかと話すことはほとんどなく、話しかけられた際には口ごもるか、気の話題などをぼそぼそとつぶやいた後に逃げるように立ち去った。とても内気で、話し相手の顔を見ることができなかったという。

大家ラーナー夫妻が老人養護施設へと面会に行った際、ダーガーはいつもその施設の大きなリビングルームの隅に座り、テレビを見ている他の人々からは離れて俯いて過ごしていた。

しかし彼は孤独を愛していたり、好き好んで孤独になっていたというわけではなかったようである。79歳の時の彼は、1971年12月日記にこう書き残している。

Never had a good Christmas in all my life.

(私の人生で良いクリスマスなんて一度もなかった。)

やはり、孤独を持て余していたのだろう。

ただし彼は晩年に隣人に恵まれたようで、上記のベルグランド氏はダーガーが老人養護施設に入る以前に、彼に誕生日パーティーを開いてあげている。ダーガーはそのパーティーバースデーケーキを食べた後、「ブラジル子供行進曲」を歌いながらテーブルの周りを行進してみせたという(ダーガーは「自分はブラジルで生まれ、2歳の頃に両親に連れられてアメリカに来たのだ」と周囲に話していた)。さらに、ベルグランド氏やそのガールフレンドはダーガーの普段の食事の世話もしてあげていた。

貴重な友人、ウィリアム・シュローダー

ダーガーにも友人が皆無だったわけではない。

ダーガーはシカゴに戻ってしばらくしてから、ひょっとすると生涯一かもしれない親友、ウィリアム・シュローダー(William Schloeder)と出会っている。

シュローダーはダーガーと同じく児童福に関心があったらしく、二人は意気投合した。実現はしなかったものの、虐待被害児童のための団体を二人で共同で設立することについて協議したこともあるという。

ダーガーとシュローダーはシカゴで多くの時を共に過ごし、時にダーガーはシュローダーのを訪問することもあった。ヘンリー・ダーガー人生について記述している者の中には、ダーガーとシュローダーが一種の恋愛関係にあったのではないかと考える者さえいる。

彼ら二人はシュローダーがシカゴから遠く離れた土地へ引っ越してしまってからも文通を続けたが、シュローダーは1959年に亡くなってしまった。

ダーガーの作品の中には、シュローダーと思われる人物も登場している。

ユキ

大家ラーナー夫妻が飼っていたのユキ(Yuki)はとても人懐こいだった。

ユキはあるとき、ダーガーに飛びついて彼の顔をめたことがあった。ダーガーはこれに感した様子で、しく笑みを浮かべ、ユキの頭を撫でながらキヨコ・ラーナーにの名前を聞いた。

その後のある日、ダーガーはキヨコに、を飼うのにどの程度お金がかかるかを聞いてきた。だがキヨコが1月あたりに掛かる費用を告げるとダーガーはショックを受けた様子で、彼にはその額は高すぎると言って落胆したという。

彼はときどき、ユキにを持ってきてくれたという。

奇行

彼は古ぼけた装を着こみ、壊れたところをテープで理矢理補修した眼鏡をかけている、などといった浮浪者のような身なりをしていた。

しかもそんな格好で、を歩きまわっては古新聞や雑誌や使用済みグリーティングカードなどのがらくたを集めて回っていた(これは実は、彼の創作活動の素材とするための行動でもあった)。

そんな彼を見た近隣の住人らの中にはダーガーを問題のある人物、危険な人物と見るものもいた。大家のネイサンはダーガーを追い出す事を提案されたこともあったという。だが、ネイサンはダーガーに危険はないと考えていたため追い出すことはしなかった。

また、彼は自分の部屋で一人でいるとき、様々な色を使って独り言を言うことがあった。ラーナー夫妻などの複数の人々がその様子をにしている。孤独な彼は、想像の中で様々な人々と会話しているつもりになっていたのかもしれない。

作品

代表的な作品は以下の3つ。だがこれら3作の他にも、これらの作品の別バージョンと思われる小作品や、「挿絵」ではない単品の絵画作品、日記などを残している。

ヘンリー・ダーガーはこれらの作品の多くを、自らの手で製本・装丁していた。ただし『非現実の王国で』の後半部分など、製本されていないものも多い。

『非現実の王国で』(In the Realms of the Unreal)

ヘンリー・ダーガーの作品の中で最も知られたもの。

タイプライターで打たれた15000ページ以上にもわたる非常に長大な物語と、その挿絵となる数枚の絵画で構成されている。

タイトル

作品名は英語では『In the Realms of the Unreal』と表記されることが多く、また日本語ではそれを訳した『非現実の王国で』と表記されることが多い。

ただし、第1巻の実際の表には『Vol Ⅰ OF THE STORY OF THE REALMS OF THE UNREAL』(和訳例:『非現実の王物語の第1巻』)と記されている。「OF THE」が多いな!

