ポリティカル・コレクトネス(英:political correctness 略称:ポリコレ, PC)とは、直訳で「政治的な正しさ(or妥当性)」。人種・性別・文化・民族・年齢・宗教・政治指向・性癖等々の違いによる偏見、差別を含まない言葉や用語や表現を用いることを意味する。
概要
1990年代に入ってアメリカで大きく注目された考え方で「偏見・差別のない表現は政治的に妥当である」「偏見や差別の用語を撤廃し、中立な表現を利用しよう」との運動から始まり、差別是正に関する社会運動を内包する場合が多い。
また、異なる文化を持つ集団が存在する社会において、それぞれの集団が「対等な立場で」扱われるべきと考える多文化主義(英: multiculturalism)や、「女性差別の撤廃」をめざし、女性にとって差別と判断した文化や慣習を否定する考えであるラディカル・フェミニズム(英:radical feminism)とも親和性が高い。
この考え方の目的は「多様性(人種・性別・文化…etc)がみとめられる社会の形成」である。ただし、「特定の考え方でないものにマウンティングする道具」として使用されてしまうこともある(後述)。
1994年には、学術的な視点からポリティカル・コレクトネスに関連してアメリカで起きている衝突に関する紹介もなされており[1]、その中で、「少数民族,女性,障害者,同性愛者らに気を使い,発言に注意することなどは最低限要求される」「強制的色彩を帯びているのが特徴」「言い換えは、「言葉狩り」への懸念となる。」といった問題点も指摘されている(上記には、さらなる引用元がある記述あり)。
日本でも「ポリティカル・コレクトネス」という言葉が一般化される以前から、1984年に現在で言うソープランドにあたる性風俗店の呼称「トルコ風呂」がトルコ人からの抗議でその呼称を撤廃することになったり、1990年に週刊少年ジャンプに連載されていた『燃える!お兄さん』内で学校用務員に対する差別的な表現に対する抗議から自己回収が行われたりするなど、偏見や差別を排するための言い換え事例は存在していた。
だが、1988年~1989年に黒人に対する差別表現を問題視する市民団体が絵本『ちびくろサンボ』や漫画『おばけのQ太郎』の一部エピソードに対して抗議した結果、それらの作品や同作者作品の絶版あるいは回収騒動が発生し、これに対してこれらの作品に愛着を持つ人々から不満の声もあがった。また1993年には、高校国語の教科書に収録されることになった小説『無人警察』内の表現が差別的だとの指摘がありその対応の拙さから作者の筒井康隆が断筆宣言を行った。これらの事例は良く言えば「不快にさせまい」「差別・偏見を助長すまい」という企業努力であるが、悪く言えば差別表現に神経質となっている団体に対する「安易な自主規制」あるいは「配慮の強制」とも言え、読者や作者らとの摩擦が生じた早期の例と言える。
言い換え・禁止の例(アメリカをはじめとした海外)
- クリスチャンが多いアメリカでは、年末のクリスマスシーズンになると「メリークリスマス」という挨拶が普通に行われている。しかし、ポリティカル・コレクトネスの考え方だとキリスト教以外の宗教の人への配慮として、「メリークリスマス」の代わりに「ハッピーホリデー」と呼ぶように運動をしている。
- ニューヨーク市教育局は、市が提供する統一テストにおいて、子供が不愉快さを感じる恐れがある50個の言葉を利用禁止にする試みを行った。例えば「恐竜」(進化論を信じない子供に配慮)、「離婚」(親が離婚した子供に配慮)「誕生日」(特定の宗教は誕生日を祝わないから)等々。(ソース
)
- 「ファイアーマン(消防士)」を「ファイアーファイター」に、「スチュワーデス」「スチュワード」を「キャビンアテンダント」に、「ビジネスマン」「ビジネスウーマン」を「ビジネスパーソン」にするなど、性別に特化した呼称を避ける。
- 「sexual preference(性的嗜好)」と言う言葉の使用を避け、「sexual orientation(性的指向)」に言い換える。「preference(嗜好)」には「好みに過ぎない」というニュアンスがあり、性的マイノリティに対する攻撃を助長する可能性があるため。
