ベルリン大空輸とは第二次世界大戦後、ドイツが米ソそれぞれに分割統治されていた頃に起きたベルリン封鎖に伴う米軍主導の史上最大の空輸作戦である。
分かたれた国
第二次世界大戦後、冷戦の始まりと共に世界は二つに分断された。中でも国そのものを二分されたドイツはその象徴といえるだろう。
1945年5月、首都ベルリンを先んじて手に入れたソ連軍は、他の連合軍が駐留してくると占領政策に非協力的だったり、あまつさえ妨害行為等を露骨に行うようになる。そして東ベルリンはソ連、西ベルリンは英米仏の三ヶ国が統治する事となったが、西ベルリンの周囲は全てソ連の統治下に置かれたため、さながら陸の孤島の様相を呈していた。
そうすると当然、占領政策にも差異が出てくる。
米英「ドイツは復興さえすれば必ず発展する! 今日より明日なんじゃ!」
ソ連「ますますそのドイツを食いたくなったぜぇ~!」
仏(ソ連さんに賛成だけど立場上米英に追従しとかねぇとな・・・)
そして7月、ポツダム会議で米ソの対立は決定的なものとなる。
ドイツの新政権樹立がフランスの反対で頓挫すると、アメリカは共産主義勢力の封じ込め政策「トルーマン・ドクトリン」と欧州復興支援計画「マーシャル・プラン」を発表。
世界のリーダーシップの座が、衰退した大英帝国から合衆国へと手渡された瞬間だった。
だが、赤のツァーリがそんな事を黙って見ているはずがなかった。
独裁者の野望
1948年6月
西ドイツでナチス時代からの通貨ライヒスマルクが廃止され、新たにドイツマルクが導入されると人々は新しい通貨を手に入れる為に銀行に殺到した。
配給制度や価格統制も撤廃され、後に「経済の奇跡」と謳われる復興、そして経済大国への道を歩み始める。
元々、通貨改革を先駆けていたのは東ドイツであり、オストマルク(東ドイツマルク)の導入は一定の成功を収めるが、それは西側の成功に比べればはるかに見劣りするものであった。
同年6月24日
赤き独裁者はついにその本性を露わにする。
ソ連政府当局は西ベルリンへの陸路を完全封鎖。自動車はもちろん鉄道、運河を介した海運も停止。検問所にバリケードと軍隊を設置して物流とガス・電気を完全に遮断するという有り得ない暴挙に出た。
ただでさえ戦災の傷が癒えない状況。長引けば当然餓死者や凍死者も出るのは必須。
かつてウクライナで行われた恐るべき「飢餓虐殺」ホロドモールの再現に他ならなかった。
更にそこで共産主義の政治活動を行い、西ベルリンの赤化を目論んだ。
ゆくゆくは共産主義革命が起こり、米英が西ベルリンを放棄する事を期待していたのである。
大国の決断
もちろんアメリカもこんな事をされて黙っている義理はない。
しかし当時のソ連はスターリン体制によってガチガチに増強された軍団を有した屈指の軍事大国。
戦争で疲弊しているのはみんな同じ。
何よりやっと終わった世界大戦をこんな形で再開させるなど、損得以上に国の感情が許さなかった。
ならばと平和的な解決法が模索されたが・・・
「物資を積んだコンボイを戦車に護衛させて強行突破とか・・・?」
「連中には宣戦布告と変わんねえぞソレ」
「じゃあ陸路が駄目なら空輸ってのはどう?」
「人口250万人の大都市をか? ベルリン空襲が遠足に思えるぜ(空輸は陸送や海運に比べて輸送量とコスパ的には甚だ非効率)」
「よ、よろしい。ならば戦争だ!」
「即応戦力が125対14なんだけど? それともベルリンを第三のヒロシマ・ナガサキにするか?(暗黒微笑)」
事実上、残された道は空輸だけ。
ドイツ西部の軍事行政担当官・・・言わばドイツ版マッカーサーのルシアス・クレイ将軍はベルリン保護の重要性を訴え、空輸作戦の許可を求めた。
しかし先にも述べた通り、空輸だけで大都市を賄うなど前例がなく、常識的に考えても不可能であった。
ソ連もそれを見越していたからこそ空路の封鎖までには踏み切らなかったのだ。
男の名はハリー・S・トルーマン。
アメリカ合衆国第33代目大統領であった。
テイク・オフ
米軍は早速、欧州はもちろん米本土、ハワイ、アラスカ、カリブ諸国、日本からも使用可能な輸送機をかき集めた。
主に使用された輸送機はC-54スカイマスター(旅客機DC-4の軍用版)。
空輸作戦の立案にはクレイ将軍とカーチス・ルメイ空軍大将が携わった。
あのルメイである。