さらに、この話の正式なタイトル全体は『The Story of the Vivian Girls, in What is Known as the Realms of the Unreal, of the Glandeco-Angelinnian War Storm, Caused by the Child Slave Rebellion』(和訳例:『児童奴隷の叛乱によって勃発したグランデコ-エンジェリニア戦争についての、非現実の王として知られる地におけるヴィヴィアンガールズの物語』)であるとされる。

ストーリー、挿絵

作中では2つの国家がせめぎあっている。善きキリスト教国家である「アビエニア」(Abbiennia)と、を信じぬ悪しき国家グランリニア」(Glandelinia)である。グランリニア子供に対して奴隷労働を強制している。このグランリニアの悪行を止めるため、アビエニアプリンセスである7人の少女戦士ヴィヴィアンシスターズ」(Vivian Sisters)は立ち向かっていく。

このように、ストーリーの大筋自体はファンタジー世界における勧善懲悪の冒険活劇もので、子供向け作品のようにすら思える。実際、ダーガーの部屋には「オズの魔法使いシリーズなどの児童小説シリーズも置いてあり、参考にしていたと考えられている。

だが、に見せる予定もなく書かれたこの物語は表現に自重というものがない。グランリニアの圧政に立ち向かった少女らはヴィヴィアンシスターズの救けが届かなければ、グランリニアの男たちによって惨殺される。

そういった場面を描いた挿絵では、「磔にされている」「を裂かれて臓物が見えている」「物でを貫かれている」「手足を断たれている」「眼を抉られている」「首を絞められている」「斬首されている」などのショッキングな殺戮場面が描かれている。

ストーリーる挿絵はダーガーの手によるものである。だが芸術教育などを受けていないダーガーは雑誌や新聞、コミックストリップからのトレースコラージュなどを使用して人物画を描いていた。それらの手法と彼独特の色彩感覚が相まって作品は非常に特徴的なものとなっており、上記のような場面では殊更不気味さを増している。

また、挿絵に描かれる少女の裸体の多くが男性器を持っていることも特徴である。この理由については諸説ある。「ダーガーは女性の裸体について無知だったため男性器を描いたのではないか」という説が有名だが、この説には矛盾があると反論もなされており、他にも様々な理由が考えられるという。

なお本作には、ダーガー本人も「ダーガー将軍」というキャラクターとして出演しており、ヴィヴィアンガールズを守るアビエニア将軍という役どころである。だが別なシーンでは同じ名のキャラクター少女たちを殺す役でも登場しており、ダーガーの二面性を表しているという見方もできる。

作品の最後においても、そんな相反する面を反映したかのように二通りの結末が記されている。片方の結末は理想的な大団円であり、ヴィヴィアンガールズや彼らの友軍はグランリニアの軍隊に勝利し、グランリニア将軍は反して罪を悔いめる。一方その後に記されているもう一つの結末では、ヴィヴィアンガールズたちは敗北し、グランリニアの勢による支配が始まる。

現実の殺人事件の影響

ダーガーがシカゴで働き始めて数年経った1911年、彼が19歳の頃に、同じシカゴにおいてエルシー・パローベク(Elsie Paroubek)という5歳少女が誘拐され殺されるという痛ましい事件が発生した。

ダーガーはこの事件について報じる彼女の写真入りの新聞記事を保管していたが、紛失してしまう(ダーガーはこれを盗難されたものと考えていた)。

この記事を喪失したことにダーガーは非常に動揺した。そしてこの殺人事件を思っての心痛や写真を失ったことによる衝撃は、彼の創作意欲を後押しした。

『The Realms of the Unreal』にはグランリニアに対して反逆を起こしたが殺されてしまう少女が登場しているが、このキャラクターエルシー・パローベクをモチーフにしていると推測されている。