- アラスカ・グリーンランド・シベリアなどの北極圏に住む先住民族を指す「エスキモー」という言葉について、「「生肉を食べる者」という意味で差別的だ」として「イヌイット」「アラスカネイティブ」と言い換えられることがある。ただし「そもそも「生肉を食べる者」という意味ではなく誤解だ」「生肉を食べる者と言う呼び方を差別的ととらえること自体が生肉を食べる習慣への偏見なのではないか」という反論もある。また「イヌイット」は本来エスキモーの中の一部の集団のみを指す言葉であるため言い換えとしての適切性に問題があるし、「アラスカネイティブ」ではシベリアやグリーンランドに住む集団も含めた呼称ではなくなってしまう。
- アメリカ本土の先住民族を指す「ネイティブ・アメリカン」について、先住民族ら自身がどちらかと言えば「インディアン」の呼称を好むことから「インディアン(Indian)」と呼ぶべきではないかという議論がある。先住民族は、アメリカ大陸を「発見」したヨーロッパ人がその土地をインドだと勘違いしたことに端を発して当初「インディアン」と呼ばれていた。その後「インド人(こちらも同じくIndian)と紛らわしい」という理由で「ネイティブ・アメリカン」と言い換えられた。それをさらに当事者たちの意見を重視して言い換え前に戻そう、という少々複雑な経緯である。ただし「インディアン」に戻した場合は「インド人」との紛らわしさの問題が復活する。
言い換えの例(日本)
言い換え前 | 言い換え後 | 理由 |
JIS慣用色名登録済みの「はだいろ」 | 「ペールオレンジ」「うすだいだい」 | 色の違う肌を持つ人々への配慮 |
「看護婦」「看護士」 | 「看護師」 | 性別に特化した呼称を避ける[2] |
「保母」「保父」 | 「保育士」 | 同上 |
「痴呆」 | 「認知症」 | 元の用語が差別的な印象を与えるため |
「精神分裂病」 | 「統合失調症」 | 同上 |
「人格障害」 | 「パーソナリティ障害」 | 同上 |
「メクラウナギ」 | 「ヌタウナギ」 | 同上 |
ポリティカル・コレクトネスに対する批判
ポリティカル・コレクトネスの考えは意訳すると「不快表現追放運動」「差別表現狩り」の事。そして、目的は「多様性がみとめられる社会の形成」であり、その点からみれば「不可解な理解しがたいもの」、というわけではない。
ただし、これに対して
- 何者がどのような理由・基準で「不快表現」「差別表現」と決めるのか?独断による場合や、少数者が決めてしまっている場合は「私(我々)が不快と思うものは認めない」という独善的な押し付けにはなりはしないか?
- 多様性をみとめるという事は、多様性をみとめないという多様性も容認する必要があるのではないか?そこに矛盾点があるのではないか?「問題がある」とみなした表現を圧殺するのは、多様性に反しているのではないか?
- 「全ての人が不快にならない表現」など存在しないのではないか?どんな表現をしても、誰かは不快になるか、もはや誰も見ない表現になるのではないか?
- 「不快な表現」や「差別表現」を排除するのは正義なのか?その正義を担保するものは何か?
細かい事だらけで意味がわかんねぇよ。結局なんなの?
ある時は「互いに尊重しあうための工夫と申し合わせ」であり、またある時は「たちの悪い言葉狩り」。
どちらの色が濃くなるかは関係する人々の行いしだい。
推進者が「偽善者」「本質を見ない形式主義者」「独善的」と貶されることもあれば、批判者が「差別主義者」と貶されることもある。
関連項目
関連動画
脚注
- *三本松政之、関井友子 ポリティカル・コレクトネス論争に関する研究ノート 文教大学 人間科学研究 16号 (頁 88 ~ 97) 1994年12月
- *日本ではかつて、女性看護師を看護婦、男性看護師を看護士と呼ぶと法律によって定められていた。
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読み:ポリティカルコレクトネス
初版作成日: 16/11/14 20:23 ◆ 最終更新日: 17/01/15 04:14
編集内容についての説明/コメント: 看護婦、看護士、看護師の例に注釈を追加
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