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マクラーレンレーシング
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マクラーレン・レーシングMcLaren Racing Limited)は、イギリスの伝統あるF1レーシングチームコンストラクターである。

概要

マクラーレングループが持つ一会社であり、F1チームとしてのマクラーレンを持つ。設立者はブルースマクラーレン

2021年現在の代表はザクブラウン監督に当たるスポーティングディレクタージル・ド・フェラン、マネージンディレクターとしてアンドレアス・ザイドルテクニカルディレクタージェームスキーが務めている。

2015年からはホンダと組み、F1でのエントリー名をマクラーレンホンダとしていた。しかし、このジョイントは2017年限りとなり、2018年からはルノーと組んでマクラーレンF1チームとなっている。しかしルノーPUの使用は2020年限りで終了し、翌2021年からはPUメルセデスに変更する。

経歴(誕生~マクラーレン・ホンダ第1期~メルセデス時代)

1963年、まだ20代半ばだったブルースマクラーレンが、自身のレーシングチームとしてブルースマクラーレンモーター・レーシングを設立、F1参戦はその3年後の1966年から。実はホンダF1参戦のほうが1年かったりする。

1970年代まではF1以外に北で活躍しており、Can-Amチャンプカータイトルを獲得している。

1970年マクラーレン氏がテスト中の事故で死去してしまったため、その後は共同創設者のテディメイヤーがチーム揮を取った。

やがて化粧品会社のヤードレーをスポンサーに付け、傑作マシンM23が完成したことにより、優勝争いの常連となる。

1974年エマーソン・フィッティパルディの活躍で初めてF1ドライバーズ・コンストラクタータイトルを同時に制する。

1976年には最終戦富士でのF1選手権で、ジェームス・ハントが逆転でドライバータイトルを獲得。

この頃には、長期に渡ってチームサポートする事になるマールボロ(フィリップモリス)とスポンサー契約する。しかし、傑作マシンであったM23及びM26もさすがに陳腐化。ハントがチームを去った後は長期的低迷におちいることになる。この時期に若き日のアラン・プロストデビューしているが、彼は自らチームに見切りをつけてルノーに移籍した。それほど当時のマクラーレンは悪い状況だった。ウィングカーM29は決してかっこ悪いマシンではないと編集者も思うが、結果が全てと言われればそれまでなのか…。

1980年に共通のメインスポンサーであったフィリップモリスが仲介役となって、その後長らくチーム代表となる男、ロン・デニスのチームプロジェクト4」と合併した。
合併後は、ジョンバーナードなどのエンジニアが加入。初めて本格的なカーボン・コンポジットを採用したモノコックを使った革新マシンMP4/1が完成。この名前は/(スラッシュ)の後のナンバー更新する形で2016年まで受け継がれることとなった。

1981年は、テディメイヤーの体制の末期から奮闘してきた玄人好みのシブいイギリス人、ジョンワトソンチームに4年ぶりの勝利をもたらす。けるMP4シリーズの栄の始まりであった。なお、この時のチームメイトアンドレア・デ・チェザリスである。彼は度々クラッシュをしたが、それはMP4カーボンモノコックの安全性を身を持って明することでもあった。

1982年には一旦引退していたニキ・ラウダが現役復帰。ワトソンと合わせて合計4勝を上げる。この年は、歴史上まれに見る混戦であったが、惜しくもタイトルウィリアムズケケ・ロズベルグのものとなった。

1983年ターボエンジンになる中、マクラーレンインターナショナルは依然コスワースDFVで不利な戦いを強いられることになる。1回だけ、予選22位、23位からワトソンラウダが1-2フィニッシュをするという漫画のような勝利があったが、逆にモナコGPでは予選落ちする。チームTAGポルシェターボエンジンシーズン途中から搭載。残りはひたすら来年を見据えた開発を続けた。