あのルメイがである(重要)。
まぁとにかく史上最大の空輸作戦「オペレーション・ヴィットルズ(糧食作戦)」は承認され、英空軍と僅かながら仏空軍も参戦。
見積もられた1日に必要な食料量は
- 小麦粉 646t
- 穀類 125t
- 肉・魚介類 109t
- 油脂類 64t
- 乾燥ポテト 180t
- 乾燥野菜 144t
- 塩 38t
- 砂糖 85t
- コーヒー 11t
- 粉ミルク 24t
- チーズ 10t
- イースト菌 3t
計1,439t
これを毎日運ぶのである。
だが、食料と同等以上に重要なのは燃料の石炭と医薬品。それだけで更に3,000t運ぶ必要があるのだ。
(ちなみに世界最大の輸送機と名高いAn-225のスペック上の搭載量は250t。C-54は6~7t)
つまり一日に最低4,500tは空輸しなければならないのだ。
もちろんパイロットが疲労を蓄積しないよう大勢のパイロットを訓練させ、交代制も徹底していたが、それでもその負担は計り知れない。
おまけに少しでも航路を外れれば、ソ連軍機に撃墜される恐れもある。
下手な戦争などよりも過酷なこの任務に、しかしパイロット達は歓声を上げた。
「街に爆弾落としてた俺達が、今度はパンを届けられるんだ。やってやろうぜ!」
お菓子の爆撃
米軍の司令官は各基地の毎日の輸送量を発表させた。
するとパイロット達はバスケットボールの点数のごとく輸送量を競い合った。アメリカ、いや、資本主義らしい競争原理の導入である。
8月にもなると3分置きに空港に飛来してくるという管制官殺しのペースを実現した。荷下ろしには6分程しか時間を掛けられなかったという。
作戦が順調に進む中、パイロットのゲイル・ハルバースン中尉はハンカチで小さなパラシュートを作り、それにチョコレートやキャンディーを括りつけてベルリン上空で窓からバラまくという活動を個人的に始めた。
これがベルリンの子供達の間で話題になり、基地に感謝の手紙が届くようになるとこの話にマスコミが飛びつき、本国で報道された。
するとこの手の美談に弱いアメリカ中からハンカチと菓子類の寄付が殺到し、ついには正式な作戦「オペレーション・リトル・ヴィットルズ(小さな糧食作戦)」として承認され、全部隊で行われるようになった。
ベルリンっ子達は粋なおみやげを贈ってくれる輸送機を「ロジーネン・ボンバー(レーズンの爆撃機)」と親しみを込めて呼び、今でもその時のハンカチを大事に保管している人もいるという。
RTB~そして勝利へ~
1949年には空輸体制が完成し、当初は多発していた事故も鳴りを潜めた。
月間輸送量は171,690tにも及び、一日平均でも5,540tとノルマを易々とクリアするようになった。冬場の暖房による石炭消費を考慮しても十分な量である。
それでも飽き足らないパイロット達は更にハッスルし、4月16日には12,900tというベストスコアを叩き出し、「イースター・パレードの日」と称された。輸送機が62秒に一度は空港にすっ飛んできたという。
「ヨシフゥゥウウ―――ッ! 君がッ、泣くまで、運ぶのをやめないッ!」
こうなるとソ連のベルリン封鎖は意味を為さず、更に米英の必死の努力に対する信頼感と、非人道的なソ連に対する敵意を、西ベルリンの市民達は共通で抱いた。
敗北を悟ったソ連は5月12日に全ての封鎖を解除。
その後もしばらく空輸作戦は継続され、9月30日まで続けられた。
総飛行回数は278,228回。輸送量は2,326,406tにも及んだ。
総飛行距離は定かではないが、一説には地球から太陽までの距離ほどもあるという。
費用は当時で約2億2400万ドル。現在の価値では約20億ドル(約2050億円)にも上った。
しかし、その後ドイツは東西に分裂し、統一までに40年の長き時間を要した。
現在、主要な目的地の一つだったベルリン・テンペルホーフ国際空港は閉鎖されている。
跡地の脇にはベルリン大空輸を記念して作られた「空の架け橋広場」と記念碑、そして1機のC-54が今でも残されている。
記念碑には作戦中の事故で命を落とした101人の名が刻まれた。
250万人の命を救った男たちとその翼は、平和を取り戻した青空を静かに見守り続けている・・・
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