『Further Adventures of the Vivian Girls in Chicago』

上記『非現実の王国で』の続編で、こちらも16冊、10000ページ以上の大作。だがこちらは架ファンタジー世界ではなく、シカゴを舞台としている。

子供たちが残酷に殺されて行く中、前作と同じく7人の「ヴィヴィアンシスターズ」が活躍してその犯人らに立ち向かっていく。本作は未完の状態で途絶えている。

この作品にはタイトルページがない。しかし、ダーガーが断片的な小作品を集めて作った本作とは別の本の中に、『Chapter One, Further Adventures of the Vivian Girls in Chicago』というタイトルの章がある。この章を本作の別バージョンと解釈すれば、本作のタイトルは『Further Adventures of the Vivian Girls in Chicago』(和訳例:『ヴィヴィアンガールズのシカゴでのさらなる冒険』)であろうと推測される。

ただしそういった不明瞭さから、本作は『The Vivian Girls in Chicago』や『Further Adventures in Chicago: Crazy House』など別のタイトルで呼称されることもある。

『The History of My Life』

5000ページの作品。タイトルの和訳『私の人生歴史』の通り、最初はダーガーの自伝的な内容から始まる。

だが、200ページ余り過ぎる頃には「スウィーティパイ」(Sweetie Pie)という名の巨大竜巻に関する創作話になってしまう。

関連動画

関連商品

関連項目

(※ただし上記の経緯から、その生涯において「芸術」や「小説家」として報酬を得たことは一度もない可性が高い。あくまで職業としては病院での清掃・皿洗い・包帯係などで生計を立てていた。)

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読み:ヘンリーダーガー
初版作成日: 16/07/09 02:52 ◆ 最終更新日: 17/06/12 23:26
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ヘンリー・ダーガーについて語るスレ

18 : ななしのよっしん :2017/02/25(土) 20:48:49 ID: PvHVVjQQ0+
「そしていまや、壊れた膝のせいで、長い絵の上に、描くために両足で立つこともとても難しい。
それでも私は挑み、痛みがやってくると座り、また挑む。」
ヘンリー・ダーガー『私の人生歴史』より
名言やなあ
19 : ななしのよっしん :2017/04/10(月) 14:40:07 ID: xnLmCBoCAj
読み応えたっぷりの良い記事だ
彼の作品を読んでみたいものだ
20 : ななしのよっしん :2017/05/14(日) 20:20:57 ID: aiKffOs/IZ
彼が生前燃やしてくれと頼んだのと、死後に大家開した気持ちが両方分かってしまう不思議
21 : ななしのよっしん :2017/05/17(水) 05:29:09 ID: 4xjyAXRv/G
アメリカsyamu_game
22 : ななしのよっしん :2017/05/18(木) 02:26:52 ID: 3Jw8v/oKUm
>>21
50年以上もyoutube投稿を続けていたなら芸術の域に達しただろうに
惜しい人を失った
23 : ななしのよっしん :2017/05/25(木) 20:02:15 ID: lFpvIys4A3
>>21
ダーガーは自己顕示欲のあるタイプじゃないし
「こんなもん見せたら笑われる」って分かってるから違うんだよなぁ
24 : ななしのよっしん :2017/06/04(日) 18:04:49 ID: mnlGVsT/N0
なんかヴォイニッチと画が似てるんだよな
25 : ななしのよっしん :2017/06/05(月) 17:07:44 ID: 5WzolRW8eZ
良くも悪くも普通じゃない人だよなあ、一つのオタクの最高の
26 : ななしのよっしん :2017/07/12(水) 08:45:48 ID: h93ORuiaVz
>>20
どうも燃やしてくれって言ったっていうのは伝聞が錯綜したっぽくて1次ソースないのよね。

正しくは、「自分の部屋にあるものはすべて、(大家の)好きにしてくれていい」であって燃やしてくれではない。
27 : ななしのよっしん :2017/09/15(金) 20:55:43 ID: 5AloCWtYey
二度の大戦があった時代を生きた人でもほとんど社会と切り離されてこうして孤独に過ごした人も居たのだなぁ
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