明けて1984年マシンMP4/2に進化ルノーからプロストが復帰して体制が整ったマクラーレンは、16戦中12勝という圧倒的強さを見せる。勝利数はプロストが多くあげたが、り強くポイントを稼いだラウダはわずか0.5ポイント差(シーズン中に中断によってハーフポイント扱いとなったレースがあったため)でドライバーチャンピオンを獲る。実に10年ぶりのダブルタイトル獲得であった。
1985年フェラーリミケーレ・アルボレートとのタイトル争いとなったが、彼は後半に失速。ラウダも去年のようなさはなく、プロストフランス人初のドライバーチャンピオンを手にするのである。もちろんコンストラクターズも連覇した。

ラウダ引退した後の1986年ウィリアムズから移籍してきたケケ・ロズベルグとのコンビとなった。この年はそのウィリアムズホンダパワーを得て今までとは逆に圧倒される立場になったマクラーレン。しかし、プロストウィリアムズのビケとマンセル、この二人の争いの間隙を縫って逆転で二年連続のドライバーチャンピオンを獲る。ロズベルグはそれを見届けて引退した。

翌年の1987年はさすがにホンダパワーの前になすすべなく、プロストが3勝を上げるにとどまる。

1988年、そのホンダとのジョイントが決まり、アイルトン・セナが加わる。ブラバムから移籍してきたゴードン・マーレイの手によって大幅に良されたMP4/4は低いシルエットの見るからに合理的で完璧マシンであった。この年は、結果から言えば実に16戦中15勝という驚異的記録を達成することになる。セナプロストという世紀の最強コンビは常に争いながら他のチームを置き去りにしていった。セナ鈴鹿ドライバーチャンピオンを決め、この時のスタートでのエンストからの大逆転優勝日本でのセナ人気を決定付けたと言える。もちろんコンストラクタータイトルも圧勝だった。

翌年、ターボエンジンは全面禁止となり、3,500ccNAエンジンと定められた。明らかホンダエンジンの優位をつぶさんとするヨーロッパ催者側の狙いがあったが、スティーブニコルズがMP4/4を元にアレンジしたMP4/5とV形10気筒エンジン、RA109Eは変わらぬ強さを発揮。去年にべれば取りこぼしは増えたとはいえ、1989年マクラーレンホンダの盤石さは相変わらずであった。だが、セナプロストコンビはやがてしい確執を生み、日本GPでの2台の接触によって決着(セナ失格によってプロストタイトルが決まる)という後味悪いものとなった。だが、ともかくチームダブルタイトル2連覇を達成した。

マクラーレンロン・デニスの体制になってから、ここまでの10年足らずにコンストラクターズのタイトルを4回、ドライバータイトルを5回獲得(ラウダ1回、プロスト3回、セナ1回)している。これは、後の2000年2004年フェラーリの連続ダブルタイトルが成されるまでは、F1グランプリにおける空前絶後の黄金期と言えた。1990年代ウィリアムズもこれに肩する数のタイトルを獲っているが、毎年必ず勝利をあげていたマクラーレンの方に軍配が上がるというべきだろう。

1990年は、プロストフェラーリに移ったために入れ替わりゲルハルト・ベルガーが加入。このコンビは幸いな事に友と呼べる友好的なものとなり、1992年まで続くことになる。この年は、そのプロストセナしいタイトル争いとなったが、またも日本GPでのセナプロストへの意趣返しともとれる接触で決着した。それでもダブルタイトル三連覇。まだマクラーレンホンダ神通は残っていたのである。

さて、1990年代に入ると、このマクラーレンホンダを奪われる格好になって以来低迷していたウィリアムズが復調し始め、1991年にはタイトル争いに絡むようになってきた。この年は何とかウィリアムズの猛追を振り切りダブルタイトルを死守、4連覇するが、翌年には全に形勢逆転され僅か5勝に終わり、タイトルも奪取されてしまう。さらに同年限りでホンダが撤退。1993年ルノーエンジン獲得をすも失敗、落ちのフォードエンジンを搭載する羽になる。これに不満を持ったセナシーズン途中まで1レースごとに契約を結び出走していた。しかし、そんな劣勢を跳ね返す如くにセナシーズンで5勝を上げており、ある意味では彼の生涯では最もいてた時期とも言われている。

セナの移籍後は、チームの成績は残念ながら下降線を辿り、1994年にはプジョーエンジンを獲得も、勝利すら味わえなかった。

しかしそんな中、1995年からは以後チームと非常に密接な関係を持つこととなるメルセデスエンジンを獲得。しかし1995年1996年勝利から再び遠のき、1996年には長年タイトルスポンサーを務めていたマールボロがこの年限りでチームとの契約を終了。

1997年は新たなタイトルスポンサーとしてWest契約メルセデスシンボルであるシルバーカラーリングに一新した。開幕戦オーストラリアGPではデビッド・クルサードチーム久々勝利をもたらす。さらに同年8月にはウィリアムズからの奇才エイドリアンニューウェイが加入し、徐々にマシン戦闘力が向上し始める。クルサードはこの年2勝を挙げ、ミカ・ハッキネンも最終戦ヨーロッパGPで遅咲きの初優勝を成し遂げた。

1998年にはハッキネンの活躍によりダブルタイトル獲得。翌年もハッキネンドライバータイトルを獲得、復活を果たした。

しかし2000年代に入ると、フェラーリおよびミハエル・シューマッハーが黄金期を迎える一方、マクラーレンマシン戦闘力・信頼性が年を追うごとに下がり、「ガラスマクラーレン」などと揶揄されるように。また、2001年にはハッキネンモチベーションの低下(チームスポンサー活動による疲弊で嫌気がさしていた)を理由に休養宣言、結局この年をもって引退してしまう。その後は、クルサード、そしてハッキネンに代わる新たなフライング・フィンたるキミ・ライコネンの奮闘にもかかわらず優勝はするが、両タイトル獲得まで手が届かない成績になってしまう。2005年以降はルノーおよびフェルナンド・アロンソの活躍が続き、チームを去ったクルサードに代わってファン・パブロ・モントーヤが加入するも、結局タイトルには届かなかった。そんな中、タイトルスポンサーWestたばこ広告への規制強化が進む中、契約を終了してしまった。そして2006年は未勝利に終わり、やる気を失ったモントーヤはシーズン途中で離脱、古巣のアメリカンレーシングへと戻っていく。ライコネンもまた、翌シーズンフェラーリに移籍した。

しかし2007年、そのアロンソルイス・ハミルトンの加入、そして新たなタイトルスポンサーボーダフォンとの契約で、チームは再び好調を取り戻すと思われた・・・が、マクラーレンエンジニアマイク・コフランフェラーリの元エンジニア、ナイジェルステップニーが引き起こした産業スパイ事件、いわゆる「ステップニーゲート」によりコンストラクターポイントの剥奪や罰しく重い裁定を受けてしまう。さらに、ハンガリーGP予選中にアロンソハミルトンタイムアタックを妨し、両ドライバーに確執が生まれてしまう。

終戦ではフェラーリに移籍したキミ・ライコネンドライバータイトルも1ポイント差で逆転され奪われ、アロンソもたった1年でルノーへと出戻ってしまった。

だが2008年ルイス・ハミルトンフェリペ・マッサとの闘の末、史上最年少(2010年セバスチャン・ベッテル更新)でドライバータイトルを獲得する。

2009年ロン・デニスが代表から退き、マーティン・ウイットマーシュが就任。

しかしシーズン開幕前のテストでは全く良いタイムが出ず、開幕後も見事なまでに遅いマシンであった。予選Q1、Q2敗退は当たり前。GPによってはフォース・インディアにも前を行かれる始末であった。また、オーストラリアGPではハミルトンレースエンジニアレーススチュワード虚偽言をしたとして、運良く獲得した3位表台を剥奪される。それでも後半戦になって綿密な良を続けた事で速さを取り戻しハミルトンが2勝したものの、ブラウンGPレッドブル導権を奪われてしまった。

2010年ジェンソン・バトンが加入し、チャンピオンコンビとして迎える。この年にはハミルトンバトンともに優勝し、フェラーリレッドブルチャンピオン争いを演じるも、ドライバーチャンピオン争いからは最初に脱落してしまった。

2011年速さの点でレッドブル敗し、バトンハミルトンともに3勝を挙げるも、レッドブルベッテルの前に敗れ去った。

2012年に入り、ブローンディフューザーの禁止とノーズの高さ制限という較的大きな定が行われると、それまで速さをものにしていたレッドブルが失速、マクラーレンが最速の地位を得るようになった。
しかし、メルセデスAMGロータス、さらにはザウバー中堅チームが大きく速さを得ることで、開幕戦から混戦状態が続いた。そんな中ハミルトン4勝・バトン3勝をあげたものの、中盤以降リタイヤによりポイントを取り損ねるレース立ちまたもレッドブルベッテルの前に敗れ去った。シーズン中、ハミルトンメルセデスAMG移籍とセルジオ・ペレスザウバーからの加入が発表された。

マクラーレン創立50周年の2013年。この年のマシンMP4/28は今後の開発を見越して高モノコック・フロントプルロッドサスペンションを採用する意欲的なマシンとなった。しかし戦闘力が大幅に欠けており、前半終了時点で優勝PPし(最高位5位)、コンストラクターズラキング6位に留まっている。
この低迷により、マクラーレングループCEOにまでなっていたウィットマーシュが解任された。
代わりに取締役会長に退いていたロン・デニスがCEOに復帰、チームディレクターロータスチーム代表を務めたエリック・ブーリエを迎えた。

2014年には、ペレスに代わって、1995年にスポット参戦で同チームからデビューしたヤン・マグヌッセンの息子ケビン・マグヌッセンを迎えたものの、長らくスポンサーとなっていたボーダフォンとの契約が終わり、シルバー立つ寂しいカラーリングになった。

また、新しいPUとなって好調を維持しているメルセデスエンジンユーザーの中でも、開幕戦での表台を除いて優勝のみならず表台にも届かないほどの低迷を見せた。

2015年~2017年(マクラーレン・ホンダ 第2期)

マクラーレンタイトルに返り咲くため、エンジンワークス待遇で供給してくれるメーカーを探す。そして2015年からの参戦を論んでいたホンダとの契約に成功、1992年以来となるマクラーレンホンダ復活することとなった。タイトルスポンサーは依然得られないまま、マシンMP4/30のカラーグラファイトグレーというに近い色が増えたものとなった。

2015年チームは再びアロンソを迎え入れ、体制一新を胸にスタートを迎えたものの、オフシーズンではホンダエンジントラブルが絶えずにまともな周回もできないありさまでセッティングデータもまともに取れず、さらには原因不明コントロールを失うトラブルアロンソが負傷、開幕戦の参戦を断念した。

開幕戦でも予選では参加できなかったマノー・マルシャを除いて、テールエンドにまで落ちてしまった。
しかし、ホンダの弛まない努によって、徐々に信頼性を確保、戦闘力も向上させることにも成功、スペインGPでは2台ともQ1を突破するようになった。モナコでは初入賞、ハンガリーではダブル入賞を得たものの、マクラーレンホンダの栄を期待したファンドライバーの不満は高まり続けた。そしてホンダ日本GPでは、アロンソが「GP2エンジンだ、GP2!! ああ!!」とブチ切れる線が世界に放送されてしまい、「GP2エンジン」はホンダPUの代名詞として用いられるようになってしまった。ブラジルGPでは度重なるトラブルで出走できないため、セッション中に椅子で寝ながらひなたぼっこするアロンソ話題になり、コラ画像が量産された。

このようにさんざんなに遭い続けた2015年コンストラクターズラキングは、マノーザウバーを上回ったのみの9位。1980年以来のマクラーレン史上最低記録である。

2016年にはホンダ責任者が新井から長谷川に交代。ニューマシンMP4/31は去年のグラファイトグレー面積がより増えて、見方によってはほぼであった。さて、成績面ではファステストラップ記録するなど昨年よりは進化を見せて、コンストラクターズ6位につけた。しかしドライバーの不満は相変わらずで、ブラジルGPではやはりトラブルマシンを止めたアロンソ映像カメラマシンを映して遊んでいた(なおこアロンソが撮った映像世界に中継された)。この年ロン・デニスがマクラーレンテクノロジーグループ会長CEOを解任され、自身の持っていた株式を売却するなどしてグループから全に手を引いた。そして、ジェンソン・バトンF1から引退した。

デニスに代わって、ザクブラウンが後継として就任。(ちなみに彼はブラウンGPロスブラウンとは血縁はない)2017年引退したバトンに代わって、前年初参戦で入賞を記録したストフェルバンドーンが参戦。マシンもこれまでのMP4シリーズの名を遂に捨て、MCL32と名づけた。カラーリングオレンジ面積が半分ほどを占め、明るさを感じさせた。

技術規則の大幅な定、トークン制の撤メルセデスに近い機構のパワーユニットとあってドライバーファンの期待は膨らんだ。しかし蓋を開けてみればテストすらままならず、開幕6戦まででコンストラクターズラキングザウバーを下回り最下位。第3戦バーレーンGPではバンドーンはPUトラブルで決勝に出走すらできず、アロンソ完走前にPUトラブルリタイアという散々なものだった。アロンソは「直線で300mも後ろにいたマシンに抜かれた!」と線で訴えた。その後もPUの信頼性に泣き第7戦カナダGPでも入賞圏内でファイナルラップに入るところでPUトラブルが発生している。7戦を終えた段階で、前年フェラーリPUザウバーすら下回って最下位・ノーポイントに終わっている。第3戦を前にアロンソは第6戦モナコGPを欠場してインディ500に参戦することを発表したが、これはいかに今のマクラーレンホンダ戦闘力いかということを徴する出来事でもある。

マクラーレンはかねてからシャーシ製造の低下が摘されており、2013年以降は強エンジンを得ながら下位に沈むことが増えていた。また2014~2015年の失敗は、マクラーレンが提案したサイズゼロコンセプトと呼ばれる自由度重視でPUを小さくまとめる方法が熱対策に不利だったことが大きな原因である。おまけロン・デニスがホンダが他チームにも供給することを嫌っており、その結果データの量に大きな不利が出ていた。ザクブラウン体制になった後、2018年からザウバーにもカスタマー供給を始めることが決まり、データ不足のに期待が高まる。しかし、下記の通りこれはかったことになってしまった。

一方、ホンダホンダで取り組む姿勢(「走る実験室」という標に囚われている、F1を人材育成の場と捉えている、自社の技術でやることにこだわる、慎重すぎる、第三期の反省をしないままセンセーショナルな参戦に走った)に問題があると言われており、ブーリエはそれを一言でホンダにはF1文化が根付いていない」と表現した。またホンダシミュレーション技術が不足しており、一気筒では大丈夫なのに六気筒に組むと振動が発生するなどの弱点も報道されている。

マクラーレンホンダの片方だけに問題があるわけではないが、ファンの間ではアロンソがしょっちゅう「パワーが足りない!」とアピールしていることや、それに対してホンダ弁明しないことなどから、どちらかと言えばホンダの方に非があると見る向きが多い。海外チャットを見ると、ホンダが参戦するカテゴリにしょっちゅう「GP2○○」と書き込まれる様になってしまった。この話題ホンダ叩きのためにアクセス数やコメントが稼ぎやすいのか、ニュース若干連発気味になっており、マクラーレンホンダ常勝チームから最底辺チームに転落したという事実を思い知らされる。

そして、かねてから噂が出ていたマクラーレンホンダを見限る、という話が現実となった。いや、どちらが見限ったのかは定かでいが、ともあれ2018年マクラーレンルノーPUを積み、ホンダトロロッソと組み、トロロッソホンダとして再出発することになった。上記のザウバーへの2チーム供給の話も立ち消えとなった。これによって、マクラーレンは再びトップチームに返り咲けるのか?アロンソチャンピオン争いに戻れるのか?それは当時の時点ではなんとも言えない話であった。ただ、マクラーレントロロッソチームにとってこの決断が良い結果となるように願われた。

結局、マクラーレンホンダの最終年は2015年同様のワーストであるコンストラクターズ9位に終わったのである。

2018年~2020年(ルノーPU時代)

2018年マシンMCL33となった。タイトルスポンサーがないままのボディはオレンジ一色に塗られ、ホンダ時代よりもシンプルイメージとなった。ドライバーの体制は継続

ホンダ時代よりもはるかに安定した入賞率を見せるようになったが、表台は遠く、PUさえ変われば表台争いに復帰できるとしていたチームには批判が集まることになった。ドライバーも特にバンドーンがトラブルが集中したことでマシンに不満を持つようになる。また、チームディレクターエリック・ブーリエは更迭され、ジル・ド・フェランがそれに代わることになった。

結局満足できる状況にならなかったアロンソはこの年限りで一旦F1を離れることを表明したが、チームアンバサダーとして関わりは残し、将来のF1復帰には含みをもたせていた。

シーズン途中で来季に軸足を移した事もあって、シーズン後半も戦績は伸び悩んだ。だが、PUを交換する形となったトロロッソコンストラクターズラキングはどうにか上回る6位となり、チームとしては最低限の面は保った。

2019年ドライバーラインナップが全に変わり、ルノーF1から移籍したカルロス・サインツJrイギリスの新人ランド・ノリスコンビとなった。マシンMCL34となり、大幅に進歩した。

前年の戦績から期待感は薄かった。しかし、新たにマネージンディレクターとしてアンドレアス・ザイドルが着任。彼はポルシェWECにおいて、ル・マン24時間レース3連覇などの実績を上げた人物である。彼の手によってデニスが去って以来の「マネージメント政治化」つまり伝統のあるチームが陥りがちな「大企業病」とも呼べるものの解消をした。これら体制の変更が功を奏しつつあり、結果はコンストラクターズラキング4位まで浮上。特に第20戦ブラジルGPでサインツが初めての3位表台を得た。これはチームにとってもメルセデスPU時代の2014年開幕戦以来となる表台だった。

2020年ドライバーの体制を継続し、マシンもさらに洗練されたMCL35となった。

昨年からの技術マネージメントの体制移行がほぼ終わり、チームアンバサダーとして関係を残していたアロンソ2020年1月チームとの契約を終了した。

新型コロナ世界的流行のシーズン開幕が大幅に遅れ、スケジュール変更と無観客開催がおこなわれるなど、グランプリ界も異例づくめの進行となったが、チームは前年よりも上を行く戦績を見せるようになった。ランド・ノリスが初表台を得た他、サインツもイタリアGPで自己ベスト2位台に登った。最終的にコンストラクターズラキングは3位にまで上昇。優勝こそなかったが久しぶりに名門チームらしい成績を残すことができた。

2021年~(メルセデスPU)

2021年PUメルセデスに積替え、ドライバーサインツがフェラーリに移籍したためダニエル・リカルドルノーF1から加入。

マシン2022年からのレギレーション大幅刷新もあって、昨年良とされたMCL35M。しかし、メルセデスPUへのチェンジが功を奏して明らかポテンシャルが上がった。メルセデスAMGレッドブルホンダという2強に予選で割って入ることもしくなくなり、優勝を争うことが現実的となってきた。

そして第14戦のイタリアGP、予選2位からスタートを決めたリカルドが終始レースリードしてトップチェッカーノリスも2位に入り、チームにとって2012年ブラジルGP以来の優勝と、2010年カナダGP以来の1-2フィニッシュを同時に達成した。リカルドにとってもレッドブル在籍時代以来の三年半ぶりの勝利となり、表台で久々に喜びにあふれた「シューイ」を披露した。

戦跡等

1974年1984年1985年1988年1989年1990年1991年1998年

1974年(エマーソン・フィッティパルディ)、1976年(ジェームス・ハント)、1984年(ニキ・ラウダ)、1985年1986年1989年(アラン・プロスト)、1988年1990年1991年(アイルトン・セナ)、1998年1999年(ミカ・ハッキネン)、2008年(ルイス・ハミルトン)

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49 ななしのよっしん
2019/04/02(火) 22:55:01 ID: P1kQLtT2oC
バーレーン終わったけどエンジンシャーシとどっこいどっこいのレッドブル大丈夫
フェルスタッペンはまあ良いとしてガスリーはひどすぎる
優秀なホンダエンジンレッドブルシャーシでマクラーレンと戦っちゃダメでしょ
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50 ななしのよっしん
2019/04/02(火) 23:24:56 ID: yl4gJrwWkc
サインツ、ルノーワークス2人組「」
ノリスはストロール並みの事前準備が効いたのか壊れなきゃやれる感じ?
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51 ななしのよっしん
2019/07/31(水) 09:57:20 ID: cgwpcZNnnb
去年はひたすらにざまぁとしか思わなかったけどアロンソやブーレイが切られてホンダへの恨み節がなくなった今年は素直に応援できてる気がする。元々メルセデス時代も含めて一番好きで応援してきたチームではあるしね
若い二人にはぜひ頑って欲しい
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52 ななしのよっしん
2019/11/18(月) 09:19:27 ID: PDq059Prq4
その頃レッドブル&トロロッソホンダエンジンポールtoウィン&1-2フィニッシュを飾っていた
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53 ななしのよっしん
2019/11/23(土) 19:07:37 ID: yl4gJrwWkc
いやあ、人材入れ替えとザイドルの手腕でここまで持ち直すとはねえ
21年からメルセデス積めるし軌修正はなった
後はザクブラウンが余計のことをしなけりゃいい
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54 ななしのよっしん
2020/07/08(水) 15:22:13 ID: zwG1lY3TcC
wikipediaマクラーレンの記事、2015-2017分の記事が清々しいまでにホンダageマクラーレンsageしててですわよ。
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55 ななしのよっしん
2020/12/14(月) 00:13:46 ID: 47QNaZzz8n
いやあマクラーレンは良くやったわ。3位にまで行くとは思ってなかった。お疲れ様!楽しかった!
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56 ななしのよっしん
2021/06/30(水) 19:49:00 ID: L+vK8DM6uV
2021年シーズンメルセデスPUで名門らしさが戻ったな
ペヤング先生ハッキネンの時代以来のメルセデス化はやはり当たりっぽい
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57 ななしのよっしん
2021/09/20(月) 23:58:00 ID: iXEHbVBd0M
イタリアGPの勝利&1,2フィニッシュでようやく長い低迷のトンネルを抜け出すことができた…
数年前までの大企業病ともいえる内紛状態からよくここまで戻って来たなと嬉しく思ってしまう
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58 ななしのよっしん
2022/01/28(金) 00:55:43 ID: HpXT7mRaCQ
去年のガルカラーはほんとカッコよかった。ノリスも表台で縁起がいいカラーリングにもなったし。公式Twitterの画像だけで判断するのもあれだが今年のカラーリングホワイトシルバーつけてくるのかな?
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